<5> ギミエル
トラリスがハルムに暮らすようになってから二ヶ月余りが過ぎ、両親から言い渡された滞在期間は終わりに近づきつつあった。その頃にはすっかりハルムの暮らしが気に入っていた彼はそれに気づかない振りをしていたけれど、両親から帰宅の方法を訊ねる手紙が届いたことで、考えざるを得なくなった。
まずエルメダに、トラリスは仕方なくここに残りたい気持ちを打ち明けた。それを聞いたエルメダは意外そうな顔をしていた。彼の事情を知っているとは言え、アトレイの貴族の邸宅での下にも置かれぬ暮らしより、この山奥の黴臭い神殿での生活が勝るとは、彼女にしても心の底から納得できなかったのかも知れない。
けれど最後には好きにしたら良い、と彼女は答えた。
「私もタセットがいてくれて、助かることもあるからね」
その言葉にトラリスは安堵した。それで彼は、エルメダの言葉に甘えることにする。次にユーティスにもそれを話すと、彼は嬉しそうに言葉少なく同意してくれた。
話が決まるとトラリスは、進学を先送りにしてしばらくハルムに滞在したいと、両親に書き送った。最も昨今の街道の様子では、いつ郵便車が襲われて手紙が紛失するかもわからない。それでも彼の手に両親からの手紙が届いたように、両親の元へも無事に届くと信じるしかなかった。果たして流石に二三日で、と言うわけにはいかなかったが、ハルムの滞在が本来の予定の三ヶ月を過ぎる頃には、またも両親から承諾とエルメダへの丁重な挨拶が書かれた手紙が、トラリスの元へ無事に届いた。息子を預かってもらうための神官への付け届けはまた別の便で届くのだろう。けれどそれは、とりあえず今のトラリスが考えることではなかった。
彼は水神殿の一角で暮らしながら、村の移り変わりを眺めた。山が色づき、畑の作物を収穫し、冬に備えて保存食を作ったり、家畜の飼葉を用意する。やがて神殿も周りの木々は葉を落とし、虫や動物の姿が減り、雪に包まれる。
そしてトラリスが山奥で学んだのは自然の中の居心地の良い生活だけではなかった。
ここではアトレイに比べ、蛇蝎の脅威が身近にあった。ハルムを最北とする十ほどの村落を指すこのオスア地方を支配している蛇蝎族がいるのだ。ギミエルという名の蛇蝎族の男で、かつては近隣の村から略奪したり、組織した破落戸を使って人々を襲ったりしていた。彼は十五年前に襲撃したセルミテの町の南東に広がる森の奥に根城を構えている。彼の能力は植物を操るとの噂で、ギミエルにとっては山間の深い森の中こそ、自分の能力を発揮できる場所だった。
ハルムの村からも定期的に、積荷が用意され村から出て行くのにはトラリスも気づいていた。誰も表立ってはっきりと蛇蝎族の名を口にしたりしないが、ユーティスやエルメダのわずかな言葉の端から、彼は次第にそれを理解した。
自分が思っているよりずっと近くに蛇蝎族の影があることに、トラリスはひどく興味をそそられた。けれど自分の心の動きに気づいても、誰にもそれを言わなかった。
蛇蝎族に育てられたと言っても、トラリスはギルエン以外の蛇蝎族を知らない。他には蛇蝎の名前を出して他人を脅そうとする赤い血の人間だけだ。
ギミエルなら、ギルエンのことを何か知っているかもしれない。自分と別れた後のギルエンのことを。トラリスは心の奥底で、ぼんやりとそんなことを想像していた。けれど想像しただけで、実際になにかしてみようという考えはなかったし、思い浮かびもしなかった。その頃にはもうトラリスはすっかり村の一員として受け入れられていて、彼の方でもアトレイの暮らしは遠のいて、ここでの生活に馴染んでいたからだ。
やがてハルムの村の景色から雪が溶け、雪景色は緑に変わり春が訪れた。村は日に日に暖かくなり、家畜や家禽には子供が産まれ、畑のために新たな肥料を作ったり、種を捲く準備が始まった。水神殿の畑や家畜以外にも、トラリスは住民の仕事を手伝いに出歩いて、毎日忙しかった。蛇蝎の気配を感じていても他人事のように実感は薄く、間もなくトラリスの滞在は一年を迎えた。アトレイの両親とは時折短い手紙のやりとりがあるだけだった。
