第9話
僕にとっての有意味を探して
あらためて考え直すまでも無い。バスの中で、あの白髪の少年が指摘したように、僕が今歩んでいる道は、過去のそれとはまるでかけ離れたものになっている。記憶の中にある時間軸と同じように時が流れていく、あるいは積み重なっていくということは、もうあり得ないのだ。
僕はそのことをいくつかの事実として既に思い知らされている。過去を再認識することによって、20年分をもう一度生き直すというのは、これまで歩んできた道のりではなく、全く別の道を歩くことに他ならない。
あの橋の欄干から飛び降りたことによって始まった過去の再認識という現象。当初、僕はできる限り過去の自分と同じように振る舞うよう、その行動に注意を払ってきた。自分の記憶から逸脱していく未来が少しだけ怖かったからだ。
人生をやり直したい、そこで新たな生き方の可能性に挑戦したいという思いは、しばしば多くの人が抱く後悔の感情と言えるかもしれない。しかし、いざ過去の世界を目の前したとき、新たな可能性に挑戦できるほど人の心は強くないのかもしれない。記憶の中の自分から逸脱していくという選択を決断をすることは、僕にとってはとても困難なことだった。
そうした僕の曖昧な行動が、平野恵の死という悲劇的な帰結をもたらしてしまったのだ。あの夏以降、僕は自分の記憶の中に存在している過去の僕を、少しずつ消去していきながら、彼女の死を回避できるかもしない可能性を模索し続けてきた。過去の恵ちゃんではなく、今の恵ちゃんをしっかりと見つめること。記憶のなかの自分から逸脱することを恐れず、しっかり今を見据えること。過去の記憶を引きずりながら、もう自分に嘘をつくのはやめようと思った。
「すまない。放課後に少しだけ付き合ってくれないか」
僕は昼休みに、教室の一番後ろの席で漫画を読んでいた城戸に話しかけた。彼は目の前に立ち尽くす僕をしばらく見つめていたが、やがて「ああ。なんかガチだな」と言って、快諾してくれた。
もちろん、タムちゃんや和彦にも声をかけた。僕はこれまで経験してきた事の全てを彼らに打ち明けるつもりだった。もう一人で時の流れに抗うことにも限界を感じていたし、何よりも恵ちゃんが希望をもって生きることができるためにはどうすれば良いか、僕自身もよく分からなくなっていたんだ。
六限目が終わると、学校内の公衆電話から恵ちゃんのポケベルに、今日は少しだけ帰りが遅くなる旨メッセージを入れ、急いで屋上へ向かった。
三階建ての校舎屋上からは、東京の住宅街が一望できる。この辺りには高いビルやマンションなどはほとんど建設されておらず、古くからある木造の低層住宅がところ狭しと並んでいた。そんな住宅と住宅の隙間には小さな公園や神社もあり、古き良き東京の住宅街といったような感じかもしれない。
屋上へと続く、古びたアルミ製のドアを開けると、そこには城戸をはじめ、タムちゃんと和彦も既に来ていた。
「みんな、すまん」
「なんで謝るんだ、乙坂?」
城戸はズボンのポケットに両手を入れ、屋上の鉄柵に寄りかかりながらそう言った。横にいるタムちゃんも和彦も、僕を見つめながら黙ってうなずいている。
状況を察し、全てを受け入れてくれた彼らに感謝しつつ、僕は自分が20年ほど先の世界からタイムリープをしてきたこと、もう一度高校生活をやり直す中で、少しずつ記憶の過去とずれた現実が増えていること、その結果として八月末に恵ちゃんが死んでしまったこと、そして謎の少年との出会いから、もう一度タイムリープをすることで、なんとか彼女の心理的状況をここまで維持するに至ったことについて、順を追いながらゆっくり説明した。
「つまり、瞬ちゃんは20年後の世界で、どうしても死にたくなって、橋の上から飛び降りたら、高校時代に戻っていたという事?」
タムちゃんが話を端的すぎるほどに要約してくれる。
「ああ、概ねそんな感じ。で、問題なのは、20年後の世界で起こり得た俺の死が、この世界では恵ちゃんの死に繋がっている可能性があるという事なんだ」
僕は続けて、運命の総和が決定しているという謎の少年の言葉や、この世界において、恵ちゃんの死を運命づけるきっかけになっているかもしれないことについて詳しく話した。
