<5> 再会
打ち捨てられたかつての夢の都、というのがイントラットを表す時の常套句で、少なくともトラリスの目前に広がった景色を見る限り、それは嘘ではなかった。
彼はイントラットの旧市街を歩いていた。新市街は二十年近く前、ギルエンと彼の率いる蛇蝎族のせいで半壊した。今は跡地に瓦礫だけが無残な姿で残っている。
旧市街は表面に凹凸のない石造りの建物が、天に向かって聳え立つように連なっている。その色彩が独特だ。石造りの壁はうっすらと光を通すのだ。この土地で古くから産出する水晶石灰の特徴だった。光の透過と反射で、どの建造物もうっすらと輝いているように見える。町中には緑が多く、淡い光に照らされた植物が、美しい色の対比を生み出す。その景色を初めて見るトラリスも胸を打たれた。
もうひとつ、イントラットでトラリスが驚いたことがある。数こそ少ないが、ここでは蛇蝎族が普通に暮らしていた。赤い血の人々と同じように。トラリスは見れば判るが、心臓は動かない。彼らがどんな能力を携えているのかはトラリスには知る術はないが、彼らはそれを振るわずに生活しているのだ。
ハイリンカと同じく、トラリスはどこかに安宿を探し、それからギルエンの行方を追うつもりだった。けれど旧市街について間もなく、
「タセット・ローレウォール様ですね」
と、トラリスは声を掛けられた。
通りの端で、彼は思わず立ち止まる。その名前を聞くのは久しぶりだった。視線を向けると、見知らぬ少女が畏まって頭を下げている。
「違うよ」
トラリスは答える。それで彼女は立ち去ると思ったが、
「では、トラリス様とお呼びしたほうがよろしいですか」
そう言って彼を見上げた。小柄で痩せぎすの少女だ。蛇蝎じゃない。皮膚の色でわかる。物怖じしない大きな目でトラリスを見上げている。
「私の主が、あなたに会いたいと」
「主?」
トラリスはわずかに眉を顰める。心の中では咄嗟にギルエンを思い浮かべた。
「ギルエン様ではありません」
彼の考えを見透かしたように彼女が言った。トラリスは今度こそ驚く。自分以外の誰かの口からその名前が躊躇いもなく口にされるのを、彼は初めて聞いた。
「でも、近しい方です」
私が案内を、と彼女は言った。トラリスは自分よりもずっと背が低く小柄な少女をしばらく眺めていたが、結局その言葉に従うことにした。トラリスは彼女について旧市街の入り組んだ路地を歩く。滑らかに磨かれた円柱の並ぶ細い通り、先が見えないほど続く蔓棚の天井のある、植物に囲まれた路地、坂道沿いの建物と建物を縫うように曲がりくねった道を歩くうちに、トラリスは自分が迷宮を彷徨っているような気分になる。
歩いたのはそれほど長い時間ではなかった。けれど自分がどこにいるのかわからなくなった頃、少女が立ち止まってトラリスを振り返る。
「ここです」
そう言って彼女は目の前の白く聳える建物の扉を開けて中に入った。トラリスも後に続く。広い一軒家だ。入り口広間の目の前に、中庭が見える。手入れされた植物と、真ん中に水を湛えた白い水盤が見えた。屋敷の中は人の気配がなく、しんと静まり返っている。
少女は慣れた様子で一階の奥の部屋へとトラリスを案内した。扉の片側を開け、彼を中へ促す。トラリスが部屋へ入ると、背後で扉が閉まった。
彼は一歩進んで、部屋の中を見渡す。部屋の中は石造りではなかった。そして中庭に向かって並んだ天上まで届く窓には全て覆いがかけられていて、部屋の中は薄暗い。
「来ましたね」
部屋の中央に重ねたクッションの前に座る女性の姿を認めるのと同時に、彼女が口を開いた。耳に心地良い、穏やかな声音だった。
「あなたは?」
トラリスは彼女に近づきながら訊ねる。
「わたくしはアメイユ」
彼が見た女性は妙な服装だった。顔の上半分に細かい刺繍を施した布を巻きつけている。鼻から下は逆三角形に細く、唇は薄い。その色でわかった。彼女の皮膚の下には青い血が流れている。トラリスは背後を振り向いた。先ほどの少女が部屋に入ってくる気配はない。
