闇雲風日記
天津真崎
闇雲風日記
雨宿りする騎士と姫君
雨宿りする騎士と姫君
夏の北海道・美瑛の道。
『パッチワークの丘』と呼ばれる、美しい道をふたりで走った。
青と白。色違いの、同じバイク。
緑の丘と黄色い畑は、絶妙に重なり合って。
貫く灰色のアスファルト。
夏の美瑛の道は、アップダウンしながら、細く長く伸びていく。
遠くには等間隔に並んだ防風林。
地平線には道標のような木がぽつりと立っている。
絵本みたいに無邪気な風景だった。
バックミラーには、見慣れた車種の、見慣れない色のバイクに乗った女の子の姿が小さく見える。
丘を登るたび、降りるたびに、ミラーに映ったり消えたりするけれど、同じ間隔でずっと後ろをついてきている。ミユキだ。
ミラーシールドの向こうの表情は見えないが、きっとご機嫌だろうと思った。
夏の美瑛を走って、笑顔にならないライダーなんてまず居ない。
迷路のような丘の道を、それでも二台で楽しく迷いながら走った。
地図は見ずに、感じるままに走る。
それから、目印の木と線路跡を頼りに、ドイツの家庭料理を出すというカフェにたどり着き、大ふんぱつした昼食を食べた。
外に出ると、真っ青だった夏空が、一面真っ白になっていた。
嫌な予感はしたが、(ライダーがたいていそうするように)とりあえず走り出したら、すぐに雨の最初の一粒が、ヘルメットのシールドで跳ねた。
こりゃ降るな、と思った直後、無数の細い糸のような雨が、音もなく世界を覆い始めた。
俺は左ウィンカーを出して路肩に停車した。
ミユキも同じように止まる。
バイクにまたがったまま振り返り、ジェスチャーで「ついてこい」と意思表示した。
ミユキの革のグローブに包まれた手が「おっけー」とサインを返した。
俺はそのまま祈るように走った。そしてその願いが通じたのか、廃屋になった農家が視界に飛び込んできた。おあつらえ向きに、ふたりのバイクを入れても余裕のあるカマボコ型の倉庫があった。
ぬかるんだ土と段差にタイヤを取られないようにしながら、屋根の下に逃げ込む。
ドドドドドド。
二台のエンジン音が重なってうるさく反響した。
ふたりがエンジンを止めると、とたんに耳に圧迫感のある静寂が訪れた。と同時に、雨は本降りになり、屋根に当たって、バタバタと景気のいい音を立てた。
濡れた手でヘルメットを脱ぐ。
雨と、土と、古い木の匂いがした。
桃色のヘルメットを脱いだミユキと目が合う。
とたんに、俺たちは大笑いした。
なぜだか分からないけれど、とにかく、すごくおかしかった。
「あーもう! 北海道の天気予報って、ほんとっ、アテになんないっ!」
笑いの余韻を残したまま、機嫌よくミユキは文句を言った。
「ミユキ、濡れた?」
「中まではギリギリセーフってとこ。タキくんの判断が早かったからかな」ミユキは快活な笑顔を浮かべて「さすがプロ」
冗談っぽく笑ったミユキが、ベージュの革ジャンを無造作に脱ぐ。
立体的に盛り上がった濃い桃色のTシャツが露わになり、その女らしいふくらみに、ついドキッとさせられた。
「さっきまであんなに晴れてたのにな」
ミユキの大きな胸を意識したことをごまかすように、外を眺めながら俺は言った。「カッパ、置いてきちまったよ」
「あたしもー」
「こりゃしばらくは動けんな」
「だね」
俺も少し湿った革ジャンを脱ぐ。ピカピカのミユキのものと違い、長年の放浪と長距離ツーリングの風雨で、すっかりボロボロだ。鮮やかだった茶色も、こげ茶になってしまっている。
……その夏、バイクで無計画な日本一周に出た俺は、後先考えずにとにかく北を目指し、なんとか北海道にたどり着いたものの、ついに金が尽きてしまった。
