死を誘う橋
「どうかな、これ……」
藍色と茜色がまじりあう真夏の夕暮れ空の下で、浴衣姿の恵ちゃんが僕の目の前に立っている。河川敷を吹き抜ける風が僕たちを包み、昼間の暑さをしばし忘れさせてくれる。
「とてもよく似合ってるよ」
彼女の浴衣は『
「そう?」
そういって恵ちゃんは少し恥ずかしそうにして、少しだけうつむいた。昼間、あれほどうるさく鳴いていたアブラゼミたちの声はいつの間にか消えており、代わりにかすかにヒグラシの声が聞こえてくる。なんとなく夏が終わりつつあるのだなと思った。
「こういうのさ、あまり着慣れてなくて」
「いや、とても素敵……だよ」
そう言って僕もなんだか気恥ずかしくなり下を向いてしまう。そんな空気を吹き飛ばすように「おまたせっ」と大きな声で僕の肩を叩いたのはタムちゃんだった。その後ろにいるのは今ちゃんだ。彼らに会うのがなんだかとても久しぶりのような気がする。
「花火大会が始まるまで、もうちょっと時間があるから屋台とか見て回ろうよ」
今ちゃんはそう言って、タムちゃんの手を引き、人ごみの中に向かって歩き出していく。僕も恵ちゃんを振り向くと「行こう?」と言って、彼らの後についていった。
埼玉県と東京都の県境を流れる一級河川の河川敷で行われるこの花火大会は、都内でも有数の規模を誇り、都外からの観客も多い。大会会場付近には沢山の屋台が立ち並び、お祭り気分を味わう人たちでとても混雑していた。金魚すくいやお好み焼き、チョコバナナとか綿菓子とか、あるいはきらきら光る小さな玩具を売っている屋台が道沿いに並ぶ。
立ち並ぶ屋台を眺めていると、小さいころ、母親に連れられて夏祭りに行った記憶がふっと蘇った。あのころは夜に家の外に出ることができるというだけで、なんだかワクワクしたものだ。夏の夜の思い出というのは、大体においてお祭りのイメージがその背景にあったりする。
「瞬ちゃん、たこ焼きあったよ。買って良い?」
タムちゃんが、たこ焼きを売る屋台の前で立ち止まった。彼はたこ焼きが大好きで、毎年この花火大会では一人で三パックほど食べてしまう。
「ああ、買っていきなよ」
鉄板にタコ焼がずらっと並び、それが器用にひっくり返されていく様を眺めながら、僕は人ごみに恵ちゃんを見失わないよう、彼女の手をぎゅっと握った。
「大丈夫?」
「うん、人が多いねぇ」
そんな僕らを見ていた今ちゃんは、「なんか二人、アツアツだなぁ。まったく」なんて言いながら、ペットボトルのお茶を一口だけ飲んだ。それを聞いて、恵ちゃんは恥ずかしくなったのか、僕の手をさっと振りほどいてしまった。
「もうじき始まるよ」
歩き出しながらたこ焼きをほおばるタムちゃんがそう言ったのと、ほぼ同時だった。すっかり闇に包まれた真っ黒な空を、一筋の光がスッと登っていくのが見える。やがてそれは、僕らのはるか上空で、パッと大きな火花を舞い上がらせ、夜空を鮮やかに染めた。その直後に、ドンっという轟音が空間を振動さていく。辺りからは大きな歓声があがった。
「すげえ」とタムちゃんは独り言のようにつぶやくと「もっと近くで見ようぜ」と言って、人ごみの中をさらに奥へ進んでしまった。「ちょっと待ってよっ」といいながら、彼の後を今ちゃんが追っていく。
「瞬ちゃん、早くっ、早くっ~」というタムちゃんの声がする方向に僕も歩みを進めた。
「恵ちゃん、はぐれないように」
「子供じゃないので……」
「え? 」
屋台の通りから少し離れると、人通りも少なくなっていく。一級河川だけあり、川幅も大きいが、堤防も含めた河川敷もかなり広い。堤防の内側にはサッカーグランドもあり、休日はどこかのサッカークラブがそこで競技をしていることもあった。
この河川敷は学校帰りにタムちゃんとよく来ていた。そこで夜遅くまで良く話をした。だからこのあたりの地形には詳しい。この花火大会で打ち上げられる花火が一番が良く見え、そして最も人通りが少ない穴場はここ、堤防の脇にある小さなコンクリート製の階段だ。
タムちゃんは階段に腰かけ、夜空を見上げている。その視線の先を小さな花火が連続で打ち上がっていく。宵闇に舞うスターマインだ。それは僕たちの周囲を断続的に明るく照らすようにしてはじけ、ほどなくして夜空に消えていく。
「すげぇなぁ」
スターマインがまだ夜空に余韻を残している中、さらに大型の尺玉が3つほど打ちあげられ、夜空をより鮮やかな色彩に変えていく。一瞬遅れて届くその炸裂音は、まるで地面を震わすかのような音圧で僕たちに迫ってくる。色相が絶えず変化していく花火の光に照らされた今ちゃんとタムちゃんの顔が、とてもきれいだった。高校時代ってこんな感動が沢山あったんだと思う。日常そのものが刺激的で、とても豊かなものだった。