「どうぞお座りください。立たせたままというわけには参りません。トラリス様、或いはタセット様とお呼びしたほうが、よろしいでしょうか」
女は静かに、どこか懇願するような調子で言った。トラリスは言われた通り彼女から少し離れたところに膝を着き、
「今はトラリスを名乗っています」と、言った。
「では、トラリス様」と、彼女は続ける。
「あなたの探しているギルエンは」
名前を聞いてトラリスの心臓が跳ねる。さきほどの少女と言い、アメイユと名乗った目の前の蛇蝎の女といい、ここではいとも容易く、ギルエンの名前が口に上る。
「三日前まで、ここにいました」
そう言って彼女は頭をトラリスの方へ向けた。もっとも、目から上は覆われているので、視線が合うことはない。
「ここでなにを」
トラリスは静かに訊ねる。
「私はもうずっとここに暮らしているのです。ギルエンも心臓を失ってから、この場所で多くを過ごしていました。そして私は、今はあなたを待っていたのです」
同じように穏やかに彼女は答えた。
トラリスは左胸に手を当てた。心臓の音は大きくならない。しかし蛇蝎としての彼女の能力もわからない。それで近づくかどうか迷った。彼の目の前で、アメイユと名乗った女は唇にかすかに笑みを浮かべる。
「私にはあなたを攻撃するような力はありません」
「それが本当か嘘か、おれにはわからないし」
「ギルエンはあなたに会うことを望んでいません」
「知ってる」
ぶっきらぼうにトラリスは答える。それから彼女の言葉の意味に気づいた。
「ギルエンの居場所を知ってるのか」
彼女は口を開きかけ、一度は閉じた。何か言うのを迷った素振りで、けれどトラリスも黙っていると、やがて彼女が口を開いた。
「トラリス様」
彼女は低く、どこか怯えたようにそう言うと、床に両手を着いた。そしてそのまま身体を伏せる。トラリスは驚く。彼女は顔を伏せたまま続けた。
「すべての原因は、わたくしなのです」
そう言った声は震えていた。呼吸が荒い。突然変わった彼女の様子に、トラリスは膝を立てたまま彼女ににじり寄ると、その見えない顔を覗き込もうと身を屈めた。
「あの嵐の晩を」顔を上げずにアメイユは続ける。
「ローレウォール家にもたらしたのは、わたくしなのです。あの静かな島に嵐が来ると。私が他の蛇蝎にそれを伝えてローレウォール家を動かせば、嵐の晩にギルエンをあなたから引き離すことが出来ると、私はわかっていたのです」
唐突な彼女の言葉は、トラリスが理解するのに時間がかかった。彼はどんな表情をしたらいいのかわからずにいる。
組んだ手を額に押しつけるようにして、更にアメイユは続けた。
「私の見えない目が、アトレイのあなたのことを見た時、私はまたひとり幼い子どもの命を奪ったと、あなたのことを知ったギルエンは必ずあなたを殺すだろうと、そう思っていた。あなたがギルエンの心臓を持って生まれたから」
アメイユは言葉を詰まらせ、途切れがちに続ける。
「私はギルエンにそれを告げる自分を、責めずにいられませんでした。思った通りにギルエンは、アトレイのあなたの家からあなたを攫った。あの時、ギルエンがこれからあなたにする仕打ちを考えて、私は恐ろしかった。今までも何度もギルエンがそうしてきたのを知っていても、震えが止まらなかった」
「あなたは赤い血が憎くないんですか? 蛇蝎族は赤い血を毛嫌いして見下していて、おれたちの命なんてなんとも思ってないと思ってた」
「ギルエンやアルゲイはそうでしょう。彼らは赤い血は劣ったものと考えているはずです。わたくしにも、憎いと思う相手はいます。でもそれは、相手が赤い血だからじゃない。そして、わたくしがあの嵐のことをギルエンに告げたのは、私が青い血だからではないのです」
アメイユはひとつ大きく呼吸をして、振り絞るように言葉を続けた。
