第3話

あったはずの未来が消えていくこと

 なんといっても、この時代の生活で一番もどかしさを感じるのは、遠隔コミュニケーション手段だ。繰り返すようで申しわけないが、それくらい強調したいのが、この時代の遠隔コミュニケーション手段は固定電話くらいしかない、ということ。ポケベルの存在は確かに遠隔コミュニケーションに役立っているとはいえ、その通信効率は電子メールに遠く及ばず、まったく実用的とは言えない。


「あ、あの常陽じょうよう高校の乙坂おとさかと申しますが、けいさん、いらっしゃいますでしょうか」


 恵ちゃんの自宅に電話をかけた場合、彼女の母親が電話を取ることがほとんどである。しかも、微妙に恵ちゃんと声が似ているように聞こえるから、事態はややこしい。あやうく「恵ちゃんっ」なんて、呼んでしまいそうになってしまう。


「乙坂君? あなたうちの恵と電話している場合じゃないでしょう。そんな暇があったら勉強しなさいっ」


「は、はい……。すみません」


 恵ちゃんのご両親は二人とも薬剤師だった。お母さんは薬局勤務。お父さんは、関東医科大学附属病院の薬剤部長だったはずだ。恵ちゃんには3つ年上のお兄さんがいて、彼は同じく関東医科大学の医学部生という超エリートだった。


「あんまり長電話しないようにっ」


 彼女の母親はそういうと、恵ちゃんの部屋にある子機に電話を転送したのか、受話器から保留音のメロディーが流れた。メロディーと言っても電子音が2トラックだけの単純なものだ。この時代、着信音を電子アラーム音ではなくメロディーで知らせる着メロなんて代物さえなかったのだから。


しゅんちゃん、ごめん。お母さんになんか言われた? 」


 電話越しの恵ちゃんの声は、僕の記憶に刻まれているよりも透き通っていて、それでいて、とても鮮やかだった。


「あ、いや大丈夫だよ」


 僕たちはお互いの学校での出来事や、終末をどんなふうに過ごしたのか、そんなことを話したり、お互い、共通の友人である今ちゃんとタムちゃんの話をした。大好きな人と話していると、一時間なんてあっという間に過ぎ去っていく。


「あ、お母さんにまた怒られちゃった」


「ごめん。楽しくてつい長電話になっちゃった」


 恵ちゃんと付き合った当初、ご両親の僕に対するイメージはあまり良くなかったんだと思う。確かに僕の高校の成績はひどく、そのままでは大学進学はおろか、下手をすると留年する可能性すらあるような悲惨な状態だった。


「ううん。大丈夫。本当はもっと話していたいんだけど……」


「そうだね……」


「あ、明日は何時に行けばいい?」

 

 そうだった。タイムリープしてから、自分の過去と、現実の対応を気にしながら、なるべく過去の自分がしてきた行動とずれないように……なんて頭を使って生活していたものだから、すっかり忘れていた。明日は恵ちゃんが僕の家に来ることになっていたのだ。


「あ、えっと10時くらい? バス停まで迎えに行くよ」


「うん。ありがとう。楽しみにしてるね」


「じゃ、また明日ね」


「また明日」


「……」


「……」


 この沈黙……懐かしい。電話をどちらが先に切るか、そういう問題なのだ。メールもソーシャルメディアもないこの時代、遠距離で繋がれるのは音声通話のみ。電話回線が切れた後の『ツーツー』というコールは、それまでの会話に含まれているあたたかな余韻を、容赦なくかき消してしまう。


「えっと、恵ちゃんから切ってよ」


「えっ? 瞬ちゃんから切ってよ」


 この問題を回避するには同時に切るしかない。


「じゃ、同時に切ろうか」


「うん」


「3,2,1で」


「3、2、1」


 『ツーツー』というコール音を聞いたのは僕の方だった。机の上に置いてある時計を見ると時刻は20時を回っている。これから部屋の片づけをしないとまずい。これが自分の部屋だったと思うとなんだか情けなくなる。


「しかし、ひでえ、部屋だ……」


 とても彼女を呼べる、というような部屋の状態ではなかった。ベッドの下には案の定、怪しげな雑誌が無造作に置かれているし、床に無造作に散らばる漫画と小説たち。そして机の上にはケースと中身があっていないCDの数々。使ったらしまう、そんな基本的なことが、案外難しいものだ。


