存在の総和

 目の前に運ばれてきたコーヒーカップの内側から、淡い湯気がゆるりと立ち上り、僕たち二人の間の空気をじんわりと温めていく。白いカップに満たされたコーヒーの表面は、きめ細かいクリーム状の泡で覆われており、なんとなくカプチーノを連想させた。


 カップに添えられたポーションクリームを、コーヒーの表面に浮かぶ泡にゆっくりかけると、そこには簡単な文字が書ける。


「すごいっ。ハートマーク」


 ラテアートのような本格的なものじゃないけれど、器用に絵を描いていく恵ちゃんの姿に、僕はしばし見とれてしまった。



「かわいいでしょう? 」


 昨年のクリスマスイヴの時に初めて来て以来、このイタリア料理のお店には、何度か足を運んだ。僕は空になったウーロン茶のグラス脇に置いてあったストローの包み紙を手に取る。そっと、紙のしわを伸ばしながら「左手貸して」と恵ちゃんに言った。


 差し出された恵ちゃんの小さな手を握ると、その薬指に、しわを伸ばしたストローの包み紙をゆっくりと巻いていく。


「私、指太いから……」


「いや、違っ……」


 冗談なのか、本気なのか、よくわからなかったけど、恵ちゃんは唇を尖らせそっぽを向いてしまった。


「いや、あの、これはなんというか……」


 僕は慌て紙を彼女の指から外すと、こっそりと、薬指一周分の長さで折り目を付け、ブレザーのポケットにしまった。


「指輪をはめるときってどんな感じなのかなと……」


「ふふ。別に怒ってないよ」


 パスタを食べた帰りに、僕らは池袋駅の構内にある小さなケーキ屋に寄った。恵ちゃんが通学で利用している私鉄路線の改札付近には駅直結型の百貨店があり、その一階にわりと有名なケーキ屋さんがあるのだ。何度か業界誌にも掲載されたこともある人気店だ。


「お母さんに、ショートケーキを買ってきてって、頼まれちゃってさ。付き合わせちゃってごめん」


 そう言うと恵ちゃんはイチゴのショートケーキを五つ注文した。ガラスのショーケースには定番のショートケーキやチーズケーキのほか、チョコレートでデコレーションされた豪華なケーキや、プリンアラモードなど様々なケーキがきれいに並べられていて、眺めているだけで甘い匂いが漂ってきそうだ。


「お待たせしました。ショートケーキが五つですね。ご自宅まで、お時間はどのくらいかかりますか?」


 そういってお店の店員はケーキの入った白い化粧箱を手提げビニールに包み、ガラスのショーケースの上にそっと置いた。


 恵ちゃんは一瞬僕の顔を見ると、「えっと一時間くらいです」と答える。店員は「ではドライアイスを二つ入れておきますね」と言ってレジに向き直った。


 支払いを終えた恵ちゃんが、ガラスケースの上におかれたケーキを取ろうとするのだけど、身長が低いせいか、あとほんの少し手が届かない。背伸びをしている彼女の姿に思わず笑ってしまいそうになる。


「はい。じゃ、行こうか」


 代わりに僕がケーキを取り、それを恵ちゃんに渡す。


「ありがとう。うん、帰ろうか」


 その日は各駅停車の列車に乗車した。彼女の門限に間に合う時刻ぎりぎりまで一緒にるために、急行列車に乗るか、各駅停車に乗るかは、改札をくぐった時間によって調整するのがお決まりだった。


 各駅停車の良いところは急行や準急に比べて、それほど混雑せず、途中いくつかの駅で、まとめて乗客が下りていくことだ。つまり、座席にすわれる可能性が高い。やはり座っていた方が二人で落ち着いて話ができたりするので、時間があるときは各駅停車で帰ることが多かった。


 予想通り、途中の駅で乗客が一斉に降りていった。準急列車も停車するこの駅は地下鉄への乗り換え駅になっていて乗降者数が多い。目の前の座席がちょうど二人分あき、僕らは椅子に腰かけた。


