再会のような始まりのような

 学校の正門を出てると、そこに広がる光景に僕は少なからず驚いた。過去の記憶とほぼ同じ景色が現実と一致する感覚は、ノスタルジーをリアリティ-に変えていく。

 

 ここから待ち合わせ場所の池袋駅に向かうには、まず、地下鉄に乗車する必要がある。その駅までの王道ルートは、正面の道から国道に出る道順ではあるが、脇道から高校敷地の裏側を通り、住宅街の細い道を抜けていった方が近道だ。何時に待ち合わせをしているか知る由もない状況で、一刻も早く待ち合わせ場所にたどり着くことこそが最重要課題である。この裏道を通らない理由はない。そんなことを考えながら、学校の正門を出ると、岸本匠きしもとたくみの姿が目に入った。


「乙坂、急ぎか?」


「ああ、岸本。じゃなっ」


 彼のことはあまり良く覚えていないのだが、クラスでも目立たないやつだったような気がする。岸本の家は、たしか恵ちゃんの高校の近くだったと思うが、とにかく今はそれどころではない。


 ブレザーのポケットには定期券が入っていた。当たり前だが、この時代に自動改札などというハイテクなシステムは普及していない。定期券も磁気を帯びたプラスティック製のカードではなく、単なる紙でできている。定期券の表には使用期限を記した日付けが大きく印刷されているのだが、駅係員に見せるだけなので、わりと急いで改札を走り抜けると、期限が数日切れていてもごまかしがきいてしまうという、20年後の未来から考えれば何とも頼りないシステムだ。


 僕は地下鉄の改札を抜け、長い階段を下り駅のホームに向かう。列車の到着を待っている間、ふと地下鉄でみた謎の少年の姿が頭をよぎった。あの少年は僕がダイビングしたあの橋にも表れた……。ファンダメンタルズとか、そんなことを言っていたような気がするが……。


 ――いったいあれは何だったのだろう。


 90年代の東京の地下鉄運行スタイルは極めてシンプルだ。私鉄相互乗り入れもなく、路線図も入り乱れていない。この時代の東京で、列車の乗換に迷うことはまずないだろう。タイムリープでも未来に飛ばされるのは勘弁だと思った。


 巣鴨駅で首都圏環状線内回り列車に乗り換える。ここも記憶と全く同じ風景が広がる。列車の発車ベルにも違和感ない。


 あと少しで恵ちゃんに会える、そう思うと妙に緊張してきた。20年ぶりの再会……ではなく、初デート。いやあれがデートだったのかと問われれば、今から思えば必ずしもそうとも言えない気がする。僕の記憶による今日という日は、池袋駅で待ち合わせをして、そのまま駅前の通りを進み、池袋のランドマークである複合商業施設の60階建て高層ビルへ向かったはずだ。ただ、そこで何をするでもなく人通りの少ない階段に座り、彼女の門限ぎりぎりの時間まで一緒にいただけだった。


「まだ、早いか……」


 僕は息を大きく吸い込み、深呼吸する。ついさっきまで36歳の僕は、死を決意して橋の欄干から川に飛び込んだ。あれから時間的にどれくらい経過したのだろうか。20年遡っていると訳が分からないが、口が渇くほどに緊張をしていた自分に、やはり死ぬことと生きることは隣り合わせなんだと思った。


 待ち合わせ場所と思しき駅のホーム最後尾につくと、柱にもたれかかってズボンのポケットからポケベルを取り出す。いつもなら携帯端末を取り出して、インターネットを接続し、ソーシャルネットワークシステムのタイムラインでも眺めているわけだが、今はこのポケベルしかない。しかもポケベルは電波情報を受診するだけで、これ単体で何かを発信することができない。


 僕はポケベルの小さなボタンを何回か操作して、受信メッセージを開いてみた。ポケベルの受診や送信メッセージは、最大で二十件まで保存できたはずだ。


「シタノマックニイル」


 これは和彦からのメッセージ。マックとはファストフード店のことだろう。坂の「ウエ」と「シタ」に2店舗あり、「シタ」にある方の店、という意味だ。こんな暗号みたいな文を解読しながら生活していたなんて、ある意味で驚きである。これが当たり前だった時代を、僕らは違和感なく普通に生きてきた。そんな生活にまったく不自由さを感じなかったというよりも、当時ポケベルが僕らのコミュニケーションを変えるまでに至った革新的なハイテク機材だったのだ。


「イマカラデンワスルネ」


 これは恵ちゃんのメッセージだろう。自宅の固定電話しかないこの時代、ポケベルにメッセージを入れてから電話をしないと、いろいろ厄介なことになる。


 まず通常は自宅の固定電話が着信をした場合、リビングにある親機の受話器を親が取る。つまり、友人や彼女と電話をしたい場合、まずは彼ら、彼女らの親を経由する必要が多々あるという事だ。友人はともかく、彼女、彼氏となると、面倒な説明をしなくてはいけない分、多忙な高校生にとってはめんどくさい問題であった。


 そこでポケベルなのだ。ポケベルに受信したメッセージを確認したら、自分の部屋にある固定電話の子機をつかみ、ワンコールで出られるよう待機する。そうすることでダイレクトに電話通信が可能となる。そんな時代だった。


