第8話
希望を探して
夏が終わり、恵ちゃんと付き合って二回目の秋が巡ってくる。彼女の自宅まで続いている住宅街の路地も、日を経るごとに茜色に変わっていくのが分かる。「俺たちの季節だね……」とつぶやいた僕の言葉に、恵ちゃんは優しい笑みを浮かべてくれた。
透きとおった秋空の青は、夏のそれよりもちょっと高くて、そしてとても澄んでいる。秋の空にはそんな情緒があるから僕は好きだ。八月の花火大会で、恵ちゃんはなぜあの橋に向かったのか、あそこでいったい何をしようとしていたのか、分からないことは多々あった。でも、僕はあえて彼女にその理由を聞かなかった。
ただ、恵ちゃんの状態は少しずつ良い方向に向かっているかのように見えた。少なくとも、状況が悪化している兆しは微塵も感じなかった。それは表向きの出来事かもしれないけれど、交換日記や、電話の会話でも、徐々に彼女自身の想いが語られる機会が増えてきたことは大きな前進だと思った。
交換日記に度々書かれていたのは、『集中力が続かなくて……』という言葉だった。一見するとそのまま流し読みしてしまいそうだが、これは彼女の状態を示している重要な言葉だ。いやむしろ心の叫びの一端といっても良い。
机にむかって教科書や問題集を開くのだけど、集中できずに頭がぼんやりしてしまう。こんなこと、きっと誰でも経験すると思うし、本気で悩むことじゃないと考えがちだ。集中できないのは自分の意志の弱さであり甘えだと、そう考えることに違和感を抱く人は少ない。集中するなんて、強い意志さえあれば当たり前のようにできるなんて捉えられがちだが、そもそも意志ってなんだ? 多くの人にとっての当たり前が、当たり前にできない人の心を傷つけていくんだ。
集中できないという帰結が出てくるまでに、どれだけ集中しようと努力したのか、そこが肝要なのだ。人は、努力して、努力して……、それでも成すことができなかった自分を悔しいと思う。悔しさをばねに前に進めることもあるだろう。ただ、それが日々繰り返されるようになると、虚しいと感じるようになる。そしてその虚しさが延々と続く日々を経験することによって得られるのは、希望の対極にある何かだ。このままではいけない、そんな焦燥にかられるほどに、心はその弾力性を失っていく。
こうした自分の状態について、彼女自身おかしいなと感じつつも、やはり自分の親には相談できない様子であった。
『勉強に集中できないとか、そんなの甘えだよね』
彼女は電話越しに何度かそう言っていた。あるいは、いろんなことに興味を持てないとか、体が動かないとか……。
多くの人たちが、当たり前にできることに対して、僕らは普段あまり関心を抱かない。口から息を吸って吐くことなど当たり前にできるし、できないほうがおかしいと、そう思うだろう。
しかし、当たり前は誰にとっても当たり前ではない、という事を、人が真に受け入れることができるかどうかは正直怪しい。それは、たとえ自分の子供だろうが、親だろうが、大切な誰かであろうが……。自発呼吸ができなくなる進行性の難病だってあるのだ。こうした人たちにとって呼吸をすることは当たり前ではない。
結局のところ、当たり前の正義というものが、普遍的に妥当しないからこそ、人類は争いの歴史を繰り返してきた。皮肉にも歴史がこのことを証明している。
大学受験を意識せざるを得なくなっていくこの時期、伸び悩む成績や親の期待というようなプレッシャーも徐々に彼女の心を圧迫していったのかもしれない。僕自身の存在についても、彼女の心の重荷にはなっていないと明言することは、やはり難しいように思えた。
高校二年に進級できてから、わりと真面目に勉強をするようになった僕の成績は確実に上昇していた。20年前とはいえ、薬学部を現役で合格しているわけだし、受験勉強の要領はある程度つかんでいた。また理系分野であれば薬学部で専門的な教育を受けていることもあって、化学や生物で高得点を取ることはそれほど困難ではなかった。模擬試験を受けるたびに上昇していく僕の成績が、彼女に焦りを感させるような環境を作ってしまったことは否めない。
精神疾患の場合、家族の協力なくしては適切な治療継続はなかなか難しい。きちんと相談できる環境を作ることは大切なのだが、今すぐにそのような状況を整えることは、なかなか難しそうだった。
★
中間テストが始まった十月中旬、勉強の合間に恵ちゃんと電話で話をしたとき、僕はそれとなく心療内科の受診を勧めた。
「心の不調を見てもらうことは、決して恥ずかしいことなんかじゃないよ」
「そう……かな。こんなの甘えじゃないかって……」
