本を探して

「乙坂、お前もいくだろう?」


 六時間目の授業が終わると同時に和彦が後ろから話しかけてきた。 というのは喫茶店のことではない。御茶ノ水という東京都文京区湯島から千代田区神田に至る、千代田区神田駿河台を中心とした一帯の地名である。このあたりには本屋や楽器屋が多く、また大学などの高等教育機関も複数点在して、まさに学生の街という感じだった。


 僕らは学校が終わると、地下鉄で二駅ほど先の駅で降り、そこから徒歩で御茶ノ水方面へ向かう事が多かった。楽器屋でギターを試し弾きしたり、音楽機材を眺めたりしながら、結局はカラオケで暇をつぶし、夜になると牛丼か、ラーメンを食べるというのがお決まりのコースだ。


「いや、すまん。今日はちょっと寄らないといけないところがあってさ……」


「デートかいな。お前ら、ほんと仲いいよなぁ」


 デートではないのだが、説明するのが面倒だなと思った僕は、まあそんなとこだ、という感じでニヤニヤしていた。和彦は「んじゃ、またな」というと、鞄を抱えて教室を出ていった。


 今日はどうしても行かなければいけないところがあったのだ。明日、12月1日は恵ちゃんの誕生日である。20年前のその日、僕たちは会う事ができなかったのだけど、僕は彼女に一冊の本をプレゼントした。それがあの『そらの名前』だ。なぜ20年間も僕の手元にあったかといえば、それはあの時、同じ本を二冊買ったということ。一冊を恵ちゃんに、そしてもう一冊は自分用に……。


 廊下に出ると、岸本が歩いてくるのが見えた。


「乙坂、デートか?」


 すれ違いざまに彼は声をかけてきた。なんとなくうつろな彼の視線に、意味もなくひやりとする。やはり彼は苦手だ。


「あ、いや……」


 僕に彼女ができたことは、クラス内でも結構有名な話題だった。だから岸本が知っていても、おかしいことは何もない。


「平野さんだっけか。今川さんと同じ高校なんだよな。俺、もしかしたら駅とかで会ってるかもな」


 名前まで知っているという事や、この話し方がそのものが気にくわないのだろうか。なんとなく人を圧迫するようなもの言いに、少し疲れてしまう。


「そういえば、お前んとこの家、都立大前だもんな」


 恵ちゃんの通う高校と、岸本の自宅が同じ駅、というところになんとなく嫉妬の感情を覚えるが、岸本はあえてそれを分かっていて言っているような、そんな空気が言葉の節々に読み取れてしまう。それが僕の彼に対する苦手意識を生み出しているのかもしれない。


 岸本との会話を早々に切り上げ、僕が向かった先は、池袋駅にある大型書店だ。大学時代や就職してからは、もっぱら専門書を購入する目的で来ていたが、高校時代は小説や参考書を買いによく来ていた。品ぞろえが豊富で揃わない本はめったにない。だから『宙の名前』も必ず置いてあるはずだし、現に20年前の記憶では間違いなくこの書店で二冊購入している。


「えっとあれは写真集だから、芸術書のコーナーか……」


 書店の一階エスカレーター前に掲示されてある案内版で、販売していそうな階を予測する。一階は文庫や雑誌、二階は理系専門書、三階は人文系専門書、そして芸術関連は四階だった。僕はそのままエスカレーターに乗り目的の四階を目指ず。エスカレーターの片側はガラス張りになっていて、眼下には池袋の街並みが広がる。


 僕は本屋の独特の空気が好きだ。静かな店内に、製本したての本の匂いが満ちている空間。なんとなく魅かれたタイトルの書籍を手に取り、ページをパラパラめくると、どうしても目を離せなくなるような言葉に出会う時がある。人は言葉に心奪われる瞬間が確かにあるのだ。僕も誰かの心を一瞬で奪い去っていくような、そんな言葉を紡いでいきたいと思う。


「たぶん、このあたりのはずなんだけど……」


 写真集のコーナーにも様々な本が置いてある。有名写真家の写真集から、鉄道のある風景、ヨーロッパの街並みや、街中のスナップ写真を集めたもの。おしゃれな写真集から、美大生が勉強目的で購入するような専門的な写真集まであって、その中から目的の本を探すのにはやや骨が折れた。


 しばらく本棚と格闘していると風景写真集が並ぶコーナーの一角に『色の名前』という本を見つけた。


「このシリーズだ」


 隣にあるのは『空の名前』。僕が探している『宙の名前』の姉妹本だ。『宙の名前』はの写真集だが『空の名前』はの写真集である。しかし、何度見ても名前シリーズはこの二冊しか本棚に並んでいなかった。


