<3> 雨の夜更け

 住まいに戻ると朝から出掛けていたシリルが戻っていた。

「アルゲイに会ったよ。他のみんなにも知らせたほうが良いかな」

 トラリスが言うと、シリルが目を瞠る。

「またそんな嘘を」

「信じないなら、別に良いよ」

「本当なのか」

 トラリスは頷く。

「おれを殺したがってた」

「どうして」

「おれがトラリスだから」

 そしてたぶん、ギルエンの心臓を持っているから。そう思ったがそこまでは口に出さなかった。夜半にはまたイルハを含めた仲間たちが呼び集められ、トラリスはアルゲイに会った時のことを話した。

「それと、シリルには言ったけど」

 と、彼は続ける。

「アルゲイの能力は、ハイリンカの人が怯えてるほど強大じゃないと思う。稲妻を操る時、彼は必ずどこか近くにいるはずだ。蛇蝎の能力は、この広い町を覆えるほどのものじゃない。黒雲の晴れた日に狙いを定めれば、アルゲイの能力を使わせないことは可能だと思う」

 彼はそう説明して、ぐるりと辺りを見回した。

「迷ってたけど」

 と、トラリスは目を伏せる。そして昼間会ったアルゲイとのやり取りを思い出した。今までとは違う。アルゲイは明らかに、ギルエンを知っていた。

「協力する。アルゲイにもう一度会いたい」

 そしてあいつを追い詰めて、ギルエンの居場所を聞き出したい。その言葉が浮かんだけれど、心臓のことと同じく、口には出さなかった。

 翌日からトラリスは、避難させるためだけではなく積極的に黒雲の動きを追った。自在に動かせるわけではないと確信があった。アルゲイの能力で動かせる雲の範囲も、一度に放たれる落雷の数も、限りがあるはずだ。黒雲を見つけると、トラリスは町に出て彼の姿を探した。

 一方でイルハたちは天候を観測し、次に晴れが続く時を待っていた。

 けれどあの日以来、町は曇り空が続き、そしてまばらに降ったり止んだりしていた雨が、今日になってとうとう本降りになった。激しく、というほどではないが、強めの雨が朝からずっと、絶え間なく降り続き、夜まで続いた。

 その日一日ずっと、トラリスは下宿の建物から外に出なかった。天を見上げても、雷雲とは違う雨雲に覆われて、アルゲイの気配も感じない。作戦会議と言えるほどでもない打ち合わせはしたが、湿気の多い雨の日は、人の気持ちをどんよりとさせる。それは他の皆も同じだった。どこか気炎の上がらないまま、その日はお開きになった。明日は雨が上がれば良い、それならできることもある、と考えながらトラリスは既に馴染んだベッドで眠りにつく。

 明かりを消した部屋の中に、外の雨降りの音が聞こえた。

 それは突然だった。トラリスは目を覚ます。自分がどれくらいの時間眠っていたのか良くわからない。けれど雨の音はまだ聞こえていて、部屋の中は暗い。既に見慣れた部屋に不意の違和感を感じて、彼は辺りを見回す。

 窓の外に誰かいる。

 厚手のカーテンを閉めているけれど、そう感じた。トラリスは身を起こすと寝台から降りて窓際へ近寄る。そしてそっと片側のカーテンを引いた。

 外で人影が動く。トラリスは窓を開けて身を乗り出した。雨の音が大きく聞こえる。視界の端で人影が消えた。誰だろう、と彼は奇妙に思う。アルゲイの手下の誰かが、自分を狙ってきたのだろうか。トラリスは束の間考えて、長剣を身につけ雨避けに黒い長衣を羽織ると、窓を閉めてからそっと部屋を抜け出した。

