第2話

記憶による論理的帰結

「仮に半径が1の円に内接する正12角形を考えるとすれば……。円周の長さは正12角形の周の長さよりも長くなるはず」


 黒板と白墨がぶつかる音が規則的に繰り返される。難解な数式が次々と黒板に描かれていく様子は、まさに暗号の羅列と言って差し支えない。こんなもの、よく理解していたものだと思う。いや、実際に理解していたかどうかは怪しいのだが……。


「半径が1であることと、円周率の定義から円周の長さは 2π となり、正12角形の各辺の長さを a とすれば、πは6aよりも大きくなる」


 机に肘をついて、頬杖を作りながら、僕は黒板ではなく、教室の窓の外を眺めていた。あけ放たれた窓から、少しひんやりした風が入り込み、カーテンを揺らしている。


 高校一年の数学教諭は金谷かなやという先生だった。細身で身長が高く、なかなか男前な顔立ちだが、短気で性格が粗い。切れると手に負えないことで有名だったという記憶が徐々に戻りつつある。ここは間違いなく20年前に僕が過ごした高校であり、その授業のひとコマだ。これが夢ではなく、現実という何かであるのなら、今は1996年の10月、つまり高校一年の秋ということになる。


「ここでaは2cos75°なので、aは1.035の2分の1となり、つまり6aはおおよそ3.15.したがって、πは3.05より大きくなる」


「正解。さすがだな」


 僕の代わりに円周率が 3.05 より大きいことをあっさり証明したのは、学年で最も成績優秀といわれていた城戸拓也きどたくやだ。彼は単に勉強ができるだけじゃない。スポーツも万能、音楽も得意でピアノだけでなくバイオリンも弾ける。全てが優秀なせいか、あるいはもともと無口な性格からなのか、なんとなく近寄りがたいオーラを放っていたが、クラスの仲間からの信頼もあつい頼れるやつだった。


 この高校は中高一貫校で男子校。つまり学校内には男どもしかいない。良くもまあ、こんなむさくるしいところに六年間もいたものだ。僕の後ろに座っているのが田村正樹たむらまさき、そして、その隣にいるのが山下和彦やましたかずひこだ。高校時代の三年間、常に一緒にいた親友だったが、大学を卒業して就職してからは、彼らともほとんど連絡をとらなくなってしまった。とはいえ、こうして間近に見ると、久しぶりに会ったという感覚は全くなかった。


 数学の授業が終わり、昼休みになると教室は閑散となる。早々に昼飯を食べ、外のグラウンドでサッカーをやっているやつ、地下の体育館でバスケをやるやつ、音楽室で寝ているやつ、屋上でのんびり弁当を食べるやつ、学生食堂でラーメンを食べているやつ……。昼休みの過ごし方は人それぞれだが、みんないろいろな意味で元気だ。10代とはこんなにも活気みなぎる生き物だったろうか。


 僕はどんな風にこの時間を過ごしていたのだろう。あまり記憶がないということは、何もせずにぼんやり過ごしていたことが多かったのかもしれない。僕は自分の席をよろよろ立ちあがり、そのまま教室を出ると廊下を抜け、階段わきのトイレへ向かった。記憶上は20年も立っているというのに、六年間通った校舎の内部構造はしっかり覚えているものだ。懐かしさ半分、わけのわからなさ半分という所か。トイレに入り、一人きりになると少しだけ落ち着いた。


 高校時代から人生をやり直したい、そんな風に思っていたのは確かだったが、いざそれが面前に実現されても、何をどうすれば良いのか分からない。あるいはもう一度20年を繰り返し生きるというのは、わりと過酷なことではないか。


 なにせ、二年後には大学受験が控えていたり、その先もいろいろと大変なことは多かったはず。薬剤師国家試験とか、あれを繰り返さないといけないと思うと、わりと本気でげんなりする。


 そもそもこれは現実なのだろうか。一つ確かなことは、僕は36歳まで生きてきたその経験や記憶を保持したまま、16歳に戻っているという事だ。


 洗面台の蛇口をひねり、水を出してみる。流れる水の音を聞きながら、両手をその中に入れる。当たり前だが秋の水は少し冷たい。しかし、この冷たさは決して夢ではないリアルな実感を伴っていた。僕は手の中たまった水に顔をうずめる。頬に伝わる冷たい水の感触が、真っ白な頭の中に少しだけ濃淡をつけてくれるような気がした。


