終章

<終章>

 頭上で稲妻が光った。吹き集まった暗い雲がいつの間にか、彼らの頭上に垂れ込めている。けれどトラリスはそれどころではなかった。視界に青い液体が飛び散って、彼の腕は動かない。

「やめろ、トラリス!」

 ギルエンの激しい声が間近から聞こえる。

 気が付くとトラリスが振りかざした短刀を、そのまま自分の胸に突き立てようとした短刀の鋭い刃を、ギルエンが強く掴んでいた。掌から落ちた青い血が、腕を伝い肘から床へ落ちる。

「ギルエン」

 トラリスはそう言って、振り上げた手から力を抜いた。

「どうして…」

 ギルエンは刃を掴んだまま、ゆっくりと腕を下ろす。トラリスの肩から力が抜け、放心したような目で彼はギルエンを見上げた。

「どうして、今まで」

 かぼそい声で彼は訊ねる。

「おれを殺さなかったんだ…」

 ギルエンの目的が心臓を取り返すことなら、いつでも出来たはずだ。誰に言われるまでもなく、それを一番知ってるのはトラリスだ。

「トラリス、それは」

 腕を離したギルエンは今までよりも真剣な表情で彼を見つめる。そして口を開いた。トラリスは彼の唇の動きだけを見ていた。視界が白くなったのはその時だ。

 突然辺りの風景が一変した。水晶石灰の建物は消え、彼らは水晶平原とは色の違う荒野に立っていた。ふたりから少し離れたところに、布を張っただけの粗末な小屋とも言えない小屋が建ち並んでいる。地べたにしがみつくように立つ、粗末な布の張り合わせただけの塊。それが幾つも寄り集まって、点々と続く。

「これ、なに」

 声を震わせてトラリスが呟き、力無くギルエンにしがみついた。ギルエンは彼の腕を押さえたまま、辺りを見回してすぐに気づいた。

 過去の光景だ。ギルエンが生まれ育った、あの土地の光景。

「これは」

 と、ギルエンは口が口を開くと、ないはずの心臓が震えるのがわかった。

 この場所に来てから今まで何度か目にしていたけれど、感情が揺れることはなかったのに。今は、目の前に心臓が、トラリスがいて、しかも彼に触れているせいで。

「俺の、生まれた場所だ」

「ギルエンの?」

 青ざめた顔でトラリスが彼を見上げた。視線は周囲に向けたまま、彼は頷く。

「水晶平原は幻を見せる。おまえがさっき、見てきたように。それがこの遺跡の壁にも映し出されるんだ。おまえを待ってる間、俺は何度かこの景色を見た」

 辺りの景色は彼らを囲むように揺れた。トラリスは黙ったままその風景を眺め、そしてギルエンに視線を向けてわずかに驚く。彼の目が忙しなく揺れ、動揺しているように見えたからだ。暑くはないのに、彼の額には汗が浮いている。

「ギルエン、大丈夫」

 トラリスは彼の顔を覗き込む。けれどギルエンは周囲の景色のある一点を見つめると目を瞠り、トラリスには答えず目線の先を凝視していた。トラリスもそれに気づいて、ギルエンの視線を追う。

 小屋を背にして、少女が立っていた。薄汚れてひどく貧しい身なりの、けれど細面の顔立ちは美しい少女だった。年頃はおそらく自分と同じくらい。トラリスにはそう見えた。

 よく見ると彼女の顔立ちは、どこかで見覚えがある気がした。そんなはずはない。この周囲の景色は自分の知らない場所だし、少女だって初めて見るはずだ。そう思ってトラリスはギルエンに視線を移す。

「トラリス」

 視線を彼女から反らさぬまま、ギルエンが呟く。自分の名を呼んだのに、彼がこちらを見ないので、トラリスは怪訝な表情を浮かべる。ギルエンは彼から離れると、掌の傷口を服の裾で拭った。青く汚れる。けれど彼は気にする様子もなく、

「トラリス」

 と、もう一度名前を呼んで、吸い寄せられるように少女の方へ駆け寄った。

「ギルエン?」

 トラリスもそれを追う。

 この景色は幻だと、ギルエンは言った。その言葉の通り、すぐに彼らは行く手を水晶石灰の壁に遮られる。少女の姿は遠く、ギルエンが手を伸ばしても彼女には届かない。

 小屋の前に立った少女に、通りがかった女が声を掛けた。彼女よりずっと年上の、中年の女だ。親しい間柄なのか、少女は笑顔を見せて彼女と話し出す。

 ギルエンはその光景を眺めて、その場に膝をつく。

「トラリス」

 彼は顔を歪めて、またその名を呼んだ。

「ギルエン」

 と、彼の後ろからトラリスは声を掛ける。

「おれはずっとここにいるよ。どうしたんだ。これは幻だって、ギルエンが言ったのに」

「違う、トラリス」

 彼は振り向いた。その表情はトラリスの胸を打つ。彼は今にも泣き出しそうだった。そして彼は届かない少女を指さす。

「あれは俺の姉だ。名前をトラリスという。俺を育てたのは彼女だ」

 その言葉にトラリスは目を見開いた。そうだ、彼女の面立ちは、このギルエンに似ているのだ。ギルエンは彼女よりずっと年上だけれど、目つきや鼻筋や顔の輪郭が、どこか似ている。けれどそう思いながらも彼は、目の前に映る自分と同じ年頃の少女が、自分より遙かに年上のギルエンの姉だと言うことを、すぐに飲み込めない。その上、自分は彼女と同じ名前を持っていて、それはギルエンが与えてくれたものだ。

「お姉さんって…」

 トラリスが続ける言葉を見つけられずにいると、再び周囲の景色が動いた。ギルエンの姉のトラリスが話を終えて、ゆっくりとした足取りでこちらに近づいて来る。ギルエンもトラリスもそれに気づいてその場に固まる。幻だと頭ではわかっていても、視線も足取りも、自分たちに向けられているようだった。

 果たして彼女は、彼らの前で立ち止まった。まるで彼らがそこにいるとわかっているように。

 しかし少女の視線は、膝をついているギルエンには向かず、トラリスを見つめていた。トラリスが戸惑うように彼女の見る前で、彼女はかすかにトラリスに向かって笑いかける。それが幻だとわかっていも、トラリスにはそうとしか思えなかった。

「トラリス」

 立ちつくすトラリスの脇で、ギルエンが縋るように少女を見上げた。手を伸ばしてもそれは壁に触れるだけで、少女には届かない。けれど彼は跪いたまま、

「許してくれ、トラリス。俺はおまえを救えなかった。それだけの能力を持っていたのに」

 自分を見ない幻に向かって、ギルエンは必死に言った。

「許してくれ」

 少女のトラリスが腕を上げる。そしてトラリスに向かって誘うように手を動かした。トラリスも腕を伸ばし、彼女が映し出された壁に触れた途端、少女の身体はぐにゃりと溶けて、辺りの景色が暗転する。

 闇だ。闇の中に、炎が燃えている。

「ギルエン!」

 トラリスは思わず叫んだが、これが幻だとわかっていたので、最初ほど驚いたりしなかった。辺りを見ると、闇は夜の闇で、その中で何かが燃え、大きな火柱となったものがそここで黒煙を上げているのだとわかった。

 不気味な光景には変わりない。思わずギルエンを見ると、彼は立ち上がって同じように周囲に映る景色を見ながら、溜め息を吐いていた。

「大丈夫だ、トラリス」

 彼はトラリスの肩に手を置くと、耳元に顔を近づけて言った。

「これは過去の景色で、俺がさっき浮かんでいた集落を焼いた時の光景だ。初めて青い血の能力を存分に使った時のことだ。今起こってることじゃない」

「ギルエン、お姉さんは」

 彼は額に手を当てると、目を伏せて溜め息を吐き出すように言った。

「これは彼女の弔いだ。俺のせいでここの連中に殺されたんだ。トラリスは」

 彼の腕にしがみつきながら、トラリスは辺りを見回した。粗末な小屋がひとつ残らず火柱を吹き上げている。小屋の中から火だるまになって這い出てくる人間が見えた。外に出たところで、人影は地面に倒れ、それをすぐにそれを炎が包む。

「どうして、こんな」

「許せなかった。俺を理由にトラリスを殺した奴らも、トラリスを助けられなかった俺自身も」

 独り言のようにギルエンは呟く。

「ギルエン、だとしたらどうして」

 これが本当に過去なら、既に起きてしまった出来事で変えられないことなら。

 彼はギルエンの意識を自分に向けさせるように、強く彼の腕を引いた。ギルエンが顔を上げ、彼はその目を射抜くように鋭い目つきで見上げた。

「どうして彼女の名前を、どうしてそんな名前をつけたんだ。俺はギルエンの心臓を持っていて、ギルエンを滅ぼす運命の子どもなのに、どうして」

 ギルエンの顔が強張る。そこにはいつものような余裕はなく、続く言葉を恐れるように。けれどトラリスは言葉を止めなかった。怒りをぶつけるように、強い口調で続ける。

「俺にそんな大切な名前をくれたんだ」

「それは」

 ギルエンが口を開いた時、地鳴りのような轟音とともに、身体に強い衝撃を受けた。



 気づいた時にはトラリスは床に倒れていた。身体が軽く痺れている。わけもわからずにしかし彼は無理矢理身を起こす。頭を巡らせてすぐに、幻がすべて跡形もなく消えていることに気づいた。

