通り過ぎるだけの町 9

 胸にとくん、と衝動が走った。

「私なんて、世の中じゃ、超脇役って存在感なのに、こんな風にしてると、自分がなんかドラマとかのヒロインになってるみたいな気がするんだよね」

 ふふ、と笑う。

 圧迫感のある気持ちのかたまりが、胸の奥から外に押し広がるようにこみ上げてきた。

 あの、高校生の放課後、高台の神社で、同級生の女の子と、肩と肩をくっ付けあったときのように。

「いいよねー。夏の雨宿り」

「……みかん」

「ミチルだよ」

 ミチルは唇の両端を持ち上げて目を細める。

 濡れた白い顔に、蓮の花のような優しげな笑顔が浮かぶ。

 ミチルの本名を聞かされたのは、この時だ。

「ミチル?」

「私のほんとうの名前」

「ミチル……」

「うん。ちゃんと名前で呼んで?」

「ミチル」

 俺はなるべく丁寧にその名を呼ぶ。

「うわうわうわ。イカン。照れるーっ」

 ミチルはおおげさな動作でくるりと背を向けた。

 前に垂らしたねじり髪からのぞく細いうなじはじんわりと赤い。

「……ていうか、わたし、いま、超はずかしいこと、言ってなあい?」

「そんなことはないよ」

「うーん。さすが。余裕だねー」

 ミチルは背を向けたままで肩を震わせるように笑う。

 唐突に本名を名乗った、その、地味な顔立ちの女の子に対する、愛しい気持ちがこみ上げてきた。

 ぎゅっと抱きしめたいとすら思う。

 胸が痛い。

 出会ってまだ数時間しか経っていないのに。

 この気持ちはなんだろう。

 自分のことが「だいきらい」と言ったミチル。

 自分のことを「超脇役」と言ったミチル。

 この子はきっと、自分に自信が無く、劣等感を抱えているのだろう。

 それは悲しいことだと思った。

 この子は、自分の持っている魅力や美点に気づいていないのだろうか。

 この子のまわりに居る人間は、彼女のそんな部分を正当に評価していないのだろうか。

 これは幻想だ。

 まともな出会いでも、男女の正しい付き合いでも無い。

 本来あるはずの、出会ったばかりの相手に対する距離感も、時間をかけて埋めていくべき心の隔たりもなく、ファンタジーが俺たちの時間を凝縮し、距離を縮めている。

 でも、この普通じゃない出会いに、雨に閉じ込められたふたりのシンパシーに、価値がないなんて思わない。

 日常からかけ離れているからこそ美しさに気づくものだってある。

 、丁寧に、刻み込むように目に焼き付ける景色があるのだ。

 あの山の社から見た街の風景のように。

 高校の帰り道に見た夕日のように。

 それが旅だ。

 俺は、薄暗い小屋の真ん中に立つ華奢な女の子の背中を後ろからおもむろに抱きしめた。腕に、小さいながらもちゃんとした柔らかい膨らみを感じた。ミチルの身体が細かく震えた。でも嫌がっている感じはない。驚いてはいるが、拒絶は感じなかった。その証拠に、ミチルは自分の身体に巻きついた俺の腕をそっと愛おしげになでた。

 肩越しに顔を近づける。

 ミチルの顔が振り返る。

 閉じた瞳。

 切なげな吐息。

 唇を上から重ねた。

「はあ…」とミチルが息を吐いて恥ずかしそうに顔を背けた。「……やらしいなあ、もう」

 吐息まじりの声はほのかな紅色。

 前を向いたままのミチルを、俺が後ろから軽く抱く態勢のまま。

「もし、これが映画なら。……ここでは、こういうシーンかなと思って」

 軽くなり過ぎないように注意しながら、それでも俺はつとめて明るく言った。

 ミチルはうつむいて何も言わない。

 流されて行きずりの男とキスしてしまったことに自己嫌悪でもしているのか、と急に不安になった。

 それで、

「……監督から、そう指示されたんだよ。うん」

 言い訳するように俺は付け足した。

「そっか。カントクの指示じゃ……やるしかないね……」

 腕の中で細い体が回転し、俺と向き合った。

 ミチルは思った以上に強い力で俺の体を抱きしめてきた。

 今度はじっくりと、長く、時間をかけて、俺たちはキスをした。

 ミチルの胸が爆発しそうなほどどくんどくん鳴っているのを身体で実感するのは、俺をひどく興奮させた。お互いの身体がぐっしょり濡れているのも、たまらなくエロティックだった。

 止まった時間の中で、雨だけが無限にリピートし続けていた。

 身体の表面は冷たいのに、奥のほうは熱い。

「タキくん」

 ミチルがかすれた声で俺を呼んだ。

「なに?」

「なにか、雨について、言ってみて。芝居がかったくさいセリフ」

 いきなりの難題に、俺は少し戸惑った。

 火照った頭をフル回転させる。

 思ったよりもすんなり出てきそうだった。ミチルのおかげだろう。

 ミチルだって立派なヒロインだと俺は思った。魅力的な女の子さえ居れば、どんな平凡な男だって、まるで物語の登場人物のようになれるのだ。

「空と大地をつなぐ川。それが雨だ。だから、雨の日に立ち止まってじっとそれを眺める人間は、その透明な絆を感じることが出来る。こころが雨垂れに染み込んで広がって、自分じゃない、自分よりももっと大きくて、膨らみのある、はるかな存在になれる。気がする」

「あは」とミチルは満足そうに笑った。「まったくわかんねー」

「実は、俺もぜんぜん意味わからん」

 俺達はそこで身体を離した。そしてニッコリと笑いあった。

 神様が気を利かせたのか、まるでタイミングをはかったように雨が弱まり、薄くなった雲に切れ間が出来ていた。

 柱のような光が何本も地上に降り注いでいる。

 素晴らしく綺麗だった。

 狙って見られる光景ではなかった。

 ミチルの言ったことはおおむね過大評価だとは思うけど、こういう「間の良さ」みたいな幸運は、自分にあると俺は信じている。

「ねえ。旅をしながら暮らすのってどんな気分?」

 バス停の窓から外を見つめるミチルが笑顔のまま俺に聞いた。

 普段なら難しいその問いの答えとして、いい例えが頭に閃いた。

 俺はヘルメットを持ち上げ、バス停から出ながら振り返った。


「いま、雨宿りしているこんな気分が、ずっといつまでも続く」

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