「まずい……」


 どうしても今日中に本を手に入れる必要があった。少し焦りを感じた僕は、急いで店員を呼んだ。


「あの、すみません……」


 裏の本棚で、品出しをしていた店員に自分が探している本の名前を伝える。だがしかし、20年前はおそらくこんなことはしていない。探していた本はすぐに見つかったはずなのだ。来た本屋を間違えたのだろうか。いや、そんなはずはない……。間違いなくここで購入している。


 「すみません。どうも品切れのようです。明日には入荷予定となっていますが、取り置きしておきますか?」


――明日じゃだめなんだ。


「あ、じゃあ。大丈夫です」


 おかしい。はやり僕の記憶にある過去と現実は、少しではあるのかもしれないが、でも確実に違っている。


 僕は駅の裏側にある、もう一つの大型書店に息を切らして駆け込んだ。『宙の名前』はそれなりに有名な本だし、置いていないという事のほうが稀のはずなのに……。

 

 しかし、いくら探しても目的の本は見当たらず、店員に聞いても品切れだという返事しか返ってこなかった。


「こんなことが……ありうるのか……」


 何かを僕の行動が変えてしまいつつある。いや、むしろ歴史のほうから改変を迫ってきているのではないか。この時、僕はそんな得体のしれないものに抗えない怖さを感じた。池袋駅周辺で僕が知っているめぼしい本屋を全て探し回ったが、どの本屋でも品切れという状態だった。


 僕はなすすべもなく、公園のベンチに座り込むより他なかった。陽は徐々に傾き、夕闇が迫っている。しばらく考えていたが、僕は本の購入をあきらめ、地元の雑貨屋で何かプレゼントになりそうなものを探そうと池袋駅を後にした。


 帰る途中の列車の中で、地元にも本屋があったのを思い出した。その本屋は地元ではわりと大きな店ではあったが、池袋にある大型書店と比べてしまえばその規模はまるで違う。あまり期待はしなかったけれど、ただ、一応寄ってみることにした。


 そこは、駅前の商店街から脇に入ったところにある本屋で一階がCDコーナー、二階が書籍コーナーとなっている。僕はゆっくり店内を歩き回ると、写真集のコーナーで足を止めた。


「あった……」


 見慣れた表紙。そのタイトルに思わず目を魅かれてしまう。僕が探していた『宙の名前』が一冊だけ店内においてあった。僕はすぐさまそれを手に取るとレジへ駆け込んだ。


「すみません。この本もう一冊おいてありませんか?」

「同じもので良いんですか?」


 店員はいぶかしげな顔をしてこちらを見ていたが、僕がうなずくと、すぐにレジ奥に入り、在庫を確認してくれた。


「どうもこの一冊だけみたいです。入荷は明日になっているようですけど、どうしますか?」


 入荷は明日……。明日ではだめなことをまるで誰かが見ているような、そんな気がして鳥肌が立った。僕がタイムリープをしていること、過去の自分と同じ行動をしようとしている僕の意志をあざ笑うかのように、その誰かの視線のような存在を感じてしまう。


「ファンダメンタルズ……」


 あの少年の姿が今となっては不気味なものの存在として僕の脳裏に反芻される。


「はい?」


「あ、いえ。一冊で大丈夫です」


 家に帰ると本を丁寧に包装紙で包み、僕は恵ちゃんに手紙を書いた。たぶん、これが彼女に宛てた初めての手紙だったはずだ。当時の文面までは覚えていなかったが、今は素直な気持ちを書こうと思った。


『恵ちゃん、誕生日おめでとう……』


 彼女に出会えて、いや出会ってくれて本当にありがとう。これからもずっと二人の時間が続いてほしい、そう願わずにはいられなかった。別れが確実に来ることを知っていたとしても、その別れはどこかで回避できるのではないか、そのための改変ならば、僕はむしろ積極的に過去を変えてやりたいとさえ思う。


 恵ちゃんは明日、友人らと誕生日のお祝いもかねて出かける約束をしていた。テニス部の仲間と誕生日を祝うのが毎年恒例だそうだ。だからその日は会えなかったのだけど、当時の僕は誰よりも最初に誕生日のメッセージとプレゼントを届けたかったのだ。それは20年の時を経た今の僕でも全く同じ感情を抱けていたし、だからこそ、なんとしても今日中に本を手に入れる必要があった。


 しかし、予想外の展開で正直焦らされた。何も誕生日の前日に本屋に行かなくても良いだろうと言われればそれまでなのだが、確実に本が手に入ったという僕の記憶から、妙な安心感を得ていたことも油断の一つだった。それと、どうも友人との付き合いもおろそかにするわけにもいかず、プレゼントを買いに行くタイミングを逃していたということもある。まあ、なんとか無事に1冊手に入ったので良しとしよう。


 時刻が0時に近づいたころ、僕は行動を開始した。まずはシャツの上にセーターを着こみ、その上にダッフルコートを羽織る。首にはマフラーを巻いて、その体勢で自分の部屋にある電話の子機を取った。