 僕がたたずむ駅のホームを、幾つかの列車が通り過ぎていった。駅の時計を確認すると午後四時半を回っているようだ。五分おきにホームに滑り込んでくる列車は相も変わらず沢山の人を掃出し、そしてまた吸い込んでいく。この時代も20年後の世界も、東京の街を支えているのは、公共交通ネットワークシステムだ。


 西陽がやや強く差し込んでくるころ、学生をたくさん載せた列車がホームに滑り込んできた。ちょうど帰宅時間が重なるタイミングなのだろう。そんな人ごみの中を、一人の少女が歩いてくるのが見える。紺色のブレザーに赤いネクタイ。髪は肩までのショートボブ。もう夏も終わっているというのに日焼けした顔。


――恵ちゃん。


 間違いない。十月と言うことは、彼女はまだ16歳の誕生日を迎えていない。15歳の平野恵がこちらに近づいてくる。なんとなく下を向いて、でも時々、上目づかいでこちらを確認しているのが分かる。日焼けしているのはテニス部に所属していたからだろう。


「瞬ちゃん」


 恵ちゃんはそういうと、僕の前で立ち止まった。当時、彼女とどんな風に会話をしていたのだろう。僕はとっさに出てくる言葉がなくて、「お、おう」というのが精いっぱいだった。


――これじゃ、まるで中学生みたいだ。


「あ、えっと。どこか、行こうか」


「うん」


 ホームの階段から改札に向かう途中で僕は考えていた。過去と同じように行動すべきか、それとも異なった行動をすべきか。当時と同じように、あのビルの階段に行くことはできる。でもここで、映画を見に行ったり、カラオケに行ったりすることもできる。あるいはファミレスのようなところで、食事をしながら会話をしても良いだろう。


 ただ、そうなると確実にその先の未来は僕の記憶とは異なったものになるはず。つまり、過去改変が起こるというわけで、この先の行動がまるで読めなくなる可能性が高い。訳の分からないことが多すぎるこの状況の中で、この先の行動が読めなくなるのはある意味でリスクかもしれない。


 そんなことを考えながら、僕はなるべく当時と同じ行動を再現するよう努めることにした。


「恵ちゃん」


「うん?」


 彼女は、僕のやや後ろをついてくる。この時点では、僕たちは手もつないだこともなかったはずだ。


「どこか行きたいところ、ある?」


「瞬ちゃんと一緒にいられればどこでも」


 彼女といると温かい気持ちになれたのをよく覚えている。それは、決して過去の経験が美化されているわけではない。人のぬくもりを感じるとは、そう、こんな感覚だった。こんなふうに会話ができた人は、恵ちゃんと別れてその先、一度も無かったように思う。


――初恋は良いな、本当に。


 駅前の横断歩道をわたり、僕は20年前とほぼ同じルートと考えられる道を通って、あの高層ビルに向かった。


 池袋駅から繁華街を抜け、十五分くらい歩いたところに地上60階建ての巨大な高層ビルがそびえている。このビルの一階と二階は商業施設が入っているが、平日だからだろうか、それほど混雑していなかった。ビルの屋上には展望台があり、お決まりのデートコースといえばそんな感じの場所だった、ただ、あの当時、このビルの屋上まで登った記憶はない。


「少し休もうか」


 恵ちゃんはうなずくと、僕の後についてくる。恵ちゃんの歩幅が僕より狭いせいか、僕がふつうに歩くと、恵ちゃんは少し小走りになってしまう。気持ちが焦っていたせいか、僕は歩くスピードがややはやかったようだ。


 僕らはビルの一階と二階の間をつなぐ階段に向かい、そこに腰を下ろした。このフロアは基本的にはエスカレーターが設置されていて、階段を使う人はほとんどいない。だからここは人通りが皆無であり、二人でゆっくり会話するのにはちょうど良い場所だったのだ。とはいえ、今から考えれば、彼女を連れて、そんなところで一休みとか、考えられない話ではある。せめてファミレスが妥当なところだろう。


「あ、あの……」


「瞬ちゃん……」


 話したいことがたくさんあるほど、何から話せばよいか分からなくなる。それにこの時点ではまだお互いのことをそんなに良く知らないはずだ。僕がどんな性格をしていて、どんな事に興味があって、これから先、何をしたいのか。恵ちゃんは僕について多くを知ってはいない。人は人について良く知らないのに、その人に好意を抱ける。よく考えて見れば不思議なことだが、それはきっと素敵なこだと思う。


「なんか、緊張するね」


 当時の会話内容について、僕の記憶に残っていることはそう多くない。おそらく緊張のあまりほとんど会話は成立しなかったように思う。


「緊張する?」


「うん」


「瞬ちゃん、寒い」


 そうだ。寒い。寒いよね。この言葉が、もう少し近くによって欲しい、を意味するのか、あるいは単に寒いという事を伝えたかったのか、そんなこと悩んでいるうちに彼女はノートの切れ端のような、一枚の紙切れを渡してくるはず。