「それが、その欠如体者だか何だかっていうガキがいう、生と死の総和があらかじめ決まっているって話か……」
和彦はそう言って軽くため息をついた。
「欠如体者か。まあ、そんなものが存在するのだとして、僕らには概念化は不可能な存在者だ」
それまで黙っていた城戸が口を開いた。
「アリストテレスのカテゴリー論において、存在は大きく第一実体、第二実体、そして個別的付帯性、普遍的付帯性という4つの存在カテゴリーに分けることができるが、欠如体者という概念は、それのどれにも該当しない」
城戸の説明に和彦が聞き返す。
「つまり、どういう事だ?」
「超越者……。そうだな、言い換えれば、この世界の存在のあり方を全て掌握しているメタ的存在者とでも言うべきだろうか。まあ、俺らには概念化できないのなら、そんな存在、無いにも等しいけど……」
「神様みたいなものかな?」
そう言ったタムちゃんの言葉に城戸はゆっくりうなずく。
「なあ、乙坂、一つ腑に落ちない。生と死の総和といっても、そんなもん、人は生まれていつかは必ず死ぬんだから、そもそも普遍的で一定なものだと思う。改めて強調するまでも無いように思うんだが……」
生と死の総和というのは、ある時間断片で区切れば、その時間ごとに違うものかもしれない。しかし、この世に生まれ、そして生あるものはいつか命尽きる。それを踏まえれば、生と死の総和という概念こそ無意味、確かにそう言われればそうかもしれない。
「死にたい気持ちってのが俺にはよく分かんないけど、そんなもん、誰しも潜在的に持っているもんじゃないだろうか? 俺はなんとなくそう思うよ。だって、生きているのが、めっちゃ楽しいって思う事もあれば、俺もう死にたいって思う事もあるじゃんか。どれくらい本気か、って問題はあるけれど、それも程度の差なんじゃないか? 」
和彦が熱く語った後に「ほんとそうだよねぇ。俺もなんとなくそんな気がする」とタムちゃんが同意する。城戸はゆっくり歩きだし、そんな和彦とタムちゃんの間をすり抜けると僕の目の前でその歩みを止めた。
「人は程度の差はあれ、生きたいと死にたい、その間を行ったり来たりしながら時を重ねているんじゃないか? あいつらの言う通りだ。その総和という概念は俺らにとっては重要な意味をなさない。俺はそう思う」
そう言って、城戸は僕の肩をポンと軽く叩くと、そのまま校舎の中に戻っていった。彼なりの感情のこもった言葉に、涙が流れそうになる。
「生と死の総和ってなんだろう。だって普通に考えたら意味わからないもん。城戸ちゃんが言うように、人はいつか死ぬんだしさ。その時々で、生きることと、死ぬことがあるだけじゃない」
そう言うタムちゃんの眼差しは、いつになく真剣だった。
「みんな、ありがとう……」
「気にすんな。また何かあればいつでも話してくれ」
和彦はそう言うと、タムちゃんを連れ、校舎に戻っていった。僕はそのまま一人で屋上に残り、東京の住宅街を眺めていた。心が熱くなる。どこかで聞いたような、使い古されたセリフも、僕の生を肯定するには十分な感情だった。
「もう一度、確かめなくてはいけない。生と死の総和。その意味を……」
★
実家の近くに大規模な団地街がある。その多くは昭和40年代に建てられたものだが、最近では老朽化が進み、街の再開発計画が進んでいることもあって、一部は解体されつつあった。既に高層マンションに建て替えられてしまった団地もあるのだけれど、夕方の団地街はそれだけで情緒だから、この街に残してほしいと心から思う。
「あらためて探すと見つからないものだな……」
団地の一階部分には商業施設が多数入っていて、団地に入居している人だけでなく近隣住民も利用していて、それなりに活気があった。そんな団地街を歩きながら、僕は欠如体者を探していた。
まあ、そもそも彼がいつ、どんな場所で、どのように存在しているか皆目見当もつかないので、こちらの都合で会える可能性は限りなく低かった。