 ポケベルのメッセージ送信はそのタイムラグが大きい。電話をかけ、回線に接続しメッセージを送信してから数分後に受信される。このタイムラグを考慮するために僕は23時55分にポケベルの番号へ電話し『タンジヨウビオメデトウ』というメッセージを23時57分になったのを確認しから送信した。これでおそらく24時ぴったりに受信されるはずだ。


 僕はメッセ―ジの送信を確認すると、机の上にある恵ちゃんへ渡すプレゼントを脇に抱え、足音を立てないように自分の部屋を出た。もう12月だ。玄関の外は刺すような冷気に包まれている。


 ダッフルコートのポケットから手袋を取り出すとそれを両手にはめる。プレゼントを自転車の籠に乗せ、サドルにまたがりペダルをこぎ始めた。行先はもちろん恵ちゃんの家だ。


 深夜の住宅街に鳴り響く音はほとんど存在しない。車通りも少ない僕の住む地域は、12月の冷たい空気に包まれ、ひっそりと静まり返っていた。少し不気味な世界に自然とペダルをこむ足に力が入る。


 無我夢中で自転車をこいできたせいか、恵ちゃんの家に着いたころには、やや汗ばんでいて、体もそれほど冷えていなかった。僕は恵ちゃんの自宅郵便ポストにプレゼントを音を立てないようゆっくり入れる。


 ズボンのポケットからポケベルを取り出し受信ボックスを確認すると、恵ちゃんからメッセージが来ていた。


『シユンチヤンアリガトウ!』


 誕生日おめでとうのメッセージは無事に届いたようだ。僕は、彼女が寝ているであろう部屋の窓を少し眺めながら、ほっと溜息をつくと、もと来た道を引き返した。


 翌日、朝早くに僕は恵ちゃんのポケベルに『ポストヲミテ!!』とメッセージを入れた。万が一、彼女のご両親があのプレゼントを見つけても大きな問題にはならないよう、配慮して包装したつもりだったが、できれば彼女自身に見つけてほしかった。昨日、自宅に帰ったのが一時を回っていたから、さすがにその時間にポケベルを鳴らすのは迷惑かと思い、翌朝にメッセージを送ることにしたのだ。


 ポケベルはメールと違ってすぐに返信できるものではない。メッセージを送るには常に電話の存在が不可欠である。自宅の固定電話が使用しづらい環境であれば、公衆電話を使うしかないのだ。恵ちゃんからメッセージが返ってくるまで、僕は何か問題が起きていないかずっと心配だった。


 20年前であれば、翌朝に新聞を取りに行くついでに恵ちゃんは僕のプレゼントを見つけてくれたはずだった。でも、歴史は繰り返してはくれない可能性を目の当たりにしている僕には、迷惑なことになっていないかどうか、とても心配だったのだ。だからその日の授業なんて全く耳に入らず、左ポケットのポケベルのバイブレーターがいつメッセージの受信を知らせるか、そればかりを気にしていた。


「瞬ちゃん、このあとバスケしよう?」

  

 タムちゃんと放課後に二人でバスケをすることがよくあった。体育館の隅にある小さなバスケットコートは放課後になると誰も使用することがなく、二人でバスケをやるには最適の場所だった。


「ああ」


「なんか元気ないねぇ。喧嘩でもした?」


「いや、そんなんじゃないよ。あ、タムちゃん、おれ掃除当番だから、先に体育館いってて」


 掃除当番と言ってもモップで教室の床を適当にふくだけだ。もはや汚れを擦り付けているとしか思えないその行為が許されるのも、男子校だからだろう。


「了解っ」


 タムちゃんが教室を出ていくのとほぼ同時にポケベルのバイブレーターがメッセージの着信を告げた。2件のメッセージが連続で入っている。


『ステキナホンヲアリガトウ』


『ウレシクテナミダガデタヨ』


 嬉しくて涙が出そうなのは僕だった。早々に掃除を切り上げ、タムちゃんの待つ体育館へ向かう。


 気分が高揚しているからなのだろうか、廊下をすり抜ける速度がいつもより早い。けっして走っていたわけではないのだけれど、足が無意識に動いている、否、それはむしろ動かされていると言った方が良いかもしれない。不思議さに対する思考が身体についていかず、階段に差し掛かった途端、僕の体は急にふわっと宙に浮いてしまった。


「あっ」


 そのまま、数段下の床に向けて僕の体は自由落下していく。重力を感じないあのふわっとした足をすくわれる感覚。


――あの時と似ている。


 一瞬、何が起こったのか分からなかった。気づけば僕は階段ではなく、教室に一人、モップを持って立っていたのだから……。


 ズボンの左ポケットから、ポケベルのバイブレーターが作動している音がかすかに聞こえる。

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