そして、ふと飛び込んだ人手不足のペンションで働き口を見つけ、旅費を稼いでいた。
ミユキはそこの客だった。
俺たちは、色違いのまったく同じバイクに乗っていた。
カブやらハーレーのように、キャラ人気のあるバイクじゃない。どちらかといえば、入門車のような位置づけのバイクに、それでも「自分が好きだから」という理由で乗っている俺たちは、すっかり意気投合して互いのバイクの色をホメあった。
俺が青の限定カラー。ミユキが白の限定カラー。
「蒼いバイクなんか颯爽と乗りこなしちゃって、まあニクタラシイ」
そう言って、ミユキは色っぽい横目でホメてくれた。……くれたと思う。
でも、赤いスカーフ、いい生地のデニム、高価そうな茶色のブーツで、真っ白なバイクに乗るミユキも、すごく魅力的だった。
ミユキには不思議な気品があり、なんだか白い馬にまたがって遠乗りに出るオテンバ姫のようにも見えた。
「北海道最後だってのに、ツイてないな」
「いいよ。楽しかったし」
薄暗い倉庫の中に、雨の音と、軽やかなミユキの声が、混ざり合って響く。ミユキは声の可愛い女の子だ。
ミユキは翌日東京に帰る事になっていて、実質フリーで動けるのはこの日だけだったのだ。
滅多に仕事の休みなんてない俺に、たまたま空き時間が出来たので、一緒に富良野・美瑛をツーリングしようと、自分の予定を変更してくれた。
俺は、一部のライダーだけが知る秘密の青い池や、白金の白樺並木、五陵の丘なんかにミユキを案内した。
どれもまだ、へんに有名になって手あかにまみれる前で、知る人ぞ知る穴場だったから、すごく喜んでくれた。
バイクっていいね、とミユキは快活に笑い、最高だよな、と俺は返した。そこで終わっていれば完璧だったんだけれど……。
まったく止む気配の見えない雨空に、俺はためいきをつく。
でもミユキは楽しそうに笑って、言った。
「こんなのも悪くないじゃない? 雨宿りなんて、東京じゃまずしないよ」
東京か……俺は、旅の途中で通った新宿のせわしさを思い出す。
「タキくん。361円しか持ってないなんて、ウソなんでしょー」
ミユキが言った。
「本当だよ、残念ながら」ウソであったらと俺も思う。
でも、ペンションに飛び込んだ時、俺の残金はわずか361円だったのだ。
「ランチごちそうしてくれたのに?」
「姫をエスコートするため、高利貸しに頼んでデート資金を工面したのさ」
働いているペンションのオーナーは、スタッフに金なんて絶対に貸さない。
俺は、まだ多少話の通じるオーナーの息子に頼んで五千円借りた話を、まわりくどく説明した。ちなみに日当は三千円。
「あはは。姫は、くるしゅうないぞよ」
「けど確かに、こんな風に雨宿りするのって、いい感じだよな。まるで物語のワンシーンみたいだ」
言いながら俺は、目の前に並んだバイクを眺めた。
白と青。同じ形のバイクが並ぶとすごく絵になる。
長い旅で、俺の青い方はボロボロだけど。
「ミユキに会えて、一緒に走れて嬉しいよ」
優しい顔のつくりをしたミユキを見て言った。常に笑っているように柔和な顔。魅力的だな、と少し見つめる。
「うん」
なぜか急にミユキは静かになってしまった。
うつむいて、地面に落ちた小さい何かを探すように視線をさまよわせている。
どうしたんだろう、と俺はじっとミユキを見た。
客の九割が若い女の子という美瑛のペンションで働いているせいか、なにかと女の子の態度には気を使ってしまう。
「えー。忠告いたします」
改まった口調で、とつぜんミユキは言った。
「そーいうこと、かんたんに口にしない方がいいよ? 女の子は本気にしちゃうよ?」
「え」と俺は驚いた。「本気で言ってるんだけど……」
一緒に走れてうれしいって、そんなに変か?
