運命への抗い、そして決断

 『この夜空の向こうの彼方に落ちていくような気がして……。そんな感覚が、少しだけ怖い』


 20年前、僕が初めて恵ちゃんと二人でプラネタリウムへ行った時のことだ。それは僕の記憶の中にある風景の一つにすぎない。ただ、プラネタリウムの観客席に座り、ドーム・スクリーンを見上げた彼女は小さな声で確かにそう呟いた。彼女の言う通り、暗闇に包まれながら無数の星に囲まれている風景は、とても幻想的で美しくもあるのだが、無間の彼方に吸い込まれていきそうな不思議な感覚に包まれる。


 恵ちゃんとよく行ったプラネタリウムは、池袋のランドマークともいえる高層ビル内にあった。初めてデートをしたあの商業施設の入った巨大なビルだ。その最上階が国内でも最大規模を誇るプラネタリウムとなっている。記憶の中の思い出には、二人で何度もこのプラネタリウムを訪れたことが鮮明に刻まれているにも関わらず、過去を再認識して約一年、この世界では一度もこのプラネタリウムを訪れることはなかった。


 このプラネタリウムのドーム・スクリーンは直径約二十メートルほどある。平日の午前中だからか、巨大な天球の真下にある400以上の座席に人影は少なく、観客はまばらだった。その日、僕は高校の授業を一限目から欠席し、1人でこの場所を訪れていた。


 上映時の注意事項などに関する館内放送がおわると、僕はプラネタリウムの座席シートに深く腰掛け、天球を見上げた。ドーム・スクリーンに投影されている昼の光が、ゆっくりと夜の闇に変わっていくその間に、小さな星が一つ、また一つと現れ、気づけば約9000個の星々に囲まれていた。


 あれほど『宙の名前』や『空の名前』を気に入ってくれたのに、プラネタリウムには一度も来たことはなかったし、結局、恵ちゃんが空の写真を撮ることもなかった。


『君の記憶の中の人生をこの世界で再現しようとすればするほど、この世界における決定論的運命は明確になっていく。それに君はもう気づいているはずだ』


 あの少年の言葉が広大な星空の中で反芻されていく。まるで闇の向こうから僕たちの運命を監視するかのような存在……。


「僕が近くにいればいるほど、彼女の運命は、僕が知っているものとほど遠くなっていく……。そういう事なのだろう……」


 ふと気づくと頭上には、射手座が輝いていた。夏の星座であり、また12月生まれの彼女の星座でもある。サソリの赤い心臓、アンタレスを狙い続けるその射手は半人半馬の民族ケンタウルス族の一人、ケイローンだと言われている。


――彼女の運命を狙い続ける何か。


「それに抗うために、僕はどうしたらよいのだろう……」


僕は頭上に輝く星座を眺めながら、これまでの一年間を振り返っていた。


「記憶の中の僕と同じことをしようとは思わないことだ……」


 僕たちは高校三年の三月まで付き合っていた。ならば、その歴史は少なくとも塗り替えられなくてはいけない。つまり、今すぐに別れるか、あるいは高校卒業後もずっと一緒にいるかだ。しかし、確実かつ現実な選択は、今すぐにでも別れることだろう。高校卒業後もずっと一緒にいられる保証はないし、その間に彼女自身の状態が運命に抗えず、絶望の淵へと向かってしまう可能性は十分にありうる。特に受験を控え、心理的負担も大きくなる高校三年の一年間は、非常にハイリスクな時期だ。何よりも、未来に運命を賭けるというのは不確定要素が多すぎた。


 プラネタリウムの上映が終わり、あたりが明るくなってもしばらく僕は座席に深く腰かけたまま、頭上を見上げ続けていた。


「ごめん、いつもなんだか急で」


 池袋駅の繁華街とは反対側にある喫茶店に僕が呼び出したのは今ちゃんだ。


「ううん。大丈夫だよ」


 そう言って今ちゃんは入り口カウンターでホットコーヒーを注文する。


「なんか瞬ちゃん、疲れている感じだね。大丈夫?」


「大丈夫と言いたいところ……なんだけど、案外そうでもなくて……」


 自分も今ちゃんと同じホットコーヒーを注文し、それをトレイに乗せ、空いているテーブルを探した。店内の窓際奥にちょうど二人分の席が空いており、僕らはそのテーブルにトレイを置き、木製の椅子に腰かけた。


