僕の未来に

 年が明け、バレンタインなどのイベントもあって、僕らの付き合いは20年前と同様に順調に進んでいるかのように見えた。しかし、その歩みの中で、確実に僕の記憶と現実は乖離していく。


 日常に遭遇する違和感が、日に日に増えていくことを確かに実感できてしまっていた。そのたびに新しい明日が来るのはやむを得ないと自分に言い聞かせながら、今とりうる最善の行動は何だろうかと、僕はその一瞬一瞬を大事に生きるより他ないと思った。


「乙坂、今日の放課後、面談するからそのつもりでいろよ。親御さんには朝に了解を得ている」


 突然クラス担任の丸山先生はそう言った。


「面談って、なんの話ですか?」


「大事な話だっ」


 それだけ言うと先生は職員室へ戻ってしまった。高校1年の学期末、そう言えば親を呼び出されて三者面談をしたことがあった。今日がその日なのかもしれないが、あまりに唐突で驚いた。


 20年前と大きく違うのは、今日は恵ちゃんと会う約束をしていたと言うことだ。三者面談をやっていたのでは確実に待ち合わせの時間に間に合わない。ただ、この面談は僕の高校二年生進級をかけたかなり重要な面談ではあった。高校に進級できないと言うことが現実になれば、僕の頭の中にある記憶の過去と現実は修正できないくらい大きく乖離してしまうだろう。その先の時間軸は、僕の記憶には皆無な、これまでとは全く異なる世界を生み出していくに違いない。


「乙坂、今日お前、ヒラメと会う約束してたんだろう?」


 後ろから和彦が声をかけてくれた。隣にはタムちゃんもいる。


「ああ、でもしょうがない……よな」


「真面目な奴だなぁ。三者面談なんてすっぽかせばいいんだよ」


「俺さ、これ出ないと留年すんだよ」


「って、決まったわけじゃないでしょ?」


 そう言ったタムちゃんは何気に成績が良い。いつも一緒に遊んでいるくせに、いつ、どこで勉強しているのかと思うほどに要領がいいと言うか、何なのか……。


「決まってんのさ。未来は……」


「お、乙坂?」


 僕は呆然と立ち尽くす二人の肩をポンっとたたくと、校舎を出てそのまま公衆電話に向かった。電話ボックスの扉を閉めると外の音がかなり遮音される。通話を前提とした空間なので、おそらく遮音への配慮が構造的になされているのだろう。狭い空間はあまり得意ではなかった。


 受話器を握り、10円玉効果を三枚ほど入れ、恵ちゃんのポケベル番号へ電話する。指が電話機の番号ボタンを滑るように動いていく。パソコンのキーボードをブラインドタッチで叩けるように、僕は公衆電話の番号ボタンを三本の指を使い、高速でポケベルのメッセージ入力できるようになった。住めば都とはよく言ったものだ。僕はいつの間にか、この時代の遠隔コミュニケーションシステムに慣れきっていた。


 一回の送信で送れる文字数は14文字。三者面談が急に入ってしまったこと、だから今日は会えないこと、そしてその謝罪の言葉。上手くまとめても三回は送信する必要があるだろう。


「帰ったらちゃんと電話で説明しないとな……」


 六時間目の授業が終わった時、ポケベルに恵ちゃんからのメッセージを受診した。


『ダイジョウブダヨ!』


 そのメッセージを見た途端、なんとなく切ない想いがこみ上げてくる。会える時間も限られている中でのデートキャンセル。致し方ないにしても、それはちょっと悲しい出来事だ。教室の時計を見ると面談の時間まであと15分ほどあった。僕は急いで公衆電話に行き、もう一度メッセージを送った。


『ヨルニデンワスルネ』


 教室に戻ると、来ていたのは母ではなく父の姿だった。父は普段めったに家にいない。朝早く家を出て、仕事帰りは夜遅い。時には0時を回ることもしばしばだ。あるいは出張で家を空けることも多かったから、顔を合わす機会はほとんどと言って良いほどなかった。だから、僕は幼いころから親父と一緒に遊んだこともあまりなかったように思う。この日もてっきり母が来るものだと思っていたし、実際、20年前の三者面談の時も僕の横に座っていたのは間違いなく母だった。


「親父……」


 教室の窓から校庭を眺めていた父は僕を振り向くと、微かにうなずいた。もともと無口な性格だ。いつも何を考えているのかよく分からない。あんな性格でよく営業職が務まるものだと思ったが、父は会社内でもそれなりの立場にいたはずだった。