 「ちょっと話があるんだけど良い?」


 恵ちゃんはそう言って僕の左手を握りしる。二人で座るときは、初めてそうしたときからずっと恵ちゃんが左側だったから、いつも握られる手は僕の左手だ。


「瞬ちゃん。実はね、私、ストーカーされているかもしれない」


「えっ??」


 それは、あまりに唐突な話だった。過去の記憶にも、恵ちゃんがストーカーのような被害に合っていたという事実は存在しない。


「その人ね、都立大前の駅ホームによく立ってる。でも、私を見ているわけじゃないかもしれない」


 都立大前駅とは、恵ちゃんが通う高校の最寄り駅だ。それほど大きな駅ではないが、高級住宅街に隣接する私鉄路線の駅で、利用客も多く混雑する。


「どんな感じの人なの?」


「同じ年くらいかな……瞬ちゃんより背が低くて……」


 という事は高校生か、大学生か……。高校生ならば制服を特定できれば、そのストーカーがどんな人物なのか、おおよそのことを調べることもできそうだ。


「何か、変なこと、された?」


「ちょっと怖かったのは、このあいだ池袋駅でその人を見かけて……。視線が合って、はっと、思ったんだけど、その人、走って逃げていったように見えて……。なんというか……とても怖かった」


 確かに偶然的にそういう事が起こったのかも知れなかったけど、最悪の事態のことを考えると決して軽視できない話だった。心理的状況的にもこれ以上、彼女の負担を増やすわけにはいかない。


「部活でおそくなるときは、家まで送っていくよ」


「でも、そんな。瞬ちゃん大変だし……」


「大丈夫、大丈夫だから。それに会える回数が増えるの、うれしいし」


 正直、会える頻度が増えることはとても嬉しかった。彼女の自宅まで行くための交通費は、高校生の財布にはなかなか痛かったけれど、小学生の頃から、親や親戚にもらったお年玉などをコツコツとためていた貯金を切り崩せば、なんとかなるだろう、と列車に揺られながらぼんやり考えていた。


「しかし、お前よくやるねぇ」


 そんな僕らの状況を説明すると、和彦はそう言って僕の背中をトンと叩いた。まあ、頑張れよ、という彼なりのエールだろう。タムちゃんや和彦と放課後に遊ぶ機会が減ってしまったことは致し方なかったけれど、彼らは事情をよく理解してくれた。


 その日の放課後、恵ちゃんを送るために、急いで教室を出た僕は、廊下で岸本の姿を見かけた。そういえば、岸本は教室よりも廊下で良く出会う。しかもたいてい急いでいる時だったりする。潜在的に彼とはゆっくり離せそうにもない。


「よう乙坂、ボディーガードか? 頑張れよ」


「お、おう」


――ボディーガード?


 岸本の言葉に、なんとなく違和感を覚えたけれど、それが何なのか、この時は上手く言葉にできなかった。ただ、よくよく考えてみれば、岸本には彼女がストーカー被害に合っている可能性や、僕が彼女を自宅まで送る頻度を増やしたという事を伝えていなかったはずだ。この時、なぜ彼がボディーガードという言葉を使ったのか、あるいは僕の状況を知っていたのかどうかについて、僕はあまり疑問に持たなかった。


 恵ちゃんを自宅まで送る頻度を増やした生活が一ヶ月ほど続いた時だろうか。僕と一緒に帰る日はもちろん、それ以後はストーカーらしき男の姿は見かけなくなったという。まあ、恵ちゃんが気づいていないだけで、ストーカー自体はその行為をやめていない可能性もあったから、僕はもう少し、この生活を続けようと考えていた。


 その日は朝から雨が降っていた。冬手前の秋の雨は冷たい。雨に打たれた枯れ葉が、次々と地面に舞い落ちる。冷たい雨は秋そのものを洗い流していく。


「恵ちゃん、前見えないよ」


 濡れると分かっていても、一つしか傘をささないのが僕らだった。ただ、この時は恵ちゃんの部活の荷物が多く、僕の両手がふさがっていた。だから、傘は恵ちゃんが持ってくれていたのだけど、彼女の身長が低いせいか、僕の視線の先にあるのは、前方の景色ではなく、恵ちゃんの赤い傘だ。