「ギルエンはあなたを殺さなかった。それどころか、自分だけの島にあなたを連れて行き、そこに他の誰も立ち入らせなかった。そしてあなたと過ごすようになった。ギルエンがあなたをどうするつもりだったのか、私にはわかりません。けれどギルエンは、以前のように破壊や殺戮に熱心ではなくなった。私はおろか、同族である蛇蝎族の者にさえ、大した関心を寄せなくなった…」
トラリスは何も言えず、黙ってアメイユを見下ろしていた。
「私はあなたに嫉妬したのです。トラリス様」
吐き出すように、アメイユは告げた。
「私はギルエンにまた、以前のようにここへ戻って欲しかった。それが再び、ギルエンを破壊と殺戮に駆り立てることになっても」
アメイユは一度顔を上げ、顔を歪めて続けた。
「あなたをどんなに苦しめることになっても、私はあの方に、ギルエンに、再び私の傍にいてほしかったのです」
そう言うと彼女は項垂れて口を閉ざした。動く気配は微塵もない。
「どうして…」トラリスは顔を歪める。「今、そんなことを」
「トラリス様お願いです。どうぞ私に罰を、あなたに対する償いをさせてください。私がこれ以上、罪も無い人々を苦しめることがないように。そして、私がこれ以上、自分の能力を自分のために使わずに済むように…」
「あなたは」
と、トラリスは溜め息を吐く。
「先のことが見えるんですね」
そう言いながら彼は、アメイユの傍らに腰を下ろす。彼女はその気配に気づいたのか、身体の向きを少し変えた。
「それがあなたの能力?」
アメイユが頷く。
「なら、教えて欲しい。どうしてギルエンは、心臓を奪われても生きてるんだ」
「ギルエンから心臓を奪ったのは、やはり同族だと聞きました。その者の能力だったと」
「それがなぜおれに?」
アメイユは首を振る。そして俯いた。
「私には未来は視えても過去のことは見えないのです。私と出会った時、すでにギルエンは破壊と殺戮にしか関心がなかった」
「なのに、ギルエンが好きなんだな」
アメイユは言葉に詰まった。そして俯き、唇の前で両手を合わせる。
「あの方、ギルエンは…、捕らわれてこの能力を無理強いされていた私を、救い出してくれたのです。この能力以外はまったく無力な私に、この部屋と、この生活を与えてくれた」
「ギルエンが怖くない?」
「…あの方に乱暴されたことは一度もないのです」
「うん。わかるよ」
目を閉じてトラリスは頷く。
「ギルエンは優しくすることもできるんだよね。うわべだけなのかも知れないけど」
しばらくの沈黙の後、アメイユがぽつりと言った。
「わたくしを責めないのですね」
トラリスは目を閉じる。彼女がもしも、仲間たちと共謀し、嵐のことをローレウォール家にもたらさなかったら、あの日々が続いていたのだろうか。アトレイでもハレムでも、皆がギルエンはトラリスから自分の心臓を取り戻すため、つまり彼を殺すために攫ったのだと言った。けれど蛇蝎族から聞くギルエンの話はどうだろう。全てが食い違っていて、トラリスはもうなにもわからず、自分で答えを出すことができなかった。
「そんなの、なんの意味もない」
でも、とトラリスは続ける。
「償いだと言うならアメイユ、ギルエンの居場所を教えてください。ギルエンのいる場所なら、見ることもできるんでしょう」
「視るまでもありません」と、彼女は口を開く。
「イントラットから東へ進むと、水晶平原という場所に出ます。このイントラットを作る水晶石灰の白い平野です。そこに遺跡が残っています。おそらく、ギルエンはそこに」
「どうしてそんな場所へ」
怪訝な顔で訊ねると、アメイユは真顔で言った。
「あなたと会うために」
「会いたくないって言ったのに」
「止めてもあなたは行くでしょう、トラリス様。今日はここを自由に使って休んでください。焦らなくても、ギルエンは逃げたりしません」
「それでおれは、無事にギルエンと会える? おれと会いたくないと思っているギルエンに」
「トラリス様、わたしは」彼女は少し口ごもる。
「あなたの未来は視えないのです」
「絶望的ってことですか」
「いいえ」
彼女は首を振る。
「あなたを視ようとしても、どうしても上手くいかない」
