通り過ぎるだけの町 終
手紙の横に、ミチルが用意してくれていた朝ごはんがあった。
俺は、手のひらを合わせ、「ミチル、いただきます」とつぶやいてそれを食べた。
それから、ミチルの部屋を、触りすぎない程度に掃除した。
そして、自分の荷造りをした。
ミチルのカンパしてくれた五千円札を財布に入れ、かわりに千円札を四枚出そうと思った。おつりだ。五千円ももらえない。
でも、残念ながら千円札は三枚しか入っていなかった。
俺は、その千円札三枚と、小銭入れに入っていた五百円玉と百円玉を、全部ちゃぶ台の上に出した。
ミチルの手紙は、大事に三つ折りして、財布に入れた。
出発の準備が終わると、荷物から手帳とペンを取り出し、ミチルへの返事を書いた。
手紙を書くのは得意なほうだと思っていたが、うまく書けなかった。
書きたい事はいくらでも頭に浮かぶのに、そのどれもが間違っていて、またミチルの気持ちを害するような気がしたのだ。
けっきょく俺は、簡単な、無愛想と言ってもいいくらい簡素なお礼の言葉だけを書いて、そのメモをちゃぶ台に置いた。
……俺だって、ミチルに聞きたいことはたくさんある。
どうやって毎日を過ごしているのか。
今日までどんなふうに生きてきたのか。
どういう出会いと別れを繰り返してきたのか。
これから、何をしたいのか。
何を求めて、何を夢見ているのか。
旅という非日常で出会った俺たちは、お互いのことをあまりに知らなすぎる。
旅の魔力で、お互いを知る前に一気に仲良くなってしまった。
ミチルにとっての俺は、非現実的な男なのかもしれない。
だが同様に、やはり俺にとっても、ミチルは非日常の、幻想の女の子だったのだ。
ミチルのアパートから外に出ると、今日も眩しいくらいの夏晴れだった。
空は底抜けに青く、蝉の声がうるさくて、午前中なのに、日差しはもう暑かった。
階段を降りながら、美しい田舎の風景を眺める。遠い山脈。輝く小川。見慣れない階段。見慣れない駐車場。車のほとんど走らない道路。そして澄んだ風。
荷物を抱えてバイクに行くと、ハンドルの付け根のところに、赤い可愛いリボンが結んであった。ミチルがやったのだろう。
俺は荷物を荷台にくくりつけた。それだけでもう、体中に汗をかいた。
夏の日光が、そんな俺の身体とバイクをじりじりと焼いた。
今日も、明日も、明後日も……
そんな晴れの日が続きそうな、
永遠に夏が続いていきそうな、
くっきりとした入道雲を見上げ、遠い濃い緑の山を眺め、風が揺らす草を見つめ、俺は、そんな気持ちになる。
そして、再び、旅の風に乗る。
◆
それからも俺は、色々な街を走って通り過ぎた。
ミチルのような出会いがそうそうあるはずもなかった。
すぐミチルにメールをしようかと思った。
でも、思いとどまった。
また、余計なことを言ってしまいそうだったし、ミチルにとっての俺の価値が、『非日常』だというのなら、あまり頻繁に連絡しないほうがいいと思ったのだ。
俺は、やたらと広く大きな青森を、北へ走り抜いた。
信じられないくらい神秘的な渓流と森の道を抜け、高い壁のような樹に挟まれた細い道を進み、夏でも肌寒い陰気な国道279号を走り、本州最北端の
そして、函館行きの船を待つ時間に、初めてミチルにメールを送った。
ミチルの家を出てからずいぶんと時間が経っていた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
ひさしぶり。タイヤキです。
いま、本州最北端の大間崎に居るよ。
ここから津軽海峡を渡って函館まで行く。初めての北海道だ。
フェリー乗り場までの山道で、なぜか自衛隊の車が目の前を延々と走ってて、荷台には無表情の自衛官がたくさん乗ってて、こっちを見もせずにずっと無言で、なんだかすごくシュールだった。
ミチルと一緒に走った、あのアヤシイ病院があった杉林の道を思い出したよ。
あのときは、俺たちふたりきりだったけど。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
何度も文面を見返していると船が来た。
函館はすぐ鼻先に見えている。
青森市役所に近い市街地のフェリー乗り場からも函館には渡れて、そっちのほうが近くて時間もかからなかったが、大間崎からのほうがずっと料金が安かった。
俺は、ミチルの淡い笑顔を思い出しながら、送信ボタンを押した。
函館に到着した俺は、船で会った旅人から、『ライダーハウス』というバイク乗りのための格安宿を教えてもらい、さっそく訪ねた。
一泊千円。信じられない料金だった。
それは、函館の海辺の倉庫街にある古い建物で、俺のような貧乏バイク旅の若者が大勢居た。彼らとの交流は、新しい旅の始まりでもあった。
荷を下ろし、軽くなったバイクで、坂の多い函館の街並みをあてもなく走った。
『五稜郭』『湯の川温泉』そして『トラピスト修道院』をはじめとする美しい教会群を見物していると、ミチルから返事が来た。
誰にも告げずに始めた孤独な旅。
誰かからのメールはとても嬉しかった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
ひさしぶりです。無事でよかった。恐山は知ってます。死んだひとを呼ぶ場所だっけ?
