<4> 青い血

 壮大な市庁舎の中へ入るのは容易かった。アルゲイが占拠しているとは言え、ここはハイリンカの一部なのだ。一階には見張りなのか、数人彼らに立ち塞がってくる者がいた。それをわけなく蹴散らして、トラリスは建物の奥へ進む。心臓は動かない。

 二階に上がって窓から外の見える廊下を歩いている時、

「あ」と、トラリスは思わず胸を押さえた。

 背後にいたイルハが、

「奴か」

 と、訊ねる。トラリスは頷きながら辺りを見回す。

「たぶん、黒雲がこの建物の周囲を覆ってる。稲妻が来る」

「伏せろ」

 イルハが背後の仲間に向かってそう叫んだ時だった。

 闇の中に稲妻が光り、直後に激しい音がした。衝撃から立ち直るとトラリスは窓辺に近づく。窓越しの庭に倒れ伏す人影が見えた。トラリスは唇を噛む。

「アルゲイはおれが追う! みんなは女の人たちを探して」

 そこでトラリスはイルハと別れた。彼には後ろから数名が加勢するためについて来る。一階の入り口には頭数を揃えていたアルゲイの手勢も、いまや姿が見えない。彼の稲妻が自分たちも襲ったことに怯えたのかもしれないが、トラリスには都合が良かった。

 廊下を突き進む。鼓動が止まない。目の前の大きな両開きの戸を開けたとき、同時にトラリスの背後で悲鳴が上がった。彼は振り返らず、まっすぐ部屋の中に目を凝らす。明かりのない部屋に誰かいる。鼓動は早い。あの人影は蛇蝎だ。トラリスは身を翻して人影に近づく。その動きに驚いたように一歩引いた。

「おまえは」

 知らない女の甲高い声がした。トラリスは構えた長剣の先を突きつける。

「蛇蝎だな。何を見せてる? 能力を使うのをやめろ」

 フードの奥で相手が息を飲んだのがわかった。トラリスは長剣の先でフードを払う。現れたのは蛇蝎族特有の皮膚の色をした、まだ若い女だった。女と言うより少女だ。トラリスともドルカとも、そう変わらない年頃に見える。トラリスは一瞬だけ同情して、それから彼女の首元に刃の先を先を押し付ける。

「おれはトラリス。アルゲイはどこだ」

 そう言いながら彼は彼女の腕を掴んだ。強く引くと彼女の腕から力が抜ける。トラリスが拍子抜けするほど呆気なかった。彼女は身を固くしている。

「トラリス!」

 背後に仲間の声が聞こえて、彼は振り返る。

「みんな無事? 何を見た?」

「体中に…百足が」

 彼はそう言って再び身震いする。蛇蝎の少女はトラリスを睨んだ。ギミエルの時もそうだったが、自分が触れると蛇蝎の能力が抑えられることに改めて気づいた。身体が蛇蝎に対抗するために出来ているようだ。けれど今はそれ以上考えている暇はなかった。

「その娘は」

 別の仲間が言った。トラリスは軽く首を振り、

「今、その気色悪い幻を見せてた子だよ。アルゲイのところまで案内してもらう」

「ここにはいない」

 震える声で彼女が言った。その時、頭上で再び雷の音が轟く。声を掻き消すほどの轟音が止んでから、トラリスは、

「嘘つき」

 と、言い放つ。心臓の早い鼓動を感じながら。

「トラリス、彼女を渡しておまえはあいつを探せ」

「だめだよ。おれが離したらまた幻の中に逆戻りだよ。丁度良いからこの子に人質になってもらう。女たちを捕らえてる場所に案内してくれよ。アルゲイはそれから自分で探す」

「あたしに乱暴したら…」

 彼女は掠れた声で言った。それで彼女が怯えているのがわかった。けれどトラリスは冷たい視線を向ける。彼女がどうしてここにいるのかは知らないが、おそらくこんな風に簡単に自由を奪われたことなど今まで一度もなかったのだろう。彼女には蛇蝎族の能力があるのだから。

「乱暴したらなに。自分だって散々してきただろ」

 冷たくトラリスは言った。

「自分は許されるって? 蛇蝎は赤い血の人間より優れてるから? それ、アルゲイからの受け売りだろ。それに青い血の蛇蝎の方が優れてるなら、どうして今、赤い血のおれなんかに掴まれてるんだ。さあ、早く案内を」

