オープンハート

 今ちゃんから電話がかかってきたのはその日の夜遅くだった。


「今ちゃん、いろいろとありがとう」


 高校生の身分で、自宅の固定電話を使った長電話は、親が寝静まった時間帯でないとなかなかできないので、どうしても深夜になりがちである。携帯通信端末が普及した時代からすれば、想像もできないほど原始的な生活をしているとも感じるだろうが、慣れてしまえば、これはこれでなかなか楽しい生活ではある。


「うん、いいの」


そう答える今ちゃんの声にいつもの元気はない。


「恵ちゃんの様子はどう?」


 ポケベルでは毎日、彼女の状況報告を受けていたが、いかんせん十二文字でその全てを知ることは不可能だった。概ね問題なさそうだったが、やはり詳しい話は聞いておきたかった。


「見た目は平気そうだけど……。でも、彼女もとてもつらいのだと思う」


「そうか……。そうだよね」


 親に声が聞こえないよう、なるべく小声で話すとなんだか内緒話をしているようだ。部屋にエアコンもないので、確かな冬の訪れを感じるこの時期は、体が震えてしまうほどに寒い。僕はベッドに入り毛布を頭からかぶって目を閉じる。


「空元気というのかな。見ていて分かるんだよね……だから今は一人にしておけないかな」


「うん……」


 全部、僕のせい、それは分かっている。だけれども、一体どうすれば……どうすればよかったのだろう。最悪の自体を回避できた、きっとそれだけで良いはずなのに。


「ねえ、瞬ちゃん、ヒラメにちゃんと別れる理由を伝えた? 」


 僕は一瞬、答えに詰まる。そのわずかな沈黙の間に鳴り響いているアナログ時計の秒針音が重たい。


「い、いや……」


 僕は僕ではなくて未来の僕なんだ……。そんな話をすることは、なんとなく言い訳じみていたし、本当の理由を彼女に伝える必要はないと、あの時はそう思っていた。

 

既に彼女は僕が散々悩んだことを見抜いていたし、彼女に余計な負担をこれ以上かけたくないというのがその理由だ。僕はどう思われてもいい。だから運命に抗う力を彼女に……。


「ねえ、なんで?」


 煮え切らない僕の返答に少しいらだっているのか、今ちゃんの語気が粗くなるのが受話器ごしでも分かる。


「なんで言わないのよっ」


 見かけの正義、それはむしろエゴイズム。今ちゃんの声は、そんな僕の心のどこかをえぐるような気迫に満ちていた。


「瞬ちゃんはそれでもあの子のことを愛していたの? 一生支える覚悟なんてないくせに、勝手に人を傷つけないでっ」


 頭の中で、今ちゃんの声と城戸の声が重なっていく。


『お前は逃げているだけだ。ただただ安全パイを、頑なに守ろうとしているだけじゃないか』


――城戸、おれはどうすればよかったっていうんだ。


『一生、彼女と共に生きていく、そういう覚悟みたいなものがお前にはないのか?』


 覚悟……。そう、僕は逃げていただけかもしれない。本当に彼女を守れるだけの力が自分にあるのか、自信がなかったんだ。


「そんなんでいいの? 瞬ちゃんっ! 」


――良いわけない。


「このままじゃ、終われない……」


「明日の午後四時、彼女を連れていくから、そこでちゃんと話をしなさい。別れるかどうか、そんなことは大切な問題じゃないっ」


 そういって今ちゃんは一方的に待ち合わせの場所だけを僕に伝え、電話を切ってしまった。


「恵ちゃん……」


 制服姿の彼女は、僕と初めて待ち合わせをした池袋駅のホームで待っていた。恵ちゃんは少し緊張した面持ちで僕を見つめている。ホームに入ってくる列車の先頭車両が押しのけた空気が彼女の前髪を揺らしていく。そんな彼女を見ていると胸が締め付けられるように痛んだ。


 僕らは初めて二人で歩いたあの時と、同じ経路をたどって十五分ほど繁華街を歩き、複合商業施設が入る高層ビルの中に入った。


 恵ちゃんとは何度もこの場所に来た。一階と二階を繋ぐ、人通りの少ない階段に腰掛け、彼女の門限に間に合うギリギリの時間までたわいもない話をして笑いあった。そんな、なんでもないような時間がとても暖かくて、そして本当に幸せだった。


