誤解あるいは絶望
ファンダメンタルズとは一般的には経済用語であり、「基礎的条件」などと訳されることが多い。例えば、国や地域の場合には、経済成長率や物価上昇率、財政収支などがこれに当たり、企業の場合は、売上高や利益といった業績や資産、負債などの財務状況を挙げることができるだろう。
特に、株価や為替の値動きを予測することをファンダメンタルズ分析などと言うが、僕はこのあたりに疎く詳しいことはわからない。ただ、一つ確かなことは、あの白髪の少年モドキが口にしたファンダメンタルズという言葉は、このような経済用語的な意味とは無縁のように思えた。
「瞬っ。 平野さんが来てくれたわよ」
退院の日、僕が自分の荷物をまとめていると、病室の扉を開けた母の横には恵ちゃんが立っていた。小柄な彼女は、母よりも身長が低い。付き合ってから何度か家に遊びに来ていたので、母とはいつのまにか顔なじみになっていた。
「あ、ああ……」
突然のことで、僕は言葉にならない、何とも情けない声しか出せなかった。しばらく入院することは電話で伝えてあった。あんな事件があったにも関わらず、恵ちゃんはとても心配してくれて、今すぐに見舞いに行きたいと言っていたのだけど、彼女の都合もなかなかつかず、なんとなく恵ちゃんに合わす顔の無い僕は、それを幸いに「大丈夫だから、気にしないで」と言って、退院の日だけを知らせていたのだ。
「瞬ちゃん、もう歩けるの?」
「うん、まあ。こんなんだけど」
僕は右足にはめられたギプスを見せる。母がタクシーを呼んでくると言って病室を出ていくと、恵ちゃんはベッドに腰掛けている僕の隣に座った。彼女は、僕のギブスを指でつつきながら「なんだかロボット見たいだね」と言った。
「恵ちゃん、あの……。本当にごめん」
あの件以来、会うのは初めてだ。ちゃんと面と向かって謝ってない。
「ううん、なんか私もごめんね。瞬ちゃんのことしっかり信じているのに」
「いや、あれは俺が悪いから……」
「あの後、タムちゃんや山下君から電話あってね。ちゃんと説明聞いたよ。瞬ちゃんは最初から止めようって言ってくれてたんだよね」
恵ちゃんと久しぶりに目が合う。もう少しだけ、彼女の顔を見つめていたかったが、病室の扉は無情にも勢いよく開けられ、母が戻ってきた。「あと五分でタクシー来るから、準備しといてねぇ」とだけ言うと、荷物を抱え廊下に運び出している。
慣れない松葉づえをつきながらよろよろと病室を出ると、どこかで見覚えのある白衣姿の男性が廊下をこちらに向かって歩いているのが見えた。僕は思わずネームプレートを確認してしまう。そこには
「お大事になさってください」
僕の視線に気づいた針谷先生は軽く頭を下げながらそう言った。そんな針谷先生に、母は主治医でもないのに「お世話になりました」と言いながら深々と頭を下げている。
僕は、帰りのタクシーの中で、あの少年が口にしたファンダメンタルズという言葉の意味について考えていた。
「恵ちゃん、英語得意だったよね」
恵ちゃんの学校での成績は決して悪くない。ずば抜けて優秀というほどでもなかったけど、もともと真面目な性格だから、テストの点数は常に平均より上だった。
「得意って程じゃないけど……」
恵ちゃんは流れる街の景色を車窓越しに眺めながらそう答えた。
「ファンダメンタルってどういう意味だったっけ」
ファンダメンタルズという言葉は複数形を連想させた。だからあえてファンダメンタルという言葉の意味について知る必要があるような気がしたのだ。こんな時、インターネットに接続できる端末があれば簡単に調べられるものを……。
「ファンダメンタルって、例えばファンダメンタル カラーズなんて言うんだけど、これは原色っていう意味ね。だから根本的なとか、基本的なとか、そんな意味だと思うけど……」
「原色……かあ」
「ファンダメンタルがどうしたの?」
「あ、いや別に。ちょっと気になってさ」
恵ちゃんは「変なの」と言って笑っていた。
世界の存在を規定している根源的な何か、それは伸縮し、そして流れを持っている何か……。
★
5月の初め、足の怪我も回復し、松葉づえが不要になったころ、恵ちゃんのお母さんから自宅に電話がかかってきた。いったい何を言われるのかとヒヤヒヤしていたが、これは20年前にも経験していることだ。恵ちゃんは一時期学校へ行きたくないと言っていた。ゆるい登校拒否のようなものと言えばそんな感じだろう。
「乙坂君、あなたも知っていると思うけど、最近うちの恵が学校に行きたくないって言うのよ。話を聞いてみると友達関係とか、勉強とか、そういうんじゃないみたいなの。あの子、乙坂君の言うことならちゃんと聞くみたいだから、相談に乗ってやってほしいんだけど……」
この時点で恵ちゃんは学校に行きたくないと僕には言っていなかった。これは、もしかしたら入院の件があったからかもしれない。僕がこんな状況だったから、彼女は自分の気持ちを伝えるタイミングを逃してしまったんじゃないか、僕はそう直感した。
僕の記憶の中の過去では、この件はそれほど深刻な問題にもならず一過性の出来事のはずだった。時期的には7月くらいだと思っていたが、やはり自分の記憶とは違う現実が目の前にある。事態はより深刻に捉えるべきだと、これまでの経験が僕にそう伝える。
僕は状況をしっかり把握するため、恵ちゃんの親友である今ちゃんから、彼女の学校での様子を聞こうと考えた。その日の夜に今ちゃんのポケベルにメッセージを送信すると、幸いなことに、予定が都合よく合い、彼女の学校近くで会えることになった。
「なんか久しぶりだねぇ」
「けがはもう大丈夫なの?」
「ああ。大丈夫。今日は突然ごめんね。ちょっといろいろ聞きたくて」
「いいよ。私も心配だったから」
ファミリーレストランに入り、席につくと、グラスに注がれた水を飲みながら、机の上にメニューを広げる。今日は午前中で授業が終了だったので、昼飯を食べそびれ、正直なところ、かなり空腹ではあった。
「何か食べる?」と僕が聞くと、今ちゃんは「私は飲み物だけで大丈夫かな」と答えた。一人で何か食べるのも気が引けたので、僕は、ドリンクバーを二人分注文し、メニューをテーブルの端に寄せた。
「恵ちゃんはどのくらい学校に来てないの? そんなに休んでいるような様子ではないんだけど……」
実際、学校帰りにデートを兼ねて一緒に帰る日が月に何度かあったし、それほど不登校という印象はなかった。
「全然、っていうことは無いんだ。週に一回とか二回とか、そのくらいで休む感じかな。別に何がいやとか、そういうこともなさそうなんだけどね」
僕の知る当時の彼女は、学校へ行きたくないと電話越しで泣いていたけれど、結局、休むことなく学校へ通っていたように思う。少なくとも今ちゃんから状況を聞き出すような今日みたいな事態にはなっていなかった。
「今日は来てたんだよね? 」
「うん、今、部活してるんじゃないかな。この後、一緒に帰るんでしょう?」
「そのつもり」
恵ちゃんには、部活が終わるくらいに迎えに行くことになっていた。
「んじゃ、私と二人でこんなところにいるの見られたらまずいんじゃないの?」
「なので、部活の時間が終わるころに迎えに行く約束なんだけど」
「瞬ちゃんってほんとすごいよねぇ。タムちゃんなんて絶対に来てくれないからなぁ」
そう言って今ちゃんはオレンジジュースをストローで一口飲んだ。
いじめがあるわけでもなく、テストの成績も悪くない。部活がある日はちゃんと部活にも出ている。でも継続的に週一回から二回ほど休むのだという。学校の先生もそれほど事態を深刻に受け止めているそぶりはないそうだ。まあ、出席日数さえ問題なければ学校側もとやかく言えるような立場に無いのだろう。
「瞬ちゃん、私、ちょっと気になることあるんだけど」
「うん?」
「彼女、ここ最近なんだけど、授業中に寝ていることが多くて……。今までそんなこと無かったのに」
