第4話

出来事が美しくなる時

 それは5分ほどではあったけれど、確実にタイムリープという現象が生じていた。20年間という時間をさかのぼった前回のタイムリープから比べれば、ごくごく微細な変化であったかもしれない。しかし、常識的にはあり得ない現象を立て続けに経験すれば、この不可解な出来事を引き起こしている要因を気にせずにはいられない。


 前回と今回で共通している要因は明らかに僕の身体が自由落下している点にある。仮に落下のタイミングでタイムリープが発動するとして、落下距離と遡る時間の長さが相関関係にあるのではないか。僕はそんな仮説を立てた。


「はい、ここテストに出るからなぁ。なぜほぼ同じ分子量なのに、水とメタンで沸点が異なるのか、しっかり説明できるようにしておけよ」


 化学を教えているのはクラス担任の丸山先生である。高校レベルの化学であれば、こっちはむしろ専門だ。薬学部の専門課程では化学系の科目は必須であり、教職課程と同等レベルの専門知識は身に着けている。この問いは実に典型的な良問であり、沸点の差異は分子モデル理論を用いて水素結合の有無で説明できる。


 さて、沸点の差異に関する詳しい説明は良いとして、つまりは、飛び降りる高さが高いほど、それだけ過去に遡ることが可能ということかもしれない。


 僕はノートに一本の横線をひく。僕が飛び降りた橋の欄干から水面まではおおよそ十五メートル。そして遡った時間は約20年。つまりメートル当たり1.3年ほどさかのぼっている計算になる。ただそうなると、辻褄が合わない。昨日階段から落ちた階段は一メートルあるかないかという高さだった。そしてタイムリープしたのは5分程度。大幅なずれが生じている。この差異は何か。落下しているときの速度も影響していると言うことだろうか。そもそも前提として落下とタイムリープは因果関係にないのか……。


「やはり、分からん……」


 僕はノートの上に鉛筆を置くと、首をぐるっと回して、肩の力を抜いた。


「乙坂、ぼやいてないで勉強しとけよ。お前、化学も赤点だと、本気で進級がまずいことになるぞっ」


 首がちょうど正面に戻ったところで丸山先生と目が合う。


「あ、はい……」


 高校一年の時の成績は最悪だったのを覚えている。だがしかし、二学期ももうすぐ終わるとうのに、期末テストの勉強なんてろくにしていない。化学は何とかなるにしても、数学、国語、英語、その他もろもろの教科について、テストに耐えうるだけの知識は皆無である。何せ、高校を卒業してから20年が経過しているのだ。今更、数列とか二次関数などと言われても解けるはずもないし、英単語ですらその多くを忘れ去っている。過去に戻って人生をやり直すと言うのは想像以上に大変なことだ。


 この時代から20年先の世界で、僕はあらゆる出来事に希望を持てず、死と隣り合わせの生活をしていた。冬の冷たい風は生きている事への不安を掻き立てる。ふとした瞬間に消えてしまいたいと思うんだ。


 しかし、高校時代の僕には、常になにがしかの希望があったということがあらためて分かる。将来のことについてはあまり真剣に考えてはいなかったのだろうけど、それでも自分が歩むべき方向を見定めようと、その先にある希望についてしっかりと考えていたのだと思う。少なくとも絶望を前提に生きるなんてことはしなかったし、死ぬことは純粋に恐ろしいことだった。

 

 12月の半ば、僕と恵ちゃんは彼女の自宅近くにある公園でデートをした。公園の中央には大きな池があり、そこには小さなボート乗り場がある。僕らはその池の周りを手を繋いでゆっくりと歩いた。晩秋、いや真冬が来る手前の季節。地面には枯葉が覆い重なり、歩くたびにサクッ、サクッと音を立てる。


「来週はもうクリスマスだね」


 僕はそういうと、池のほとりにあるベンチの前で足を止め、そこに腰かけた。池の水面には何艘かボートが浮かんでいる。子供ずれの家族が一組、赤と白に塗られたボートを漕ぎながら、冬の日差しをのんびり浴びていた。


「クリスマスなんて、今までそんなに気にしてなかったな」


 隣りにすわった恵ちゃんはそう言って、水面にゆらゆら浮かぶボートを眺めている。陽の光に照らされた水面がキラキラ輝いていた。


「日曜日だったらよかったのにね。そうしたら朝から会えるし」


「普通に水曜だしね。残念」


 恵ちゃんはベンチに深く腰掛けると、足を地面から浮かせて、前後に軽く振っていた。


「一緒に帰ろう。クリスマスイブの日」


「うん。ご飯くらいなら一緒に食べる時間あるかも」


 僕たちにとってのデートは、どこに行くわけでもなく、ただ公園のベンチでたわいもない話をするなんてことばかりだった。だけれどもお互い、それで十分すぎる程に幸せな時間だったのだと思う。


「ちょっと寒いよね」


「平気」


 恵ちゃんはそう言って僕の左腕をつかむと肩にもたれかかってきた。僕はそっと彼女の顔を見つめる。この時期になると太陽の日差しも弱まるのか、恵ちゃんの肌は白く透きとおっていた。


「キス……してみる」


 そう言う彼女の大きな瞳が僕を見つめている。


「あっと……。うん」


 36年も生きていればそれなりにいろいろな経験があるが、やはりファーストキスという経験は特別だと思う。年甲斐もなく、いや、16歳ではあるのだが、心臓のあらゆる筋肉が不随意に躍動していくのが分かる。


 瞳を閉じた先に見える希望。それを絶やさないように、ずっと……。


 人は大切な人と一つになりたいと願う。そんな願望を潜在的に有しているのが人なのだと思う。しかし、一つになってしまうと大切な誰かの存在そのものが自分に溶け込んでしまう。自他の境界が消滅した瞬間、抱いている願望も同時に潜在性を失ってしまうのだろう。このアンビバレンスを人は愛と呼ぶのかもしれない。


 冬は陽が落ちるのが早い。僕はいつものように彼女を家まで送ると、バスには乗らずに、列車で池袋駅に向かった。クリスマスプレゼントを買うためである。誕生日とクリスマスが同月にあるから12月は2つの贈り物を用意する。それが高校時代の僕にとって、もっとも重要なミッションだったのだ。


「まさか、今日は手に入るだろう。あの本……」


 誕生日にプレゼントした『宙の名前』を彼女はとても気に入ってくれた。この写真集のシリーズはいくつか出ていて、昼空の写真集、つまり『空の名前』という本もあることを伝えると、予想通り興味を持ってくれたようで、今度本屋さんに言ったら、見てみたいとはしゃいでいた。


 池袋駅につくと先日来たばかりの書店に向かった。僕は迷わず4階の芸術書コーナーに向かう。書籍の配置も先日の通りだったから、探していた『空の名前』は難なく見つけることができた。


「この本をプレゼントしないと、この先の未来はきっと大きく変わってしまうから……」


 空の名前は青空に浮かぶ様々な雲の写真と、その名前が掲載され、簡単な解説が付記してある写真集だった。この写真集がきっかけとなり、恵ちゃん自身もインスタントカメラで、空の写真を撮り続けることになる。20年後、ソーシャルネットワークメディアのアイコン画像にも空の写真を使っているところを見ると、彼女の趣味のきっかけを作ったのは僕という存在なのかもしれない。僕自身が出来事のきっかけに繋がっている、そんな可能性を考えたことはしばらくなかった。


 きっかけなど明確に特定できやしない。この世界にあらかじめ理由なんてものが存在するなんて考え方を僕は否定し続けた。死にたくなる理由なんて言葉にできないし、何かをすることになるきっかけなんて、どこにあるのか掴みようがないと。理由なんて出来事の連鎖から解釈する側の人間が都合によって認識するにすぎないものだと思っていた。


 だけれど、少なくともこの本は、彼女が空の写真を撮り続けるという出来事に繋がっていった。


 「瞬ちゃん、その袋なに?」


 あわてて靴をはきかえ、昇降口から出ようとすると、タムちゃんに話しかけられた。


「えっと、そのクリスマスのプレゼント……なんだよね」


「おお、何買ったの?」


 タムちゃんは興味津々という感じで僕に近づいてくる。


「本……」


「本? 」


 きょとんとしたタムちゃんの後ろから和彦が出てきて、「お前さぁ。センスねえな。ふつう、こういう時はなんかこう、もっとキラキラしたやつだろう」


――キラキラしたやつってなんだ。


「んじゃ、俺も今日は急ぎなんで」


 僕の反応も待たず、和彦はそそくさ靴を履き、さっそうと学校の正門を走り抜けていった。


「あいつも浮かれてんなぁ」


 タムちゃんが遠い目をしながら「青春だ」とつぶやいた。


「あれ、タムちゃんは今ちゃんに会わないの?」


「今日、地元の友達とクリスマス会なんだよねぇ」


「そうかぁ……」


 なんとなく悲しそうな今ちゃんの表情が頭に浮かんだが、自分もここでのんびりしている暇はなかった。少しでも早く会わないと、一緒にいられる時間がそれだけ短くなってしまう。


 20年前のクリスマスイブに、僕たちは池袋にあるイタリア料理屋で夕食を一緒に食べた。それまでファミレスデートさえもしたことなかったし、なんとなく二人だけでお店に入るのはとても緊張したのを覚えている。


 池袋の駅前繁華街とは逆方向に五分ほど歩くと、大学受験の大手予備校が立ち並ぶ区画がある。人通りもやや少なく静かな場所だ。そのイタリア料理屋は予備校の向かい側のビル二階にあった。この日以来、僕たちはこのイタリア料理屋でよく食事をするようになる。