 雨の音が響く。いつものより更に薄暗く感じる通りに立って、トラリスは人影を探した。

消えたと思った路地へ回ると、やはりそこに誰か立っている。ハイリンカの住人では考えられない白っぽい服を着ていて、街灯の乏しい夜道にその姿がぼんやりと浮かび上がっていた。トラリスは警戒しながら近づいた。彼が少し近づくと、白い人影は路地の先へ進んだ。誘い込んでいるみたいだ、とトラリスは思ったが、それでも距離を取りながら近づいた。この辺りの道は路地も通りもおおむね把握している。相手の出方によっては、逃げ出すことも可能だろう。そう思いながら歩く路地の先は、そろそろ袋小路だ。白い人影はそこで立ち止まる。トラリスは距離を詰めた。

 人影が振り向く。白っぽい、と思ったのは薄い灰色の長衣で、トラリスの着ているものと同じように大きな覆面がついていた。そして相手はそれで顔を覆っている。

 でも、トラリスにはわかった。それに気づいた時、あまりにも衝撃が大きくて、トラリスは息を飲むのが精一杯だった。

「ギルエン…?」

 もつれる舌で訊ねた声は、自分のものではないように上擦っていた。トラリスが一歩近づくと、目の前の人影は腕を上げて覆面を少しだけ頭の上にずらした。顔が露わになる。

 その顔を見てトラリスはもう一度、今度はもう少し落ち着いた声ではっきりと呼んだ。

「ギルエン」

「トラリス」

 彼が静かにその名を口にした時、トラリスは頭を強く殴られたような衝撃を受けた。

 トラリス。トラリス。記憶の中の懐かしい声に、懐かしい響き。変わってない。トラリスの記憶にあるがままの、ギルエンの声が自分の名を呼んだ。

 トラリスは吸い寄せられるように、その場から動かないギルエンに近づく。

「ギルエン!」

 次の瞬間にはトラリスはギルエンにしがみついていた。そんなことをするつもりはなかった。けれど身体が勝手に動いた。ギルエンの服は雨に濡れていて、彼の顔を見上げるとトラリスの被っていたフードが首の後ろへ落ちた。顔に雨粒が落ちる。

 ギルエンはそんなトラリスを、受け入れるでも突き放すでもなく黙って見つめていた。

 トラリスはギルエンの肩に額を押しつけ、両手で強く彼の服を握りしめる。知らずの内に顔が歪んだ。そぼ降る雨が彼の身体を冷やしていたはずなのに、今は狂おしい程に熱かった。

 わずかの間、ふたりはそうして黙っていた。まもなくギルエンが右腕を上げて、トラリスの肩に軽く触れる。

「成長したな、トラリス」

 トラリスは顔を上げた。目の前のギルエンはほとんど変わっていない。あれから七年近く経っているのに。ただ記憶にあるより彼は疲れているように見えた。でもそれは、この夜更けの暗がりのせいかも知れない。

 トラリスは彼を見上げた。目が合うとギルエンは小さく笑った。その表情にトラリスの胸が詰まる。それも変わってない。あの島にいた頃と。あの頃の彼の表情と。

「あれから」

 何か言おうと、トラリスは口を開く。けれど唇は震え、声は掠れ、自分でも上手く言葉になっているのかわからなかった。

「何年経ってると思ってるんだ…」

 絞り出すように彼は言った。

「そうだな」

 ギルエンは頷いて目を細める。トラリスには笑ったように見えた。彼は俯く。そしてギルエンにしがみついたまま、トラリスは次に言うべき言葉を探した。

 もう何度も何度も、数え切れない程幾度も、トラリスはこの時を想像したはずだった。

 ギルエンに再会したら何を言い、何を問いかけ、何を伝えるべきか、あれほど考えていたのに。

 いざこうしてギルエンを目の当たりにすると、なにひとつ言葉は浮かんでこなかった。

「トラリス」

 逡巡している彼の頭上で、ギルエンが名を呼んだ。トラリスは顔を上げる。

 彼はもう笑っていなかった。そして続ける。

「アルゲイから手を引け」

 トラリスはその言葉に表情を凍らせた。頭から冷水を浴びせられたような気分だった。実際に雨に打たれていて、それが急に冷たく感じられる。一瞬で胸の奥まで冷やされたような、そんな感覚。