「同じことを言った蛇蝎族の女性を知っていますよ。でも彼女の能力はあなたとは違う。目の前にいる人物の未来しか見えないと言ってました」
彼女は意外そうに顔を上げる。トラリスは自分の左胸を押さえた。
「他の蛇蝎族の能力も、特に他人に影響を及ぼすものは、おれには効き目がなかった。もしかしたら、それと同じなのかも知れない」
彼は溜め息を吐いてから、小さく笑う。最もその表情は、彼女には見えていないけれど。彼の言葉を待っているアメイユに向かって、
「もうひとつ聞きたいことがあるんです」と、口を開いた。
彼の言葉を聞いたアメイユは、
「トラリス様、あなたは…」
と、わずかに表情を固くする。トラリスは頷いて、彼女の言葉を待った。
話が終わると、トラリスは彼女に言われた通りその日は彼女の館で休んだ。出発したのは翌朝だ。アメイユをトラリスを案内してきた少女は、手厚く準備を手伝い、彼の出発を見送ってくれた。
「トラリス様」
と、玄関先で、アメイユは彼の手を取って言った。
「どうか無事で。できれば再びここへ戻ってください。それが私の望みです」
トラリスは頷いただけで、返事をしなかった。
ギルエンの待つ遺跡まではもう、目の前だ。
翌日にはトラリスは地平線まで続く白い平原に立っていた。光を受けてそこは、仄かに輝いているように見える。空は高く青く、東の空にぽつりと小さな雨雲が見える。それは彼にハイリンカの空を思い出させた。
『水晶平原は』と、歩きながらトラリスは今朝のアメイユの言葉を思い出す。
『旅人に時折、幻を見せるそうです。それが原因で、かつての都は打ち捨てられたのだと。トラリス様、どうぞ惑わされぬよう。お気をつけて』
彼女の忠告どおりだ、とトラリスは辺りを見回しながら考える。白い平原に足を踏み入れ、捨てられた都の遺跡が視界に現れる頃、足元にひたひたと水が押し寄せるのに気づいた。けれど濡れる感触はない。足の動きも水に捕らわれたりしない。トラリスが気にせず歩いていると、やがて辺りが一面水に満たされ、水面に立っているような景色に変わる。そして水晶石灰でできた遺跡が、遠くに浮かぶ島に姿を変えた。緑地を取り囲む白い砂浜や断崖。
歩きながらトラリスは溜め息をつく。恐ろしくはなかった。幻だとわかっていたし、しかもそれが自分の頭の中の光景だと、すぐに気づいていたからだ。
幻はあの島の、ギルエンと過ごした島から見える風景によく似ていた。けれど、とトラリスは一度、頭上を見上げる。空の色が違った。あの島は良く晴れた日には青の色が濃すぎて黒く見えるようだった。でも、この平原の上の空の色は違う。淡い水色の、平面的な空の色だ。
そう思いながら進むうちに、幻が現れたのと同じようにゆっくりとその景色は消え、元通り白い平原と、水晶石灰でできた建物の廃墟が現れた。
ひとつひとつが壮大な建物は、次第に数を増やす。水晶平原を歩くと言うより、遺跡の中に残る回廊を歩き始めてしばらく後、半分に折れて倒れた円柱の脇で、トラリスは立ち止まった。
「出て来いよ」
わざと大きな声で言う。視線はどこに向けていいのかわからない。首を巡らしても応える声はなかった。彼はその場でじっと待つ。
トラリスが動かないでいると、やがて円柱の影からゆらりと人影が現れた。後を尾けられていると、イントラットを出た時からずっと感じていた。
「アルゲイ」
現れた人物を正面に見据えて、トラリスは名前を呼んだ。一ヶ月前にハイリンカで対峙した時と比べて、その姿は頼りなく思えた。窶れように見える顔色を眺め、そして腕に目をやる。自分が切り落とした右肘から先は失われたままだ。
「ここまで来たのか」
「おまえ…」
彼がトラリスを睨んだ。少し痩せた顔の中で、相変わらず両目だけがぎらぎらと熱く燃えている。
「ギルエンに会うのか」
「そのつもりだよ」
トラリスは静かに頷く。
「ギルエンは心臓を取り戻せるな」
アルゲイが皮肉そうな笑みを浮かべた。それは強がっているように見えた。
