第7話

コトバの授業

 周囲の音がスッと戻ってくる。まだ意識が曖昧だけれど、これは確かに波の音だ。ゆっくりと、でも強弱をつけて海水が浜辺に打ち寄せている光景は、この音を聞いただけで分かる。


 僕が顔をあげると、視界の正面に入り込んできたのはやはり砂浜と海だった。穏やかな波の向こうに水平線がはっきりと見え、空と海の境界を作り出している。


「瞬ちゃん、いろいろ心配かけてごめんね。わたし、自分の進路のことでいろいろ悩んでいた」


 恵ちゃんが僕のとなりに座っている。これは5月末、彼女を海に誘った日に間違いない。つまり、僕は三か月ほどのタイムリープに成功していた。いや、正確にはタイムリープではないのだろう。あの少年風に言えば、僕がファンダメンタルズの収縮とやらを認識できているがゆえに目の前には過去の光景が広がっているということだ。


 5月末ということは、僕が自宅階段から転落し、右足負傷による入院の後である。つまりは、運命は大きく変わった方向のまま進んでいる進行形の状態なのだ。ここから、どのように軌道修正を行なえばよいか……さしあたってはそれが問題だ。


 あの時この砂浜で、僕らは大学受験について話をしていた。そんな会話の中から薬学部を受験しようという流れになったはずだ。


でも今は、少なからずこの話題について話を知るのはやめた方が良いように思えた。とはいえ、いったい何を話せばよいだろう………。僕の脳裏には、恵ちゃんの母親から渡された、あのスケッチブックの内容がまざまざと蘇ってくる。


「小学校の時、卒業文集ってあった?」


「えっ? 小学校? 」


 突然の話題変更に恵ちゃんは驚いたようだ。僕自身もこんなことを話すつもりではなかったのだが、いきなり三か月の時間をさかのぼってきて、この時点に至る会話の文脈もあやふやだったし、とにかく全く関係の無い話をしようと考えた。


「たぶんあったと思うよ。なんて書いたのかなぁ。忘れちゃったけど」


 僕が通っていた小学校の卒業アルバムは、前半部分に卒業写真や小学校の行事で撮影された写真が掲載され、後半部分には小学校生活での思い出や、将来の夢などについて書かれた作文集が収められていた。


「ああいう文集ってさ、大抵は将来の夢とかについて書いてあったりするよね。ケーキ屋さんになりたいとか、宇宙飛行士になりたいとか、サッカー選手とかさ……」


 当時のありきたりな夢に対して、それを叶えるというよりは、僕らはいつしか手の届かない夢物語として愚見化してしまう。大人になるというのは、何かをあきらめ、それに代わる何かを手に入れることなんだと思う。おそらく、たいていの場合において、前者の何かは「夢」であり、後者の何かは「現実」なんだろう。


「ああ、そうかもね。小学生のころの夢か……。私は何になりたかったんだろう……」


 そう言って彼女は空を見上げる。僕らの遥か上空を三羽のユリカモメが滑空していくのが見える。海の向こうから、砂浜に向かって吹いてくる風が心地よい。日差しはやや強かったが、外気はわりと乾燥していて、その透明な空気に僕の緊張も幾分和らいだ。


「瞬ちゃんはなんて書いたの? 」


 そういえば、僕の卒業文集の内容については、わりと大きな問題になってしまい、親からはお前の作文はおかしいなんて怒られたんだっけ………。でも当時の担任の先生は、とても面白いからこのまま載せた方が良いと言ってくれたのをよく覚えている。


「小学校生活の六年間で、イカの刺身が食べられるようになったことについて書いたんだよ。そんなくだらないこと書くなって、親に怒られてしまった」


「何それ、夢も何もないじゃん。でも瞬ちゃんらしくて良いね」


 そう言って恵ちゃんは笑った。


「確かに、夢もへったくれもないね」


 僕らしいってどんなだろう。僕に“らしさ”のようなものがあるのだろうか。そんなことを考えながらも、彼女の笑顔を見ることができて良かったと思った。


「瞬ちゃんの小学校ってどんなところだった? 」


「住宅街のど真ん中にあってさ。一学年に二クラスしかなかったんだけど……」


「見てみたいなぁ」


 小学校を見てどうするのだろうなんて思ったが、前回の話の流れを大幅に変えることができたことに僕は少し安心した。このまま話の流れを変えていければ、この先の未来に少しでも修正を加えることができるかもしれない。そんな淡い期待があった。


「今度の日曜日、こっそり学校に忍び込んでみようか」


「えっ? うんっ、なんだかおもしろそうっ」


 真面目な恵ちゃんだったから、こんな提案あっさり断られるかと思ったが、意外なことに話に乗ってきてしまった。初夏のやや強い日差しに恵ちゃんは左手で目の上を覆いながら、海をじっと眺めていた。後ろ髪を短くした彼女の横顔は少年のような、少女のような、何とも言えない魅力を放っていた。