それからまたミユキは黙ってしまった。
冷えてきたバイクのエンジンが、キンというかすかな音をたてた。
雨は静かに降り続けている。
「……タキくん、関東の人だったらよかったのに。そしたらすぐまた一緒に走れたのに」
ミユキがぽつり。
「もし東京で会ってたら、ミユキは、俺なんかとは仲良くなってないさ」
「あのねえ、タキくん。じゃあなんですか。北海道だから、浮かれてこんな風に男の子と一緒にバイクで走っていると、そうおっしゃいますか。旅先のロマンスですの? コレ」
クドクドと嫌味っぽい口調。俺は、苦笑いしながら、ミユキに謝った。
「悪かったよ。東京で出会えてたらよかったな。そしたらもっともっともーっと仲良くなってたかもしれないし」
「またそういうこと無責任に言う……」
「いやいや。同じバイク乗ってんだ。気が合うし、きっと縁もあった。本当に、北海道じゃなくても出会えてたかもな」
ぽろりと簡単に言ってしまってから、あ、今のはちょっとクサかったかな、とさすがに思った。
また何か言われるかな、と身構える。
ミユキは、眉間にしわを寄せて、ものすごく考えこんでいるような顔をした。
それから、はーっと大仰に息を吐いた。
「……やっぱり、東京には寄らないの?」
「うん」
旅費が貯まれば、日本一周を再開する。でも、東京は避ける。そうミユキには話している。
「野宿するところもないし。ビジホなんて使ってたら、せっかく貯めた旅費もすぐなくなっちまうよ」
それ以上に、北海道の雄大な道を走った後で、東京のゴミゴミした道には、近づく気すら起きなかった。
ミユキは、倉庫の入口を覆う透明な幕のような雨をじっと見つめた。
無表情。
この子にしては珍しい顔だな、と思った。
「私ね、本当にお姫さまなんだよ」
イタズラっぽく、ミユキが言った。雨に向かって話しかけるような口調だった。「成城に住んでるんだけど、家見たらタキくんきっとびっくりするよ」
「セイジョウ?」
「本当に東京のこと知らないんだねえ。世田谷って言った方がわかるのかな」
「セタガヤ? 高級住宅地? ……ミユキの家って金持ちなのか」
「ん」
「おうち、医者とか?」
「ううん。パパもお兄ちゃんも会社やってる」
「まいったな。本当にお姫様だったか」
俺はしみじみ言った。そして黙った。
「……おごって損したとか、考えてる?」
「え。まさか」と俺は大げさに首を振って否定した。「そんなこと、これっぽっちも思ってないよ。今日は、本当にお姫様とのデートだったんだなって、噛みしめてただけ」
「ごめん。ちょっとイヤな女みたいな言い方だった」
「いや、そんな風には感じなかったよ」
ミユキはそれきり黙ってしまった。
俺たちは、降り続く雨をぼんやりと見つめた。
雨宿り。
まだ午後の早い時間だというのに、倉庫の中は薄暗い。
雨の降る音だけが響き、世界に取り残されたような雰囲気だ。
ひとりだったら、ちょっと寂しかっただろうな、と思った。
たぶん、ミユキも同じだろう。
ふたりだから、雨宿りは寂しくないのだ。
雨は強くなったり弱くなったり。
時々風が吹いて、霧のような雨粒が倉庫の中に入ってくる。
少し肌寒くなってきた。
「寒くない?」と俺は気を使った。
「うえっ?」とミユキはなぜか過剰に反応して「べ、別に」
「あ、そう」
「大丈夫です」小刻みに頷く。
「なんで敬語なんだ」
「わかりません」
俺もわからないよ、と少し混乱してきた。
「あー、タキくん」と唐突にミユキは、俺を見ず、下を向いたまま手の平をこちらに突きつけて来た。反省する猿みたいなポーズで「こんな雰囲気にまかせて、抱きしめたり、キスしたりってのは、ナシの方向性でお願いします。そーいうことされると流されちゃうから」
「しないよ」と俺は苦笑。
こんな雰囲気、か。
……北海道をバイクで旅する人間は、もれなく全員が魔法にかかる。
見るものすべてに感動し、
出会うひとみんなを愛しく思う。
雨に薫りを、
風に甘みを、
光に温かみを感じるくらい、感受性が押し広げられる。
何かを無責任に期待し続ける。運命だって信じてしまう。
……そんな、ちょっと頭が変になってしまう魔法。
俺のように、長く旅を続ける根無し草は、ずっと魔法にかかったままだ。
甘美な夢をぼんやり見続けられる。
けれど、ミユキみたいに、ほんの短い期間だけ北海道で過ごすマトモな人間は違う。
明日、北海道を去る船に乗り、大洗港に到着し、自宅に帰りつく。
ガレージにバイクを止め、荷物を降ろし、風呂に入って、眠り、一夜が明ける。
そしたら、もう、魔法は消えている。