 少女の額に冷や汗が浮いている。目は動揺して小刻みに動いていた。トラリスは構わずに彼女を歩くよう促した。心臓の鼓動はまだ止んでいない。首筋に彼の持つ刃を感じながら、少女は廊下を歩いた。彼女の身体が震えているのがわかったが、トラリスは同情しなかった。廊下は静かだ。アルゲイの手下の姿もない。

 不意に奥から人影が現れた。トラリスは素早く蛇蝎の少女を引き寄せる。視線を向けるとその先に男が立っている。男と言うより少年で、彼も蛇蝎族だ。トラリスはそれを見て取ると、視線だけで背後の仲間にそれを報せる。再び緊張が走った。蛇蝎の少年は少女の名前を呼んだ。

「おまえ、蛇蝎だろ。能力を使うな。使ったら、この娘を」と、トラリスは言って、彼に良く見えるように少女の首筋の刃を動かす。蛇蝎の少女が小さな悲鳴を上げた。奥の人影は動かない。

「ここで待ってろ」

 トラリスは背後に声を掛けると、少女の腕を引いて歩き出した。

 その場に立ち竦んでいる少年の前に立つ。改めてそれを眺めたトラリスは気づく。ここにいる蛇蝎は皆年若い。アルゲイよりももっと、まだ幼さすら感じさせる。心臓の音は相変わらず早いが、彼の緊張した面持ちと背後の仲間の気配から、蛇蝎の能力を使っているのは彼ではないように感じた。

「おれはトラリスだ。アルゲイから聞いてるな」

 間近に寄ると少年が必死の形相で彼を睨んだ。トラリスの腕の中の少女が必死に彼に向かって目配せしている。

 トラリスは小さく溜め息を吐くと、彼に向かって少女を突き飛ばした。体勢を崩した少女が少年の方へ倒れこんだ。転ぶ前に彼が抱きとめる。

「黒い長衣を持ってるな」

 トラリスは訊ねる。彼らは返事をしない。

「その子を連れてここから出ろよ。変な気は起こすな。能力を使ったらおれにはわかる。もし次におれの前に姿を現したら、その時は容赦しない。おまえらふたりとも捕まえて、ハイリンカの住人に突き出す。それがどういうことか、わかるよな」

 少女が縋るように少年を見上げた。

「どうして…」と、彼は初めて口を開く。

「見逃すんだ」

「説明してるひまなんてない。アルゲイはどこだ」

「知らない」

 少女が答える。トラリスは苛立ったように長剣を軽く振る。刃が風を切る音がした。目の前の蛇蝎族のふたりが同時に肩を震わせる。彼らにはなんの心得もなく、蛇蝎の能力が使えなければ普通の少年少女と変わらない。トラリスはそれがわかったけれど、一方で彼らがやはり蛇蝎族であることは消えなかった。

「本当に知らないんだ。この建物のどこかを移動してるから」

 庇うように少年が言った。その時、稲光が窓越しに光った。トラリスの胸がかすかにざわめく。頭上に目を走らせると、目の前の二人に視線を戻した。アルゲイが能力を使えば、居場所を突き止めるのに彼らは必要ない。

「わかった、もう行け」

 トラリスは投げやりに顎を動かして彼らに示す。

 そろりと動きだしたふたりに向かって、さらに強い口調で

「いいか、能力を使うな。使って人を脅したら、捕まえに行くからな」と、釘を刺すのを忘れなかった。

 仲間のところへ戻ると、彼らは怪訝な顔をトラリスに向けたが、トラリスが軽く、

「泳がせてるだけだ。アルゲイを炙り出す」

 と、適当な説明をすると、納得しきれない様子ではあったが彼に従った。

 その間にも外では稲妻が光り、不吉な音が轟く。

 トラリスは自分の左胸に手を当てた。鼓動が早いまま、あとはこの心臓の音を、ギルエンの心臓の鼓動を信じるしかなかった。

 トラリスは更に先を急ぐ。自分の身体の内側、心臓の音に耳を澄ます。窓の外の黒雲は晴れていない。時折稲妻が光るのがわかる。引き返すと途中で別の部隊と鉢合わせした。喜ばしいことに捕らわれた女たちの監禁された場所を探し当て、無事に解放されつつあると聞いた。トラリスも思わず叫び声をあげる。

