君の青空が見たいから

「ファンダメンタルズについて知りたい」


 僕がそういうと、少年はうつむきながら、ゆっくりと説明に必要な言葉を探しているようだった。


「ファンダメンタルズを君たち実体者の言語で説明することはとても難しいよ。そういう概念をもつ言語が存在しないからね……」


 少年はさらに言葉を選びながらゆっくりと話を続ける。


「でも、ファンダメンタルズを実体者の言語で表現するなら、時間というより他ないように思う。時空間という概念の根源的な個物のことをファンダメンタルズといっても良いかもしれない」


 根源的な個物とは、つまり原子とか原子核のようなものだろうか。いや、そもそも時間とは何なのだろうか。


「君の説明は確かに、良く分からないのだけど、良く分からないという点で言えば、時間という概念もよく分からない……」


 時間という概念は実に不思議なものだ。古来、人は常に時間について考えてきた。ニュートン理論は時間を絶対的なものと見なした。これはプラトンのイデアに近いかもしれない。しかし、アインシュタインは時間が相対的なものであることを発見した。マクタガートに至っては、時間は存在しないという。さらにフッサールは、時間は流れるものと考えた。いずれにせよ、秒針が一目盛動くその間の何かのことを時間と呼ぶわけではない気もする。


「僕にはむしろ、君たちが使う時間という言葉で名指されるものが理解できないのだけど。うん、まあ、存在カテゴリ的に言えば、ある種の性質のようなものだと思うよ」


 性質という意外な答えに僕は思わず少年を見つめ眉をひそめる。まるで、天才的な物理学者か、哲学者が目の前にいるようだ。その容姿からは想像もできないくらい落ち着いた話し方で、難解な言葉を平気で並べていく。


「性質……か。なるほど。もう少し説明してくれないか」


少年はうなずくと話を続けた。


「例えば、目の前にテーブルがあって、その上にリンゴが乗っている。このリンゴは一個、二個と数を数え挙げることができるでしょう? 」


「ああ、リンゴに限らず、机でも、コップでも、複数置いてあるのなら数を数えることができる」


「でもリンゴの赤さは数えられる?」


 赤さと言うのは程度の問題であり、それは個物として存在しているわけではない。つまりはリンゴに付帯する性質……。


「そういうことか。赤さはリンゴの性質だ。だから数え上げることはできない。時間という概念も時間性という性質として僕らは認識している、そう言いたいのかい?」


「概ねそういうこと。ファンダメンタルズという概念は時間を個物として捉えている。君たち実体者が時間と呼ぶもの、僕たち欠如体者がファンダメンタルズと呼ぶもの、それはほぼ同じ概念を名指しているけれど、言語化している側面が違うんだと思う。そしておそらくはファンダメンタルズと名指された概念の方が現象そのものの核心を捉えている。もちろん単純に比較はできないのだろうけどね。本質をとらえたところで、それが役に立つかどうかは分からないから」


 僕たちが時間と呼ぶもの。その対象は、時間性という概念によって僕たちに認識されているが、欠如体者(そんなものが存在するとすればだが……)にはファンダメンタルズという個物として認識されている。そしてファンダメンタルズという概念の方が、時間的な何かをよりうまくとらえているということらしい。


 僕はしばらく頭の中を整理していると、少年はさらに語り始めた。


「君は時間が進むものだと思っているよね。確かに時間という性質の側面だけを切り出した君たちの概念には、時間は進むということしかありえないのだと思う。でも、ファンダメンタルズには進むという概念がそもそもないんだよ」


「それはどういうことだ? 」


「ファンダメンタルズは伸縮を繰り返している。時間という概念で置き換えて説明すれば、時間は進んだり逆転したりしているということ。同じだけ進んで、同じだけ逆転するというループを起こしていることも珍しくない」


つまり、行きつ戻りつつという事なのか……。


「なら、なぜ僕らには時間が進んでいるようにしか認識されないんだ?」


「君たちには時間という概念しかないからだよ。実体者にはファンダメンタルズを認識できない。だから時間が逆転しているという現象を具現化できないんだ。時間が逆転していようが、そういう現象は誰の意識にも上らない」


 言葉にできないものは概念として認識できないばかりか、現象としても関心が向けられない。それは存在しないということと同じ。


 僕らにとって、時間は進むときにしか認識されない、つまりはそういうことなのだろう。なんとなくわかった気もする。僕にタイムリープが可能だった理由が。


 過去に戻ってきたというよりはむしろ、時間が逆転しただけなんだ。この巻き戻ってしまった20年間は、実体者である限り誰も認識できない。それを僕がなぜだか認識できているということなのだろう。


「なあ。僕はなぜタイムリープできたんだろう……」


 辺りが先ほどよりも暗くなっていくのが分かった。陽が大きく陰っているのだ。


「そもそも君が知覚しているその現象は、タイムリープと呼ばれるものではないんだよ。君があの橋の欄干から飛び降りたとき、そのタイミングでファンダメンタルズは大きく収縮した。そうだな……君たちの言う時間に換算すると20年ほど時間の逆転現象が起きたと言ったほうが分かりやすいかい? 実体者には時間が進むことしか認識できないから、巻き戻ったこの20年分は全く認識されない。20年後、何事も無かったかのように、また時間が流れ、君たちは何事も無かったかのように生活を始める」


「でも僕には認識できてしまった。それが故に、在るべき未来が消え、別の未来が生まれようとしている」


「つまりはそういうことになるのかな……」


「僕が学校の階段から滑り落ちたときも同じ説明が当てはまるのかい? 自宅の階段の時はどうなんだ?」


「そうだね。時間の逆転幅は収縮したファンダメンタルズの数に応じている。わずかな数の収縮しか起こらないのであれば、時間換算で5分程度の巻き戻り効果しかないのかもしれないね。君が自宅の階段から落下した時には、ファンダメンタルズの収縮は起こらなかった、そういうことさ」


「でも、この現象を誰でも認識できるわけではないんだろう? 僕はなぜこんなことができたんだろう……」


「君が欠如体者の性質を持っているからかもしれないね」


 欠如体者の性質……。確かに僕はいろんなことに無関心で生きてきたような気がする。正直どうでもいいことが世の中にはありふれている。そんな風に世界を眺めて生きてきた。だから僕には人として何かが欠如している、そう感じたこともあったのは事実だ。


「実体者概念時刻でいうと、今日の18時から10分間にわたって、ファンダメンタルズの周期的な収縮が起こる。時間相当でどれくらい遡れるか分からないけど、過去を認識したいのなら、あの橋からまた飛び降りてみたらいいよ」


 そう言って少年はすっと消えてしまった。その直後、雷鳴がとどろき、大粒の雨が空から落ちてきた。その勢いは秒単位で激しくなり、数秒後には豪雨で視界が閉ざされるほどだった。僕はそのまま橋の下に小さくうずくまって腕時計を確認する。18時まであと15分だ。

 

 現在の記憶と過去の記憶、その二つが無ければ、未来がどう変わったかなんて分からない。人生をやり直したいというのは結局のところ、今のアイデンティティにこだわる限りできない相談なのかもしれない。


 僕は20年前の世界を生きる中で、自分が歩んできた道の通りに、あるいは、より良い歩みをしようと、そればかりを考えてきた。でもより良い未来など、今現在からどう評価すれば良いと言うのだ。


「未来のみに生きる意味を見出すことは果てしなく苦しいだけだ……」


僕は雨脚衰えない夏の夕暮れを、ゆっくり歩きながら、橋の欄干に向かう。


――もう一度


君の青空を見たい……。

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