一年前に自分がこの土地にやって来た時と変わるらぬ景色が目に映る頃、トラリスは日課となっているユーティスの小さな診療所を訪れて、見知らぬ女性の姿を見つけた。
「ヒュルエルだ」
彼がそう言っただけで、トラリスは彼女が彼の妹だとすぐにわかった。背丈も体つきも全然違うが、面立ちが良く似ている。彼女は十六歳になったトラリスより三つ年上だと言った。
彼女はユーティスの六歳離れたの下の妹で、ユーティスと同じようにアトレイの王学院に留学して医学を学び、あと一年で卒業だがアトレイに残って医者になるか決めかねたので、見習いとして兄のユーティスのところに戻って来たのだと言う。
性格は兄に似ていて快活なようだった。初対面でも気さくに話したが、話の流れでトラリスが水神殿の神官の遠縁であり、アトレイの出身だと聞かされると、彼をしばらく眺めてからこう言った。
「タセットって、攫われて戻ってきたローレウォール家の息子と同じ名前ね」
その言葉にトラリスは思わずユーティスを見た。視線がかち合った彼の表情でトラリスは、兄が妹に何も話していないことを察した。タセットという名前はアトレイでは決して珍しくない。けれどその名が知れ渡り、現在生きているのはトラリスだけだ。彼は束の迷ったが、ユーティスが戸惑ったような視線を向けていたので、ヒュルエルに肩を竦めて笑って見せた。
「実は、おれがそのタセットなんだ。アトレイに戻った後、あそこの生活に馴染めなくて、今はここの水神殿にお世話になってる」
ヒュルエルはその言葉を、もちろん冗談だと受け取って最初は笑い飛ばした。けれど兄からそれが真実だと知らされると、驚いて声を上げた。
「隠してるわけじゃないけど」
そんなヒュルエルに向かって、トラリスは言った。
「アトレイのタセットを詳しく知らない他の人には、今のところ黙ってる。アトレイではおれがあのタセットだって言うだけで、怯える人も、侮辱する人もいたから」
そうトラリスは説明した。ヒュルエルはトラリスを見、それから兄を見て、束の間神妙な顔つきで考え込んでいた。けれど目の前のトラリスの様子や、兄の彼への態度を見て自分もどうするか決めたようだった。それからは変わったことは何もなかった。今までのトラリスの生活に、新しい顔ぶれがひとり加わっただけだ。村の住人は彼女を小さい頃から知っているし、兄の手伝いをしながら、ヒュルエルは徐々にトラリスとも親しくなった。もちろんトラリスが蛇蝎族に育てられた運命の子どもであると、他の誰かに洩れることもなかった。
トラリスにとってハルムで過ごす二度目の夏が訪れて、この頃では彼は、今のような居候ではなく、本当に村の一員として生活する方法はないかと考えていた。けれどエルメダもユーティスも、その話をするとあまり良い顔をしなかった。たとえアトレイに戻らなくても、タセット・ローレウォールにはこんな鄙びた田舎ではなくもっと相応しい場所があるのだから、結論を急がず時間をかけて考えろ、と言葉を変えて言うばかりだった。
穏かだと感じていたそんなトラリスの生活に、再び蛇蝎族の影が入り込んできたのは、ハルムの短い夏の終わりの頃だった。
その日のまだ夜が明けるか明けないかという頃、村に予定にはない早馬が到着した。
村はずれの水神殿までその報せが届くのには若干の間があった。やってきたのはユーティスで、彼は無礼を詫びて住居に立ち入ると、エルメダに礼拝堂を開けてくれるように頼んだ。起き抜けのエルメダが慌てて外に出ると、村長を含めた村の取り纏め役五、六人が、重苦しい表情で水神殿の前に集まっていた。彼女は彼らを中に招き入れそして彼らに乞われるままに、その輪の中に加わった。トラリスも当然叩き起されたが、お茶汲みなどを手伝っただけで部屋に戻された。しかしいつになく重苦しい気配に気づかないわけがない。彼は住居棟の廊下から礼拝堂に続く薄い扉の脇にしゃがみ込んで、向こうの会話に聞き耳を立てた。