「ギルエン、何を…」

 言われたことが上手く頭で理解できない。トラリスは呟くように言いながら、しかし腕の力は勝手に抜けて、ギルエンの身体から離れた。

 彼は表情を変えずに、まっすぐにトラリスを見つめて続ける。

「おまえは深入りしすぎた、あちこちで蛇蝎の郎党がおまえを目障りに思っている。ますますおまえは狙われるだろう。その前に、手を引け。まだ死にたくないだろう」

 ギルエンは静かにそう言った。

「何言って…」

 頭の中が混乱する。トラリスは目を伏せて一歩後ずさった。目の前にいるのは確かにギルエンなのだろうか。本当にギルエンだとしたら、彼は今何故、自分にこんなことを言うのか。トラリスは必死に考える。けれどいつものように、思考は冷静に働いてくれない。

「トラリス、おまえの目的は」

 彼に向かってギルエンは静かに話しかける。トラリスは顔を上げてギルエンを見た。自分でも、顔から血の気が引いているのがわかる。

「俺に会うことのはずだ。だったら、目的は果たされた」

「そんな…」

 トラリスはその場に立ち尽くし、かぶりを振った。彼は確かにギルエンとの再会を望んでいた。けれどそれは、こんな風に唐突で、一方的な言葉を口にされるための再会ではなかった。

「トラリス、これ以上蛇蝎の手を焼かせるな。故郷に帰って、大人しく暮らせ」

「ギルエン、それは」

 震える声でトラリスは言った。

「おれがギルエンの心臓を持ってるからか」

 彼は言いながら自分の胸を押さえる。この服の下、皮膚の、骨の、その奥にある心臓が。ギルエンは目を細めただけで、何も言わない。

「それが本当なら」と、トラリスは必死で言葉を続ける。

「どうしてギルエンは生きていられるんだ。心臓がないのに。それにおれの心臓はどこにあるんだ。どうしておれが、青い血のギルエンの心臓を持って生きていられるんだ。おれは」

 と、トラリスは顔を歪めて目を伏せる。

「赤い血なのに」

 ギルエンは何も言わない。トラリスも黙っていた。雨の音だけが聞こえて、ふたりを濡らす。

「なあ、トラリス」

 やがて静かにギルエンが口を開いた。彼は腕を伸ばすと、呆然としてるトラリスの顎を掴んだ。彼は少し力を入れて、トラリスの顔を自分に向かせる。痛くはなかった。トラリスはされるがままにしていた。彼の目を見て、

「こう考えたことはないか」

 と、ギルエンは続ける。

「俺の心臓を持って生まれた子ども、自分で育てることによって、おまえが決して俺に逆らえなくするためだと」

 稲妻のような衝撃がトラリスの身体を打った。彼はギルエンに顎を掴まれたまま、言葉を探す。そしてやっと、

「だったら…どうして」

 と、震える声でそう言うと、顔が歪んだ。トラリスは思わず目を伏せる。ギルエンはトラリスを掴んだまま離さない。

「俺を置き去りにしたんだ…!」

 そう言うとトラリスの胸のあの日のことが、あの嵐の晩のことが一瞬にして蘇った。彼ギルエンの腕を振り払う。あっけなくギルエンは彼から離れた。

「俺を置き去りにして、また親の元に戻すようなことをしたんだ! 俺がギルエンを探すと思わなかったのか? 運命の子どもだと予言されたおれが、蛇蝎に楯突くようになると考えなかったのか?」