日中の傾眠は何らかの睡眠障害もしくは薬剤による副作用が示唆される。時期的にあり得るのが抗アレルギー剤による傾眠だが、恵ちゃんが花粉症だったなんて話は聞いたことない。そもそも花粉の時期はもう終わりだろう。ただ単に授業に興味がないのか、夜に寝ることができない事情があるのか。
「寝つきが悪いとか、そんな話はしてなかった?」
「うん、ヒラメはあまり自分のこと話さないからね。いつも瞬ちゃんの話ばっかり」
彼女の家庭環境を考えれば、夜間に寝ることができない事情があるとは考えにくい。両親はともに薬剤師であり、兄は医学部生。そんな真面目な家庭に睡眠障害を引き起こされるような何か外部的な要因があるようには思えない。
彼女の性格からして考えられる可能性は、なんらかの精神疾患……。いや、結論を急ぐのは早いかもしれない。少なくとも、いつも彼女の近くにいる両親は医療関係者なのだ。異変があれば、すぐに気がついているはず。
「あれっ。ヒラメ……」
今ちゃんの驚いた声に、僕は後ろを振り向く
「瞬ちゃん? 何してるの? 」
ファミレスの入り口には制服姿の恵ちゃんが立っていた。
――部活のはずじゃ。
「あっ、いや、これは」
ややこしいことになってしまった。この相談はそもそも恵ちゃんには内密にしていたから、状況説明も詳しくできない。
「ヒラメ、違うの、これはね……」
僕らの焦りが誤解を生む空気をどんどん膨らましていく。
「なんで二人で一緒にいるの?」
そう言って、恵ちゃんは後ずさりすると、店を出て行ってしまった。
――まずい。また勘違いされている。
この状況を目の当たりにして、僕の中で一つ明確になった。はやり彼女は通常の精神状態ではないのではないだろうか、という一つの疑問である。
「瞬ちゃん、ごめんね。後でヒラメにはちゃんと説明しておくから」
今ちゃんはそう言うと、ドリンクバーの代金をテーブルの上において、ファミレスから出ていってしまった恵ちゃんの後を追いかけようと、出口に向かった。
「今ちゃんっ! 恵ちゃんは昔からああいう性格だった? なんというか、気弱と言うか、自分に自信が無いようで……」
「違う気がする………」
今ちゃんは僕を振り向き、少しだけ悲しそうな表情を浮かべてそう言った。
多少、記憶の中の彼女とこの現実の彼女の性格にずれが出るのはタイムリープによる過去改変的な何かのせいかもしれないが、この状況は、そんな性格の差異だけでは説明がつかないように思えた。
僕はそのまま駅前の公衆電話に行き、彼女の自宅に電話をかけた。電話に出たのはもちろん彼女のお母さんだ。
「乙坂です。今、電話大丈夫でしょうか……。はい。あ、ありがとうござます。彼女の学校の友人と話をしました。ええ。あ、そうです。今川さんです。……それで、これは僕の勝手な想像でしかないのですけど……。でも可能性としては……。恵さん、夜はしっかり寝れていますでしょうか。はあ……。でも、そこが重要で……。ええ、分かっています。ですから、これはあくまで最悪の可能性を……。すみません」
夜はしっかり寝れている。食事もとれているし、何も問題ないの一点張りだった。
「これじゃ、何も分からないし、誤解だけが増えていくばかりじゃないか……」
僕は受話器を置いたまま、反対の手の拳を握りしめてしばらく動けないでいた。
五月末、恵ちゃんの状況はあまり変化が見られなかったが、先日の誤解は完全に解け、むしろ「心配かけてごめん」と謝られてしまった。いや、たぶん苦しいのは君だろうと思うと、僕も心が締め付けられる思いだった。
この時代から、約20年後の世界ではうつ病をはじめとする精神疾患は非常に身近な疾患となった。しかし、1990年代後半、うつ病の患者数は50万人を下回っている。選択的セロトニン再取り込み阻害薬であるフルボキサミンが承認されたのが1999年。おそらくはこれを機に、爆発的にうつ病性疾患の有病割合は増加するのだろうけれど、当時は抗うつ薬でさえその選択肢が限られていた。
つまり、うつ病に苦しみながらも適切な医療を受けることができずに、どこに身を置けばよいか分からない人たちが確かにいたのだ。うつ病が増えたんじゃない。うつ病と言う病名が増えただけだ。現象としてのうつは今も昔も変わらない。
