通り過ぎるだけの町 5
ドアから出ると、だだっ広い駐車場の真ん中にポツンと止められた俺の青いバイクが上から見下ろせた。
山のような荷物から久しぶりに解放された、バイク本来の軽やかなデザイン。
頭を垂れて静かに草をはむ野生の馬を連想させるその姿に、ちょっと見惚れる。
バイク好きの中には、汚れひとつ許さず、新品のようにぴかぴかな状態を常にキープしている連中も居るが、俺は、ドロとサビにまみれながらも、夏の日差しに鈍く光る傷だらけの愛車に、強い魅力を感じた。
道具は、使って、汚れてこその道具だ。
タンデムシートにまたがったミチルは、走り出してすぐ、身体をぴったりくっ付けてきた。
両腕を俺の肋骨のあたりにまわし、両膝で俺の腰をしっかり挟み込んで密着する。
そのためらいの無さにちょっと驚いた。
話している時は、緊張しがちで、距離をとっている印象だったのに、いまはこうして、抱きつくように密着してきている。
背中全体に女の柔らかさを感じて、率直に嬉しいものの、同時に、ドキドキさせられて落ち着かない。
ついさっき見た、脱衣かごのピンクの可愛いブラジャーが脳裏に浮かび、俺はぶるぶると頭を振って、その妄想と欲情を無理やり追い払った。
我ながら、こういう青臭さは、ハタチくらいの頃から全然変わってないな、となんだか苦笑してしまう。
男性経験のないウブな感じの子だったけど、意外に男慣れしてるのだろうか。
目指す『山』は、ミチルの言った通り、そのあたりでは名所旧跡のようで、至る所に案内看板があった。十キロ先とそれほど遠くない。真夏だし、日没まではまだ時間もある。明るいうちに行って帰ってこれそうだ。
国道をまっすぐ西に向けて走ると、作業着姿のオッサンがひとりだけでやっている屋根のないガソリンスタンドを最後に、景色から建物があっさり消えた。
本当に狭い街だ。
唐突に次の街が現れるまでは、荒野と草原と山道が続くのだろう。
頭上を通り過ぎていった青看板には、隣の街まで23キロ、その次の街まで52キロと書かれていた。
白地に青文字のイラスト付き案内看板に従って、国道から右に折れ、細い県道に入った。
田んぼに挟まれたがらんとした二車線が、重なり合った青い山と山の狭間に伸びていく。
重そうな瓦屋根の大きな日本家屋が点在していた。
その立派な家にはどこも、まるで人の気配を感じなかった。
シャッターの閉じた小さな工場のような建物があり、『SUZUKI』という看板の下にいくつか並んだ車の名前は、どれも子供のころに見たような古い車種ばかり。
太陽は傾いてきたが、日差しはまだまだ眩しかった。
もわっとした熱い空気を、草いきれの匂いが混じった清々しい風がかき回す。
車の気配はまったくない。歩ている人間も誰も居ない。
カラスと、蝉の声だけが聞こえる無人の田舎道に、バイクの排気音が響き渡る。
少しずつ光の質が変わっていく空には、入道雲がきらきら輝いていた。
ミチルはまったく口をきかず、俺にしがみついたまま、ただぼーっと風景を眺めている。
身体の後ろ半分に、そんなミチルの熱と鼓動を感じた。
知り合って間もないのに、もう仲良くなった気がする。
まだみかん……ミチルのことなんて何も知らないのに。
きっと、バイクにはそういう魔力があるのだ。
ミチルが何を考えていたのかは、わからない。
美しい棚田に張られた水が、色づいてきた空と輝く入道雲を映していた。
巨大な一本イチョウがそびえる古い神社の脇を通り過ぎ、縦に鋭角な三角形の杉の中の道へ、吸い込まれるように入っていく。
ツンとした独特の青い匂い。
左右には、震えるように波打つ濃い緑の壁。
その中を、灰色のアスファルトと苔むしたガードレールが続く。
「落石注意」と「動物飛び出し注意」の黄色い看板が交互に現れ、消える。
エンドレスで続く変化のない風景。
突然、トタン屋根の木の小屋が現れた。
停留所のポールがある。バス停……?