 激しい調子でトラリスは叫んだ。しかしそれを見つめるギルエンは全くの平静だった。

「ギルエンは、おれが…」

 高ぶる気持ちを抑えながらトラリスは一瞬動きを止めた。だが既に冷え切ってしまった心臓は、それ以上冷たくも重くもならなかった。

「おれが…本当のことを知った怒りで、ギルエンを狙うとは思わなかったのか?」

 その言葉を聞いたギルエンは小さく笑った。それは優しい笑みだった。トラリスはその表情にまた、わずかに胸を打たれる。皮肉の気配のしない、トラリスのよく知る彼の柔和な微笑み。その笑みを浮かべた口で、ギルエンは言った。

「思わなかったさ」

 その答えにトラリスは目を瞠る。ギルエンは続けた。

「現にトラリス、お前はこうして苦しんでいるだろう?」

「聞きたくないよ…」

 トラリスは耳を塞ぎたかった。けれど腕に力が入らない。弱々しい声でそう言うと、彼はかぶりを振った。

「理解したならトラリス、アルゲイから手を引け。そして二度と、俺たちの一族に刃向かおうとするな」

 結論付けるようにギルエンは感情のない口調でそう言い放つ。それから腕を動かすと、懐から何か取り出して、

「忘れ物を返してやるよ」

 そう言いながら彼はトラリスの力のない手を取った。そしてそこになにか握らせる。冷たく固く、雨に濡れたそれ。その時のことを後になって思い返し、トラリスは考える。

 たとえアルゲイの一瞬で身を焼き尽くす稲妻の一撃を受けても、あれほどの衝撃ではないと。

 トラリスの手の中にあったのは、ギルエンが彼に握らせたものは、短刀だった。

 飾り気はないが、美しい曲線を描いた白銀の鞘に収められた短刀。トラリスはそれを知っていた。あの島で暮らしていた頃、一人前の証だと言ってギルエンが彼にくれたものだった。トラリスはそれを一度たりとも忘れたことはない。けれど短刀は、記憶にあるより小さかった。でもその優美な形は、記憶にあるよりもっと美しくトラリスの心を打った。

 手の中のそれに気づいた彼は、その場に立ち尽くしたまま動けなかった。

 彼が呆然としてる間に、ギルエンは振り返ることなく雨の闇夜に姿を消した。ギルエンの姿が消えると、途端にトラリスの膝から力が抜けた。彼はその場にへたり込む。

 そしてたった今の邂逅を、ギルエンの言葉の一部始終を思い起こした。

 ギルエンは『一族』という言葉を使った。ギルエンはアルゲイを、自分の一族だと考えている紛れもない証拠だった。 

「うう…」

 トラリスは嗚咽を漏す。これが怒りなのか、哀しみなのか、トラリスには区別がつかなかった。

 激しい感情の波に打ちひしがれて、トラリスは頭を抱えた。

『故郷に帰って、大人しく暮らせ』

 彼の言葉が甦る。ギルエンは『故郷』という言葉を使った。トラリスに向かって、『故郷』に帰れと。それはアトレイのことだ。今では遠く離れてしまった、自分の生まれたアトレイの屋敷。

 けれど、とトラリスは考える。

 トラリスにとっての故郷は、トラリスがその言葉から思い描く故郷の光景は、紛れもなく、ギルエンと暮した、あの太陽の輝く小さな島の風景なのだ。



 翌日からトラリスは熱を出した。微熱だが、弱っていたのは身体より気持ちだ。シリルも彼の家を訪れた他の者も、体調を崩したトラリスを気遣ってはくれたが、雨の夜更けに傘も持たずにふらふらしていた理由を彼が一言も言わなかったため、自業自得だとあまり同情されなかった。その中で一人、ドルカだけはこの家に留まり彼の看病をしてくれた。二昼夜が過ぎて雨足はだいぶ弱まり、かすかな音が窓を叩くだけだ。寝ているのにも飽きたトラリスが、ぼんやりした頭で寝台に身を起こしていると、薄い扉を叩く音がして、