「ああ、すみません。乙坂さん。お忙しいところ、お呼び立てしてしまい……」


 急いできたのだろう。息を切らして丸山先生が教室に入ってきた。


「いえ。先生。いつも息子がお世話になっております」


 父は深々と頭を下げると、僕にも頭を下げろと促した。


「いえいえ、そんなそんな。まあまあ、どうかお掛け下さい」


 丸山先生は、教室の中央に並べた椅子に座るよう促した。


「えっと瞬君ですが……。いや、これはですね、あくまで本学の規定なのですが、赤点が三教科以上あると進級できない決まりになっているんです。まあ、うちは私立ですし、高校は義務教育ではないので、この辺り厳格にやっているというところでご理解いただければと思います。それで、瞬君は今期の期末テストで、既に五教科で赤点となっておりまして、このままですと二年生に進級できないという状態なんですよ」


 僕の成績はそこまで悪かったのかと、今更ながら情けなくなる。


「そうですか……。では、進級できるためにはどうすれば良いのでしょうか。それとも既に留年が決定したと言うことなんでしょうか」


「はい、そこでなんですけど、再試験を受けると言う方法があります。ただ再試験の実施に当たり親御さんを含めた三者面談を行わなければいけない決まりでして、それで本日、急遽お呼び立てしたということなんです」


「再試験ですか。ちなみに再試験でも成績が悪かった場合はどうなるんですか」


「はい。その場合、残念ながら留年が確定するということになります」


 つまり二週間後に行われる再試験でなんとか赤点科目を2教科までにしないといけないということだ。現在赤点なのは、数学、物理、英語、倫理、国語の五教科であり、このうち三教科で30点以上をとれば進級できることになる。


 社会人になり、哲学に興味が出て人文関係の本は一通り読んでいたから倫理はいけるだろうと思った。あとは物理と英語に時間を費やせば二週間で何とかなるはずだ。


 面談を終え、学校を出ると父は小さな声で「飯でも食うか」と言った。父と二人で外食した経験などあっただろうか。少なくとも僕の記憶の中には鮮明な形で残されていなかった。僕がうなずくと、父は学校のすぐ近くにあるラーメン屋に入った。


 父はメニューをしばらく眺めていたが「決まったか?」と僕に言うと、右手を挙げて店員をよんだ。


いやいや、まだ決まってねっての……。


「お前、チャーシューメンでいいよな」


「お、おう」


 父はチャーシューメンと餃子を2つづつ頼むと、グラスの水を一気に飲み干した。店内には僕らしかいない。カウンター上に取り付けられている古びたブラウン管テレビが、なんとなく昭和の匂いを残していた。この時代、平成が始まってまだ10年もたっていない。ブラウン管テレビには夕方のニュースが流れていた。


「親父。今日は来てくれてありがとう」


「母さんじゃなくて悪かったな」


「いや、親父で良かった」


 たぶん、それは今の僕にとって、本心だった。ただ、久しぶりに会った父親との会話が弾むわけもなく、しばし沈黙が流れる。


「なあ、おれ大学へは行くよ」


 父はうすうす気づいていたのかもしれない。高校時代の僕が大学なんて行く気が無かったということを。そういえば中学1年の時にギターをくれたのは父だった。古びた1本のアコスティックギターがバンドを始めたきっかけと言えるかもしれない。


――ここにもきっかけのような何かがあったんだ。


「そうか……。別に大学だけが人生じゃない。お前のやりたいことをやればいい」


 自分のやりたいこと……。高校一年の頃、僕は音楽に携わる仕事がしたかった。大学ではなく、専門学校へ行きたいと本気で考えていたんだ。恵ちゃんと付き合う前までは。


「でも、自分がやりたい仕事を見つけた気がするから」


「うん。お前の好きにすればいい」


 親父はそれ以上何も言わなかった。


「親父、一つだけ、聞いてほしいことがある」


「なんだ?」


 僕らの前にちょうどラーメンが運ばれてきた。立ち上る湯気が冬の乾燥した空気に湿気を含ませ、目の前の景色を少しだけ暖める。


「もし大阪に出張へ行くことがあったら、絶対に電車には乗らないでくれ。移動にはタクシーを使ってほしい」


 父はしばらく黙っていたが、「分かった」とだけ言った。


 これでまた歴史は大きく変わってしまうかもしれない。あるいは変わらないのかもしれない。それでも、誰かの悲しみが具現化してしまう世界は少しでも遠ざけておきたかった。誰かが希望を失っていく世界の中を生きていくこと、それ自体に僕の心が耐えられないから。

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