当たり前のことが急にできなくなったとき、人はなぜ? と思うのだろう。でも、そのなぜ? をうまく言葉にすることができないとき、心の中に徐々に苦しみが侵食していき、さらにはその苦しみを誰かと共有させる術をも失わせる。精神科医療とは、そんな患者の苦しみを言語化させ、苦しみの共有可能性を模索するプロセスでもある。
「恵ちゃんが悩んで、苦しいと感じていることは、自分の努力が足りないからとか、自分に甘いからとか、そういうことじゃないんだ。医療ができることは限られているけれど、医療で救われることもある。良い先生を知っている。もしよかったら俺に任せてほしい」
恵ちゃんはしばらく黙っていたが、やがて「うん」と小声で言った。僕は自分が右足を損傷した際に入院していた埼玉医療センターに勤務している針谷先生のことを考えていた。
――あの人ならば信用できる。
「ご両親には知られないように受診できるか確認しておくよ」
医療機関を受診すると、保険者からいつどこで、どのような医療を受けたのか、その詳細が被保険者に通知されることがある。つまり保険証を使って精神科を受診すると、その精神科を受診したことが記録として残ってしまうのだ。
「瞬ちゃん、どうして……そこまで」
「恵ちゃんのことが、とても……、とても大切だから……」
電話越しに恵ちゃんの息遣いがかすかに聞こえている。泣いているのだろうか。それは分からないのだけれど……。
「助けたい……なんて、そんなのとてもおこがましいことだと思う。だけれど、せめて、少しだけでも、ほんの少しだけでも恵ちゃんの心が軽くなればと、そう願わずにはいられないんだ」
★
中間テストの最終日、学校帰に僕は学校の正門付近に設置された電話ボックスに入り、公衆電話から埼玉医療センターに電話をかけた。
「はい、埼玉医療センター 地域医療連携室です」
受付担当の人は、とても落ち着いた声だった。
「あ、あの、そちらの病院を受診したいのですが……」
「かかりつけの医療機関はありますか?」
「いえ、ありません。それと受診するのは僕ではなくて……」
えっと、家族という事にしようか……。
そんなことを悩んでいると「ご家族の方ですか?」と、受付の担当者は聞き返してきた。僕はそういう事にしておこうと、なんとなく曖昧な返事をしておくより他なかった。
「今、お電話されている方のお名前を伺ってもよろしいですか?」
「はい。乙坂瞬と申します」
「何科の診療科の受診を希望されているか分かりますか?」
「実はその……。どうしても心療内科の針谷先生に診察をお願いしたいのですが、可能でしょうか」
マニュアルのようなものを確認しているのだろうか。少し時間を置いて、返事が返ってくる。
「心療内科に診察の予約を入れてもらえれば問題ないと思いますが、当院の針谷医師とはお知り合いの方ですか?」
「いえ……」
知り合いになるのは十数年後だ。
「そうですか。分かりました。受診は可能ですが、当院は地域医療支援病院となっておりますので、かかりつけ医の紹介状がないと初診に掛かる別料金として5,400円をお支払いいただくことになります。あらかじめご了承ください」
高校生の財布に5400円の出費はかなり厳しいが、僕は針谷先生意外に、信用できる精神科医、あるいは心療内科医を知らない。
「大丈夫です。それと、もう一つだけお願いがあるのですが、針谷先生の診察を内科で受診することはできませんか」
受付の担当者はしばらく黙っていたが、「何か理由があるのですか?」と質問してきた。まあ、当たり前だ。何も聞かずに大丈夫です、なんて答えが返ってくるわけがない。
「彼女のご両親に心配をかけたくないだけです」
だめと言われたら仕方ないと割り切り、僕は本当の事を言った。
「分かりました。総合内科で、針谷先生を臨時担当医ということにできるか確認してみます」
「本当ですかっ?」
断られるかと思っていたが、意外な反応に僕は驚いた。
「しばらくお待ちください」
電話は保留音に切り替わる。受話器を握る手は汗ばんでいる。僕は電話ボックス越しに高校の校舎を眺めて少し心を落ち着けようとした。テストも終わり友人らはもうとっくに帰っている。勉強から一時的に解放された彼らは、カラオケでも行っているだろう。僕もかつてはそうした一人だった。
「お待たせしました。乙坂さん、でしたよね。針谷先生、大丈夫です。ただ、木曜か金曜の17時ごろから、という遅い時間しか対応できないとのことでしたが大丈夫でしょうか」
「ありがとうございます。むしろその時間帯のほうが好都合です」
「では、まずは来院頂いて、総合案内でお名前をおっしゃってください」