しばらくは残照みたいなものが残っているかもしれない。
けれど「日常生活」という現実の圧力は、いともたやすくその魔法をかき消してしまうだろう。
魔法にかかったままの俺と、夢から覚めた人間。
その間に生じる、どうしようもないギャップ。
……俺は、それが怖かった。
だから、雰囲気に任せて、北海道の魔法を悪用して、女の子をモノにしたりはしたくなかった。
きっとその子を傷つける。そして自分も傷つく。
蛇足の時間が、魔法の反作用が、神聖な思い出を穢す。
……あの時のように。
「……タキくん……?」
考え込んでしまった俺の顔を心配そうにミユキが覗き込んでいた。
こんな雰囲気で急に黙りこくると不安だろうな、と俺は慌てて笑みを作った。
「ミユキ、いつかまた、北海道にバイクで来る?」
「もち!」
ミユキは屈託なく大きな胸を張った。
そのとき、唐突に、倉庫の広い入口に光の柱が出来た。
いつのまにか頭上の雨粒の音は消えていた。
手の平をかざしながら、俺は倉庫から表に出た。
『パッチワークの丘』と呼ばれる、美しい道。
緑の丘と黄色い畑は、絶妙に重なり合って。
貫く灰色のアスファルト。
夏の美瑛の道は、アップダウンしながら、細く長く伸びていく。
遠くには等間隔に並んだ防風林。
地平線には道標のような木がぽつりと立っている。
絵本みたいに無邪気な風景の雨上がり。
雲が千切れ、空のあちこちに、くっきりした青色が、パズルのピースのように見えていた。
緑の平原のところどころには光の柱が立ち、濡れたアスファルトが鏡面のように輝いていた。
ものすごい解放感だった。
現実というにはあまりに美しすぎる。
そんな幻想風景の中に、俺は『それ』を見つけた。
思わず叫ぶ。
「ミユキっ。こっち。はやく!」
「おー。晴れたねー」
ミユキは眩しそうに目を細めながら倉庫から出てくる。
茶色のブーツが、アスファルトに、ゴツゴツと小気味良い音をたてた。
小さいけど柔らかな身体が俺の隣に来る。
そして、遠い視線で、夢見るように。
ミユキは呟いた。
「すごい……」
それは、『動く雨』だった。
広大な丘の上を、はっきりと見える雨の灰色の塊が、ゆっくりと静かに遠ざかっていく。
空の先にはまだ分厚い雨雲が拡がっていて、その真下に、雨の降っている部分とそうでない部分との、はっきりとした境界線が出来ている。
境目から右は灰色のカーテン。
左は薄く白い空が見えていた。
「こんなの……初めて……見た」
かすれた声でミユキが言った。
雨が動いている。
雨が遠ざかっていく。
俺たちのまわりを覆っていた雨が、どこかに去っていこうとしてる。
それは、信じられないほど荘厳な風景だった。
輝くアスファルトの上で、俺たちは並んでその光景を眺めた。
車も人もなかった。雨雲と丘と光の世界には、俺たち二人だけだった。
俺の左側に立つミユキが、自分の肩と俺の肩をくっつけた。
半袖から出た俺の腕とミユキの腕がじかに触れ合う。
ミユキの右手が、俺の左手をそっと握った。
冷えた互いの腕と手がぴったり重なり、ふたりの体温が混ざり合うのを感じた。
俺は、少し首を傾けてミユキを見た。
ミユキは顔を背けてこっちを見ないようにしていた。
肩までの茶髪から少しのぞいた耳や首筋が、真っ赤になっている。
俺の視線に気づいたミユキが、上品な声で、恥ずかしそうに言った。
「……まあ、このくらいは、ね」
俺は遠ざかっていく雨を見た。
それから、眩しいアスファルトを見て、パッチワークの丘を眺めて。
遠くに咲き乱れるヒマワリ畑に目を凝らして、少し考えてから、ミユキのほうに体全体をゆっくり向けた。
左手は繋いだまま。
その感触越しに、ミユキの緊張が伝わってくる。
うやうやしく片膝をついた。
濡れたアスファルトも気にしなかった。
そして、戸惑うミユキのすべすべした手の甲に、そっとキスした。
姫君に忠誠を誓う騎士のように。
それからゆっくりと立ち上がって。
身体を雨のほうに戻す。
手は繋がったまま。
その間、一度もミユキのほうは見なかった。
「うあ」とミユキは空気が漏れるような声でうめき、ひっくり返った声で「……とんでもないこと、されちゃったよ……」
「まあ、このくらいは、ね」
我ながら正気とは思えない行動だった。
だけど、それが許されてしまう不思議な世界。それが、夏の北海道だ。
この魔法が及ばない白々しい場所で、きっと俺たちは、会わないほうがいい。
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