 僕はいつもの階段に腰掛けると、これまでのことを彼女に伝えるために、頭の中を少し整理する。目を閉じてゆっくり深呼吸をして、そして僕は話を始めた。


 自分が20年後の世界からやってきたこと、これまで二回ほどタイムリープしたこと、その間に恵ちゃんにどんなことがあって、そしてこの先どうなってゆくのか、ありのままの事実を彼女に伝えた。途中で話が理解しにくいだろうと思った箇所は順を追いながら丁寧に説明したつもりだ。


 恵ちゃんは僕の話を疑うでもなく、その全てを冷静に受け入れてくれた。


「今ここで理解できないことは、時間をかけてゆっくり考えてみるから……」


「ありがとう」


 恵ちゃんは突然、僕を振り向いて、右手で僕の背中をたたいた。


「やっぱり、瞬ちゃんは馬鹿だよ」


「え?」


 そんな彼女の振る舞いに、ただただ驚きの言葉しか出ない。


「私は、瞬ちゃんの20年前の記憶の中の人とは同じじゃない。そうでしょう?」


 確かのそうなのだ。目の前の恵ちゃんは、恵ちゃん出会って、それは僕の記憶の中の平野恵とはまるで別人なのだ。


「大丈夫、私は瞬ちゃんのそばにずっといる。だから……」


 何かを言いかけた恵ちゃんを僕は思いっきり抱きしめた。少し寒いなんて口実や『もう少し近くに寄って』なんて言葉を綴った紙切れはもう僕には不要だった。


「恵ちゃん……。高校卒業後も、ずっとそばにいてほしい」


「うん」


「君と一緒にいたい。心から……君が好きです」


「うん、私も」


 僕は両目から頬を伝わる自分の涙を見られたくなかったから、そのまましばらく彼女を抱きしめ続けた。


 これで運命の歯車がどの程度変わっていくのか分からない、でも人生はそんな困難の繰り返しであり、そうした中にさえも希望が垣間見えるのだと確信した。僕らは生きていく。これから先もずっと二人で。



「あの……。このサイズなんですけど……」


 僕はよれよれの紙をカウンター越しにお店の店員に渡す。それはいつだったかイタリア料理屋で恵ちゃんの薬指に巻きつけたストローの包み紙だ。


 プレゼントの購入がクリスマスイヴ当日になってしまったのは昨年よりもひどい。でも、まあ、こんな状況だったし、自分でも別れる決心をしていたのだから、クリスマスというイベントそのものに対する関心も薄かった。


「そうですね、だいたい6号ちょっと、というところでしょうかね。7号であればまず問題ないと思いますよ」


 池袋駅からほど近い商業施設の一画にあるアクセサリーのセレクトショップは、クリスマス商戦真っただ中でとても混雑していた。


「あ、ありがとうございます。それで、この指輪を考えているんですが……その、どうなんでしょうか。流行とかよくわからなくて」


 僕はガラスのショーケースに並ぶ指輪を指さす。普段、あまりアクセサリーなんて身に着けない恵ちゃんは、自分が買った指輪を気に入ってくれるだろうか。僕の頭はそんな心配で埋まっていた。


 この時代の流行とか、そんなものを調べる余裕もな買ったけれど、このブランドは個人的にはとても好きだったし、品質も決して悪くないはずだった。


「プレゼント用ですか。お相手の方はどんな方ですかね? 例えば背の高さとか……」


 背の高さと指輪のセレクトにどんな関係があるんだろうか。そんな疑問を抱えながらもここはプロに任せた方が良いと直感が判断する。


「背はそれほど高くないです。見た目はちょっと真面目な感じですけど、とても優しい声をしていて……」


「ふふ。分かりました。なんとなくシンプルなのが良いと思いますよ。お客様が選んだ指輪はとても喜ばれるんじゃないでしょうか」


 お店の店員は僕が指さした指輪を手に取り、カウンターの上に置いた。それは特に天然石が付いているような派手な指輪ではなかったけれど、ローズゴールドにブランドロゴが刻印されたシンプルなデザインで、とても落ち着いた印象を放っていた。


