疾走する閃光 3

 そっと音を立てないように寝袋のジッパーを開き、上半身を起こした。

 真っ暗なライダーハウスの中は、男臭い匂いが充満していて、あちこちから、野太いいびきが聞こえてきた。

 プレハブ小屋から表に滑り出る。

 空は青黒く、東の地表あたりだけがうっすら灰色だった。

 夜明けまではまだある。空気は冴えて、冬のように冷たい。

 FAZERを押して離れようとしたら、ライダーハウスから、誰かが出てきて驚いた。

「おはようございます。いよいよ出発ですか」

 感じのいい笑顔を浮かべ、小声で話しかけてきたのは、大学生の『ヤス』だった。

 北海道特有の宿『ライダーハウス』では、行きずりの旅人同士が意気投合し、夜ごと即席の宴会が催される。

 ヤスとはそこで知り合った。

 日本の頭脳というべき京都の国立大学に通っているらしく、その場に居合わせた誰もが驚いていた秀才だ。

 卒業後は外交関係の仕事に進むという文句なしのエリートだったが、毎年夏は、俺と同様に北海道を長期放浪していた。

 ヤスの愛車は、ホンダ謹製の炎の剣『CBR954RR/FireBladeファイアブレード』。

 大学生が乗るには少々過ぎた代物だが、難関大学に一発合格したら買ってやるという官僚の父親との賭けに勝ち、手に入れたのだそうだ。

 280キロに挑戦することを、俺は誰にも話していなかった。飲みの席でも黙っていた。

 それは、どう考えても、馬鹿らしく愚かな行為だったし、まともなバイク乗りなら、完全否定して然るべきだったからだ。

 でも、もしもの時のためにも、ひとりにくらいは打ち明けたほうがいい気がした。

 280キロで転倒すれば間違いなく死ぬ。

「実は、明日、FAZERの最高速トライアルしにいこうと思ってね」

 昨夜の宴会で、たまたま近くに座り、なんとなく話が合ったヤスに、俺はサラッと打ち明けた。「すごいことをするぞ」という顔だけは、絶対したくなかった。

 ヤスはさすがに面食らった顔をした。

 さぞ呆れているだろう、ひょっとしたら止められるかも。とそこまで考えて、やっぱり言わない方がよかったか、と少し後悔した。

 未来の日本を背負って立つ若者相手に、俺はなんて頭の悪いことを話してるんだ。

 けれど、ヤスは、呆れもせず、止めもせず、微かに笑いながら、

「そうなんですね。……お気をつけて」

 とだけ言ってくれた。

 そして今日。まさか朝早くに起きて見送りしてくれるとは。

 ヤスは、FAZERを後ろから一緒に押してくれた。

 俺たちは無言でバイクを押しながら、清々しい朝の鏡沼海浜公園を歩いた。

 空は少しずつ白み始めている。

 急がないと。

 皆が眠っている建物から充分離れたところで、俺はエンジンを始動させた。

 一発でエンジンはかかり、水冷並列エンジンは静かに、正確に、鼓動し始めた。

 少し明るくなって、ヤスの日に焼けた精悍な顔がぼんやりと見えた。

 白目の少ない黒い瞳が人懐っこく笑った。

 俺もまたぎこちなく笑い返した。

 夜の名残と朝の予感が混じった清浄な空気を、胸いっぱいに吸い込む。

 そして、ヘルメットをかぶった。

 FAZERは、俺の身体の下で、よく訓練された賢い猛獣のように、静かな唸りを上げている。

 シールドを閉じる。

 ヘルメット越しにコクリと頷いた。

 ヤスもまた力強く頷き返した。

 ヤスは、ぱっと近づいてFAZERの青い車体を素早くココンと叩くと、身を引いて拳を勢いよく前に突き出し、親指を立てて小さく叫んだ。

「行ってらっしゃい! 成功を祈ります!」

 それは、出撃するパイロットを見送るメカニックのように素敵な仕草だった。

 返事をする代わりに、左手をヘルメットに添えて、敬礼した。

 と同時に、脳髄からアドレナリンが爆発するように分泌された。

 四肢に広がる。

 頬が強張る。

 全身に鳥肌が立つ。

 筋肉が燃え立つ 。

 テンションが跳ね上がる。

 スロットルをまわす。

 バイクが発進する。

 マフラーから吹け上がりの音が轟く。

 手を上げたヤスの小柄なシルエットは、あっという間にミラーの中で遠ざかっていった。

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