 その時また窓の外に稲妻が落ちた。硝子越しの目の前だ。それでも身体にわずかな痺れを感じた。

「もう用は済んだ。みんなはこのまま外へ出てくれ。おれはアルゲイを探す」

 トラリスはそう伝える。彼らは戸惑ったような表情でしばらく躊躇っていたが、

「一緒についてこられると、アルゲイと会ったらかえって足手まといになるから」と言った彼の言葉で、不服そうに彼を見送った。

 人波から離れたトラリスは、鼓動の早くなる方へ進む。そして三階建ての建物の屋上に上がった。外へ出ると強い風が彼に吹き付ける。頭上に積乱雲が固まり、トラリスの胸の奥は激しくざわめいた。

 彼は人影を探して進む。稲妻が光り、その姿を見つけた。

「アルゲイ!」

 トラリスは叫んでいた。剣を持ち直すと、彼に近づく。今は顔を晒してトラリスを待ち構えているアルゲイは、彼をじっと見据えて動かない。彼の髪も風になびく。

「威勢の割りに呆気ないな、アルゲイ。蛇蝎の能力に頼りすぎなんじゃないか」

 彼は少し距離を取ったところで立ち止まる。

「おまえは本当に目障りだ」

 頭上で雷雲が音を立てる。トラリスは緊張した。鼓動は早い。ここで落雷があれば、逃げ切れない。

 トラリスの目の前で稲光が輝く。それは彼に落ちなかった。けれどそれに目を奪われた一瞬の隙に、アルゲイが彼に飛び掛かる。トラリスは抵抗したが、力は拮抗していて、剣を落とした。他の蛇蝎族とは違い、アルゲイは身体を動かし方を心得ている。しばらく揉み合いになった後、トラリスはそれに気づいた。

「おまえ」

 と、トラリスは思わず言った。

「ギルエンに、手ほどきを受けたのか」

「トラリス」

 忌々しそうにアルゲイは言うと、彼の胸倉を掴んで締め上げた。トラリスは思わず呻き声を洩らす。

「殺してやる」

 彼はそのままトラリスを押し倒した。馬乗りになり腕に力を込める。トラリスの呼吸が苦しく時、その手がふと止まった。トラリスは目を開ける。

「くそ」

 アルゲイが叫ぶ。掴まれた腕はそのままだ。

「お前を殺せば、ギルエンも死ぬ」

 一瞬だけ彼の手の力が緩んだ。トラリスはすかさずアルゲイを突き飛ばして逃れる。しかし急に肺に空気が入り、咳き込むのを押さえられなかった。

「おまえ…」

 合間に彼はアルゲイを睨む。

「どうしてそれを」

 トラリスは思わず激しく脈打つ左胸に手を当てた。

 彼らの頭上で雷雲が轟く。アルゲイが一瞬、頭上を仰いだ。トラリスはそれを見逃さず、掴んだ長剣を振りかざして彼に飛び掛ると容赦なく振り下ろした。アルゲイがかわそうと身を引く。それが一瞬遅れた。そのせいで彼の右手が肘の先から離れて飛んだ。そこから青い血が迸る。トラリスは思わず目を見開いてそれを凝視した。

「トラリス、おまえ」

 そう言うと稲妻が落ちた。けれどトラリスには当たらず、市庁舎の庭に落ちる。轟音が続く。

 トラリスはアルゲイに近づくと、刃の切っ先を突きつけた。先程蛇蝎の少女にしたように。アルゲイが彼を睨む。

「こんなに近くにいたんじゃ、おれに雷を落とすこともできないんだろ」

 アルゲイは黙って彼を睨んでいた。その間にも、腕から青い血が滴り落ちる。

 しばらく黙って睨み合っていたが、先にトラリスが口を開いた。

「行けよ」

 と、トラリスは太刀を振った。

「早くおれの前から消えろ」

「ふざけるな」

 怒りを押し殺したような声で、アルゲイが言った。トラリスは更に顔を顰める。

「ふざけてるのは」

 と、トラリスは激しい口調で思わず言った。

「おまえの方だ。どうしておまえなんかが青い血なんだ!」

 彼の様子にアルゲイはわずかに眉を顰める。トラリスは続けた。

「ギルエンはお前が死ぬのを望んでない。知ってるんだろ、ギルエンがおれに会いにきたこと。お前と会ったすぐ後だ」

「ギルエンが?」

 アルゲイがわずかに目を瞠る。その表情でトラリスは、それが彼にも意外な事実だと知った。でもすぐにそれは新たな腹立ちに変わる。

「どうしてお前みたいな役立たずが、青い血ってだけでギルエンに庇われるんだ。どうして…」

 トラリスはもう一度アルゲイを睨む。

「ギルエンの居場所を」

「言うはずない」

「殺されたいのか。おれにはそれができる。でも、ギルエンはそれを望んでない」

 アルゲイに向かってトラリスは刃の先を押しつける。

「おまえなんかに…」

「嘘をつけばわかる。蛇蝎の全てがギルエンやお前の味方だと思うな」

 カルミラの顔を思い浮かべて、トラリスは言った。

「取り引きだ」

 アルゲイが言った。

「おまえの仲間をひとり誰か連れて来い。ギルエンの居場所を教えて、おれが無事に逃げられたら、解放してやる」

「駄目だ」

 トラリスは頭を振る。

「今、言え。これ以上お前の好きにはできない。言うか、おれに切られるかだ。あとは勝手に逃げろ。建物の周りは、お前を殺しても殺したりない仲間たちが囲んでる」

 しばらくそのまま睨み合った後で、アルゲイが口惜しそうに呟く。

「…イントラットだ」

 トラリスは彼を見返す。名前には聞き覚えがあった。イントラットは緑に囲まれた美しい町で、そして新市街は蛇蝎に壊滅させられたと。

「そこにギルエンが?」

「ずっといるとは限らない。転移の能力のある女を連れてるからな」

 その言葉はトラリスの更に胸を打った。島で暮らしていた頃、しばしばいなくなったギルエン。そしてクロエの姿で言葉を話したギルエン。

「でも忘れるな、トラリス」

 脂汗の浮いた顔を顰めながら、アルゲイが口を開く。

「ギルエンがお前を攫ったのは、おまえを殺すためだと。ギルエンに会って、絶望すればいい」

「おまえの言ってることが本当なら」

 と、トラリスは言った。

「おれはこうして、ここに立ってお前を追い詰めたりしてないだろうよ」

 アルゲイは忌々しそうに舌打ちして、黒衣のフードをかぶりなおすと、失った腕を庇うようにしながら彼の前から姿を消した。

 でもトラリスは気を緩めたりしなかった。夜空に重く垂れ込めた黒雲が消え、鼓動の早さが一定になっても、ずっと。



 やがて夜が明けた。黒雲が晴れても相変わらず曇天に覆われたハイリンカは、それでも捕らわれていた女たちの解放と、アルゲイの不在に湧いていた。

 市庁舎から外へ出たトラリスは、彼を探していたイルハに迎えられた。

「ドルカ!」

 イルハの影に彼女の姿を見つけた時、トラリスは疲れも忘れて思わず叫んだ。彼女もトラリスに気づくと彼に駆け寄る。トラリスは思わず彼女を抱きしめた。ドルカは驚いて身を竦めたが、大人しくされるままになっていた。

「良かった…、無事で」

 そう言って身体を離すと、トラリスは彼女の肩を掴んだまま、

「おかしなことを、連中にされなかったか」

 そう言って彼女の顔を覗きこむ。

 束の間黙ったドルカは目に涙を浮かべながら、何度も強く頷いた。

「私は平気、私は大丈夫。人質の女たちの部屋に閉じ込められてすぐ、皆が来てくれたからそれどころじゃなかったの。私は大丈夫、でも…」

 そう言って彼女は俯く。その沈黙に、トラリスの胸は痛んだ。けれど彼にはどうすることも出来ない。

 雲の切れ目から直線の朝日が差し込んで、まっすぐに間近な地面に落ちる。トラリスはそれに気づいて肩で息を吐くと、ドルカから離れた。

「疲れた」

「トラリス、シリルのことは…」

 イルハが躊躇いがちに言い掛けるのを、

「どうでも良いよ。ドルカは無事だった」

 と、トラリスは遮って小さく笑って見せた。

「別にシリルだけが特別に臆病者ってわけじゃない。おれも最初の宿の主人に売られたの、イルハも知ってるだろ。それはおれが裁くことじゃない。ハイリンカの住人に任せるよ」

 そう言って彼は溜め息を吐く。

「蛇蝎族だけが悪くて、赤い血の俺たちが全く清く正しいってわけじゃない」

 雲の切れ端から晴れ間が覗く。

「それより」

 と、トラリスはイルハに向き直る。

「イルハ、ありがとう。おかげでアルゲイからギルエンの居場所を聞き出せた。アルゲイを逃がしたのは、悪かったけど」

「充分だ」

 イルハは少し困ったように笑って彼を見た。

 疲れ切ったトラリスがシリルの家に戻るのを躊躇っていると、イルハが自分の家に来るよう勧めてくれた。ただし一人暮らしの彼の部屋は狭く、トラリスは午後まで床で寝ることになった。それでも気持ちはこの上なく楽だった。