男たちの声は低く、声を落として喋っているようで聞こえにくい。それでも断片的な単語だけで、彼らの会話の内容の察しがついた。
蛇蝎族のギミエルが突然、なんの前触れもなくセルミテの村を襲撃したのだ。
洩れ聞こえる言葉からそれを推測し当てた時、トラリスは衝撃を受けた。
セルミテはハルムから山を下り、彼がここへ来る途中に立ち寄ったロレムから西にある村だ。ハルムと同じく、オスア地方に点在する村のひとつで、もちろんハルムとも交流がある。トラリスが滞在しているこの一年の間にも、セルミテに向かう村人を見送ったこともあれば、やってきた人を迎えたことも何度かある。
盗み聞きの内容と、トラリスが既に知っていることを合わせると、扉を隔てた村人が話しているのはこういうことだ。
セルミテが襲撃されたのは二日前。ギミエルは蛇蝎族の動きがギルエンという頭領を頂いて活発だった十五年ほど前には突然村を襲ったり、略奪を繰り返したりしていたが、ここ数年は大人しかった。その上ギミエルには他に同族の仲間がいる気配もない。緊張感は消えないが恐怖心は薄まっていたのだろう、彼の根城に最も近いセルミテでは蛇蝎族の男に対する不満と怒り、そして侮りが沸きあがり、決められた進物を疎かにしたのだ。それがギミエルの不興を買い、襲撃されたのではないかと言うのが大方の考えのようだった。
更にトラリスの胸を重たくしたのは、ギミエルに対して服従ではなく反乱する考えがあるらしいことだった。蜂起するか、ハルムの民はそれに加わらないか。
彼らはどうやら、今後の方針を話しあっているようだった。これはハルムだけの決定に留まらず、ロレムにもたらされ、オスア地方全体の今後の動勢を決めるのだ。
そんな議論が繰り返され、そして繰り返されるだけで結論へはたどり着かない。トラリスは最初に受けた衝撃をずっと胸に抱えたまま、その場を離れた。
ユーティスに会ったのは、その晩のことだった。
「聞いていただろう」
夕食の支度を手伝うために台所でふたりになった時に、ユーティスは不機嫌そうな声でトラリスにそう言った。結論の出ないままの会合のために、エルメダは村長の家に呼ばれていた。トラリスはひとりになったので、彼とヒュルエルの夕食に呼ばれていた。
彼は朝から水神殿にいたが、今はトラリスを連れて家に戻っていた。その理由をトラリスはすぐに知ることになる。彼の妹は近所にちょっとした用足しに出掛けていたが、それもユーティスの差し金だったと、トラリスは後で気づいた。
「なにが?」
トラリスはわざと首を傾げて訊き返す。底が焦げ付かないように、かき混ぜてくれと言われた鍋の中身を見つめ、手を動かしながら。
「今朝の」
たとえ話を聞いていなくてもわかる。今日一日、ハルムの村はどこか重たく、不安げな空気に包まれていた。皆、普通の生活をしているように見えて、何かが違う。いつものように水神殿から村へ出たトラリスにもそれははっきりと感じられた。すれ違い挨拶を交わした村人も、直接口にはしなかったが、皆、不安な気持ちをほのめかした。
「それは確かに、本当のことなのか」
トラリスはじっと姿勢を変えずに言った。
「どのことだ」
「セルミテが襲撃されて、これから決起するって」
「まだ決まってない」
「決起に加わらなかったら、どうなるの」
「まだ決まってない」
ユーティスが繰り返した。
「でも、いずれ」
それも近いうちに、とトラリスは続ける。
「決めなくちゃならないことだ」
「そうだとしても」
ユーティスはは言った。
「タセットには関わらせない。この話がどうであれ、おまえはアトレイへ帰るんだ」
唐突な言葉にトラリスは顔を上げた。思わず手が止まる。黙ったままの彼に向かって、ユーティスが続けた。
「エルメダと話し合った。おまえにはそれが一番良い。ハルムがどうなるにせよ、街道に馬車の行き来があるうちに、おまえはアトレイへ帰れ」
「そんな急に、勝手に決めないでくれ」
思わず強い口調でトラリスは言い返す。
「タセット」
ユーティスは怯みもせず、静かな口調で続けた。