「では、これをお願いします」


 僕はそう言うとズボンの後ろポケットから財布を取り出す。


「この指輪はですね、オープンハートというシリーズなんです。“心を開いて”というメッセージが込められているんですよ」


 店員さんはそう言いながら、指輪の入った化粧箱を丁寧に包装してくれた。

 

――キラキラするもの。


 和彦が昨年のクリスマスイヴの時にプレゼントについて語っていた言葉がふと頭をよぎり、今年のプレゼントは指輪にしようと決めた。キラキラするものというと、なんとなく指輪かネックレスかというイメージだったけれど、ネックレスは身につける人の好みが大きいような気がして、ためらわれた。


 指輪の入った緑色の小さな紙袋を手に店を出ると、僕は急いで待ち合わせの場所へ向かうため池袋駅の反対側に向かった。人ごみにあふれるこの街のあちこちがクリスマス一色だ。道路沿いに途切れなく立ち並ぶ店、駅に直結する百貨店、街のいたるところにイルミネーションがあり、そしてクリスマスソングが聞こえてくる。


「今日はこれから雪だったっけ……」


 朝の天気予報では、そんなことを言っていたような気がする。昼間だというのに体を指すような冷たさの外気に僕の手はかじかんでいく。右手をダッフルコートのポケットに入れるが全く温まる気配がない。手袋をしてくればよかった。慌てて家を飛び出してきたものだからすっかり忘れてしまった。


『瞬ちゃん、池袋駅の西口に大きなクリスマスツリーがあるんだよっ』


 一昨日かかってきた電話で、恵ちゃんはとても嬉しそうな声でそういった。二人でクリスマスツリーを見たことはなかった。だから今日はそこで待ち合わせをしようという事になったのだ。


「駅の反対側へ行くには、あのビルの裏を抜けたほうが速いかな……」


 僕はそう呟き、繁華街沿いの表通りから、雑居ビルの裏道に入る。このあたりは勝手知っている街並みだ。近道には詳しい。


 裏の路地は表通りとは対照的に人通りは少なく、ビルとビルの狭間で陽の光はほとんど届かない。ビルの隙間を縫うように吹き抜ける風が冷たかったけれど、ツリーの下で待つ恵ちゃんを想像すると、僕の胸はとても高鳴った。自然と歩みが速くなっていく。


 その時、僕の足音よりもやや早い歩調で歩く足音が耳に入ってきた。それはどんどん大きくなり、やがて僕を追いこすものだと思われた。


 この時期、誰かの待つ場所へみんな急いでいるんだ……。そんな風に思った時だった。後方の足音が急に駆け足に変わり、その直後にどすんという衝撃を背中に受けて、僕は地面にうつぶせになるように倒れた。左手に持っていた、緑の紙袋が地面に落ち、指輪の入っている化粧箱がアスファルトを転がる。


「痛てぇ……」


立ち上がろうとしても、なぜか腰から下に力が入らない。自分の身体を自分でコントロールできないのは、自宅の階段で飛び下りたとき以来だと思った。


「いったい何なんだ……」


 上半身を起こそうとすると、背中に激痛を感じ、声を出すことさえできない。なぜだから分からなが腕や手が震えている。僕はそんな自分の意志通りに上手く動かせない手をなんとか痛みを感じる背中へ持っていった。


 背中に触れた手が、ぬるっとした生暖かいものを感じている。ゆっくりとその手を目の前に持ってくると、真っ赤に染まった何かに僕は我に帰る。


――血だ。


 あっという間に両腕の力が抜けていくのを感じながら、顔をゆっくり上にあげると、視界には大きな包丁を持った小柄な男が立ってる姿が入ってきた。


「お前は……。そうか。そういう事……か」


「お、俺じゃない……」


 そう呟いた小柄な男が足早に立ち去っていくのが視界に入る。そして、それが僕に届いた最後の光となった。


「お前が……彼女を救った。ある意味ではそうかもしれない。ただ……、残念だ。とても……。せめて……もう一度だけ……」


上空に横たわる灰色の雲から、ひらひらと白い粉が舞い降りてくる。


この日、10年ぶりにホワイトクリスマスになった。

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ファンダメンタルズ 星崎ゆうき @syuichiao

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