通り過ぎるだけの町 10

 雨は、唐突に上がった。

 そして嘘みたいに空はクリアになり、夏の夕暮れが戻ってきた。

 強い金色の光が、山や、畑や、田舎の大きな一軒家など様々なものの表面に、くっきりとした光沢を作っていた。道路は輝いていた。

 バス停を出た俺たちが、行きに見た『SUZUKI』の看板のあたりを通るころには、熱い鉄板に水をかけたあとみたいな生ぬるい蒸気が、地表を覆っていた。

 俺は、上機嫌でバイクのスロットルをまわし、そのこんもりとした湿気の中を走り抜けた。

 頭の中で、とりとめもなく、いろいろな曲が流れた。『カントリーロード』とか『オブラディ・オブラダ』とか『夏色』とか……古い、夏を感じさせる曲だ。

 きっとミチルは、流行りの邦楽でも頭の中で再生していることだろう。

 それを想像すると、なんだかとても暖かな気持ちになれた。

 二人そろって全身ずぶ濡れだったが、寒さは感じなかった。そのまま小一時間ほども走り続ければ、靴以外は乾いてしまいそうだった。でも、その前に街に着くし、日は完全に暮れる寸前だった。

「はやくオフロ入らなきゃね」

 バイクに乗るときミチルはそう言った。

 帰りもミチルは、来たときと同じくぴったりと身体を俺に押し付けてきたが、その親密な密着具合は、行きとはまったく意味合いが違っている気がした。

 やがて夜になる。

 ミチルの部屋でオフロに入って、夜が来て、それからどうなるんだろう?

 山を下り、畑を抜け、巨木の立つ神社の脇を通り、もうロープが張られて店じまいしたガソリンスタンドの前を走り抜けて街に戻りながら、俺はずっとそれを考え続けた。

 そして、ミチルの子供のように細い身体とか、小さいけど柔らかい胸とか、形のいい脚のことをぼんやり考えた。


 ◆


 ミチルのアパートの駐車場に着いたとき、とっぷりと日が暮れていた。

 虫の声が響く透明な闇の中に、田んぼの青くさい匂いが漂っていた。

 川の流れる音が聞こえた。

 広い駐車場には少し車が増えていた。

 俺はさっきと同じ場所にバイクを止めた。

 バイクを降りると、ミチルは、

「十分だけ待ってて!」

 と上ずった声で言った。俺は笑いながら、

「十分でも一時間でも待つよ」と言った。片付けたり、見られたくないものを隠したり、まあ色々あるんだろう。

 急ぎ足で階段のほうに向かおうとしたミチルの背中に声をかける。

「なあ、このへんにコンビニないかな?」

「あるよ。ファミマ。でも歩いたらけっこうかかるよ」

「時間つぶしがてら、散歩でもしてくるよ」

「あ。原チャ使う?」

「お。助かる」

「じゃあ、これ」と言ってミチルはポケットから不細工なクマのキーホルダーが付いた鍵を渡してくれた。

 濡れたジーンズでミチルのピカピカの原付のシートに座るのは気が引けたが、まあ仕方ない。よく見ると、原付も、それからあたりの道路も乾いている。雨が降ったのは山のほうだけらしい。

 俺は苦笑しながら、原付のエンジンを始動させた。

 足元に、活発な女の子を想起させる元気な鼓動を感じた。

 原付って、久しぶりに乗ると、なんだかワクワクしてしまう。

 乗り慣れないバイクは新鮮ってこともあるけれど。

 コンビニに行き、俺は、少しだけ悩んでを買った。

 我ながら下心丸出しみたいでイヤだったけど、もし必要になったときに無いのも非常に困る。

 全身濡れていて、立ち読みすら気が引けたので長居はせず、表に出た。

 夜のコンビニの駐車場には、都会じゃなかなか見ないような改造車と、そのまわりに座ってタバコをふかす暇そうな若い男たちがたむろっていた。

 この街での、ふだんのミチルの暮らしが頭をよぎった。

 たしかに、俺との出会いは非日常だろうな、と思った。


 ◆


 夏の夜を、軽やかな原付で走るのは気分良かった。知らない町ならなおさらだ。

 久しぶりに原付に乗ったせいもある。

 なんとなく、初めて免許を取ったころの高揚感を思い出した。

 そのまま、いつまででも走っていたい気分。

 上半身と、ジーンズの前面はすでに乾き始めていた。

 気持ち遠回りしながら三十分くらい走ってミチルのアパートに戻ると、玄関ドアの脇の小窓にオレンジ色の灯りがつき、ガス湯沸かし器の「ごんごん」という音が聞こえた。

 お風呂ってまさか一緒に入るのかな、と考えていた俺は、ホッとすると同時に少しガッカリした。

 玄関ドアには鍵がかかっていなかった。でも、なんとなく中に入るのはためらわれたから、階段に腰掛けて待っていた。

 やがて、ガスの音が消え、バスルームの灯りも消えた。

 それからしばらく経ち、白いTシャツに着替えたミチルの濡れた小さな頭が、外を伺うようにそっとドアの隙間から出てきた。

「うおっ」と驚く。「遅いなと思ったらなんでそんなとこ座ってんの」

「あ」と俺は照れながら立ち上がる。「いや、なんとなく」

「もう。中で待ってられるように鍵開けてたのに」

 湯上りの蒸気した顔でミチルは呆れた。

「服濡れてるから、悪いなーと思ってさ」

「へんなとこで遠慮するんだね。けっこう強引なくせに」

「強引? おれが?」

「そりゃあもう。ぜつみょうな強引さ」

「絶妙?」なんだそれ。

 話しながら玄関に入った。

 ミチルは身体のラインがわかりにくいぶかぶかの白いTシャツ姿で、上半身だけ見ると少年のようだった。でも、下半身は紺色のショートパンツで、綺麗な白い脚がむき出しになっている。正直、ドキドキしてしまう。

 俺は荷物から適当に着替えを出して、いい匂いのするバスルームに入った。

「バスタオルは適当に使って。ごゆっくりー」

 ドライヤーを持ったミチルは、愛想よく笑って戸を閉めた。

 身体に貼りついた濡れた服をようやく脱ぎ、最初に来たときピンク色のブラジャーとショーツが入っていたバスケットの中に放った。当然、下着はもう入っていなかった。

 長く放ったらかしの俺のアパートにも浴室はあるが、それとは全然違うバスルームだった。こざっぱりとして、ソープ類や乳液がたくさん並べられていて、歯ブラシとコップの置き方がていねいで、タオルはどれもほわほわと柔らかく良い匂いもして、なんだかの店頭ディスプレイみたいだ。

 ミチルにとって今の状況は非日常のドラマなんだろうけど、もちろん、この俺にとっても、同じだった。

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