「トラリス。具合はどう?」

 と、水差しを持ったドルカが部屋へ入ってきた。

「熱下ってきたみたいだ。寝てるのも飽きた」

 彼女は笑ってサイドテーブルに水差しを置いた。それから椅子の引いてトラリスの脇に座る。

 このところ毎日のように顔を出している彼女に、良い機会なのでトラリスは彼女が普段はなにをしているのか訊ねた。彼女はトラリスと同い年で、学校へ行っていてもおかしくないと知っていたからだ。

 そう言うと彼女は困ったように溜め息を吐く。

「今、若い女はあんまり外を自由に歩けないのよ」

 それより、と彼女は畳んだ紙を取り出すとサイドテーブルへ広げた。この国の地図だ。ドルカは、

「いまはここ」と、まずハイリンカを指差す。

「トラリスはアトレイから来たんだよね」

 彼女はそう言って指先を地図の上に彷徨わせる。それより先に、トラリスが腕を伸ばして首都アトレイを指し示した。

「いたけど、三歳までで全然覚えてないのと、戻ってからは四年くらいしかいなかった」

 ドルカがわずかに息を飲んだのがわかった。

 彼は気にせずに、視線をアトレイから遥かに南西の多島海域に向ける。あの島がどこなのか、果たしてこの地図にあの島が載っているのかすら彼にはわからない。アトレイではもちろん誰も教えてくれなかった、自分から訊ねるのはもっと躊躇われた。

「その後、一年くらいハルムっていうとこにいた」

 トラリスはそう言って、指先でアトレイより北西の山並をなぞる。

「山の近く?」

 ドルカの視線がそれを追った。

「うん、近くって言うか山奥の小さな村だよ。アトレイの王室ゆかりの水神殿があるんだ。今は廃れちゃったけどまだ残ってて、そこに世話になってた。いいところだったよ。森の中の湖の傍で、アトレイよりずっと好きだった。全部終わったら、また戻りたい」

 彼がそう言って顔を上げると、ドルカが困ったような顔をしていた。けれど彼女はトラリスがそれに気づく前にその表情を引っ込めて、

「本当に」

 と、地図に目を落としながら言った。

「蛇蝎族に八年も育てられたの?」

「うん」とトラリスは頷く。

「ドルカの仲間は半信半疑みたいだけど。でも」

 と、彼は首を傾げる。熱のせいか、いつものように頭が働かない。

「ギルエンが蛇蝎族なのか、未だによくわからなくて」

 ぼんやりと彼は続ける。

「確かにギルエンは青い血なんだけど、それは本当なんだけど、おれが知ってる残酷な蛇蝎族と、ギルエンが結びつかなくて…」

 ドルカは束の間彼の表情を眺めて、それからまた地図の上の指を動かす。

「ここ」

 と、彼女は国境近い平野を指した。

「ここが、最初に蛇蝎の頭領が荒らした地域」

「町がない」

 トラリスは言った。地図にはどんな小さな村の名前も載っていない。

「百年近く前のバルメリア自治区の内紛で、難民になった人の一部がそのまま住み着いて、代替わりして集落になったのよ。正式な村でも町でもないから、この地図には載ってないみたいなの。最も」

 彼女は小さく溜め息を吐く。

「今はもうないんだけど。トラリスを育てたって言う蛇蝎の頭領が、全部焼き払っちゃったから」

 トラリスは彼女の指先を眺めた。ここに来るまでにいくつかギルエンや他の蛇蝎族が崩壊させた村や町を見てきたけれど、最初がどこだかなんて気にしたこともなかった。

「炎を操るって? 火炎の業火を」

「噂ではね。実際に見たって人はハイリンカにはいないわ。稲妻だったらいくらでも見られるけど」

「おれも見たことない。燐寸に火をつけるのに失敗したのは、何度も見たことあるけど」

 トラリスは言って小さく笑った。ドルカもつられたように困ったような笑みを浮かべる。それから真顔になると、しばらくトラリスを眺めてから言った。

「まだ、蛇蝎の頭領に会うつもりなの」

「わからない」

 トラリスは首を振る。ドルカは地図の上で両の拳を握り締めた。

「彼が憎い?」

「どうだろう」

 と、トラリスは首を傾げてから続けた。

「でも、憎まなくちゃいけないって、頭ではわかってる。ギルエンはおれを苦しめてる。おれだけじゃなくて、他の罪もない人々も。しかも自分の同族にも、同じことをさせてる」