北海道なんてすごい。ここから何キロくらいあるんだろう。
もちろん、ミチルは行ったことありません。
(ミチルは、私じゃなくミチル、と自分のことを書いていた)
それでは、事故に気をつけて旅を楽しんでください。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
嬉しかったけど、もう少し長く、熱意のある返事が来るのを期待してなかったといえば嘘になる。
俺のほうといえば、初めての北海道にすっかり魅了され、興奮しきっていた。
そんな俺たちの間にある、感情の温度差みたいなものが、ふと気になった。
俺は、『カトリック元町教会』や『赤レンガ倉庫』、『函館山』の風景やらをケータイで写真に撮り、ミチルに送った。
ライダーハウスで旅人に教えてもらった『ラッキーピエロ』のハンバーガーや、『ハセガワストア』のヤキトリ弁当(といいながらも、聞いた通りそれは本当に豚バラ肉だった)の写真も送った。
送りながら、その写真を見たミチルが添付画像を開き、あの控えめながらも優しい笑顔で、細い目を見開き、驚いた顔しながら、
「教会の白い建物キレイだー」とか、
「ラッキーピエロってGLAYが好きだっていうあの!?」とか、
「なんで豚肉なのにヤキトリなのさ」なんて言うのを想像した。
けれど、ミチルからの返信はいつまで待っても来なかった。
◆
北海道は、夢の大地だった。
見るものすべてが新鮮で、行きたい場所も見たいものも、キリがなかった。
どこかに行くたびに、途中で出会うさまざまな旅人たちから、新しい場所や秘密の穴場を勧められ、紹介されるものだから、いつまでたっても終わりがなかった。
時間も金も、いくらあっても足りなかった。
それは、そこまで体験してきた本州の旅の印象がすっかり薄れてしまうくらい、異次元の楽しさだった。
俺は、ミチルにメールを出すのを極力控えた。
あまりミチルを意識し過ぎると、「自分で楽しむ」はずの旅が、「誰かに見てもらうための旅」になりそうで、俺はそれが嫌だったのだ。
それでも俺は、北海道で知っていた数少ない場所である『摩周湖』にたどり着いたとき、写真を撮ってミチルに送った。
初めての摩周湖はよく晴れていて、深みのある青い水面は、心まで透明になりそうなくらい美しかった。水をこんなにも美しいと思ったのは、間違いなく初めてだ。
それを誰かと共有したくて、俺はミチルにメールを送った。
ミチルからの返事はなかった。
◆
最後にミチルにメールを出したのは、北海道に上陸して二週間くらい経ってからだ。
俺は、
『オロロンロード』を目指して。
それは、北海道を訪れるすべてのライダーの聖地。
はるかな直線道路。道道106号の通称だ。
その迫力と感動、開放感は字で表現できるものじゃない。
美しい
そして、旅の一応の区切りとして考えていた日本最北端の
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
ついに日本の最北端に到着したよ。
宗谷岬が有名な場所だけど、俺はむしろ、その手前の
子供のころから大好きな『天空の城ラピュタ』を思い出すような風景だ。
こんな場所があったなんて。
でもあるんだ。知らなかっただけで。
あとは、そこに行くかどうかなんだと思う。
ミチルとタンデムでここを一緒に走れたら。
とても楽しいだろうな。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
そのメールは、アドレス不明で、俺のケータイへと戻ってきた。
◆
俺が、ミチルの好きだという『坂道のメロディ』を聴くことができたのは、それからずっと時間が経ってからだ。
その明るく悲しげな曲を聴いたとき、通り過ぎた町の夏色の風景や、草の匂いや、まっすぐに続く杉林の道や、夕暮れの神社から見た金色の空や、生暖かい風や、雨の感触がまざまざと蘇り、俺は涙ぐみそうになった。
ミチルの細いけど柔らかな身体の感触や、小さな鼓動や、甘い吐息や、穏やかで優しい声を思い出し、胸が締めつけられた。
その歌詞をなんども頭でそらんじながら、ミチルの求めたもの、信じようとしたもの、夢見たかけらを想った。
でも、もうミチルと会うことはない。
それは、俺にとって、通り過ぎてしまった季節なのだから。
【通り過ぎるだけの町】終
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます