疾走する閃光 終

 をなんて表現しよう?

 230キロを超えた俺の目の前に突如現れたは、例えるなら、まるでだった。

 地上から足を上げ、その階段を上っていく。

 10段目くらいまではごく普通の階段だった。

 足を上げて下ろす。

 そしてまた足を上げて下ろす。

 その過程で、ごく自然に時速は200を超えていた。

 だが、230キロから世界はまったく変わった。

 そこからの階段は、まるで巨大な壁だった。

 普通に足を上げて上れるような代物じゃなかった。

 俺は、全力で飛び上がって両手を引っ掛け、身体をぐっと持ち上げて、なんとかその壁をよじ上らなくてはならなかった。

 そして次の12段目は……

 まさに絶望の壁だった。

 時速230キロ以上の領域。

 上なんてまるで見えない。

 230キロの次は240キロ。そして250キロ。さらに260キロ……

 そんなふうに、10キロずつ重ねて行けば、やがてマックスの280キロまで達する。それが理屈だ。

 でもそんなのは、浅はかな、机上の算数でしかなかったのだ。

 たとえば遠くへ跳ぶ。

 たとえば高く飛翔する。

 たとえば深い水底まで潜っていく。

 それが、単純な数字の積み重ねで済む話であれば、新記録は次々と更新されていくだろう。

 だが、現実は違う。

 どんな分野であっても、極限の領域においては、数字はただの数字じゃなくなる。

 その場所では、ほんのわずかな数字の違いは、途方もない壁となって挑戦者の前に立ちはだかるのだ。

 それでも。250キロ。

 もはやカウルの風防はまったく意味を為さなかった。

 風は、凶悪な透明の腕のように、俺の肉体を車体から引きはがそうとする。

 ふだんであれば、ぎちぎちとキツいくらいに密着しているフルフェイスヘルメットが、顔のまわりで滅茶苦茶に揺れて波打っていた。あごひもは首に食い込んだ。道路はぼんやりとした灰色の塊になった。接地感はなかった。

 地表スレスレを、むき出しの飛行機で飛んでいる気分。

 翼を持たぬバイクでそんな状態になるのは、ただひたすら、恐怖でしかない。

 明るい空はいつのまにか消え失せた。

 視界は端から黒く狭まった。とつぜんトンネルの中に放り込まれたみたいに。

 色の着いた風景は、そんな暗いトンネルの果てにわずかに見えるのみ。

 速度計の針……時速260キロ。

 その数字がただのイメージでしかなかったとき、俺は、新幹線に素手でしがみつくようなものかな、と想像した。

 ハリウッド映画で、たしかエージェントがそんな立ちまわりを演じていた。

 だが実際はそんな生易しいものじゃなかった。

 砲弾。

 虚空に向けて発射された巨大な大砲。そのツルツルとした丸い弾頭に生身でしがみつく感覚。

 少しでも力を抜けば、俺の身体はあっさり滑り落ち、たやすく宙に放り出される。そして簡単に死ぬ。

 死。その単語を意識した瞬間、手からいっせいに、ぬらりと汗が噴き出した。

 心臓は、氷のように冷たい手でワシづかみにされた。

 俺は、身体のすべての骨と筋肉を動員して、FAZERのボディに絡みついた。

 ニーグリップどころじゃない。車体の突起すべてに全身をあますところなく引っ掛け、不格好に、必死に、しがみつくしかなかった。

 前かがみになり、ヘルメットをタンクに密着させ、身体とバイクに一ミリの隙間も生じさせないようにした。

 少しでも隙間があれば、そこから簡単に身体は剥ぎ取られてしまうだろう。

 どんどんせばまる空と大地と道路。

 そこからちょっとでも目を離すのが怖い。

 目を離した瞬間、悲鳴をあげる間もなく転倒し、血まみれになって地面を転がるビジョンが頭に浮かび離れない。

 それでも苦労してメーターを見た。

 視界が透明な膜でにじんでいた。

 目に溜まった涙のせいだと、気づく余裕はなかった。

 速度計の針はいよいよ最後の山に差し掛かろうとしている。

 だが、そこからが回せない。

 最後のギア。アクセルはフルスロットルまであと少し。もうあとほんのひとひねり。回転数は奇跡的に維持出来ている。最後の、13段目の階段を乗り越えるだけ。

 だが、そのほんの少しの力が出せない。どうしても身体が動かない。ダメか。ここまでか。やっぱりダメなのか。俺はこんなものだったのか。怖い。こわいこわいこわいこわい。しぬしぬしぬ。もうだめだここまでだ。やめろ。とまれ。やめちまえ。いますぐ。まだまにあう。まだしんでいない。ここでやめれば引き返せる。次の瞬間には道路に転がってるかもしれないんだやめろとまれなにが自由だなにが矜持だ。こんなのコワイだけじゃねえかアホかおれはおれはアホかーーーーー!