「それがわかってるのに、自分から奴らの手の内に入ろうとするなんて、のこのこ殺されに行くようなものだと思うけど」

「そうかも知れない」

 トラリスは先日の雨の夜更けを思い出す。アルゲイから手を引けと忠告しに現れたギルエン。七年ぶりに姿を現したギルエン。故郷に帰れと言ったギルエン。

 それを考えると思考は行き詰まり、頭はぼんやりと頼りなかった。

「トラリスと暮らしていた時、蛇蝎の頭領がどうだったのかはわからないけど、トラリスを殺そうとしてたことは間違いないと思う。それがあいつらのやりくちよ」

「うん」

 トラリスは頷いた。

「きっとドルカの言うことが正しいんだと思う」

 彼はそう言った。けれど誰かにその言葉を言われるたび、そして相手の言葉を肯定するたび、トラリスの胸はいつも苦しくなる。頭ではわかっているのに、どこかでそれを受け入れられない。トラリスは息を吐くと、軽く頭を振った。

「ちょっと喋り疲れた。少し横になる」

「うん、あとでまた食事を作るね」

 ありがとう、と彼が言うと、お大事に、とドルカが部屋を出て行った。寝台に横になるとトラリスはすぐに眠ってしまったが、夢は見なかった。

 それからさらに一日寝込んでやっと熱の下ったトラリスは、青白い顔で薄曇りの窓の外を眺めていた。そこへイルハがやってきて、彼が寝込んでいる間にアルゲイが気まぐれな落雷を放ち、二人の重傷者と一棟の家が焼けたと教えてくれた。トラリスはぼんやりとそれを聞く。

「回復しないな」

 イルハが傍らに近づいて言った。トラリスは顔を上げる。

「気が抜けてる。病み上がりだからなのか、やる気がないのか」

 トラリスは黙って誤魔化すように小さく笑った。返事の言葉が思い浮かばない。

「なぜ、あんな雨の中を?」

「別に、理由なんて」

 弱く頭を振りながらそう答えたトラリスに、イルハは首を傾げる。

「おまえは最初に会った時から生意気だったが、理由もなくばかなことはしなかった」

「イルハは」

 トラリスは彼を見上げる。

「アルゲイを捕まえたらどうする?」

「決まってる」

 彼は忌々しげに答える。

「殺してやる」

 トラリスは顔を伏せる。

「…もしおれが、手を引くと言ったら」

「あいつに会って、おまえの探してる奴の居所を聞くんじゃないのか」

「うん」

 トラリスは曖昧に頷く。

「そうだけど」

 七年も自分の前に姿を現さなかったギルエン。その彼がいともあっさり、トラリスと再会したのは、アルゲイから自分を遠ざけるためなのではないかと。

 真夜中の稲妻のような再会と彼の言葉を思い出すたび、トラリスはそう考えずにいられなかった。

「逃げ出すのか」

 不機嫌を押さえた口調でイルハが訊ねる。

 トラリスは答えられなかった。イルハはしばらくそんな彼の答えを待っていたが、彼が何も言わないのがわかると、自分から口を開いた。

「好きにすればいいさ」

 トラリスは顔を上げる。けれど口調とは裏腹に、イルハは鋭い目つきでトラリスを見ていた。

「でも、今は駄目だ」

 彼は強い口調で続けた。

「あいつをこの町から追放するには、お前の力がいる。トラリス、それが終われば、おまえは元通り自由だ」

「うん」

 最初の宿で出会った出会った夫婦の暗い顔を思い出す。ヤヘルテは自分に親切にしてくれたし、彼女の夫が自分を売ったのも結局のところ、彼が家族思いの父親だからだ。トラリスは誰も助けるつもりなんかなかったけれど、

「そうだね」と、頷いた。

 今頃になってやっと、トラリスは自分がもう引き返せないことに気が付いた。ギルエンが拒んだとしてもだ。

 束の間、どちらも口を開かずにいると、玄関の方で誰かが走ってくる音がした。ふたりが戸口へ顔を向けるのと同時に、シリルが血相を変えて飛び込んでくる。彼はトラリスとイルハの姿を見るなり、

「ドルカが攫われた」と、言った。

 それを訊いたトラリスは思わず腰を浮かせて立ち上がった。イルハも表情を固くする。

「いつ」

「今朝だ。自警団の馬車に押し込まれるのを見た奴がいる」

「おれのせいだ」

 咄嗟にトラリスは言った。

「ここのとこドルカは毎日ここに来てた。だから目をつけられたんだ。おれのせいだ」

 トラリスは額に片手を当てると、束の間考え、

「シリル」

 トラリスは彼に顔を向けると、真剣な表情で言った。

「市庁舎の見取り図、あったよね。周りは立ち入り禁止になってるって言ってただろ? 詳しい道を教えてくれ」

「トラリス」イルハが眉を顰める。

「行くつもりなのか」

 彼が頷くと、「ひとりでか」と、シリルが訊ねた。

「自警団とか、それ以外にもアルゲイの手下になってる奴らがいるんだろ? 全員を突破できないかも知れないけど、上手く中に入れればやれると思う。蛇蝎の能力は、おれには効かないから」

 シリルは改めて驚いた様子で彼を見つめた。

「おれ、行くよ。ドルカを助けないと」と、慌しく言った。

 その肩を「待て」と、イルハが掴む。

「ぐずぐずしてる暇なんてないよ」トラリスは苛立った口調で言うと、イルハを睨んだ。

「トラリス、明日まで待て」

「待てない」

 彼は首を横に振る。

「トラリス」

 イルハも同じく強い調子で続ける。

「俺たちが今までしてきたことを、台無しにしようとするな」

「だからドルカを見殺しにしろって? 今頃どんな目に遭ってるかもわからないのに」

 イルハが舌打ちした。

「トラリス頼む。少しだけ時間をくれ。せめて夜まで待て。仲間に声を掛けるし、おまえも病み上がりだろ」

 イルハの態度に、トラリスは唇を噛む。彼にとってもひとりで行くより、他の手勢が欲しいのは確かだ。

「…わかった」

 不承不承を隠しもせずに、彼は頷く。

「夜までだ」

 そう言ったイルハは脇にいたシリルに視線を走らせる。

「時間はまた連絡する。今はまだ待て。シリル、いいな?」

 彼は頷いた。トラリスは射るようにその表情を見つめた。イルハは出て行った。

 焦れる思いを抱えたまま、トラリスは準備をして日没まで待った。ギルエンから返された短刀は迷った挙句、腰に差した。それとは別にイルハから借りた長剣を身につける。美しい短刀と違って無骨で安っぽい。長剣を扱うのは久しぶりだったが、しばらく身体を動かしているとかつての感覚が甦った。それは同時にまた彼の心にさざ波を立たせたけれど。

 仲間のひとりから報せが届いた。シリルが震えているのには少し前から気づいていたが、

「シリル」

 と、トラリスはその時になってやっと声を掛ける。

 彼はびくりと肩を震わせてからトラリスを振り返った。

「怖いの?」

 トラリスは訊ねる。

「トラリスは怖くないのか」

「まったく怖くないと言ったら嘘になるけど、シリルより場数を踏んでるからね。あと、蛇蝎のことが怖くないのは大きいかも」

 彼は肩を竦めて答える。青ざめたシリルの顔を束の間眺めてから、

「怖いなら、来なくてもいいよ。合わせる顔もないだろうし」

 彼はそう言うと先に外へ出て、言われた場所へ向かった。市庁舎の裏手から少し離れた広場だ。市庁舎に近づく道はここから閉鎖されていて、住人は立ち入ることはできない。明かりの乏しい暗がりの中で、彼らは例の黒い長衣を身につけているため、更に見分けづらい。それでも暗がりで見渡す限り、十数人いる。

