第3章 ギルエン

<1> 青い心臓


魔女と呼ばれる初老の女の吐いた血の色は深い青色で、その時初めてギルエンは自分の失敗に気がついた。彼は思わず目を瞠る。魔女の周りを包む青い炎が揺れた。

 その瞬間だった。

「おまえ」

 そう呟いたときには、魔女の右腕がギルエンの胸を貫いていた。衝撃にギルエンは背を丸める。

「許さないよ、あんたを」

 言葉とは反対に、怒りも憎しみも感じなさせない淡々とした口調で彼女は言った。腕が引き抜かれる。そこにギルエンは自分の心臓を見た。脈打つ青い心臓が握られ、彼女の指の間から青い血が滴っている。

 胸に穴が空いたのを感じる。痛みはなかった。死ぬのか、と漠然とギルエンは思う。

「この心臓を持って生まれてくる子どもに、おまえは滅ぼされるんだ」

 彼女の手の中の心臓を取り戻そうと、ギルエンは腕を伸ばした。彼の手が触れる直前に、彼女は強く右手を握る。

「くそ」

 ギルエンは言って、乱暴に彼女の手を開かせた。

 彼の心臓はもうどこにもない。青い血だけが彼女の萎びた手を汚していた。

「おい、なにをした」

 ギルエンは魔女の身体を引き寄せて、その顔を覗き込む。彼女は虚ろな目でかすかに口元に笑みを浮かべて言った。

「手遅れだよ」

 それだけ言うと、魔女の首は力をなくして傾いた。女の身体がギルエンにもたれかかる。息絶えたのだ。ギルエンはつまらなそうに彼女の身体から、突き立てた剣を引き抜いた。躯が傾いで床に倒れた。

 ギルエンは右手の指をわずかに動かす。既にあたりは炎に包まれていたが、その中から炎の一筋が、まるで蛇の動きのように揺れながらギルエンに近づくと、魔女の躯に巻きついた。衣服の燃える匂いがする。彼はその場を離れながら舌打ちする。

「…同族だったのか」

 失敗した。ギルエンは強くそう思った。

「ギルエン」

 焼け崩れた建物を後に外へ出ると、名前を呼ぶ女の声が聞こえた。振り返るとティユーシャが小走りに近づいてくるところだった。

「どうしたんです」

 様子がおかしいように見えたのだろうか。目が合うと彼女は心配そうな顔をする。

「死にそうに見えるか?」

「怪我を?」

「心臓を抜かれた」

 ギルエンは短く言った。

「まさか」

 揶揄っているんでしょう、と彼女が怪訝な顔をする。

 ギルエンは左手で左胸を押さえた。そして燃え上がる景色を眺める。自身が放った炎は、村を覆い尽くして色とりどりに燃え上がり、揺れ動いている。

 魔女と呼ばれる女はこの村で、医者のような呪い師のような存在だった。そして村人からの信頼が厚かった。その彼女が中心となり、この村人はギルエンに、彼が率いる蛇蝎族に従わなかった。それが彼を苛立たせた。だから白昼堂々と訪れて焼いたのだ。逃げ惑う人々の悲鳴も、がむしゃらに向かって来る者を斬り捨てるのも気分が良かった。

 でもあの魔女の女が同族だと知ったことで、彼はなぜこの村の人々が自分に盾突く勇気を持っていたのかがわかった。彼女の力で、自分に対抗できると思っていたのだろう。

「魔女の女は」

 歩き出しながらギルエンは言った。焼き払った村のことはもう、どうでも良かった。誰がどれだけ死のうと、生き延びようとどうでも良い。そんな気分だ。

「同族だった」

「その女を、どうしたんです」

 炎に包まれた村に目を向けながら、わずかに後ろ歩いていたティユーシャが訊ねる。

「殺した」

 そう言いながらギルエンは不思議だった。彼は確かにたった今、目の前で自分の青い心臓が初老の女の手の中にあるのを見た。そして手の中の心臓が消えるの見た。だから死ぬのだと思っていた。でも自分の身体になんの変化も起こる気配もない。胸に開けられたはずの穴は既に塞がっている。皮膚の外側に青い血も流れていない。それでも心臓を失ったのを感じる。空ろな穴が空き、空虚だ。けれどどそう感じるのは今に始まったことじゃない。身体に赤い血を持つ者たちの苦渋の表情や悲鳴、そして手にかけた時に迸る真っ赤な鮮血を見ていない時、ギルエンはいつでもそれを感じていた。

 鋭い太刀で切り裂いて、真っ赤な鮮血を見たかった。彼らに自分のもたらす苦しみが大きければ大きいほど、ギルエンの心は晴れやかで爽快だった。

 でもなぜか、今は違う。悲鳴も怒号も炎の熱さにも、彼は何も感じなかった。

 心臓を失ったからだろうか、左手を左胸に当てたままとギルエンは考える。いつもならそこにあるはずの、青い鼓動を感じない。

 虚ろな穴が空き、空虚だ。

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