第5話

桜舞う頃に

  地球の地軸は23.4度だけ傾いている。そのおかげで、僕たちの生きる世界は単色相ではない。地軸の傾きがもたらすのは、地球に照射される単位面積当たりの太陽エネルギー量と日照時間の変化であり、そうした現象を季語という言葉によって分節することで季節という概念が生まれた。


 夏季には日が高く昇り、昼の時間が長く、そして冬季には日が低く、昼が短い。そんな当たり前のことがこの世界に様々な情緒をもたらしている。


 いつの時代、いかなる瞬間であろうとも、この地球と呼ばれる星の上に存在する限り季節は巡っていく。それが時間の躍動だ。外気の刺すような冷たさがいくぶんか和らぎ、空気に生暖かい温度を感じるようになった頃、僕の高校二年進級が確定した。


 新学期が始まる少し手前。この時期になると、公園や学校など街のあちこちに植えられた桜が一斉に開花を始める。大学を卒業してからというもの、期末はいつも忙しく、ゆっくり桜を眺めている時間なんてなかった。


 ほのかなピンク色に染まるその花びらと、背景としての青空。そんな風景を前にしばし見とれざるを得ない情動が生まれる。情動は考慮すべき様々な因子を、関心相関的に絞り込むという働きをする。何かが感覚的に現れる経験は、思考によって抗うことのできない強い力を持っている。


 桜はその色彩を春の空気に放ち、ただ一瞬だけ輝いて、そしてすぐに散ってゆくのだけど、そんな風景を見ていると、どんなに小さくても希望はあるのだと思った。たとえ、わずかな可能性であったとしても、手を尽くす価値のあるものが、この世界には確かに存在する。必ずしも今ここで答えを出す必要なんかない。問いがあるからといって、必ずしも答えが求められているわけではないのだから。


 「明日は花見をしないか?」と、電話で誘ってきたのは和彦だった。春休みも残すところあとわずかという4月の1日。僕らは高校の近くにある公園で花見をすることになった。都内でも有数の花見スポットであるその公園は、時期的にとても混雑していたが、几帳面なタムちゃんが朝早くから場所取りをしていてくれて、僕らは大きな桜の木の真下に陣取ることができた。


「今日はエイプリルフールだろう? 乙坂、チャンスだよチャンス」


 和彦はそう言うと、片手に持った缶コーヒーのプルトップを開ける。


「なんのチャンスだってのさ」


 僕が切り返すと、その和彦の横にいるタムちゃんは、ポテトチップスをつまみながら「そりゃ、ラブラブ度を上げるチャンスだってのさ」と口をもぐもぐさせて言った。


「どういうこと?」


 二人が良からぬことをたくらんでいるのは最初から分かってはいたが、僕はわざと知らないふりをした。できればこの件はやり過ごしたいのだ。


 20年前と同じように事態が進むのだとしたら、エイプリルフールを口実に、恵ちゃんに対して嘘をつくという流れになる。電話で恵ちゃんに「好きな人ができた」と言って、後でネタ晴らし。「それは君でした」みたいな……。実にくだらないドッキリイベントだ。


 この件は笑い事では済まない程度にまずいことになって、僕の言葉を本気で誤解してしまった恵ちゃんは電話越しで泣き出してしまった。これはエイプリルフールのネタだと、タムちゃんや和彦まで出てきて説得を試み、数時間後にようやく誤解が解けたのだ。翌日、僕は恵ちゃんに公園に呼び出され、こっぴどく怒られたのを覚えている。どんな理由があってもそんなサプライズいらないって。


「つまりだ、エイプリルフールにドッキリよ」


――やはりそう来たか。


 可能な限りこの件は避けたい。僕は隣で春風に前髪をなびかせる城戸拓也きどたくやに、助け船をすがるように顔を向けた。彼は僕がタイムリープした初日、見事に円周率が3.05より大きいことを証明した学年随一の秀才だ。