 20年後の世界では、コンパクトディスクは音楽配信媒メディアのスタンダードではないのだけど、インターネットがほとんど普及していない90年代後半に、カセットテープに変わる音楽記録メディアとして爆発的に普及したのがCDだった。


 部屋の片づけに少し疲れた僕は、自分の部屋を出て一階のリビングに向かった。台所の冷蔵庫をあけ、ビール……ではなく麦茶を取り出す。僕の母は、夏でも冬でも年中、水出しの麦茶を作って、冷蔵庫に入れていた。


「あの、おかん。あした友達が家に来るから、俺の部屋に来ないどいて」


 僕はリビングでなんとなしにテレビを眺めている母の背中ごしにそう言うと、麦茶を一気に喉に流し込んだ。


「田村君と山下君? 田村君ってやっぱりかっこいいよねぇ」


 親父がまだ生きていたころ、母はこんな調子で気さくなタイプだった。僕も最初から親との関係性が悪かったわけではない。そして、母はタムちゃんの大ファンだった。


「いや、そういうんじゃないんで……」


 こういう話を親にするのは苦手だ。彼女が来るとはストレートに言えなかった。


「あ、そう。どうせ明日は昼間でかけちゃうから、勝手にやっといて」


――あれ、そうだったけか。


 恵ちゃんが初めてうちに来たあの日、母が出かけていたなんてことはなかった気がする。親父が家にいないのは常だったけど……。なんとなく何かが違う気がした。とはいえ、家に親がいないのはとてもありがたい。余計な気を恵ちゃんにも使わせなくて済む。


 バスから降りてきた恵ちゃんはグレーのチェックのワンピースを着ていた。秋の日差しに反射する彼女の顔がまぶしい。


――素敵すぎる


 当時の恵ちゃんがどんな服装だったか、その詳細までは記憶になかったけど、灰色のワンピースだったのはなんとなく覚えている。小柄な彼女にはとても良く似合っていた。20年前に一度見ているという記憶はあるのだが、何度でも今日という日は繰り返して良い。


「なんかこの道、雰囲気が良いね」


 僕の家に向かう途中、狭い路地を歩きながら、恵ちゃんはそう言った。周辺の道は細く入り組んでいて、その両側には隙間なしに、住宅が密集している。


「そうかな。でも遠いでしょう? バス停からうちまでの道のりを一回で覚えた人、今までいなかったな」


 たしか、こんなふうに会話したはずだったと思う。なるべく、大きな過去改変行動に繋がらないよう、慎重に行動しなければいけない。バタフライ効果なんてものが実際に存在し得るのか、僕にはよくわからないが、それでも現時点において慎重に行動するにこしたことはないだろう。この先の出来事について、ある程度のコントロールを効かせるためには、今のところはこれが最良の方法だと思う。この世界が決定論的な仕方で動いている保証はないのだ。


「よし。じゃ、一回で覚えるっ」


 恵ちゃんはそういうとスキップをしながら僕の後をついてきた。東京都板橋区は坂が多い。昭和30年から40年代にかけて整備された団地街をすり抜け、住宅街の路地を超えて、その先の高台に通じている細い道を上ると僕の自宅がある。


「そういえば、今日、うちの親いないらしいから安心して」


「それって、安心できるの? 」


恵ちゃんがにやにやしながら言った。


「ああ、いや、なんてか、そんな変な意味じゃないし、そんなあれやわ……」


――動揺しすぎだ。


 でも、こんな会話はおそらくあの当時にはかわしていない気がする。そもそもあの時に僕の母は確かに家にいて、外出などしていなかったから……。


 僕の部屋は四畳半という小さな空間だった。建物の構造上、天井が低く、一言で言えば屋根裏部屋のようだ。そんな狭い空間に、簡易式の折り畳みベッドと机が置かれ、机の横には電子ピアノとギターが置いてある。


「瞬ちゃんギター弾けるんだもんね、すごいなぁ」


 ギターは中学から始めた。中学一年の時にバンドを組み、そのまましばらく活動していたが、高校一年の夏で一度バンドはやめてしまった。その後、高三の学園祭のために一時的にバンド活動をやっていたこともあったが、本格的にギターを弾いていたのは、大学時代だ。