「恵ちゃん……」


そんな横顔に見とれてしまった僕は無意識に彼女の名前を呼んでいた。


「何? 」


彼女の大きな瞳が僕の視線に重なる。


「素敵……」


「バカっ」


「ほんとに誰もいないねぇ」


 小学校の裏門は施錠もされておらず、普通に扉が開き、敷地内に簡単に入ることができた。


「日曜日だからね、でも誰かはいると思うよ」


 おそらく用務員とか、教員の誰かは日曜出勤しているかもしれない。駐車場には白のセダンが止まっていたし、裏門が施錠されていないところを見ると誰もいないということは考えにくかった。


「誰がいるの??」


 僕らは昇降口に入ると靴を脱ぎ、校舎の中に入った。


「えっと幽霊……かな」


 恵ちゃんは「ひっ」と真面目な顔で驚いて、昇降口の先で立ち止まる。


「恵ちゃん、冗談だってば」


そんな彼女の手を握って廊下へ向かう。


 36歳の僕からすれば、この学校に通っていたのはおおよそ四半世紀前と言うことになる。校舎の内部構造はあまり覚えていないが、たどたどしい記憶を頼りに廊下を進む。僕らが侵入したのは裏手の昇降口で、この小学校には正面中央にも大きな昇降口があった。


 一階は職員室、給食室、そして保健室が並び、奥には図工室がある。図工室を右に曲がると図書室と体育館へつながる通路だ。


「あの先は職員室だと思う。誰か居るかもしれないよね。ここから上に行こう」


 さすがに職員室の前を通るのは気が引けた。その手前にある階段を指さし、僕らは二階へ向かう。小学生の頃はとても大きな校舎のように感じていたと思うが、今あらためて歩いてみると、それほど大きな建物でもなかった。二階は小学校低学年の教室が並んでいる。


「なんか、机も椅子も小っちゃくてかわいいね」


 廊下から教室を覗く恵ちゃんの笑顔をみて僕はほっと胸をなでおろす。連れてきてよかった。学校に無断で侵入しているというのは決して許される行為とは言えず、これは下手をしたら不法侵入ともとられかねないのだけれど、何はともあれ、彼女の笑顔を見ることができて良かったと、そんなことを考えながら僕は廊下を進んだ。


「小学校の時、女子トイレに連れ込まれそうになったことが何度もあってさ、あれって今考えると、かなりリアルないじめだよな」


「瞬ちゃん、モテモテだったんだね」


「いや、違うから……。あ、この階段で上に行こう」


 僕らは三階へと向かう。校舎の最上階にあたる三階は高学年の教室や理科室などが並んでいた。さすがに六年生ともなると、机や椅子のサイズもだいぶ大きくなる。


「ねえ、教室に少しだけ入ってみようか」


「ふふ。楽しそう」


 そう言って恵ちゃんは音を立てないように、ゆっくりと教室のドアを開けた。外の日差しが教室の中に入り込んでいて、天井の蛍光灯は消えていたけれど、十分に明るかった。教室の窓からは校庭が見渡せる。


「やっぱり人いるね。見つからないようにしないと」


 外を覗くと、校舎の脇にあるウサギ小屋を掃除している用務員さんのような人の姿が見えた。僕は「そうだね」と答え、教卓の前に立った。


「はい、平野さん、着席」


「何それ、瞬ちゃん、先生ごっこするの?」


 恵ちゃんは笑いながら教室の真ん中の席に座る。小柄な彼女は、小学生の椅子と机でもそれほど窮屈な感じではなさそうだった。


「ではこれからコトバの授業をします」


「コトバの授業? なんだか楽しそう」


 僕は黒板に向き直ると、そばにあった短い白墨を手に取り「虹」と書いた。薬剤師になって、教育講演を頼まれることもしばしばあり、教壇のような場所に立つことは慣れていた。とはいえ、さすがに黒板に文字を書いて話をするわけではない。パソコンを使ってスライド資料をプロジェクターで投影しながら話をする。そういえばこの時代はオーバーヘッドプロジェクタと呼ばれる映写機しかなかったんだっけ。


「虹?」


 恵ちゃんは首を斜めにかしげている。


「はい。虹です。では問題です。虹は何色なんしょくでしょうか?」


「七色でしょう?」


「正解です。ではその色の名前を全部言えるかなぁ? 」


「言えますよっ。えっと、赤、橙、黄色、それと緑、あ、水色……、そうだ、藍色と紫」


 恵ちゃんが色の名前を挙げていく順番の通りに、黒板にその名前を書いていく。


「恵ちゃん、すごいねぇ。ちゃんと覚えてるんだ」


「瞬ちゃんが前に言っていた『色の名前』って言う本、実は買っちゃったんだ」


 『色の名前』とは彼女の誕生日とクリスマスにプレゼントした『空の名前』や『宙の名前』と同じシリーズの写真集である。色彩豊かな様々な写真と、色の名前に関する写真が掲載されたちょっと風変わりな写真集である。