看板に書かれた三文字で、さらに混乱した。
『病院前』
思わずブレーキをかけ、五速から素早くギアをニュートラルに入れた。
急に止まったせいで、背中に抱き着くミチルの身体がぐぐっと緊張した。
「なになにとつぜん止まって」
「なあ、あれ」
「ん?」
「病院?」
「病院?」
「なんでこんなとこに病院なんてあるんだろ?」と俺はエンジンのかかったバイクの後ろに乗ったミチルに首だけまわして言った。
「知らない」
「みかんも知らない病院?」
「だってこんなとこ初めて通るし」
杉林がわずかにこじ開けられたように切れている部分があり、その中へ道は続いている。
なんとなく不気味な道だった。暗く、緩やかにカーブしていくせいで先は見えない。この先に、病院どころか建物があるなんてとても信じられない。どう考えても、整形外科とか皮膚科じゃないたぐいの病院だろう。
「行ってみようか?」
すこぶる好奇心を刺激されて、俺は言った。
「やめとこ」
だけど、ミチルは即座に反対した。
『気になった道にはとりあえず入っていく』を信条としている俺としては、そう簡単には諦める気になれない。
「ちょっと入って先を確かめるだけだって」
「やめようよ」
「なにビビってんの?」
「だってこれ、事件とか起きて巻き込まれるパターンじゃん」
鬱蒼とした杉林の中に飲み込まれていくように伸びた薄暗い道。
この先にあるものが、古びた洋館だろうが、頭のおかしい院長の居る病院だろうが、確かにホラー映画の定番めいた雰囲気だ。
だからこそ覗いてみたくもあるんだけど。
「けどなー。旅で見かけたものって一期一会だからね」
俺は食い下がるが、ミチルは明らかに怖がっていた。
「こんなシチュだもん。私らが行ったら、絶対なんか起きるって」
ミチルはそう言って俺の肩にそっと手を置く。
どうも本気で言ってるらしかった。女の子って、どうしてこう、ホラーとかが苦手なんだろうか。映画とか漫画で見るのは好きなくせに。ちなみに俺はまったく平気だ。
「なにか起きるって、なにが起きるんだ? 映画じゃあるまいし」
若干キツい口調で俺は言った。イラつきが声に出てしまっている。
俺が日本一周するのは、自分が面白いと思うものを片っ端から見るためだ。
どんなにくだらないものであっても、自分の知的好奇心を満たすのが旅の醍醐味だし、俺がバイクに乗る理由でもある。
無限に続くかと思える単調な杉林でとつじょ出くわした、いわくありげな病院。
一人だったら、考えるまでもなく、とりあえずバイクを進ませている。
なのに、後ろに女の子を乗せているばかりに、その行動力が削がれてしまうことに、俺は言いしれぬストレスを感じた。
ミチルは……黙っている。
俺は、ミチルの意思を無視して、バイクを進ませようとした。
ミチルはその気配を察したのか、ぽつりと言った。
「このままそっちに進むなら……私歩いて帰る」
一速のギアを蹴ろうとした俺は、動きを止め、ミチルの目をチラリと見た。
ミチルはうつむき加減に黙って道路の一点あたりを見つめている。
少し考え、俺は握っていたクラッチを離した。
「やめとくか」
「そうして」
誰かと一緒のせいで、自由に動けず、行きたい場所にも行けない。
そもそも自分からミチルを誘い、ミチルはそれに応えてくれたわけなのに、俺は「単独行動じゃないと、こーいうところが不自由だよな……」なんて勝手なことを考えていた。
目的地である、鬼を封じたという『お堂』までは、山道をもう少し走る。
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