「おまえは大事な預かりものだ。しかも蛇蝎族と関わりがある。タセットがこの件に無関心でいられないのもわかる。だからこそ、ここよりは安全なアトレイへ帰るんだ」
そう言われてトラリスは口を噤んだ。しばらくふたりで黙っていたが、ふと彼はあることを思いついて、それを口にした。
「おれを使えないかな」
ユーティスが怪訝な顔で彼を見る。
「おれは…」
トラリスはどこか譫言のように、独り言のように口を開く。
「蛇蝎族を滅ぼすと予言された子どもだ。一度は奴らの頭領に攫われてる。奴らがおれを、探してると言うことはないだろうか。ギミエルにおれを差し出すと言えば…」
「タセット、ここでは誰もそのことを知らない」
「だからこそ逆に、それを利用できないかな」
「そういうことを言い出すから、帰れと言うんだ」
今度は厳しいというよりもいくらか乱暴な口調でユーティスが言った。彼がこんなに語気を荒げるのを、トラリスは初めて目にする。それで黙っていた。
「なあ、タセット」
ユーティスは彼に近づくと、真剣な表情で言った。
「幼い時を忘れろとは言わないが、トラリスはなんのためにハルムに来たんだ。いつまでも蛇蝎の記憶に縛られるためか? おまえにとって、蛇蝎との記憶を持ったまま、普通の生活をすることは、それほどまでに困難か」
「でも、ユーティス」
トラリスは言った。
「このままここを去るなんて、できない」
「タセット」
「おれ」
と、火を止めてから片手を額に当てる。
「ここが好きなんだ。アトレイにいたときには、戻ってからこんな気持ちになるなんて思わなかった。ハルムで世話になった人たちが急にこんな状況になったのに、おれひとりだけアトレイに戻るなんて、逃げ出すみたいだ。そんなの嫌だ。おれだってこの村でなにか少しでもできることをしたい。いずれアトレイには戻るとしても、どうなるかだけは」
トラリスは言って顔を上げる。
「見届けさせてほしい」
お願いだから、と彼は続けた。その時戸口で音がして、ヒュルエルが帰ってきたのがわかった。彼女がふたりのところへ顔を出したので、話はそれきりになる。ヒュルエルが彼らの様子になにかを感じたようだったが、何もなかったように振る舞った。
翌日になっても、決起について結論は出なかった。
もともと、ギミエルにそれほどの能力はない。恐れられているのはギミエルの背後に控えている蛇蝎の一族だ。彼らがもしこの蜂起を目障りに思い、オスア地方を危険だと、あるいは目障りだと考えれば、ただでは済まないかもしれない。だからといって、唐突に襲撃され焼き払われたセルミテをそのまま見過ごすわけにはいかなかいというのが、ハルムの男たちの意見だった。
既に近隣の村から有志がロレムに集まり、そこからセルミテまで出向くことになっていると言う。ハルムの村からも十数名が名乗りを上げ、その中にユーティスも加わっていた。
彼の意志を知った時、トラリスは思わず言った。
「おれも行けないかな」
「だめだ」
厳しい顔できっぱりと、ユーティスはトラリスの予想通りのことを言った。
「でも」と、トラリスは食い下がる。
「村人の寄せ集めだろ? 俺の方が腕が立つ。絶対に足手まといになったりしない」
だから、と言いかけたトラリスの言葉を、やはり彼は遮って言った。
「そういう問題じゃない」
そんな風に断言するユーティスは珍しかった。トラリスは肩を落とす。
「タセット」と、彼を見てユーティスは続けた。
「ハルムを頼む。皆、不安を抱えてるし、男たちが少なくなる」
「うん」
彼の言葉と態度で、ユーティスが絶対に自分を連れて行かないであろうことはわかった。それで仕方なくトラリスは彼の言葉に頷き、一度はそれを諦める。今はハルムを任されたこと、この状況でアトレイに帰れと言われないだけましだと思うしかなかった。
そしてトラリスは後に残った村人と共に、様々な不安を同時に抱えながら彼らを見送った。
「タセット、蜂起に興味があるの?」