 ただ、大学を卒業し、就職と同時にバンドもやめてしまった。それ以来、ギターはほとんど弾いていなかったから、今ここで弾けと言われても、なかなか困難な問題だった。


 しかし、その先の会話はおそらく、「ギター弾いて?」のはず。それはちと回避せねばなるまい。全く弾けない姿なんぞ恵ちゃんに見せられない。


「でもちょっと今、ギター壊れていてさ……」


「ええっ!? そうなの? 弾いてほしかったのに」


そんなこともあろうかと、ギターの弦は昨夜のうちに全て外しておいたのだ。


「ごめんね、また、今度弾いてあげるから」


「絶対ねっ! 約束」


「ああ……」


 なんとなく後ろめたさを抱えつつも僕は自分の簡易ベッドに腰を下ろした。恵ちゃんは僕の隣に腰を下ろすと、そのまま僕の肩にもたれかかってきた。


「瞬ちゃん、落ち着くね」


「そうだね。とっても」


 僕らにとって、それ以上、何も必要なかった。ただ、肩を寄せ合っているだけで、とても幸せな時間だった。僕は、少し体を後ろにずらしながら、恵ちゃんを後ろから抱えるようにして抱きしめる。


「瞬ちゃん、顔どこ?」


「ここ……」


 キスをしても良いのかどうか、当時の僕はそんなことをずっと考え、結局この日はただ抱きしめていることしかできなかった。


 どれくらい、こうしていただろう。気づけば時刻は午後の四時を回っていた。もうじき夕方がやってくる、窓の外はそんな空模様を写し出していた。


 母は昼に出かけると言っていたが、何時に帰ってくるか分からなかった。別に帰ってきたところで、本当にやましいことは何もないのだから、全く問題ないのだが、あの日も夕方に自宅裏にある小さな丘に行ったはずなので、僕は恵ちゃんを外に誘った。


「見晴らしがよいんだよね、この丘」


「うん、とてもいい眺め」


 眼下には団地街が広がり、その向こうには荒川の河川敷が見える。


「あそこを流れているのが荒川。あのあたりで良くタムちゃんと語るんだよね」


 河川敷に座り込んで、なんとなく友人と語る。それだけで楽しかった日々がツンと思いだされる。


「タムちゃんと今ちゃんと上手くやってるかなぁ」


 タムちゃんと今ちゃんは僕らより一か月ほど前に付き合い始めた。タムちゃんが、付き合っている彼女よりも友達との付き合いを優先するタイプなのは知っていた。だから、今ちゃんとしては、タムちゃんと会う機会が少ないことを不満に思っていたのだ。


「今後、4人でどこか行こうか」


「うん、そうだね」


 4人で遊んだことは多々あったはずだ。あの花火大会の時も4人で見に行った。「そらの名前」に挟まっていた写真はその時に撮られたものだ。


「ねえ、瞬ちゃん。ポケベル、最新機種のやつでしょ? 見せて?」


 そうだった。これが彼女の心を大きく傷つけることになった最初の出来事だ。結論から言うと、あの時の僕は、ポケベルを見せたくなかったのだ。恵ちゃんから送られてくる『ダイスキ』とか、『アイシテル』なんてメッセージが、新しいメッセージに埋もれて、消えていくのが嫌で鍵マークをつけて保護していたから。


『こんなメッセージ保護しているなんてキモイ』と思われたくなかったから、僕はかたくなに『ポケベルは見せたくない』と言ったのだった。まあ、よくよく考えてみれば、見せないほうが浮気でもしているようで、よっぽど怪しいわけなのだけど。


 しつこく見せて、とせがむ恵ちゃんに、僕は『ちょっとしつこいよ』と言ってしまった。『嫌いじゃないけどね』と続けた言葉が彼女を傷つけてしまったことを、後から今ちゃんに聞くことになる。


 嫌いじゃなけど、好きでもない? それって少なくとも大好きじゃない? そんな誤解を解くために、一か月ほどかかった。今にして思えば、彼女の情動はとてもか細く、繊細で、そしてちょっとした振動でも壊れてしまうくらい、もろいものだったということに、もっと自覚的になるべきだった。