「それはギルエンに聞くよ。おまえが決めることじゃない」
トラリスはそれだけ言って歩き出す。最も、いつ襲いかかってくるかも知れないアルゲイから意識を反らすことはしなかった。
「どうして俺に向かってこない」
トラリスは立ち止まって振り向く。
「俺が憎くないのか、俺を殺したくないのか。俺はおまえを」と、彼は言うと冷たい目でトラリスを見る。
「殺したいのに」
「わかってる。でも、できないんだよな。おれがギルエンの心臓を持ってるから」
アルゲイが黙った。トラリスは束の間待ったが、彼が何も言わないので再び背を向けようとする。
「待て」
と、そこにアルゲイが言った。トラリスは少し不愉快さを表情に出して、もう一度振り返る。
「ギルエンがおまえを手元に置いたのは、おまえを殺すためだ」
「うん、そうだと思うよ」と、彼は頷く。
「でも、おまえはあの島での暮らしを知らない」
そう言うとアルゲイの顔つきが険しくなる。
「会ってどうするつもりだ。予言の通り、ギルエンを殺すのか」
「さあ、わからない」
「ちゃんと答えろ」
「本当に、わからないんだ」
そう言ってトラリスは肩を竦めた。彼に屈辱を与える言葉を、その気になればいくらでも言うことは出来た。でも今、間近にギルエンが迫ったこの場所で、アルゲイにそんなことを言ってなんになるだろう。
「アルゲイ」
彼は言った。
「おまえがおれを殺したいと思っていても、おれはおまえが死ねばいいとは思わないよ。おまえには青い血が流れてるから。ギルエンと同じ、青い血だから。おれがなりたくてなれなかった血を、持ってるから」
「おまえなんかに」
そう言ってアルゲイは歯を食いしばる。
「ギルエンは殺せない。おまえみたいなただの人間に」
トラリスにはアルゲイの言葉が、暴言というより懇願に聞こえた。けれどそれは、単にトラリスがそう思っただけかも知れなかった。目を細め、彼は短く告げる。
「知ってる。おれ、もう行くよ」
彼はそう言って踵を返すと歩き出す。アルゲイが背後でまだ何か言う声が聞こえた。けれどもう、トラリスは振り返らなかった。
扉を開けると部屋の中は眩しかった。トラリスは一歩進み、辺りを見回す。部屋は六角形で、天井がほとんど崩れ落ちていた。そのせいで室内に光が降り注ぎ、それが水晶石灰に反射して、さらに部屋の中を輝かせる。植物のない温室のようだ、とトラリスは感じる。
この前室で見た幻は既に消えていた。灰色がかった白い床と壁と、半分ほど倒れずに残っている柱があるだけだ。
壁にある大きな窓枠の名残の脇に彼は立っていて、トラリスが部屋に入った瞬間から視線を向けていることには気づいていた。だからトラリスはゆっくりと進んだ。
「あれほど…」
トラリスが近づくより先に、彼が口を開く。大きな声ではなかったが、トラリスにははっきりと聞こえた。意外だと感じる気持ちと予想通りだと思う気持ちが同時に沸き起こる。そして彼の声はもう、トラリスの心を震わせたりはしなかった。トラリスも彼に気づいていたけれど、逆光で影になり、よく見えない。
「来るなと言ったのに。聞き分けの無い子だな」
同じ声が耳に届いた。
トラリスは歩調を落とす。そして思わず目を伏せた。実際に向かい合ったら何を訊ねようか、トラリスはずっとずっと考え続け、迷い続けて、なにひとつ確かな答えを出せなかった。この建物に入る時でさえ、まだそれを考えていた。
結局、彼を目の当たりにした時に、自然と言いたいことが出て来るのに任せよう、と結論を出した。
それなのに、今そこにギルエンはいるのに、言いたいことは何ひとつ思い浮かばない。
トラリスはのろのろと、彼の前まで進み出る。ギルエンは動かず黙ってじっと、彼がその場に立つのを眺めていた。正面に来ると視線がぶつかる。その表情はハイリンカの雨の夜に会った時とは違っていた。島で暮らしていたあの頃の、トラリスの記憶にあるギルエンの穏やかな表情だった。
それでトラリスは自分がどんな顔をすればいいのかわからずに、すぐに顔を伏せた。