「これはつまり、タイムリープ……」


 顔をあげて目の前の鏡越しに自分を見てみる。顔の輪郭は36歳の僕とほぼ同じだが、明らかに20年の時を遡った16歳の僕の姿があった。


「瞬ちゃん、今日どこでデートすんの?」


 突然後ろから声をかけられ僕は慌てて振り返った。田村正樹と山下和彦がにやにやしながら立っている。僕は彼らをタムちゃん、そして和彦と呼んでいた。なぜ田村を正樹と呼ばずにタムちゃんと呼んでいたのか。よく覚えていないが、おそらく中学時代からそう呼んでいたのだと思う。


「えっと、デートって……」


「はあ? デートでしょう? 初デート」


 なるほど、初デートということはおそらく平野恵……恵ちゃんだ。今日は10月21日。それが事実なのだとすると、彼女と付き合ってからまだ三日しかたっていない。つまり初デートというのは決して辻褄が合わない話ではない。


 確か10月18日は金曜日で、夕方ごろ自宅に恵ちゃんから電話がかかってきたはずだ。もともと家に電話が来ることはタムちゃんから聞いていて、自分の部屋に置いてある固定電話の子機の前で、着信が鳴るのをずっと待っていた。


 あの時は三時間くらい長電話したはずだけど、話の成り行きで、好きな人がいるだの、いないだのという話題になって、それから誰が好きなのか、お互いに話そう、という訳の分からない展開になったんだと思う。それでお互い好きでしたっ、みたいな……。


 恵ちゃんは和彦の小学校時代の同級生の友人だった。つまり、友達の友達のそのまた友達。その年の春に、たまたま和彦の地元で、その友人たちと一緒に遊んでいた時に知り合ったのだ。あれ以来、お互いなんとなく意識していたのは知っていたけど、ちゃんと気持ちを伝えたのが三日前という事になる。


 しかし、よくこんなこと覚えているな、と自分に感心しつつ、僕は一つ重大なことに気づいた。


 この時代には携帯通信端末やネットワークにアクセスできる端末が身近に存在しないのだ。つまり、メールすらできないということである。今日が初デートだとして、待ち合わせの時間や場所を確認する術がない。


「こんな時代を良く生活できたものだ……」


 独り言のように言ったつもりだったが、和彦は「お前、大丈夫か? あんまり浮かれすぎんなよ。最初が肝心だ」と言って、自分も洗面台の鏡に向かい、ヘアーワックスを取り出すと、それを手に取り髪になすりつけた。


 改めて自分の顔を見ると、寝癖がひどい。机の上にうつぶせて寝ていたからかもしれないが、当時、あまり髪形とか、そういうものに関心がなかったのかもしれない。


「瞬ちゃん、髪形それでいくの?」


タムちゃんが鏡越しに僕の頭を指さす。


「やっぱり……まずいよね」


 僕はそう呟くと、タムちゃんが、「ワックス借りるね」といって和彦のヘアーワックスを手に取り、ぼさぼさの僕の頭に塗り始めた。指で髪の毛をつまんで、少しねじってキュキュとする作業を繰り返しながら手際よく僕の髪を整えていく。


 タムちゃんはなんとなく女っぽい性格なのだけど、芸能人といってもおかしくないくらい綺麗な顔立ちをして、几帳面な性格だった。彼は恵ちゃんの親友、今川恵いまがわけいと付き合っていて、4人で遊んだことも結構あったはずだ。


 平野恵と今川恵。偶然にも彼女らは全く同じ名前だったから、僕は今川恵のことをいまちゃんと読んでいた。同じように、平野恵はヒラメなんて呼ばれていた。


「んで、どこ行くんだ?」


 和彦が後ろの髪形をチェックしながら話を続ける。今から考えると、男子高校生ってやつは髪形一つ整えるのに並々ならぬ時間と労力を費やしていたのだなと思う。


「ああ。そう、どこ……行くんだっけか」


「え、お前、それさえもまともに決めてないの?」


 ただ、あの時どこに行ったかははっきりと覚えている。


「すまん」


「いや、俺に謝れられても。カラオケとか映画とかいろいろあんじゃんか」


 確かにカラオケや映画は良く行った。僕が映画を好きになったのも、きっと恵ちゃんと映画をよく見たからなのかもしれない。きっかけなんて本当は良く分からないものなんだけど、印象的な出来事、忘れられない出来事と結びつけて考えるのは人の思考が生み出す癖なのかもしれない。