 あほーーーーーーー!

 やっぱり……やめておけばよかった。


 ◆


 やっぱり……やめておけばよかった。

 でもやめれなかった。

 

 ◆


 最後の最後。

 俺に、最後の壁を乗り越えさせたもの。

 それは、男の意地でもなければ、勇気でもなかった。

 プライドでも、根性でも、闘争本能でもなかった。そんな上等なものじゃなかった。

 最後の最後で、ゴールに到達する踏み台になったもの。

 結局のところ、それもまた、ただの『恐怖』でしかなかったのだ。

 恐怖じゃない。

 恐怖。恐怖。

 生涯に渡り「負けた自分」を引きずることへの、底知れない恐怖心だった。

 最高速トライアルなんて、くだらないこと。

 そう、最初から全否定し、笑い飛ばして、挑戦しなければ、それは敗北じゃない。

 賢明な、当たり前の判断だ。

 でも、一度でもそれを本気で望み、挑戦してしまったなら。

 そこから逃げることは、あまりに致命的な敗北感として、魂に刻み込まれるだろう。

 生涯忘れられない負の思い出になってしまうだろう。

「あのとき、挑戦したけど駄目だった。俺は負けた」

 その記憶を引きずり、自分に言い訳しながら生き続けるのはどうしても嫌だった。それだけは避けたかった。それは何よりも怖かった。

 俺は、マトモな頭の小心者。フツーの人間。それは今回よくわかった。痛感した。けれど、そんなやつほど、一度プライドを傷つけられると、どこまでも落ちていくものだ。気持ちの切り替えなんてできない。忘れられない。傷つけられた誇りは蘇らない。

 それまでの人生で、同じように傷つけられた魂が覚えていた記憶が、敗北の恐怖が、死への恐怖を塗りつぶし、上書きした。

 最後の最後の最後の最後の最後のその瞬間。

『一体感』だなんて生易しいものじゃない。

 FAZERの冷たい機械の身体と、温もりを持った自分の、完全なる融合。

 結晶であり、すいであるFAZERに欠けた、たったひとつの、そして最後のパーツとして、俺はFAZERに組み込まれた。

 FAZERは鋼鉄の外骨格として、俺の柔らかな肉と心を補完した。

 心臓とエンジンが。両腕と前輪が。両脚と後輪とが。

 精緻な組細工のようにひとつになった。

 オートバイの、あるべき姿に。完全体に。

 光が駆ける。

 風を切り裂く。

 時間は圧縮される。

 未来は今をすっ飛ばし瞬時に過去となって背後で散っていく。

 命は無駄に燃える。

 その炎は、誰も温めない。その炎は、何も生み出さない。燈火にならない。かてを作らない。電気も生まない。鉄も溶かさない。

 無目的で、無意味で、誰の役にも立たず、誰の目にも触れず、誰の心も揺り動かさず、感動も、失望もさせない。

 ただ、無為に燃え盛る魂の煌きだ。

 養わず、育まない、己だけの生。

 美しい……自分のためだけに燃える命と時間の、なんと美しいことか。

 それが自由。

 それこそが自由。真に美しい孤独。自己満足と自己愛の境地。

 バイク乗りのエクスタシーだ。

 無限にも思えた直線の果てが見えたとき。

 速度計の針は完全に停止していた。

 スロットルは限度いっぱいに開かれている。

 そして、たしかに達したのだ。

 その場所に。俺はたどり着いた。

 280キロの静謐な世界に。


 最高速に。


 ◆


 なあんてカッコつけてはみたけれど。

 実は本当に大変なのは、そこからだった。

 この挑戦のために用意した遥かな直線道路を、閃光と化したFAZERはあっという間に食らい尽した。

 直線は終わりを迎え、道路は大きく緩やかにカーブし始めていた。

 いやいやいやいや。こんな速度じゃとても曲がれねーし。ぼく死んじゃう。

 急激なブレーキはタイヤをロックさせる危険があったが、早く減速しないとそのまま道路からぶっ飛んでいってしまう。忘れてた。スピード出すことしか頭になかった。気を付けよう。バイクは急には止まらない。