 トラリスは例の黒い長衣を着ていたが、もはや顔を隠す意味はないだろうと、フードを下げたまま歩いてた。イルハの方から彼を見つけて、

「トラリス」と、近づいてくる。

「こんなにいたんだ」

 傍まで来ると彼は言った。イルハは頷く。

「まあな。実は他にもいる。分散させた」

「おれも十人いれば、もっと協力できるのに」

 溜め息を吐きながら、トラリスは顔を曇らせる。

「心配するな。覚悟はできてる。アルゲイの手下もほとんどがハイリンカの人間だ。ただあいつが恐ろしくて寝返っただけだ」

 トラリスは黙って目を細める。

「雷雲は?」と、イルハが続けた。

「今は平気、何も感じない。でもおれたちが動きだしたらわからない」

「じゃあ、これを」

 イルハは彼に携帯用の角灯ともうひとつ、鎖状のものを差し出す。

「避雷針の代わりだ。雷雲が近づいたら床に伏せろ、そこから雷の電気を身体の外と地面に逃がす。落雷にあっても」

 そう言ってイルハは自分の頬の、葉脈に似た火傷の跡を差した。

「この程度で済む」

 トラリスが手の中のものを眺めた。イルハと出会った時に彼が手にしていた黒の準金属合金を加工した、細長い三角形の金具が鎖にぶら下がっている。首にそれをかけながら、

「一応こういう対策、してたんだね」と、トラリスは言った。

「仲間の目印も兼ねてる」

「信用できるかな」

「何が言いたい」

「シリルも持ってるんだろ」

「トラリス」

 イルハの声が低くなる。彼は苦笑して、

「おれの監視役が、ドルカを売るなんて」

「トラリス…」

 イルハが溜め息を吐き、

「決まったわけじゃない」

 と、決まり悪そうに言った。

「おれは疑ってるよ。取り乱し方、ひどかった」

「見張っていたのは悪かった。ドルカのことも。それでも、あいつを追放したい気持ちは同じだ。特にシリルは、人質を取られてる」

「うん、別にどうでもいい。今さら止める気もないしね。行こう」

 トラリスはイルハの立てた作戦を聞いた。正面に回っている別働隊が入り口を打ち崩すので、彼らは裏側にあたるこの場所から更に二手に分かれて中に入るのだ。

「守り自体はそれほど固くない。手下と言ってもほとんどが破落戸だ。自警団も勝手にあいつに取り入ってるだけで、あいつは同族以外を信用してない。仲間だとも思わないみたいだ、それでも」

 既に頭に叩き込んである見取り図を、ほの暗い明かりでもう一度だけ確認していたトラリスに、イルハが言った。

「皆、怖くて出来なかったんだ」

 トラリスは見取り図を畳むと、イルハを見上げる。

「中に入ったら、おれはアルゲイと他の蛇蝎を探すから。ドルカをお願い。人質って、ぴんと来てなかったけど、ドルカは助けたい。助けなきゃ。それにアルゲイはおれを殺したがってる。もしアルゲイに遭遇したら、おれの名前を出してくれ。同じ建物の中にいると」

「わかった」

 それからしばらく静けさがあった。平静だったトラリスにも、集まったイルハや仲間たちの緊張が伝染するほど、周囲の空気は張り詰めていた。

「来た」

 イルハが顔を上げる。トラリスが目を向けると、建物の窓に明滅する明かりが見えた。

「正面は成功だ。俺たちも行くぞ」

 トラリスは顔を上げた。暗がりの中ではっきりイルハと目が会う。彼は頷いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る