 恵ちゃんは鞄から手帳を取り出すと、メモ用紙を一枚切り取り、そこに何かを書き始めた。「はい」と言って手渡された紙には、僕の記憶の通り、『もう少し近くによって』と書かれていた。


 僕は少しだけ恵ちゃんに近づく。恵ちゃんの右腕が、僕の左腕に触れる。人のぬくもりをこんなにも温かいと感じたのは久しぶりだ。


「もっと寄ってほしい……」


 恵ちゃんはそう言うと恥ずかしそうにうつむいた。


「あ、うん」


 ただそれだけの出来事。二人で階段に座っているだけの時間。何か楽しい会話があるわけでもない。互いの片腕に、相手の体温を感じながらただ時間が過ぎてゆくだけ。でもそんな出来事の中に溶け込んでいる僕らは、きっとそれだけで幸せな時間だったんだと思う。


「瞬ちゃん。ごめんね。わたし七時までには家に帰らないといけなくて」


 そうだった。恵ちゃんの家はなかなか厳しい門限が設定されている。だから僕は彼女の家の前まで毎回送ることにしたんだ。少しでも一緒にいる時間を作りたかったから。幸い恵ちゃんの家から、僕の実家は直線距離で五キロほどしか離れていない。路線バスで住宅街を迂回しても、二十分くらいで着く距離だった。


「送っていくよ、家まで」


「えっ?だ、大丈夫だよっ」


「いや、少しでも一緒にいたいから」


「瞬ちゃん……。ありがとう」


 あの当時、こんなふうに会話していなかったと思う。「少しでも一緒にいたいから」なんて言葉が、16歳の僕に言えるはずがない。


 帰宅ラッシュを迎えた池袋駅はとても混雑していた。僕らは彼女の自宅は最寄り駅まで向かうため、私鉄路線の改札に向かう。僕は定期券を持っていないので、切符売り場に向かった。


 ずっと男子校で過ごしてきた僕は、恵ちゃんが初めての彼女だった。恵ちゃんの高校も女子高だったし、彼女にとっても僕が初めての彼氏だったと言っていた。互いに付き合うとはどういうことかもよく分からないまま魅かれ合い、そして一緒にいる。

 

 きっと、一緒にいるとはどういうことか、というよりも、どういうわけか一緒にいたいという気持ちの方が大事なのかもしれない。恵ちゃんと別れて以来、僕はそういう感情を失ってしまったように思う。


「電車、すごい込んでるね」


 僕はそう言うと彼女の手を握った。


「前の方が空いているかもっ」


 恵ちゃんが走り出す。発射のベルがホームに鳴り響く中、僕たちは急いで前方の車両に乗り込んだ。同時に後ろから数人が乗り込んできて、僕らは車内の中ほどに押し込まれていく。


――近い。


 恵ちゃんの顔が僕のすぐ近くにある。鼻筋がピンとして、瞳が大きいなと思う。列車がゆっくり動き出すと、恵ちゃんはバランスを崩しそうになって、僕はあわてて彼女の背中を支え、そして反対の手で吊り革を握りしめた。


 池袋駅から15分くらいだろうか。急行列車の一駅はやや長い。駅に着くと、僕は彼女の家まで送ろうと思ったが、当時、自宅まで送っていたかどうか記憶が定かではなかった。初デートでそこまでするのもどうかと思い、僕はそのままバスで帰ることにした。


 バス乗り場へ行くには、改札を出た先にある開かずの踏切を渡る必要があった。10年後、このあたりの線路は全て高架線路になり、この開かずの踏切もなくなってしまった。


「瞬ちゃん、あのバスだよ。今日はありがとう」


「ああ。帰り、気を付けてね」


 僕は恵ちゃんに手を振り、そのままバスに乗り込むと車内中ほどの椅子に腰かけた。窓越しに恵ちゃんの姿を眺める。彼女も手を振りながらバスが発車するまで僕を見つめていた。


「実家か……」


 しばらく帰っていなかった。30歳の時に父親が無くなり、母親ともいろいろあって、連絡はここ数年取っていない。このバスの終点から徒歩で二十分くらいの場所にある住宅街に僕の実家はあった。


自分の部屋とか、どうなってるんだろうか……。

これから先どうしたらよいものか……。


 ズボンの中で何かが振動しているのに気づく。僕はポケットからポケベルを取り出すと、受信されたメッセージを確認した。


「シユンチヤンダイスキ♥」


 そういえば小文字変換できないんだったっけか、ポケベルは……。


 僕は、なんとなくこのメッセージに鍵マークを付けた。消えてほしくない想いを自分の過去にもう一度見つけてしまった。


 バスの車窓からの夜景もあの当時とほぼ同じように見える。バスは狭い住宅街をすり抜けながら、しばらくすると片側二車線の国道に出て、さらに東京郊外を北上していく。


「あれ? あんなお店あったかな」

 

 窓の向こう側に見える国道脇には記憶には無い巨大なディスカウントストアらしき建物がそびえていた。単に当時は関心をひかなかっただけか、この時はあまり気にしなかったのだけど、僕は後にこの小さな違和感が、何か大きな変化を生み出していることに気づいてしまう……。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る