ただ、僕はどうしても確かめたかったのだ。城戸の指摘するように生と死の総和という概念はよく理解できない。ある一時点における総和なのか、世界の運命全体での総和なのか。後者だとするならば、運命全体の総和など、算出しようがない。概念化できないものは僕たちにとって有意味とは言えないだろう。無意味なものに関心を払う必要性は限りなく低い。
「探して見つかるものでもないか……」
僕は独り言のように呟くと謎の少年の捜索を諦め、団地に囲まれた公園に入った。砂場とブランコくらいしか遊具の無い、団地街の真ん中にある小さな公園だ。僕は砂場近くに置かれていた古びた木製のベンチに腰掛ける。二時間ほど歩き回っただろうか。なんとなく自分の行動に対する無意味さを実感して自然とうつむき、ため息が出てしまう。
砂場で遊んでいた小学生たちはもう家に帰る時間なのだろう。少しずつ公園から人の声が消えていく。気づけば、買い物袋を提げて歩く団地住民らしき人がたまに通りすぎる程度で、公園にいるのは僕だけとなってしまった。
「来る……」
そう微かに呟いた瞬間だった。僕の目の前に彼はいるのがなんとなくわかる。それは見えると言うより感じるに近い。
「君の友人は頭が良いね」
こいつは何もかも知っているというのか……。
僕が彼らに相談したことも、彼らがどんな発言をしたのかも……。
「教えてくれ、生と死の総和の意味を。それが一定とは、一体どういう事だ?」
僕はうつむいていた顔をゆっくりとあげ、目の前に立つ少年のまなざしを見つめ返した。
――その赤い瞳で、この世界の何もかもを見通した気になるな。
「生と死の総和が一定なんて当たり前のこと。君の友人は確かそう言ったね。時間という言葉が指示している概念は本当に不便なものだと思うよ。そのような思考しかもたらしてくれない概念なんて、とても悲しいね」
何かが欠如しているお前が、人の悲しみや苦しみを理解できるほど、高度な感情を持っているとでもいうのか? 僕は彼に、そう問いかけたかった。
「概念は定義を超えて力を持っている。僕たちには言葉だけでない何かがある。お前の存在のほうがよほど悲しいと、僕はそう思う」
「そうかな。立場が違えば、価値観も異なる……か。まあ良いでしょう。ファンダメンタルズは世界の運命を決定づけている根本概念なんだよ。生と死、こうした
僕には彼の話している内容が良く理解できなかったけれど、きっと城戸の言葉に大きな誤りはないと、そう確信した。
「それでも人は、生と死の狭間を常に揺れ動きながら生きているんだ。死には常に潜在性が伴っている。同時に生きることに対してもまた……」
僕の言葉をさえぎるように少年は口を開く。それは、おおよそ少年の外観からは想像もできないような、これまで聞いたこともない鋭い声だった。
「生と死の狭間を揺れ動くような生き方について、僕には君たちの概念を理解できない。僕は実体者ではないので……。ところで、君は何を望んでいるんだ?」
僕は彼女の生を望んでいる。それは間違いない。ただ、それは彼女にとって、とても苦しいことなのだと、それも理解しているつもりだ。生きるとは何か、本当はこうした問いについて、僕は悩み続けていたのかもしれない。自分自身のことも含めて。
「君とその大切な人、双方が共に生きている世界。君はそれを望むか? しかし、君たち実体者はいずれは死ぬ。君はいつまで彼女、平野恵と一緒にいることができれば満足なんだい?」
いつまで……。高校三年の卒業とほぼ同時期に僕らは別れることになる。僕の頭の中にはそんな過去が記憶として明確に刻まれている。それはつまり、あと一年と少しの時間なのだ。それだけの時間を彼女と一緒に過ごすことができれば満足と言えるのだろうか。それともその1年先、あるいは2年……、一体どれだけ一緒にいられれば僕は……。
「そう簡単に変えることができないのが運命さ。でもね、少しでも変化を期待したいのなら、それは君自身が一番よく分かっていることなんじゃないかな? 君の記憶の中の人生をこの世界で再現しようとすればするほど、この世界における決定論的運命は明確になっていく。それに君はもう気づいているはずだ」
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