「いろいろとありがとうございました」
ここまで対応してくれたことに、本当に感謝しかなかった。
「とても親身にその方を心配されているのですね。どうかお気をつけて来院してください」
受付担当者はそういって電話を切った。僕はしばらく、受話器を置けずに電話ボックスに立ち尽くしていた。
★
埼玉医療センターには一度入院しているので、外来受付や診察室の位置は大体覚えている。そもそも国立病院機構の基本的な設備構造や導線はどの施設でもそれほど変わらない。
僕は恵ちゃんを連れて、総合受付に保険証を提示し、待合室の椅子に腰かけた。ほどなくして保険証が返却され、同時に問診票が手渡される。
「これ、正直に書いて大丈夫だから。診療は守秘義務が適用されるから心配しないで」
「瞬ちゃん、なんか詳しいね。一緒に来てくれてありがとう……」
問診票に記入している恵ちゃんの横で、僕は針谷先生のこと思い出していた。僕があの病院に入職した当時、針谷先生が主催していたカンファレンスにはよく出席していた。的確な診断に加え、患者の予後を見据えた薬物治療を提案していく姿にとても感動したのを覚えている。目先のベネフィットにとらわれず、しっかりとリスク評価ができる。針谷先生が優れた臨床医だと感じたのはその時だ。
「平野さん、5番診察室の前でお待ちください」
僕たちは指示された診察室の前で待つ。恵ちゃんはやや緊張しているのだろうか。もともと口数が多い方ではなかったけれど、今日は特に少なかった。
しばらくすると、診察室の扉がゆっくり開き、針谷先生が出てきた。
「平野さん…でよかったかな?」
僕と恵ちゃんの顔を交互に見ながら言った。
「はい。彼女をよろしくお願いいたします」
僕は椅子から立ち上がり、針谷先生に頭を下げる。彼はまだ30代そこそこだろうか。20年後、総合診療医となった針谷先生と二人で話したことがあった。たまたま病院の職員食堂で隣同士になったのだ。
『先生は、なぜ総合診療医になったのですか』
僕は、なんとなく沈黙が続く気まずい空気が微妙だったので、こんなことを突然聞いてしまった。唐突な僕の質問に、針谷先生はあの穏やかな声で
『もっと専門的に心療内科に関わりたいと思ったからさ』と言ったんだ。
その一見矛盾した答えに驚き、返す言葉が見つからないでいると、針谷先生は話を続けた。
『乙坂さん、心を病んだことに初めて気づいた人が、真っ先に精神科を受診すると思うかい? 人は心を病んでいても、まず精神科にはかからない。そもそも心の病だということを一度は否定するものだ。その否定は自分自身でなされることもあれば、周囲に人間によってなされることもある』
プライマリケアを受診する多くの人が、何らかの精神疾患を抱えている。のちに僕は針谷先生自身が書いた論文を読むことになる。
『不眠や食欲不振、倦怠感というような不定愁訴……。僕はそういう疾患を見る中で、心療内科の専門性は総合診療医という仕事の中にある事に気づいたのさ』
診察室の扉が開くと、恵ちゃんがゆっくり出てきた。どうなることかと思ったが、彼女の表情は柔らかく「遅くなってごめん」と言って、少しだけ笑みを浮かべていた。上手く話ができたかどうかは分からなかったけれど、少なくとも一つの安心につなげることはできたのではないか、僕はそう感じた。
病院の建物を出て、敷地内にあるバス停に向かう途中、「どうだった?」と彼女に聞いてみた。
埼玉医療センターの敷地は大きい。バス停へと続く道はイチョウ並木になっている。すっかり陽が落ちた夜空の中でも、イチョウの葉は鮮やかな黄色に満ちていた。
「瞬ちゃん、あの先生のこと知っているの?」
「えっと……そうだね。少しだけ知っている事になるのかな……」
「ふうん。そうなんだ。乙坂君には何でも話しなさいっだって。面白い先生だったなぁ」
いったいどんな話をしたのだろう。何はともあれ、少しでも良い方向に向かうことができるのであれば、僕は何でもよかった。
「薬は処方された?」
「しばらくは薬を飲まずに様子をみようって」
「そうか」
あの先生は易々と薬を使うような人ではない。それは薬物治療に対する偏見だとか、薬物治療を否定的にとらえているからではない。薬剤効果がとても曖昧なものであるという事の本質を熟知している数少ない医師なのだ。針谷先生は薬剤師以上に薬について知っている。
「瞬ちゃん、今日はありがとう。心がね、とても軽くなったよ」
人は嬉しくても涙が出る。涙腺には感情そのものが詰まっているんだ。
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