「幻は、終わったの」
「幻?」
「島の風景。ここに来る前の部屋で、おれに見せた」
ギルエンは首を傾げる。
「そんなものを見たのか」
「うん」
「それは俺が見せたんじゃない。この場所がそうさせるんだ」
その言葉は別にふざけたようにも茶化したようにも聞こえなかった。トラリスは顔を上げる。真顔のギルエンと視線がぶつかる。今度はトラリスも目を反らさなかった。
「おれを」
彼はそう言いながら、左手をあげて胸を押さえる。
「殺さなくていいの」
ギルエンが目を細める。それから少しだけ厳しい口調で、
「命を粗末にするなと」と、続けた。
「教えたはずだぞ、トラリス」
穏やかな口ぶりに、しかしトラリスは心臓を鷲掴みにされたような衝撃を感じる。
「うん」と、トラリスは言った。
「覚えてるよ」
それはあの島にふたりきりで暮らしていた頃、ギルエンから山ほど教わったことの中のひとつだ。でも、とトラリスは思わず身を乗り出す。
「それは自分の心臓を奪われないためだろ? おれがギルエンの心臓を持ってるから、誰にもそれが傷つけられないように、心臓を取り返すために、島に隔離しただけじゃ足りずに、用心させるつもりだったんだろ」
「そう聞いたか」
ギルエンは静かに言って、小さく笑った。
その表情にトラリスの胸は、ギルエンのものであるはずの心臓は、締め付けられそうになる。変わらない。確かに目の前のギルエンは、記憶にあるギルエンより歳を取っている。けれどその表情は、トラリスの記憶にある彼のものと変わらない。
「ギルエン」
トラリスは口を開く。
「本当なのか。本当にギルエンが、アトレイのローレウォール家を焼き、イルソート地方の集落を焼き、ソワニヘイル大森林を焼き、各地の蛇蝎を呼び集めて町を襲うようなことを繰り返したって」
ギルエンは彼の言葉が終わるのを黙って待っていた。それから頷く。
「本当だ。おまえはそれを、自分の目で見てきたはずだ」
「それなら、どうして…」
と、 トラリスは肩で息を吐く。
「どうしておれがアトレイに連れ戻された後、ギルエンは姿を消したんだ」
ギルエンは目を細めてトラリスを見ると、また小さく笑った。それから自分の左手を、トラリスと同じように胸に当てる。
「トラリス、俺には心臓がないことを」
「それもちゃんと、覚えてる。ギルエンの胸に触れたとき鼓動がなかったこと、今でも忘れてない。アトレイに戻ってからなおさら、忘れたことなんてない」
遮るようなトラリスの言葉に、ギルエンは満足気に笑った。
「触ってみろ」
そう言ってギルエンは腕を下ろす。トラリスは驚いたが、ギルエンが両腕を軽く開いたままでいるので、おそるおそる近づいた。手を伸ばせば触れる距離に。
頭ではトラリスにもわかっていた。このままギルエンに捕らえられ、彼が自分の心臓を取り戻すために自分を殺すかも知れないと。
けれど同時に、彼は決して、そんなことをしないだろうという確信もあった。
トラリスは腕を伸ばす。指先が、次に掌がギルエンの胸に触れた。呼吸のために彼の胸は静かに上下していたが、心臓の鼓動は感じない。トラリスは手を動かして心臓の在り処を探した。けれどやはり、あるはずの場所からの鼓動は感じなかった。
彼が腕を離すと、ギルエンも手を下ろす。
「トラリス」と、彼は言った。
「おまえは俺の心臓を持ってる」
「本当はまだ、信じられない」
と、トラリスは弱々しく頭を振った。
「頭ではわかってる。でも、おれは赤い血だ。それにどうして、心臓がなくてギルエンは生きてられるんだ。今までずっと」
「俺が心臓を奪われてから」
ギルエンはかすかに笑って軽く肩を竦める。
「死なないことが不思議だった。心臓を奪われて生きていられるはずがないと。でもまず、蛇蝎の能力が消えた。それでもおまえが俺の心臓を持って生まれて来るなんて、そんなこと信じてなかった。でも初めてお前に会った時」