「それで、話って?」


 ホットコーヒーにミルクと砂糖を入れ、ゆっくりかき混ぜている今ちゃんの姿を見ていると、先日、恵ちゃんと一緒に行ったイタリア料理屋をふと思い出した。彼女がコーヒーの表面に浮かぶ泡にミルクで器用にハートマークを描いていた光景が頭の中をよぎり自分の決心が少しだけ揺らぐ。


「タムちゃんには話をしたんだけど、俺はその、なんというか高校生の俺ではなく、20年先の俺の意識がこの時代に逆戻りしたというか……。そう、これはつまりタイムリープという事なんだけど……」


 高校校舎の屋上で友人らにこれまでの事情を説明したときのように上手く言葉が出てこなかった。


「瞬ちゃん? 疲れて頭おかしくなった?」


「いや、そうではなくて……。うん、そうだなぁ。人生をやり直したいって思ったことある?」


 具体例のほうが分かりやすいかもしれない。僕は、タイムリープの話を過去のやり直しという説明の仕方に変えてみた。


「うん、あるよ。私は、小学校6年生の時かなぁ……」


「それが現実に起こってしまったらという事を考えてみてほしいんだ。それも今の記憶と経験を持ったまま、意識は過去の世界の自分という感覚」


「瞬ちゃん、それ本気で言ってるの?」


 当たり前だが、そう簡単に信じてもらえる話では無いだろう。僕は目の前にあるコーヒーから立ち上る湯気をしばし見つめる。その湯気に乗ってほろ苦いコーヒーの香りが僕を包んでいく。


「結論から言うと、僕は恵ちゃんと別れるつもりだ」


「は? さっきから冗談よしてよ、まったくもう……」


 そう言って今ちゃんは苦笑いをしている。彼女は僕の言葉を端から信用していないのだろう。確かに、いきなりこんな説明をされて、本気だと信じることの方が難しい。冗談だと思われても仕方のない話だ。


 ただ、これ以上、詳細な説明を加えることは、彼女をさらに混乱させることになりかねないと思った僕は、話の要点だけを伝えることにした。


「彼女が嫌いだとか、そういう事じゃない。むしろ本当に大切だからこそ、一緒にいてはいけないんだ。恵ちゃんと一緒にいることで、彼女は今後ますます希望を失ってゆくことになる。だから、今すぐに僕たちは別れなければいけない……」


「ちょっと待って。そんな、言っていることの意味が分からない。大切なら、ずっと一緒にいるべきでしょ? 希望を失うってどういうこと? 別れる必要なんてないじゃない。ヒラメは瞬ちゃんのこと本当に大切に思っているんだよ? なんでそんなこと言うの?」


 分かっている。そんなこと分かっているさ。僕だって彼女と一緒にいたい。でもそれが彼女の運命を変えてしまうことは明らかなんだ。どんな生にも無条件に価値がある。どんな生き方に価値があるのかとそんな問いは無意味だ。たとえ運命だろうと、必然的帰結だろうと、彼女の生を僕が奪ってはいけないのだ。そんな運命や必然には何としても抗わなければいけない。


「ごめん、今ちゃん。上手く説明できていない部分がきっととても多いし、今すぐ理解できなくてもしょうがないと思う。ただ一つだけ、無理を承知でお願いを聞いてほしい」


「いや、そんな瞬ちゃんのお願いなんて聞けないよ」


「頼む。僕と恵ちゃんが別れた後、彼女の様子を僕に知らせてほしい。少なくとも彼女は今後、前向きに生きていくことができるはずなんだ。僕はそれを確かめたい。図々しいお願いだというのは承知している。でも僕にはこうすることしかできないんだ」


「瞬ちゃんと別れてヒラメが前向きになれるわけないじゃないっ」


 今ちゃんはそう言うと、席を立ち、そのまま去ってしまった。いずれ分かり合える時が来るかもしれない。今は、そう思うより他なかった。


 その日の夜、僕はタムちゃんの家に電話をした。今ちゃんに今回の件を相談したこと、そして十分な理解を得られず、誤解も入り交じり、彼女に怒られてしまったこと、自分の中での結論と決断について、彼に話をした。


「そうか。瞬ちゃんの決めたことだから、俺は何も言わないよ。ただ、いろんなことが上手くいくように祈っている。今ちゃんには、俺からしっかり説明しておくから心配すんな」


 タムちゃんはそう言って、僕が導き出した結論を理解してくれた。自分の決断に、今だ迷いがあるのは否定しない。でもこれ以上、僕と恵ちゃんはこの世界で時間を共有してはいけないのだ。こうすることでしか、ファンダメンタルズの流れに抗うことはできない。