病名を付けられることで、社会的な関心がネガティブな方向に向いてしまうということは十分にあり得た。この時代、精神疾患という言葉から連想されるのは閉鎖病棟、妄想や自殺、通常の生活が困難な重症患者というひどく反社会的なイメージだ。
正常と異常の境界があいまいな精神疾患だからこそ、その境界線を超えたくない、超えさせない、そういうレッテルを貼られないよう、ただの疲れ、ただの甘え、ただの気分、そんな風にしてやり過ごされてしまうことも多かったはずだ。父親が大学附属病院薬剤部長、母親も薬剤師、兄が医学部生という超エリート家庭の中で、恵ちゃんの立場はきっと不安定だったに違いない。
そんな彼女に対し、僕ができることは、彼女が自分の今の状況についてどう考えているのか知ることくらいだった。だから僕は彼女に海を見に行こうと誘ったのだ。実際、20年前にも海に行っている。具体的な日付けは覚えていなかったが、おそらくは同じ時期のはずだ。その日は日差しが強くて、僕の鼻の頭が日焼けしたのを覚えている。
東京から私鉄路線で一時間半くらい。僕らは、神奈川県の相模湾沿岸付近にある小さな砂浜で海を眺めた。まだ海開きも行われていないけれど、初夏の陽気に砂浜は心地よかった。波の音を聞いていると、様々な不安が少しずつその居場所を取り戻していくようで心が落ち着いた。
「瞬ちゃん、いろいろ心配かけてごめんね。わたし、自分の進路のことでいろいろ悩んでた」
高校二年の夏が迫ろうとしている。大学受験を意識せざるを得ない時期は刻々と迫っているのだ。僕は進路で悩んでいたという彼女の言葉を聞いて、恵ちゃんの状態について、少し考えすぎかなと思った。いや、正確に言えば、単純に進路のことで悩んでいるだけかもしれない。僕はそうあってほしいと願ったのだろう。感情には、正しさも誤りもない。だからこそ人は判断に悩む。
「私、薬学部へ行こうと思う」
「うん。俺も薬剤師になろうと思うよ。だから、一緒にがんばろう」
海風が僕たちの前髪を優しく揺らしている。きっと今日の夕焼け空はとてもきれいだろう。だけれど、帰宅時間を考えれば、この砂浜にいられるのはあと一時間程度しかない。
★
高校二年に進級できてから、僕は少しずつではあるが、高校一年の勉強からやり直し始めた。学校の授業の内容には全くついていけないので、授業中に高校一年生の教科書を開き、ひたすら勉強するというスタイルを継続したら、一学期までには一通り、内容を理解することができるようになった。
夏休みに入ると、僕と恵ちゃんは薬学部受験のための準備として、まずは予備校で短期的に開催されている夏期講習を受講することにした。普段は別々の高校に通う僕らだったから、同じ教室で授業を受けるのはとても新鮮だった。
夏期講習の最終日。英語の授業中、僕はノートの切れ端に『8月の花火大会、一緒に行こう』と書いて、隣に座る恵ちゃんに渡した。
しばらくすると、僕が書いた字の下に『行きたいっ!タムちゃんと今ちゃんも一緒で良い? 』と、恵ちゃんの少し丸みを帯びた字で書いてあった。僕はふと『
その翌日、花火大会の日取りについて、ポケベルにメッセージを入れたが、恵ちゃんからはメッセージの返信は無かった。その時は、夏休みだし、家族でどこかに出かけているのかもしれないなどと考えていた。僕は、しばらく返信がなかったことに違和感を覚えなかった。
だから、僕にその知らせが届いた時には、既に二日が経過していたんだ。
「一昨日、恵が亡くなりました」
その手の温もりを、その優しい声を、僕を優しく包んでくれる彼女の想いを……どうか、どうかこの世界から消さないで……。
「乙坂君にはとてもお世話になって……」
泣き崩れる彼女の母親の声を電話越しに聞いて、僕は何も言葉が出ない代わりに、両目から涙があふれ出るのを感じた。
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