その言葉にトラリスの心臓が跳ねる。彼が言っているのは、自分が三歳の時の話だ。誕生会でギルエンに攫われた時のことだ。ギルエンはそれを気にする様子もなく、
「俺はないはずの心臓が動くのを感じた」
と、淡々と続ける。
「じゃあ、今は」
思わずトラリスは言った。けれどギルエンは答えず、また唇の端で笑っただけだった。
部屋の中が急に暗くなる。それに気づいてトラリスは頭上を見上げた。いつの間にか空に雲が多くなっている。それで太陽が遮られたのだ。彼は再び、ギルエンに目を向ける。
「アトレイで暮らすようになってから」
と、彼は震えそうになる声を抑えながら続ける。
「おれはギルエンを憎まなきゃって、思ったよ。蛇蝎族のせいで、たくさんの人が苦しめられるって聞かされてきた。だったらって、思ったよ。その中で一番苦しめられてるのがおれだって。そしてそのすべての原因を作っているのが、ギルエンなんだと、わかってるから、憎まなければと思ったんだ」
彼の言葉を、ギルエンは黙って聞いていた。
「ギルエンは俺を苦しめるために育てたと言ったろ? 俺は苦しんでる。俺をこんな目に遭わせたギルエンを憎まなきゃいけない。その憎しみを戦う力に変えなきゃいけない。ずっと、今までずっと、俺はそう自分に言い聞かせて来た」
そして言った。
「でも、できない」
トラリスは力無く項垂れる。ギルエンが小さく息を吐く。
「トラリス、なら故郷へ帰れ。そこで静かに暮らすんだ。おまえは俺たち蛇蝎を引っかきまわしすぎた」
「蛇蝎族は俺を恨んでる。帰ったって狙われるよ。アルゲイは特におれを殺したがってる」
「だろうな」
「ギルエンは」
「なにも。今は力がない」
静かに首を振った彼の態度に、トラリスの頭に血が上る。再び顔を上げてギルエンを見据えた。
「心臓は」
「今はおまえのものだ、トラリス」
「ギルエン! 真剣に答えてくれ」
トラリスは彼に詰め寄る。
「お願いだ。本当のことを教えてくれよ。おれを殺して心臓を取り返すつもりなら、どうしておれを八年も育てたんだ。どうしておれに名前なんかつけたんだ」
「言ったはずだ、トラリス」
ギルエンがそう言った時、部屋の中が更に暗くなる。この短い間に頭上に見た雲がさらく濃く暗くなり、風も出てきて隙間だらけの遺跡の部屋を通り過ぎる。冷たくはないが勢いのある風が、向き合っているトラリスとギルエンの髪を揺らした。けれどギルエンをそれを気にする様子もなく、淡々と続ける。
「俺の心臓を持って生まれた子どもを自分で育てることで、おまえが決して俺に逆らえなくするためだと」
「わかったよ、ギルエン」
トラリスは頷くと腰に差していた短刀を鞘から引き抜いた。
あの雨の夜更け、ギルエンに手渡された短刀だ。白い太陽の輝く島でふたりだけで暮らしていた頃、一人前の証に彼がくれた、装飾のない、白く輝く美しい短刀。
「この短刀を、おれに返してくれたよね」
ギルエンは表情を変えずに、黙って頷く。
「ずっと後悔してた」
と、トラリスは抜き身の刃を持ったまま続けた。
「これをあの島に置いてきてしまったこと、あの嵐の晩にあの島から離れたこと、ギルエンとの約束を守れなかったこと。それと」
彼はそこで言葉を切ると、ギルエンを見つめて小さく笑った。
「おれがギルエンの心臓を持ってること」
ギルエンが初めて表情を変えた。驚いたようにわずかに目を瞠る。トラリスは構わずに続けた。
「この七年、俺がなにもしなかったとでも? ギルエンの心臓について、なにも調べなかったとでも? ギルエンがおれを殺す以外に、どうしたらこの心臓をギルエンに返せるか、おれがその方法を探さなかったとでも?」
「トラリス」
ギルエンは彼の方へ踏み出した。近づく前に、トラリスは短刀を握り締めた。
「心臓を返すよ」
抜き放った刃は光を反射して白く輝いている。
「もっとはやく、こうするべきだったんだ」
そしてそれを、自分の胸に向かって振り下ろした。
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