ヒュルエルが彼にそんなことを訊ねてきたのは、ハルムの村から男たちが出ていってから四日後の夕方だった。村にそこはかとなく漂う、不安感と寂寥感を混ぜあわせたような気配にも馴染んできた頃だ。
兄が不在でもヒュルエルは兄に付いてしていたように、村人たちへの訪問を続けていた。エルメダの勧めもあってトラリスも一緒に行動し、村に漂う緊張感を和らげるように、特に身体の不調がない者の家にも顔を出していた。その帰り道だ。
「関心がない奴なんて、いないよ」
トラリスはどう答えていいかわからずに、曖昧な表情で答える。昨日の夜遅く、出て行った男たちから状況の要点だけをかいつまんだ手紙が届いた。そこにはセルミテからの避難者がロレムに数多く身を寄せていること、ロレムに行った男たちが蜂起に加わることになったことが書かれていた。
「ヒュルエル、家族のことが心配だよね」
ロレムも混乱しているだろう。何より、ロレムにはヒュルエルの両親と姉一家が暮らしている。今はそこにユーティスも加わったのだ。彼らを見送った後も彼女は変わりなく振る舞っていたが、内心では心配も不安も人一倍に違いない。トラリスは今さらながらそれを思い返した。
「本当言うと」
と、彼の言葉に、ヒュルエルは初めて不安そうな表情を見せた。
「みんないつ襲われるかわからないロレムにいるのに、自分だけここにいて良いのかって、後ろめたいの」
ユーティスが自分に言ったのと似たような言葉で妹も制止したであろうことは、トラリスにも想像がついた。
「ロレムに行きたい?」
トラリスが訊ねると、ヒュルエルは頷く。
「避難してきた人たちがいるって聞いて。私、まだ半人前にも及ばないけど医者よ。行けば役に立つことあるかも知れないと思ってる。セルミテに向かった人たちの中にだって、考えたくないけど怪我人も出るかも知れない。タセットも」
そう言って彼女は顔を上げてトラリスに視線を向けた。
「私の手伝いとしてなら、一緒に行ける」
トラリスはわずかに目を瞠る。
「ヒュルエル、ユーティスには、ここを頼むと言われてる」
「そうね、兄さんはね。でもタセット、本当はどう思ってるの?」
彼女は立ち止まるとトラリスを正面から見た。いつになく真剣な表情だ。
「タセットは、私たちとは違う、あいつらとの関わりがあるでしょう」
トラリスは思わず小さく息を飲んだ。最初に会った時から今まで、ヒュルエルがトラリスと蛇蝎とのことを口にしたのはそれが初めてだった。
「タセットが行かないのは、ユーティスが止めたからでしょう。でも本当に兄さんの意見がタセットのためなのか、私にはわからない」
「心配はしてるよ。仕方ない。当たり前だ」
それを聞いたヒュルエルが言葉を続けなかったので、ふたりはしばらく黙って歩く。間もなくユーティスの診療所が見えてきた。
「本当は」
と、その時ぽつりとヒュルエルが切り出す。
「行きたいのは私。でもひとりじゃ怖い。どうしようもなく怖いの。だからタセットについてきて欲しくて、こんなことを言ったの」
彼女はそう言って、自宅の扉へ向かう。トラリスは立ち止まってそれを見送った。
「ごめんね、タセット。また明日」
彼女はそう言って、彼を振り返らずに背中を向けた。そこから更に水神殿へと続く山道を歩きながら、トラリスはヒュルエルに言われた言葉を考える。ユーティスの言葉を抜きにしたら、自分はどうしたいのか。
でも本当は考えるまでもなく、答えは出ていた。
水神殿に戻り、礼拝堂を閉めたり夕食の支度と片付けなどのいつもの仕事を終えた後、彼はエルメダにヒュルエルとの話を打ち明けた。少ない言葉を重ねる度に、みるみるエルメダの表情が曇る。これにはトラリスも内心で少なからず驚いた。彼女がこんなに気持ちを露わにするとは予想もしていなかったからだ。
「それで、ヒュルエルに唆されたってわけだね」
話しを聞き終えたエルメダは向かいに座ったトラリスに静かに言った。
「違う。おれにもなにか、出来ることがあればと思って」
「タセット」
真剣な口調でエルメダは言った。
「正直な気持ちを教えてちょうだい。ロレムへ行きたいと願う本当の理由はなんだい? ヒュルエルの手伝いをすること?」