 光を通す水晶石灰の遺跡の中は、今では空に雲がかかっているせいでひどく暗い。

 そして彼はその中に自分とギルエン以外の人影を認めた。

 アルゲイだ。部屋の入り口近くに立ち、肩で息をしながらこっちを見ている。

 その瞬間、考えるより先に身体が動いていた。トラリスは手にした短刀を、ギルエンの血で青く汚れたままの短刀を、アルゲイ目がけて投げつけていた。狙いを違わずそれは真っ直ぐにアルゲイの胸に突き刺さる。その場に彼が倒れた。けれどそれを最後まで見ずに、トラリスはギルエンの姿を探していた。彼は少し離れた床に倒れている。トラリスは駆け寄った。

 アルゲイが稲妻を放ち、それが彼に落ちたのだとわかった。そしてトラリスはその瞬間に、ギルエンに突き飛ばされて落雷を免れたのだ。

「ギルエン」

 傍に寄ると、肉の焦げるような匂いが鼻を突く。

「トラリス、無事か」

 弱弱しい声が唇から聞こえた。聞いたこともないギルエンの声に、トラリスは自分の頭から血の気が引いていくのがわかる。

「ギルエン、おれが心臓を返せば」

 そう言ってトラリスは胸を掴んだ。自分を刺すはずだった短刀は、今はアルゲイの胸だ。

「止めろ、トラリス」

 切れ切れの声が聞こえる。抱き起こそうとしたギルエンの身体には、まるで力が入らない。トラリスは取り乱しながら、ギルエンの耳元で叫ぶ。

「聞け、ギルエン」

 トラリスは口にした。

 言わなければ。今、言わなければ。

 本当はずっと胸に秘めていた、けれどそれを否定されるのが怖くて、誰にも言えなかった、本当の気持ちを。

 あの時、ギルエンと離れてからずっと抱いてきた、この気持ちを。

「おれは幸せだったんだ。ギルエンといた間ずっと。ギルエンがどんなに残酷だろうが、おれは知らない。おれにとってギルエンとの思い出は、苦しみなんかじゃない。本当に幸せだったんだ。だから」

 ギルエンが目を見開く。呼びかけるように、トラリスは続けた。

「ギルエンを、憎むなんてできない」

「トラリス、俺は」

 ギルエンが青い血に汚れた腕を伸ばそうとする。けれどそれはわずかに動いただけだ。トラリスはすぐに手をとって強く握った。

「おまえに生きていてほしいんだ」

 溜め息のように掠れた声でギルエンが言って目を閉じる。トラリスは彼の顔を覗きこむ。

「俺の心臓はもう、おまえのものだ。トラリス、俺は成功したんだ…」

 言葉の最後は消え入るようだった。トラリスの手の中で、ギルエンの腕の力が抜けていく。彼の手もギルエンの血で青く染まる。トラリスは何度もギルエンの名前を呼んだが、彼はもう答えなかった。

 彼らの頭上を覆った時と同じく、黒雲は見る間に晴れた。

 間もなく再び天井から柔らかい日の光が差し込む。壁や床の水晶石膏が柔らかい光を反射して、なにごともなかったかのように部屋の中を光が満たした。

 力を失ったギルエンを抱えたまま、トラリスは呆然としていた。その時、目の前の壁に何かがぼんやりと映る。目を懲らすと、それは次第に人の姿を取り、それがあの少女だと、自分の同じ名を持つ少女なのだとわかった。彼女の口が動く。彼女のもとに、既に彼女と同じほどの背丈がある少年が近づく。

 トラリスの心臓が高鳴った。初めて見るそれが、誰だかわかったからだ。

 彼らはトラリスに背を向けると、連れだって歩き出した。トラリスはふたりから目を離せずにいたが、次第に彼らの姿は遠く薄くなり、やがて水晶石灰の壁の色の中に溶けるように消えてしまった。

 彼はその場から動けず、もう一度腕の中のギルエンの亡骸を見つめた。

『トラリス、俺は成功したんだ』

 最後の言葉を思い出す。

 そしてトラリスは、静まりかえった部屋の中で、静かに脈打つ自分の心臓の音を聞いていた。


                                   <了>

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

◆青い埋火 挿絵 @fairgroundbee

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