 なんとか、死にそうな思いでバイクを停止させられたのは、前輪が三分の一ほど道路からはみ出した、ギリギリの状態でだった。

 身体は完全に硬直し、錆びついた古い機械のように動かない。

 足を前に動かしただけでギシリと音がしそうだ。

 立ちゴケだけはしないよう、最後の気力でスタンドを立てた。

 バイクから降りる、というよりずり落ちて、固いアスファルトに尻もちをついた。

 死んだ昆虫のようなポーズで草むらにひっくり返る。

 限界以上に力を振り絞ったことで、筋肉も、関節も、ギチギチに固まってしまっている。

 息苦しかったが、手に感覚がまるでなく、ヘルメットのあごひもを外す事は出来そうにない。

 バイクに乗った状態のままの奇態なポーズで、仰向けに転がった。

 しばらくそのまま動かなかった。

 太陽はいつのまにかすっかり高い位置まで昇り、透き通った光を燦々と放っている。

 身体のあちこちが、かつてないほどに痛んだ。いったいどれだけの力を振り絞ったのか。グローブを地面に押し付けるようにして無理やり外し、震える指で苦心してヘルメットを脱いだ。

 そして目を閉じた。

 日の光が暖かい

 強い風が火照った顔に気持ちいい。

 草と土の匂いがする。

 生きている匂いだ。

 ゆっくり目を開き、何気なくヘルメットを見た。

 シールドを両側から挟み込んで固定するプラスチックカバーの片方が、いつのまにか剥がれてどこかに消えていた。

 バイク乗りなら誰だってわかるだろう。普通なら、決して、風圧で取れるようなパーツじゃない。

 ちょうどその時、その日最初の一台となる乗用車が通り過ぎていった。

 『わ』ナンバーのフィット。

 シルバーのボディが、雲ひとつない透明な青空を映しこんでいる。

 乗っているのは、感じのいい夏服を着こんだ20代くらいの女の子が三人。

 女の子たちは、路上にへたり込む俺を見ると、平和そのものの素敵な笑顔で、ヒラヒラ手を振ってきた。

 俺もまた、震えの止まらない右腕を持ち上げ、そんな彼女たちに手を振り返した。

 ああ。やっぱり俺には、こんな能天気な世界が合ってる。

 化け物のような素顔を見せつけたFAZERは、何食わぬ澄まし顔で、アイドリングを続けていた。

 苦笑して立ち上がり、エンジンからまだ異様な熱気を発する車体を、ポンポンと叩いた。そして相棒に告げた。

「おつかれさん。……もう二度とスピードは出さない」


 こうして、この夏の、俺の、たったひとりの最高速トライアルは、終わりを迎えたのだ。


 ◆


 鏡沼のライダーハウスに戻ると、ライダーが旅立ち、がらがらになった駐輪場には、先鋭的なフォルムの紅いバイクが一台だけ残っていた。

 FireBlade。ヤスだ。

 どうやら俺を心配して残ってくれていたらしい。

 プレハブの前でぼんやり座っていたヤスは、俺とFAZERの姿を認めると、安堵した表情で立ち上がり、両腕を振り回しながら小走りに駆け寄ってきた。

「おかえりなさい! ご無事でしたかっ」

 微笑みで答えようとしたが、顔の筋肉は強張って硬く、上手く笑えなかった。

 それでもヤスは俺のその表情ですべて察したようだった。

 俺たちはヤスの提案で記念撮影することにした。

 撮影は、掃除に来たライダーハウスの管理人に頼んだ。

 FAZERを中央に。

 ヘルメットを脱いでバイクに体重をかけ、しかめっ面で斜めに立つ俺。

 雄々しく右腕を曲げ、ガッツポーズを取りながら微笑むヤス。

 俺は、その写真が、エースパイロットが彼の歴戦の乗機と、彼を支えた凄腕の整備士と、いっしょに映ってるイメージになればな、とひそかに考えた。

 後日、出来上がった写真に写る肝心の撃墜王は、顔色は青ざめ、腰は砕け、足腰はがたがたで、お世辞にも凛々しいとは言えない姿だった。

 それでも俺は、その写真を短い手紙といっしょにヤスからもらったとき、ひどく親密な気持ちになったのを、昨日のことのように覚えている。

 その後のヤスがどうなったかは知らない。

 きっと、官僚として、日本の明日のため、精力的に飛び回っていることだろう。

 公道で時速280キロもの速度を出す。

 それは、決して褒められた話でも、自慢げに語るべき物語でもない。

 だけど、あの夏、夜明けのオロロンロードで、FAZERとヤスが、俺を主人公にしてくれたのだ。

 俺は、俺なりにその物語を完結させた。

 そこに悔いる点はなにもない。

 俺はそれを、オッサンになった今でも、誇りに思っている。


 誰もが馬鹿馬鹿しいことに命を燃やし、誰もが閃光のように過ぎ去る時間の中で、自分だけのささやかな物語の主人公になれる時代がある。


 それをひとは「青春」と呼ぶ。



【疾走する閃光】 終

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闇雲風日記 天津真崎 @taki20170319

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