「ごめん、ごめん。もう少し高く……だよね」


「えっと、うん」


 そう言いつつも、あまり傘の高さが変わらないので、僕はやや前かがみになって、傘の下から覗き込むようにして前方を確認する。


「瞬ちゃん、いつもありがとうね」


 家の前につくと、彼女はそういって傘を思いっきり下げ、周りから見えないように僕にキスをした。


――こんなことなら、毎日雨が降ってくれても良い。


 彼女が自宅に入るのを見届けると、さっきまで二人で歩いていた道のりを一人で歩く。先ほどまでの暖かい感情の余韻を感じながら、駅前のバスターミナルに向かう。いつの間にか、雨は上がっていたけれど、空は灰色のままだった。


 僕はバスに乗車すると一番後ろの座席にすわる。昔から車内を見渡せるこの位置が好きだ。バスの乗客は僕しかいなかったが、運転手がエンジンを駆け、ちょうど発車しようとしたとき、一人の少年が乗り込んできた。


「あれは……」


 僕の頬に鳥肌が走る。何度かあったことがあるはずなのに、この時、初めてこの少年に対して恐れを抱いた。ちょうどそのタイミングで乗降口のドアが閉じられ、バスはゆっくりと走り出す。


「久しぶりだね」


 白髪の少年は僕の目の前に立ってそう言うと、すぐ隣に腰かけてきた。


「どうだったかい? ファンダメンタルズの伸縮に身を任せた気分は」


 まあ、そのおかげで最悪の事態は回避できた。とはいえ、予断を許さない状況は続いているし、ストーカーという新たな問題も出てきてしまった。


「おかげさまで、最悪の事態は回避できた、と思う」


 しかし、良い気分とはとても言えない。胸の奥に何か鋭い針のようなものでつつかれている感覚が絶え間なく続いている。


「それは良かった。今日はね、君に一つ忠告しておこうと思ってね」


「忠告? 」


「以前にも言ったと思う。君が足をけがして入院した時だったかな……。あらゆる存在の総和は決定されている。君はそれを踏まえた上で決断しなくてはいけない……とね」


 僕はあの薄暗い病室での出来事を思い出していた。足元に現れた彼は、確かにそう言っていたかもしれない。たとえファンダメンタルズの流れに意識を抗おうとも、引き伸ばされる空間的存在位置は全く普遍なのだからとも……。


「世界のゆくえはあらかじめ決まっているとでも言うのか?」


 僕は決定論的世界観を否定したい。いや否定しなければいけない。目の前の歴史は自分で作る。誰の意図も介在させない。――させてたまるか。


「君も見ただろう。あの橋の出現だよ。いやそれだけじゃないさ。君はあの本を持っていないはずだよ」


 昨年、恵ちゃんの誕生日の日に送った「そらの名前」は結局、一冊しか手に入らなかった。それ以来、僕はあの本を購入していない。


「君がいくらあがいても、あの時、例の本は一冊しか手に入れることはできなかった、そうでしょう?」


 少年の言葉に僕はうなずくより他なかった。バスの運転手にはこの少年は見えているのだろうか。僕たちの会話なんて、まるで耳に届いていないように、軽やかにハンドルを回していく。バスは狭い住宅街を潜り抜けやがて大きな国道に出た。


「あのディスカウントストアだって、君には分かっているはず」


 少年が指をさした先には、国道脇にそびえる大きなディスカウントストアが見える。恵ちゃんと初めてデートしたとき、その帰りに目撃した最初の違和感だ。


「端的に教えてあげるよ。君たちのどちらかは世界から消えなくてはいけない。存在の総和があらかじめ決まっているとはつまり、生と死の総和があらかじめ決まっているという事に他ならないのさ」


 僕が何も答えられないでいるのを見届けたかのように、白髪の少年、いや欠如体者は消えていた。


人が死にたい理由なんて様々だけど運命はいつだって残酷だ。


運命への抗い。僕はどうすればいい?


僕は……。

僕は、死が怖い……。

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