通り過ぎるだけの町 8
真っ青だった夏空に、灰色の雲がものすごいスピードで広がっていくのを見て、俺たちは慌ててバイクにまたがり、高台を出た。
あたりには、胸騒ぎを感じる湿っぽい空気が満ちている。
雨の予感だ。
どこか甘いこの空気は嫌いじゃないが、生身むきだしのバイク乗りは、空気の微妙な変化から沸き起こる感傷をのんびり味わってばかりもいられない。
「ありゃ。降ってきちゃったね」というだけの車とは違う。
早足に坂道を下りていると、灰色の幕をかぶせたようにあたりが一気に暗くなった。
やがて、何かの合図みたいな遠雷が轟いた瞬間、嫌な予感にわざわざ応えるかのように、雨が降り始めた。
「まじかーーー」
「ぎああああ」
道路わきに、枝が大きく張り出し気休め程度の屋根になっている巨木が見えたので、根元にバイクを寄せた。
スタンドを蹴り出すように立てる。
白いTシャツには灰色のまだら模様が浮かび、ジーンズは重苦しい色に染まり、日焼けした褐色の腕には水の珠が細かく張り付いていた。
「ケータイが濡れたらマズイっ。中へ入れるっ」
オロオロしているミチルに向かって怒鳴った。
キーを引き抜いてしゃがみこみ、バイク側面のささやかな小物入れのフタに差し込んで開く。
エンジン音が消えると、雨がアスファルトにぶつかる、「どざーっ」という音がボリュームを上げたように大きく響いた。
俺はミチルのキャンパス地の小さなポーチを受け取ると、自分の財布とケータイをポケットから出して中に放り、狭い小物入れの中に押し込んだ。
そうこうしている間に、俺たちの全身はどんどん濡れていく。
「ほかに濡れたらマズイもんは?」
「ないいい」
二人で再びバイクに乗り込みエンジンを始動させた。
雨は問答無用で勢いを増していき、前も見えないほどひどくなった。ゲリラ豪雨という奴だろう。ミチルは身体を縮こまらせて、隠れるように俺の背中にしがみついた。
雨具は置いてきた。雨宿り出来るような場所もまったく見当たらない。その木の枝の下にしたって、100の雨が85になる程度で、とてもじゃないがやり過ごせるような場所でもなかった。
豪雨の中を、境目を失った道路をにらみながら走った。
冷たさは感じるが、寒いほどでもないのが幸いだった。
サングラスは暗くて視界が悪くなるから外した。
ぶつかってくる雨粒が目に当たって痛い。ろくに目が開けられない。
なんでこんなことに。
両側を杉に挟まれた道は、陰気な映画のオープニングのように予言めいた不穏を漂わせ、ついさっきまでの夏景色と同じ場所とは思えなかった。
雨宿りできそうな場所は皆無。頂上に残ってお堂で雨宿りしているほうがまだ正解だったかもしれない。俺は自分の判断ミスを呪った。
早く早く、と祈るような気持ちで一心にバイクを走らせ、ようやく『病院前』のバス停に到着した。唯一、雨をしのげそうな場所として、走りながら思いついた場所だった。
俺たちはバイクを止めるのももどかしく、マラソン選手がゴールテープに倒れ込むように、そのトタン屋根の小屋へと飛び込んだ。
中は意外に奥行きがあった。ここなら雨は完全にしのげそうだ。
病院の待合室から持ってきたようなあずき色の長椅子がひとつ。見るからにホコリっぽく、座ろうという気にはなれない。その代わりに俺たちはヘルメットを脱いでその上に置いた。
シールド付きジェットヘルタイプのミチルは、顔は濡れずに済んだらしい。三つ編みにして前に垂らした茶色の髪の毛の先だけが、筆のように尖って水を滴らせていた。
でも身体は手遅れなほど水びたしだった。ジーンズも黒ずんでいるし、明るい花柄のキャミも、その下に重ねた白の半袖Tシャツも、すっかり濡れて身体に貼りついている。洗濯したあと、脱水せずにそのまま着たみたいだ。
そんなミチルを見ていると、なんだかとても可哀そうになってしまった。
本人が言ってた通り、胸のふくらみは小さい。
暗い表情でうつむき、押し黙っている顔を俺は見た。
ふだん、ここまで徹底的に濡れた女はなかなか見ない。雨具を忘れて、あきらめて濡れながら自転車をこいでいる女子学生くらいだろう。
「ごめん。……俺のせいでこんな目に遭わせた」
わざとじゃないとはいえ、俺が誘って一緒にバイクに乗ったせいで、全身ぐしょ濡れになってしまった。
俺に会わなければ、ミチルにとっては、いつもの、なんてことない平日の夕べだったはずだ。さすがに責任を感じる。
頭上でトタン屋根が「ぼたぼた」と音をたてる。
一斉に鳴き出したカエルがゲコゲコとうるさい。
ミチルは無表情にじっと床を見つめて。
沈黙が苦しい。
滴った水が、足元のコンクリートに黒い染みを作っていた。
バス停の窓枠は、雨が透明な格子のようになっている。
壁には、「生活資金貸します」というローン会社の錆びた看板と「キリストは見ている」という看板が隣り合って貼られていた。世界の片隅の漂流者のような今の俺たちも見ているのだろうか。
「ぷっ」と空気が漏れ出すような音がした。
悲鳴にも似た笑い声が、突然、響いた。
「あはははははははははははは」
呆然と眺める俺の目の前で、ミチルは、手で腹を抱え込み、その場で数回おじぎするようにして、爆発的に笑い始めた。
自分でも制御できない衝動に、無理矢理笑わされているみたいだ。
その細い目に、暖かな意志の光が灯っていなければ、ちょっと怖いと思ったかもしれない。
「いやーー、ぐっしょり。ぱんつまでびしょ濡れー」
あはは、と笑いながら楽しそうにミチルは言った。
俺は事態について行けていない。
「まいったまいった」ふーふー言っている。
「ごめん」と俺はとりあえず繰り返した。
「ん? なにが?」
「俺のせいで全身ずぶ濡れにさせた」
「は? いや、だって、雨でしょ? しょうがなくない?」
「でも、俺と一緒にこんなとこ来なければ、雨の中、バイクで走るハメにはならなかったろ?」
「いいよそんなの。あやまらないで」
あらためて俺はミチルの性格の明るさに好感を持った。こんな状況で、笑顔を見せられる女の子は、たぶんそれほど居ない。
ミチルは濡れた髪のふさを両手で握り、絞るようにして水を切った。
大人しい顔は、額や頬に濡れた髪が貼りついて、えも言われぬ色香を匂わせていた。
俺の濡れた前髪も、雫を垂らしながら額にかかっていた。
俺はそれを無造作にかき上げてなでつけ、勢いよく手を振って水を切った。
ミチルは、そんな俺の顔をじっと見ている。
「タキくん」
突然、名前をちゃんと呼ばれ、戸惑ってしまう。
そういや俺の名はタイヤキじゃなかったっけ。
「私ね、ナンパも、そんなことするチャラ男も、どっちも本当はキライなんだよ。これでも」
ミチルは声のトーンを少し落としてうつむいた。
それから、ゆっくりと顔を上げた。
自嘲気味の笑みが浮かんでいる。「説得力はないかもだけど」
「…………」
「なんで、いきなり声掛けられて、のこのこ引っかかったのか、自分でも不思議だったのさ」
「…………」
「でも、わかったよ」
「……なにを?」
「タキくんと一緒に居るとね、なんだか、物語の登場人物になったみたいな気持ちになれるからだと思う」
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