「城戸ちゃん、何とか言ってくれよ……」


「ふん、お前らガキか」


城戸は表情一つ変えずにぼそっと言った。


「そうだろう。城戸ちゃんもこう言ってるしさ、そんなドッキリいらないって」


「いやいやいや、わかっとらんねぇ。瞬ちゃん、君ら付き合ってどのくらいよ?」


――分かっていないのはタムちゃん、君の方なのさ……。

僕はこの件の帰結を知っている。


「10月から、だから五か月ちょっとくらいかな」


 僕は指を折り数える。まだ半年もたっていないのか、という想いと、タイムリープしてもう半年が過ぎようとしている事実に少しだけ複雑な気持ちになった。この半年で記憶と異なる現実を何回経験しただろう。


「それみろ、そろそろマンネリ化する時期だ。ここで一つ大きなウネリが必要なのさ」


 和彦はそう得意げに言うと、「電話をかけてこう言うんだ。別れよう……」


「洒落になっとらん」


 僕はすかさず却下する。そもそも僕らはマンネリ化などしていない。


「じゃ、これでどう? 今まで黙っていてすまん、実は俺の余命……あと半年なんだ」


 タムちゃんが僕の声色をまねて言う。そんなタムちゃんの提案に腹を抱えて笑う和彦は「リアルすぎじゃね」と突っ込んで「こんなんどうだ? 実は俺、女なんだ……」


もはやこいつらが楽しんでいるだけである。


「お前らなぁ、全然センス無いな。こういう時は、実は好きな人ができた……。って言うんだ。そして、それは君なんだけど、って種明かしすれば、まあ、完璧だ」


 城戸は相変わらず無表情でそう言った。


「城戸ちゃん?」


 僕は唖然として城戸の方を見る。好きな人ができたというこの提案は城戸ではなく、和彦がしていたはずだが、結局のところ帰結は同じだった。


「さすが城戸ちゃん。それしかないわ」


――いやいや、前提として、やらんという選択肢はないのか。


 流れにつかまされ、結局このドッキリ企画をやる羽目になってしまった。最終的には誤解も解けたし、翌日に恵ちゃんに会えることにもなるのだから、まあ、良いかと、この時は軽く考えていた。


 僕はみんなが見送る中、一人電話ボックスに入った。受話器を取り、100円玉硬貨を入れる。


「電話代だってばかにならんぞ……」


 彼らは僕が、恵ちゃんの自宅番号に電話する様子を、電話ボックス越しに眺めている。


「ったく、悪趣味な奴らだ」


 今考えれば、これはいじめ並みにひどい罰ゲームだなと感じる。若気の至りというものはあまりにも低レベルだ。


「はい、平野です」


 その声はおそらく恵ちゃん本人だった。ただ、電話越しの声は彼女のお母さんと非常に酷似しているので注意せねばならない。


「あの、乙坂ですけど……」


「あっ、瞬ちゃん?」


 恵ちゃんであることは間違いない。こんなくだらない電話に、ご両親を付き合わせなくて良かったと、妙なところでほっとしながらも話を続けた。


「うん。あの実は……、好きな人ができた」


 電話ボックス越しの彼らは、早くネタ晴らししろと言わんばかりに首を振っている。


「そんな……」


――あれ、反応が少し違う。


 この違和感を直観的にまずいと感じたときはもう遅かった。受話器からは「ツーッ、ツーッ」と回線が切れた音しか聞こえない。僕は急いでダイヤルし直したが、電話のコール音が虚しく鳴るだけで誰も出なかった。


 時は繰り返さない。何かが変わっているんだ。僕は取り返しのつかないことをしてしまった。いや、あらゆる判断は取り返しがつかないのだけど、少なからず、して良いこと、すべきこと、そして、してはいけないことが存在する。


 目の奥で、何かがはじけるような鈍い痛みを感じながら、僕は真っ白になった頭を抱えて、狭い電話ボックスを出た。


「お、おい、どうした?」


 異変をいち早く察知した城戸が声をかけてくる。僕は「まずいことになった」とだけ言うと、彼らをその場に残し、公園の出口に向かって駆けだした。もちろん行先は恵ちゃんの自宅である。電話に出たと言うことは、彼女はまだ自宅にいるはずだ。ここから1時間もあれば彼女の家に着けるだろう。誤解を解くにはもう直接話をするより他ない。

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