トラリスは言葉に詰まった。
「それは…」
と、口にしたきり、言葉が続かない。エルメダはじっと、そんな彼から視線を反らさない。いたたまれずにそれから逃れようと、トラリスは目を伏せる。
「本当は、ギミエルを知りたいから」
「知ってどうするの」
厳しい口調で彼女は言った。顔を上げると顔を顰めたエルメダの視線とぶつかる。それは怒っているのではなく心配しているのだと、トラリスにもわかった。だからこそ余計に、言わずには済まされなかった。
「ギルエンを知ってるなら、ギルエンのことを聞きたい」
エルメダは一度俯いてから顔を上げると、タセットの右手を取った。それを自分の両手に包む。皺だらけのかさついた彼女の手は温もりに溢れていて。触れられると力づけられる気がした。トラリスは思わず軽く握り返す。
「タセット、私の正直な気持ちを言うよ」
エルメダは彼の目をまっすぐに見つめて言った。
「ギルエンに会おうとするなんて、苦しみの日々を甦らせるだけだよ」
「その名は禁忌でしょう」
張り詰めた空気を変えたくて、トラリスはわざと口を挟む。
「生憎、私はローレウォール家の方々ように行儀良くないんでね」
エルメダは真剣な表情のまま首を振ると続けた。
「タセットは生き延びた。だから今度は精一杯生きないと。蛇蝎のことを忘れるのは無理でも、もう、タセットを苦しめるものはなにもないよ。ここにいたければずっといたっていい。ギルエンと会うなんて、再び命を狙われるよ。これ以上自分を危険な目に晒しちゃいけない。私から見れば、あんたはまだほんの子どもなんだから」
言葉の途中でトラリスは思わず目を瞑る。握り返す力が抜けた。まただ。彼女もそう言う。わかってはいた。でも、まただ。
誰も知らない。
あの頭上に太陽が白く輝く海に囲まれたあの島でギルエンとふたり、タセットである自分がトラリスとして、どんな風に暮らしていたのかを。
「エルメダは」
目を開けるとトラリスは彼女から手を離しながら、口を開いた。
「ギルエンとの記憶を、大切にしろって言ってくれたのに」
「確かにね」彼女は頷く。
「でも、私には信じられない。本当はタセットが騙されていただけで、嘘の幸せな記憶を刷り込まれただけで、真の目的はタセットの心臓を奪うことだったとしか、私には思えないんだよ」
トラリスは束の間黙ってエルメダの言葉を噛み締めた。それから静かに、
「エルメダは」と、口を開く。
「ハルムに来てからおれが、どんな風に暮らしてたか知ってるよね」
彼の言葉の意味を探るような表情をしながらも、エルメダは頷く。彼は続けた。
「おれに草木の育て方を教えたのはギルエンだ。家禽の世話はしたことなかったけど、動物を捕らえたり、皮を剥いだり、火を熾したり、調理する方法を教えたのはギルエンだ。魚の釣り方、釣り竿の作り方、糸の張り方、船の出し方漕ぎ方を教えてくれたのはギルエンだ。風向きと波の高さの計り方を教えてくれたのも、刃物の使い方を教えてくれたのもギルエンなんだ。読み書きも計算も、おれは自分を生かす生活のすべてをギルエンから教わったんだ。それに」
彼はそこで一度言葉を切った。頭の中に、あの太陽が頭上に白く輝くあの島が浮かび上がる。
「おれには本当の名前があるんです」
「ほんとうの名前?」
エルメダが訝しげに目を細める。トラリスは頷く。
「今のおれは、タセット・ローレウォールだけど」
トラリスは唇を噛んで俯いた。その名前を禁じられてから、彼にとってはあまりにも長い年月が過ぎていた。今では口に乗せることも無ければ、まして他の誰かから呼びかけられることもない、その名前。
果たしてそれを今ここで、エルメダに明かすことが正しいのかどうか、トラリスには判らなかった。けれど今、トラリスはそれを言わずにはいられなかった。
「本当は、トラリスと言うんです」
エルメダは驚いたように目を見開き、次には、
「トラリス?」
と、彼女の口がそう動いた。
「トラリス」