 短い休息の後で目覚めたトラリスが自分の荷物を纏めていると、イルハが戻ってきてその様子に気づいた。

「もう、行くのか」

 トラリスは頷く。

「急だな」

「もうここに用はないからね。午後に発つ隊商に加えてもらうんだ。みんなにもよろしく伝えて。ひとりずつ挨拶してる暇がないから」

「次はどこへ?」

「イントラットだって。知ってる?」

「名前だけな。南東の国境に近い古い町だろ」

「そうみたい」

「遠いな」

「そうだね。だからもう、行かないと」

「トラリス」

 と、イルハは彼に近づく。トラリスは手を止めた。

「改めて礼を。おまえが手を貸してくれなかったら、今日はなかった」

 トラリスは顔を上げ、イルハを見上げた。彼の頬から首にかけて走る、稲妻の痕を見る。

「要らないよ」

 そう言って彼は首を振る。

「おれはイルハたちのために協力したわけじゃないんだ。アルゲイも逃がしてしまったし」

「トラリス、留まる気はないよな。歓待するぞ。それに」と、イルハは少しだけ口を噤んで、

「ドルカはおまえを…」

 と、続けた。

「心が動くなあ」

 トラリスはわざとそう言って、首を傾げる。

「イルハ、黙っていたけど、おれに蛇蝎族の能力が効かないのは、おれがギルエンに育てられたからじゃない。おれが」

 イルハは彼を見る。トラリスは左胸に手を当てて続けた。

「ここに、ギルエンの心臓を持っているから。ギルエンは漠然とした予言のためにおれを攫ったわけじゃない。自分の心臓を取り戻そうとしたんだ」

「おまえは赤い血だろ」

 まるで信じる様子もなく、イルハが言った。

「そうだね」

 と、トラリスは頷く。

「どうして自分から、危険に飛び込むようなことを」

 それ、本当に良く言われる、とトラリスは笑いながら続ける。

「おれはね、ギルエンに直接会って訊きたいことがあるんだ」

「殺されなかった理由を知りたいのか」

「どうだろう。上手く言えないけど」

 そう言いながらトラリスは言葉を捜す。

「ただ、納得したくて。他の人の言葉じゃなくて、ギルエンの言葉で直接それを聞いて、確かめたいんだ」

「止めても行くんだよな」

 イルハは腕を組んで彼を見下ろす。トラリスは曖昧に笑った。イルハは肩を竦めると、

「お前が雇われた隊商の雇い主は誰だ。知り合いだったら少し口利きをしといてやる。それから」と、彼は続ける。

「行く前にドルカに会ってやってくれ」

 彼の言葉にトラリスは頷き、それから半時間後には纏めた荷物を携えて、初めてイルハと会った時に彼が連れてきてくれた食堂の裏口に立っていた。ドルカは今日はそこにいて、彼が姿を見せると外へ出てきた。彼の姿を見ると、表情を曇らせる。

「もう行くの?」

 彼女の言葉にトラリスは頷く。

「次はどこに」

「イントラット。国境に近い古い町だって。詳しく知らないんだけど」

「そんなに急がなくても良いんじゃない?」

 彼女は無理に笑顔を浮かべようとして、歪んだ表情になる。その顔を見ると、トラリスの胸はわずかに痛んだ。

「ドルカ、本当にありがとう。ドルカが看病してくれずに風邪が長引いてたら、ここでアルゲイにやられていたかも」

「ばかなこと言わないで」

「世話になりついでに、もうひとつだけ」

 トラリスは笑いながら言って、首に掛けていた鎖を外した。イルハから手渡された、雷避けの鎖だ。不意を突かれたドルカは両手でそれを受け取った。

「忘れて持ってきたままだったから、返しておいて」

「トラリス」

 ドルカは一瞬だけ悲しそうな顔をして、手の中のものを握り締めると、

「私は…」

 と、言いかける。トラリスがそれを遮るように、

「ドルカ、おれは救世主じゃないよ。おれがここへ来たのは、女たちを助けるためでも、ハイリンカをアルゲイから解放するためでもないんだよ」

 そう言うと彼女は口を噤んだ。

「元気で、ドルカ」

 トラリスはそう言った。そして予定通りハイリンカを発った。


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