 久しぶりに登校した朝に、僕は学校の正門前でたまたま城戸と出くわした。彼は、“ちょっと来い” というように指でジェスチャーすると、校舎うらにある駐輪場の先へ向けて足早に歩き出した。腕時計を確認すると、朝のホームルームが始まる五分前だ。ちなみに彼は中学時代から遅刻をしたことがない。


「乙坂、簡単に変えることができないのが運命、そう思うか?」


 城戸は校舎の裏に来ると僕を振り返り、いつもの無感情な声でそう言った。


「いや、運命は変えられると思う。変えようと意志すれば」


 城戸は僕に一歩だけ歩み寄り話をつづける。


「一昨日、田村から話は聞いた。お前は例の彼女と別れることを決断したんだってな。その決断について、俺にも言いたいことがある。お前の決断とやらは、お前にとって運命を変えようとする意志そのものだと、そう理解してよいか?」


 そうするより他ない。それが僕の答えだ。確かにそこには意志なるものは希薄かもしれない。しかし、希望へと続く道を選ぶための選択肢が限られているのなら、今ある手持ちの選択肢の中で、一番マシな決断をするより他ないじゃないか……。


「ああ、そうだよ。少なくともこの決断がこの先、彼女の希望に繋がっていくのだと、俺は信じている」


「お前たちが別れなくても、何かを変えることができる、そういう可能性は無視か? 現にお前はそうやって一生懸命、運命に抗ってきたじゃないか」


 城戸の声に感情が灯る。僕はこんな城戸の声を初めて聞いたかもしれない。常に冷静沈着で頭脳明晰。それにも関わらず必要最低限の会話しかしない彼の性格は、どこか無機質で近寄りがたかった。しかし、今目の前にいる彼は、それとは全く対照的な、どことなく不完全で、非論理的でありながらも、豊かな感情を全面に漲らせている暖かな存在だった。


「これが俺と彼女にとって最善の決断なんだ」


 城戸が言いたいことは理解しているつもりだった。しかし、それでも僕は自分の決断を変えようとは思わなかった。


「お前、あれから、例の欠如体者に会ったな?」


「ああ」


「そこで何を言われた?」


城戸は僕の胸ぐらをおもっきりつかみながら詰め寄ってきた。


「記憶の中の人生をこの世界で再現しようとすればするほど、この世界における決定論的運命は明確になっていくと……」


「ちっ。くそったれ」


そういうと、城戸は胸ぐらをつかんでいた手の力を少し緩めた。


「乙坂、お前に問いたい。彼女と一生付き合っていくのではなく、今すぐに別れるという選択をしたその根拠は何だ? お前の記憶の中の人生、つまり高校三年でお前らが別々の道を歩む可能性を否定すれさえすれば、理論的には運命は大きく変わるはずだ」


 もちろん、同じことを僕も考えた。だけれども、一年以上先の不確実性に委ねるよりも、今現在における確実性を選んだ方が良いと判断したのだ。城戸は僕の答えを待たずに話を続ける。


「お前は逃げているだけだ。ただただ安全パイを、頑なに守ろうとしているだけじゃないか。一生、彼女と共に生きていく、そういう覚悟みたいなものがお前にはないのか?」


 城戸はそれだけ言って僕から手を放すと「もう少し骨のあるやつだと思っていたが……」とだけ言い残し、そのまま背を向け、その場から立ち去って行った。


 誰もいなくなった校舎裏に僕は一人で立ち尽くす。一限の始業を知らせるチャイムはとうに鳴っていた。


 「確かに城戸の言う通りだ。でも、僕には不確実性を選ぶことはできない」


 僕は自分に言い聞かすように小声でつぶやいていた。人の生死がかかわっているのだ。少しでもリスクのない選択をする必要がある。たとえ、それでお互いの心が傷つくのだとしても、生きていることのほうが大切であり、何よりもかけがえのないことのはずだ。


――死んでしまったら何もかも終わりじゃないか。


 死は僕たちの中にあらかじめ潜んでいて、突如襲い掛かってくるものではない。死は人の外部にあるのではなく、その内部で胎を結んでおり、そのつど不断に僕らの中へと立ち現れ、僕らを脅かすものだ。


 死が恐怖なのか、それとも魅力なのか……。いずれにせよ僕たちにとって死は経験不可能な事象である。つまり、人間にとって死とは可能性の観念としてだけ存在しているのだ。たとえ生に絶望がまとわりついているのだとしても、僕はそんな死の可能性を極限までに低下させたい。彼女にとって死を希望にさせたくないんだ。そのために取るべき行動に個人的な情動は必要ないと、そう結論した。


「今更、何を迷う必要がある……」

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