エルメダは繰り返す。自分以外の他人から聞くその響きに、トラリスは自分でも覚えず、胸が熱くなる。
「そう」
それを誤魔化すようにトラリスは頷いたけれど、なんの役にも立たなかった。
「それが、ギルエンがおれにくれた名前」
エルメダは今度こそ本当に驚いた表情をしたけれど、俯いた彼はそれを見なかった。
「トラリス」エルメダは更に言った。
「それが本当の名前なんだね」
名前を呼ばれた次の瞬間、トラリスの目から滴がこぼれる。エルメダは椅子から立ち上がると、彼の脇へ回り込み、
「タセット…、トラリス」
と、トラリスの顔を覗き込もうとする。
「ごめんなさい」
弱弱しく頭を振りながら彼は答えた、その声は掠れて、自分でも抑えきれず目頭が熱くなるのを感じた。次の瞬間、もう片方の目からも水滴が頬を伝った。彼は慌てて、手の甲でそれを拭う。
「誰かにその名前を呼ばれるのは、本当に久しぶりで…」
そこでトラリスは言葉を詰まらせた。視界が滲んでは涙が零れるのを、自分では止められなかった。
「本当に、久しぶりで…」
「謝ることはなにも無いよ、トラリス」
エルメダが言った。その名前を耳にする度、トラリスの胸は震えた。両親が自分にくれた名前はタセットだ。けれど自分の身体に深く刻まれているのは紛れもなく、トラリスという名だった。
あの頭上に白く輝く太陽を抱いたあの島、あの場所でギルエンが彼を呼んだ、その名前。
堪え切れずにトラリスの口から嗚咽が漏れた。エルメダは手を伸ばし、やさしくトラリスの背を撫でさする。
「あんたはトラリスなんだね」
涙を止めようと固く目を閉じながら、トラリスは頷いた。小刻みに何度も。
「タセットじゃなく、トラリスなんだね」
言葉に詰まったトラリスは、それ以上エルメダと話を続けられなかった。部屋に引き下がり翌朝になると、涙は止まっていたが代わりに両目が腫れていた。部屋を出て朝の挨拶をしたエルメダは昨晩のことなどまるでなかったように、普段どおりだった。
自分から名前を打ち明けたのに、泣き出してしまったことが気まずくて、トラリスも自分からは昨晩の話を蒸し返さなかった。
午前中の仕事を一通り終え、エルメダが村を回ると言うなら彼女に従い、客を迎えるために水神殿にいるというならヒュルエルのところへ顔をだそうかと考えていた昼近く、エルメダが彼を、昨晩も話をした居間に呼んだ。
向かい合うと彼女は唐突に、だが静かに口を開く。
「タセット…、トラリス」
再びその名前を呼ばれて、トラリスの鼓動が早くなる。けれど昨晩のように取り乱したりはしなかった。
「どう、呼ばれたい」彼女は訊ねた。
「今はタセットと」
彼は答える。
「ならタセット、行っておいで」
「昨日は」と、トラリスは彼女の言葉に戸惑いながら答える。
「おれが苦しむだけだと言って止めたのに」
エルメダは頷いた。
「私はここで、蛇蝎との記憶を忘れて過ごせるようになることが、タセットのためだと思っていた。でもそれは私の勝手な思い込みだったみたいだね。あんたがタセットではなく、トラリスだと言うなら、ハルムがどんなに居心地の良い場所だとしても、タセットとして生きてる限り、タセットはずっと苦しむことになるだろうよ。それならいっそ」
彼女は悲しそうに続ける。
「トラリスとして、蛇蝎族を見ておいで」
「…ユーティスにも、来るなと言われてる」
「それは『タセット』への言葉だよ」
トラリスは思わず小さく笑った。エルメダもつられたように唇の端を持ち上げる。その歪んだ表情で、彼女が心からトラリスの出発に賛成してるわけではないことがわかった。だからこそ余計に、トラリスには彼女の配慮が身にしみた。
「ありがとう、エルメダ」
トラリスは思わず軽く彼女を抱擁する。痩せて小柄な身体を。
「おれ、ヒュルエルと一緒に行きます。彼女にも伝えないと」
彼はそう言ってエルメダから離れた。出立の準備には、ほとんど時間もかからなかった。
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