「これだよ」


 そういって僕はポケベルをポケットから取り出し恵ちゃんに渡す。彼女を傷つけたくない、彼女を大切にしたいという思いが、過去の僕とはまた別の行動を選択するよう要請する。この先に続く未来が、もともとあったはずの未来と重ならなくなっていくことの重大性について、この時の僕はまだ知る由もない。


「瞬ちゃん。これ保護してくれてるの?」


 恵ちゃんはやはり受信メッセージを見ていた。


「だって……消えちゃうのが寂しくて」


 僕は正直に答えてみた。たとえ、未来が変わっていくのだとしても、今ここで、彼女を傷つけてしまうことなど、僕には選択できなかった。


「はずかしいなぁ。でもありがとう」


「恵ちゃん、そろそろ時間じゃないのか?」


 これ以上、会話をすることで、あったはずのない未来がどんどん増えていくことになるかもしれない。本当はもう少し話をしたかったけれど、今日はこのあたりにしておいた方が良いと僕は思った。


「あっ、いけない。帰らないと」


「よかったら自転車で送るよ」


 あの時、僕の言葉に傷ついた恵ちゃんは少しだけど、でも確かに泣いていた。気まずい空気を変えようと、僕は恵ちゃんを自転車の後ろに乗せ、必死で彼女の自宅まで送っていったのを覚えている。


「えっ? 大丈夫なの?」


「大丈夫。きっとバスより早い」


 恵ちゃんの自宅までの道順はしっかり覚えていた。基本的にはバスの運行ルートを踏襲するが、途中で大きな上り坂があり、そこが最大の関門だった。


「おりようかぁ?」


 後ろで恵ちゃんが声をかけてくる。背中にあたる彼女の手が温かくて、時間なんて止まってしまえと思う。


「だぁ、い、じょうぶぅ……」


 二人乗りで、急勾配を上るのはギアのついていないこの自転車ではつらい。でも絶対に彼女を乗せて走りぬくんだと、わけの分からない決意みたいなのがあって、あの時も、この坂をなんとか登りきったはずだった。


 恵ちゃんの自宅前についたころにはすっかり日が暮れていた。秋深まるこの季節、陽が落ちるとかなり冷え込む。自転車のハンドルを握っていた僕の手は少しかじかんでいた。


「瞬ちゃん、帰り気を付けてね」


「うん。じゃまた」


 彼女が家の玄関に入るのを見届けると、僕はサドルにまたがり、もと来た道を引き返し始めた。恵ちゃんと付き合っていた二年半、僕は彼女と会うたびにこの道を通って、彼女の自宅まで送っていた。だからこの街並みも良く覚えている。


「このあたりに二人でよく来た定食屋があるんだが……」


 私鉄駅前のロータリーから商店街が続いていて、その一角に小さな定食屋があった。天丼やかつ丼など、男子高校生向けのメニューが並ぶが、値段も安く、ボリュームも多い。学校帰りに良く二人で寄った場所だ。


「おかしい。絶対この辺りのはず」


 定食屋があったはずの場所に建っていたのはコンビニエンスストアだった。思い違いかと一瞬思ったりもしたけれど、よくよく記憶を思い返して見れば、今目の前に広がる街並みが微妙に違う気がする。駐車場と公園の位置関係に違和感があったり、郵便ポストの位置がなんとなく違うのだ。


 過去の自分と全く同じ行動をしていないことが、この違和感をもたらしているのだとすれば、それはおそらく微細な過去改変的な何かの帰結と言ってもよいのかもしれない。


 しかし、この先も自分がどう行動したのかという詳細な振る舞いを思い出すことは不可能だ。このまま時がたつにつれて、そうした微細な相違は蓄積し、僕が20年前に歩んだ世界と、今目の前に広がるこれから歩みつつある世界には、どんどんギャップが生じていく。あったはずの未来がない現実が、もう既に生まれてきているという事に僕は少なからず恐怖した。


「できる限り過去の自分と同じ行動をしなければ……」


 人生をやり直したいと思って過去に戻っても、それをやり直せるだけの心の強さを人は持てるのだろうか。自分の知っている世界からどんどん切り離されていくこの感覚は形容しがたい孤独を孕んでいる。


 少しずつであるが確実に未来はずれていく。それはおそらく、僕が彼女を想うほどに、大きなギャップとなっていくに違いない。16歳の僕は、自分が思うほどに彼女を大切にはできていなかったのだから。

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