「ああ、そうだね。カラオケでもいくかぁ」


「あ、やべえ、もうすぐ休み時間が終わる。俺、メッセージ入れてくるわ」


そう言って和彦はトイレをあわてて出ていった。


「メッセージ……?」


 僕は鏡ごしにタムちゃんの顔を見ながら首をかしげる。


「ポケベルっしょ。そういえば瞬ちゃんもこの間、買ったって言ってたよね。関東テレメッセージの最新機種だっけ? 」


――ポケベル。ああ、そんなもんあったわ。


 ポケベルとは、ポケットベルの略称で、電波によって小型受信機になにがしかの合図を送信できるシステムだ。携帯電話がまだ一般的でないころに普及した無線呼出しシステムである。1996年といえば、ポケベルが文字送信を可能にした画期的な年だった。公衆電話から03で始まるポケベル番号にかけ、そのまま音声ガイドに従って、ポケベル打ちと呼ばれる独特の操作を行うことにより、最大14文字のカタカナメッセージが送信できた。


 ズボンのポケットに手を入れると、四角い物体に手が触れる。おそらくこれがポケベルだろう。ズボンの左ポケットにいつも入れていたのを覚えている。ゆっくりとその物体を引き出すと、まるで小型ゲーム機のような外観のプラスチックで作られたポケベルが出てきた。


「おお、なんかすげぇ」


 タムちゃんはそのポケベルを覗き込んで本気で感動しているようだ。最新機種と言っていたが、その表面にはメッセージが表示されるであろう小型の液晶パネルと、その下部に二つほどのボタンが付いているだけだった。この時代の高校生に、端末全体がフルカラー液晶パネルで構築されている携帯端末を見せても、それが実用化された通信機器だとは誰も信じないだろう。


 ポケベルの操作方法なんて完全に忘れていたが、適当にボタンを押しているうちに受信したメッセージを見ることができた。


『アシタタノシミニシテル』


 昨日の夜十時ごろに受信されたメッセージだ。間違いなく恵ちゃんが送信したものだろう。カタカナ表示に違和感を覚えつつも、この時代、携帯端末には漢字変換という機能はまだ普及していなかったのだなと改めて思う。


「おお、やはり、かっちょいいねぇ。液晶がでかくて見やすいっ」


 こういうのがかっちょええのか……。当時のセンスは20年後の僕にはよく理解できない。液晶パネルは100円均一で売っているような計算機のそれと同じで、灰色の背景に黒のドッドでカタカナが表示される仕組みだ。液晶は夜間でも確認できるようにバックライトが搭載されており、ポケベル本体の横についているボタンを押すことで、ほのかに緑色に点灯する。


「なんつうか、ポケベルだな、これは……」


「瞬ちゃん?」


「え?」


「セット完了。ほほう。うん。いけてるよ」


 タムちゃんは鏡ごしに僕の顔を見ながら満足そうに首を縦に振った。


 その日の午後の授業は国語と化学だったが、先生の話がまともに耳に入るわけない。しかし、この二時間は僕にとって貴重だった。20年前の10月21日、僕はどう行動したのだろうか。それを必死に思い出す必要があったからだ。


 携帯電話やメール送受信ができない環境で、誰かと約束の時間、約束の場所で待ち合わせをする場合、事前に綿密な計画を必要とするように思われる。つまり、会う時間と場所は事前の電話でのやり取り、もしくは直接の会話を通じて、明確に定められているということだ。

 

 今回のケースにおいて、待ち合わせの場所については、おおよその見当はついている。僕の記憶によれば池袋駅のホームであることは間違いない。問題は、何番線のホームであるかということ、そしてホームのどの位置で待ち合わせているか、という事である。


 僕はノートを広げ、そこに東京の路線図を簡単に書いてみる。恵ちゃんの学校は渋谷駅からさらに私鉄路線で横浜方面に向かった先にあったはずだ。そうだとするならば、恵ちゃんの学校から池袋駅に向かうためには首都圏環状線の外回り列車に乗車する必要がある。渋谷駅の改札から外回り列車に乗車する場合、最短距離で乗車すると、列車編成中央より後方になるはず。つまり池袋駅の首都圏環状線外回り列車後方に乗車する可能性が一番高い。そこからもたらされる結論は……。


「つまり、進行方向最後尾だ」


「乙坂、なんだ? 質問か?」


 ――しまった。

心の声がついつい口に出てしまった……。


「あ、いえ。すみません。なんでもないです」


 そういって、必死にノートをとるふりをしながら、路線図にメモを加えていく。何度検証し直しても、これ以上論理的な結論を導くことはできないだろう。さて、もう一つの問題。それは待ち合わせの時刻だ。しかし、こればっかりはどうにも思い出せない。授業が終わったらダッシュで目的地に向かい、待ち合わせ場所と思しき場所で待機するしかあるまい。


「はい。では、ここまで。ああ、この気体の状態方程式は明日の小テストで出すからなぁ。勉強しとけよ」


 気体の状態方程式はあくまで理想気体に適用できる理論的仮説にすぎない。大事なのは今この瞬間だ。僕は、急いで鞄に教科書を詰め込むと、教室を飛び出した。

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