「買ったの?? いやでも、それにしてもすごいね。じゃあrainbowは何色でしょうか?」


 僕は虹の横にrainbowと英語で書く。


「え? rainbowって虹のことでしょう? だから同じなんじゃないの?」


「そう思うでしょう?」


rainbowの下に続けてred、orange、yellow、green、blue、purpleと書いていく。


「えっと……6色なの?」


「英語を話す人にとって、藍色に相当する概念は無いんだ。Indigo blueとは言うけれど、通常はblueに藍色の概念が含まれているのさ」


 恵ちゃんは呆気にとられて黒板を見つめている。


「同じ虹を見ているのに、見えている光が違う……そんなわけ、ないよね」


そう、違う景色を見ているわけではない。見えているのは光の無限のスペクトルだ。


「うん、おんなじ光を見ている。日本語で話す人も英語で話す人も。でも認識の仕方は微妙に違うんだ。恵ちゃん、虹ってそもそも無限の色の組み合わせでできているよね。赤と橙の間は赤っぽい橙や、橙っぽい赤たちで埋め尽くされていて、突然に赤から橙に変わるわけじゃないでしょ?」


 無限のスペクトルを僕らは言葉によって切り分けているんだ。つまり言葉が世界を編み上げている……。


「色の変わり目には境界が無いから……。そうか。言葉によって世界の切り取り方が違うんだ」


「さすがっ。そうだよ。じゃこの絵は何でしょう」


 僕は黒板にの絵を書いたつもりだったが、恵ちゃんは「何それ」と言って笑った。


「これは唇ですっ! この上に鼻があって、こんな感じ。下には顎っと。これ顎ひげね。では問題っ。唇のことは英語で何と言いますか?」


「はい、先生。lipです」


「よくできました。じゃlipはこの絵のどの部分でしょうか?」


「えっ? 唇じゃないの?」


 僕は鼻の下部分から下顎の一部を含んだあたりをまるで囲む。つまり円の範囲は唇の部分よりも大きい。


「lips は日本語の唇より広い範囲を指します」


「すごい、なんで瞬ちゃんそんなこと知ってるの?」


 言語学を学ぶとよく出てくる初歩的な例なのだけど、恵ちゃんはとても興味を持ってくれたようだ。


「言葉が世界を切り取っていく、言葉にはそういう側面があるんだね。そして言葉が違うと、それが名指している世界も少しだけ違うんだ」


「言葉が世界を切り取る……か」


「誰かの想いや考えも同じだと思う。言葉にすることで、想いや考えは少し形を変えてしまうけれど、それと引き換えに、その想いや考えを誰かと共有することができる」


 ちょと難しかっただろうか。恵ちゃんはきょとんとして僕を見つめている。


「そうだな、例えば、俺が恵ちゃんと会えてうれしい、という言葉は、俺の心の中の90%を表しているわけだけど、言葉にすることで、俺の気持ちを君に伝えることができるってことさ」


「残りの10%って何?」


 恵ちゃんは唇を尖らせ、少しむっとした表情をして言った。


「あはは。ごめんごめん。つまり言葉にできないくらいうれしいと言うことだよ」


「それならいいけど」


 そう言ってにっこり笑う恵ちゃんがどうしようもなく愛しく思えた。


「なあ、交換日記しないか?」


「え?」


「恵ちゃんの言葉を俺も知りたいから。楽しいことばかりじゃない。苦しいこともある。生きていればね。楽しい気持ちや嬉しい気持ち、つらい気持ちや悲しい気持ち、それを俺も一緒に感じていたい。もし、よければなんだけど……」


「瞬ちゃん……」


 その時、廊下から足音が響く音が聞こえてきた。誰かがこの教室に向かってきているんだ。


「あ、やべっ」


 僕らはあわてて廊下に飛び出すと、目の前の階段に向かって走り出した。


「君ら、なにしてるっ」


 そう声をかけたのは先ほどまでウサギ小屋の清掃をしていた、あの用務員らしき男性だった。


「恵ちゃん、大丈夫? こっちっ」


 僕らは無事に1階まで下りると、裏手の昇降口に回り、靴を履いて、校舎裏の茂みに隠れた。


「ふふ、なんだかちょっと面白い」


恵ちゃんはそう言って僕の手を握る。


「見つかったらまずいけどね」


「瞬ちゃんと一緒なら大丈夫」


 ――大丈夫。


 そう言ってもらえることが今の僕にとっては大きな救いだった。僕をもっと頼っていい、そう言ったところで、頼る意志の無い人に想いは届かない。焦ってはいけないのだ。誰かのために、なんて振る舞いは、結局誰のためにもなっていないことが多々あるののだから。


 無事に小学校を脱出した僕らは、帰りに雑貨屋でスケッチブックを買った。その後、このスケッチブックを使って、交換日記は月に一回のペースで始まった。そこには彼女が撮影した写真が貼られることはなかったけれど、彼女の絵と文字でつづられた日記を見たときに、僕の両目からは自然に涙があふれ出した。


 運命は少しずつだけれど、あの時とは違う方向に舵を切ったような、そんな気がしたんだ。誰かを理解できる、できない、ではなく、その境界線を二人の言葉で埋めてしまえばよい。そうすればお互いの想いを少しでも理解することはできるかもしれない。

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