「良かった、すぐに入れるみたい」


 クリスマスイブだったから店内の混雑を予想していたのだけれど、時間がまだ少し早いせいか、テーブルには空席が目立っていた。ウエイトレスに奥のテーブルに案内され、僕らは席に着くと、メニューをテーブルの上に広げた。


 取り分けサイズというやや多きめのボールに二人分ほどのパスタが盛り付けてあるのがこの店のメインメニューだ。いくつか種類があるが、僕らは魚介のパスタや、カルボナーラ、揚げ茄子とほうれん草のミートスパゲッティなんかをよく選んでいたと思う。


「何か嫌いな食べ物とかあったっけ」


 恵ちゃんの嫌いな食材は知っている。それはトマトだ。パスタで注意すべきはトマトソース的なもを選んではいけないということ。まあわかってはいたのだが、あえて聞いてみた。


「嫌いな食べ物ねぇ。うん、特にないよ」


そ、そんな……。まさか……。


「あ、ああ……。そうなんだ。俺も特に嫌いなものは無くて、何でも大丈夫なんだけど……」


 言葉の最後の方は少なからず動揺が混じってしまった。しかし、この状況はあり得ないことではないのかもしれない。今目の前にいる恵ちゃんは、僕の記憶の中に存在する恵ちゃんとは微妙に違うということだ。僕の知らない恵ちゃんが少しずつ増えていく。それは悲しいことなのか、それとも何なのか……。


「キノコとトマトソースのパスタなんてどうだろう」


 試してみようという気はなかったが、ここで期待したのは「そういえばトマト、苦手なんだよね」という彼女の答えだった。


「あ、私もそれが食べたいって思ってたの」


 世界は変わりつつある。この変化はこの先ずっと続いていくのだろう。もう僕に止めることはできない。


 動揺を鎮めるようにグラスの水を口に含むと氷と一緒に喉に流し込んだ。僕は気を取り直して鞄を開けると、例のプレゼントを取り出した。そんな僕のしぐさを見た恵ちゃんも僕と同じように鞄を開け、一つのビニール袋を取り出す。


「これ、クリスマスのプレゼント」


「実は私も……」


 恵ちゃんがくれたビニール袋の中には毛糸で編んだ手袋が入っていた。


「これ、恵ちゃんが作ったの?」


「うん、だから少し形が悪いけど……」


 僕は恵ちゃんが作った手袋を自分の手にはめてみる。灰色と白の毛糸を使って、しっかり編み込んである手袋はサイズもぴったりで、とても暖かった。


「全然。とてもぴったりだよ。ありがとう。作るのきっと大変だったよね」


「良かった。瞬ちゃん、いつも手が冷たいから。わたしも開けてみていい?」


「もちろん」


 恵ちゃんが袋を開け中から本を取り出す。その表紙を見た瞬間の彼女の笑顔がとても印象的だった。


「わあ、これ、前に言ってたやつだよねっ。欲しかったんだぁ。ありがとう」


「良かった。喜んでもらえて。和彦には、クリスマスプレゼントが本なんてセンス無い、なんて言われたんだけど」


「すごくきれいだねぇ。夜空の写真を撮るのはとても難しそうだけど、こういう空なら私でも取れるかなぁ」


「ああ、恵ちゃんならきっと素敵な写真が撮れるよ」


 彼女の撮影した空の写真は、青色と白色の境界が曖昧なのだけど、それがとても独特な雰囲気を放っていて、思わず見とれてしまう。世界を形作る境界線なんてものが一切なくて、空は僕たちが想像する以上にもっと大きく、広大で、そして色彩に満ちているんだと思わせてくれる、そんな写真だ。


 しかし、彼女の門限時刻はクリスマスイヴの夜も例外なく厳格に設定されている。パスタを食べ、コーヒーを飲みながら話をしていればあっという間に帰宅時間が迫ってくる。もちろんいつも通り、僕は彼女を自宅まで送った。一緒に電車に乗って帰るのはこれで何度目だろう。このままどこまでも行ってしまいたいと、いつもそう思っていた。


 列車の車内アナウンスが降車駅に近づいたことを知らせたとき、恵ちゃんが僕の手をぎゅっと力を込めて握った。


「どうした?」


僕は思わず彼女を振り返る。


「一駅、乗り越そう」


 僕はうなずくと、彼女の手を優しく握り返した。


 列車は僕たちが降りるべき駅で止まる。扉が開くと、外の冷たい空気が勢いよく流れ込んでくるのを肌で感じた。列車の発射のベルが鳴っても恵ちゃんは席を立とうとはせず、僕の手を固く握ったまま、目を閉じていた。


 時間が止まってしまえばいい。あの当時、彼女を送る列車の中で何度そう願ったことだろうか。しかし、時の流れが止まってしまたら、それはそれでいろいろな困難が待ち受けているのかもしれない。時間は過ぎてゆくものだからこそ瞬間の出来事が美しくなる。タイムリープを目の当たりにした僕にとって、時間とはそういうものだと思った。

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