僕はふと、この間の小学校で虹の色について話したのを思い出した。あの話が彼女の救いになったのだろうか。僕は後ろを振り向く。
「あれ、恵ちゃん? 」
てっきり、そこにいるものだと思っていた彼女の姿が見えなかった。道にはぐれてしまったのだろうか。それとも……。得も知れぬ不安と焦燥感が僕の心に湧き上がっていく。
「恵ちゃん? 」
僕はもう一度、さっきよりも大きな声で彼女の名前を呼んだ。打ち上げられるスターマインの数はさらに増え、そしてその炸裂音が激しさを増していく。僕の声は花火の音と共に闇夜にかき消され、誰にも届かない。
まずいと僕は直観した。目を凝らして、あたりを見回しても、彼女の姿はどこにも見当たらない。僕は急いで、来た道を引き返した。屋台が立ち並ぶ狭い道は相変わらず人で埋め尽くされていて、思うように進めず、焦燥感だけが強まっていく。
もし……。もし仮に、最悪の自体が起こり得るのだとしたら……。
この花火大会が行われている川は、埼玉県と東京都の県境を流れる一級河川だ。都内、いや日本でも有数の巨大河川。僕はふと堤防の方角に目をやって驚愕した。
「あれは……」
全身に寒気が走り、僕は思わず歩みを止めてしまう。視界に入ったのは、記憶には存在しない巨大な橋だ。ここは僕の実家にほど近い場所である。20年以上住んできた場所であり、記憶間違いや思い違いなどではない。僕が高校時代、あんなに大きな橋はこの場所に存在していなかったはずだ。
「ありえない……」
僕は橋に向かって走り出した。あるはずのない橋がなぜそこにあるのか……。その理由を考えるだけで、得体のしれない不気味さが迫ってくる。死はあらかじめ定められているとでもいうのか。
橋に近づくにつれて、その構造体がはっきりしてきた。巨大な橋桁を支えるのは赤い橋脚だ。川面から橋桁までの距離は十数メートルと言ったところか。
「あの橋に酷似している」
僕が欄干から飛び降りたあの橋そのものだ。それはまるで死を誘う橋。あの橋桁に立つと、死への恐怖が消え、むしろ希望さえ垣間見える。真夏の夜だというのに冷や汗が首の後ろを流れていく。思考が真っ白で、僕はただ走ることしかできない。
橋桁に続く道に出ると、どうやら交通規制が行われている様子で、車通りのみならず、人通りさえも全く無かった。しかし、よくよく考えればこれも不気味な事態だ。仮にこの橋が、昔からこの場所にあったとしたら、それは埼玉県と東京都を繋ぐ主要幹線道路となっているはず……。
「県境を結ぶ幹線道路が、花火大会ごときで、全面通行止めとかあり得ないだろう……」
何者かが僕らの運命を監視しているような、そんな気がしてならない。それは、あの欠如体者とか名乗った白髪の少年なのか。それとも何なのか……。
――世界があらかじめ決定されているなんて、僕は信じない。
ただ少なくとも、これだけは言えてしまう。僕が過去の時代を認識することによって、その行動に変更が加えられ、その先の未来は確実に僕の知っている運命から反れていく。それは避けがたく、その帰結は一人の少女の運命を変えてしまうことを必然のものとしてしまう。その運命の変更が、時間的に早いか、遅いかの違いに過ぎない。
「そんな、残酷な帰結が……許されるとでもいうのか」
僕は橋の入り口を封鎖している交通規制の看板を足で蹴飛ばし、橋の中央に向かう。目の前には浴衣姿の少女が立っているのが見えた。間違いない。恵ちゃんだ……。
「や、めてくれ……」
彼女は橋の上から花火を眺めているように見えたが、やがてゆっくりと欄干に近づき、そこに手を置く。
「待て、頼む……」
僕は息が切れるのもお構いなく、ただ無我夢中で走った。呼吸器系が悲鳴を上げているのが分かる。
――窒息してもかまわないから。
せめて足だけでも動いてくれ……。
「けぇいっっ」
彼女の名を叫ぶその大きな声に気付いたか、恵ちゃんがこちらを振り向くのが見えた。その瞳から頬にかけて涙が光っている。驚きと悲しみとを抱えた表情で僕を見つめる彼女をそのまま抱きしめる。
「お願いだから、頼むから……。ずっとそばにいてくれ」
夜空に閃光が走り、闇に華麗な火花が舞う。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます