<2> アルゲイ

 木枯らしが吹くと肌寒い。それは風の冷たさだけでなく、目の前に広がる景色のせいかも知れない。トラリスはそう考えながら、丘の上からハイリンカの町を見下ろした。

 古い城塞都市の町並みをそのまま残すハイリンカは、周囲をぐるりと堅固な城壁で囲まれている。その上を覆うように低い黒雲が垂れ込めていた。触れられそうなほどくっきりとした形の巨大な積乱雲だ。時折その雲の中に稲妻の白い光が横切る。町の姿は黒雲を透かしておぼろげにしか見ることが出来ない。それがトラリスの目に映る光景だ。

 黒雲はアルゲイという名前の蛇蝎族によって集められ、その能力を振るう蛇蝎は城壁の中に住み着いている。二年前に突然、この堅固な城塞都市は内側から蛇蝎族に入り込まれ、あっという間に陥落したのだ。有名な話だった。

 町を見下ろすために馬上で立ち止まっていたトラリスは、先に進んだ隊商を囲む護衛の男に声を掛けられ、再び手綱を引いて彼らに追いついた。物資を運ぶ隊商の最後尾でゆっくりと馬を進めながら、トラリスは辺りの様子を見回す。窪地にあるハイリンカの周囲の地表に、ところどころ葉脈のような図形が描かかれている。それは目指す町の上空で時折光る稲光のかたちに良く似ていた。なにか意味があるのだろうか、とトラリスは思ったが、答えてくれる人は誰もいない。

 トラリスはハイリンカへ向かう隊商の護衛として彼らに雇われていた。若い変わり者とみなされてはいたけれど、腕は確かだし、なにより蛇蝎と関わることを恐れない。それで重宝された。蛇蝎の名を騙る無頼漢は多かったけれど、遭遇した彼らから自ら進んで背後にいる蛇蝎のことを聞き出そうとするトラリスの態度に、危機感を持つ同行者もいたほどだ。

 葉脈の模様は町に近づくにつれて間近に見えた。大きさはまちまちだが、緑の地表に木の枝のような模様がいくつか広がっている。なにかのしるしか、この地方の儀式で描く図形だろうか、とトラリスは考えたが、アルゲイ避けの魔除けかも知れないとも考えて、彼はひとりで小さく笑う。トラリスは顔を上げて、既に頭上に迫った黒雲を見上げた。胸に手を当てる。ここでも彼の心臓は彼を裏切らなかった。

 理由はわからない。けれどトラリスには確信があった。町の上空に固まる黒雲が、噂通りアルゲイの操るもので、自然にこうなっているのではないことが。どれだけこの町に滞在するかは決めていない。それでも彼に会うまで諦めるつもりもなかった。長期滞在者用の安宿の集まる地域を聞いてから、トラリスはわずかばかりの賃金を受け取って、しばらく共に旅をした隊商の男たちと別れた。

 もらった地図を頼りにハイリンカの通りを歩く。黒雲に覆われているせいで、町は昼間でも暗い。その上、通りを行き来する人々は男も女も皆頭から爪先まで黒い服に身を包んでいた。町を覆う黒雲が、人々の心の内側にも重く垂れ込めているようだ。トラリスは顔を晒し、到着した時の装いのまま馬を引いて歩いたが、すれ違い様に黒い覆面の内側から怯えと物珍しさの入り混じった視線が向けられるのを何度か感じた。けれど彼が視線の先を探した時には相手は既に顔を背けていて、自分が誰から見られているのかわからなかった。

 宿の立ち並ぶ通りにつく頃には小雨が降り始めた。トラリスは佇まいだけで悪くなさそうな宿の見当をつけて、中に入る。建物の中で煙草を吹かしていた中年の女の服装は黒一色ではなく、トラリスと同じように普通のものだった。貧相な机の奥で、彼女はトラリスを見ると顔を上げた。母親より十は年上に見える。けれどそれは女の艶のない黒髪と、疲れ切ったような表情がそう感じさせているだけかも知れない。彼はそう思った。

「客?」

 彼女は灰皿に煙草を押し付けると、怪訝そうに訊ねた。

「そのつもりですけど」トラリスは彼女の前まで進み出ると、そう答えて頷く。

 彼女は無遠慮な視線を向けて、しばらくの間黙って彼を眺めていた。トラリスもそのまま黙って立ち尽くし、女の視線を受ける。アトレイやハルムにいた頃に比べて、トラリスの身なりはずいぶん庶民的に、悪く言えば身窄しくなっていた。それでも彼くらいの年齢で、馬を引いての一人旅は珍しいはずだ。

「なんの用でこの町に?」

 女は探るような目つきを隠そうともせずに訊ねた。トラリスは少しだけ首を傾げ、

「それを言う必要が?」と、彼女に訊き返す。

 彼女は手元の灰皿から吸い差しを取り上げると、再び口に銜えた。煙草の先が小さく赤く燃える。トラリスは場違いにもそれを見てかすかに笑った。暗い影に覆われたこの町にも、まだ小さな明かりが点っているように見えたのだ。けれど女はそれを見て更に目線を鋭くする。

「余所者が今この町に長く留まる理由なんて、考えられない」彼女は言った。

「おれは隊商の護衛のひとりでやってきたんです。町にも物資が必要でしょう」

「それなら仲間は」

 彼女はトラリスを睨みながら訊ねる。

「おれは護衛のひとりとして雇われただけで、仕事は終わったんです」

 女の目つきが揺れた。一瞬だけちらりと奥へ続くらしい扉へ視線を走らせる。自分が警戒されているらしいことは、トラリスにも十分にわかった。それで、

「もし、部屋がないなら」

 と、彼は言った。

「他をあたります。建物が小奇麗だったし、厩舎もあったから入ってみただけで」

 彼はそう言うと軽く頭を下げて踵を返そうとする。

「待って」

 その背中に向かって、女が言った。トラリスは肩越しに振り返る。

「馬がいるの? あんた、金は持ってる? 亭主と相談するから」

 不機嫌そうな声で彼女は言った。トラリスは懐から、先程もらったばかりのささやかな銀貨の入った袋を出して見せる。それを見て彼女はいくらか考えを変えたようだった。

 彼女が扉の奥から呼んで来たのは亭主と言うのは、やはりくたびれた顔つきの彼女と同年代の痩せた男で、彼も怪訝な顔でトラリスを眺めた。短い相談でトラリスはこの宿に部屋を取ることに決めた。この通りの人通りの少なさから、彼らも客の確保に苦労しているようだった。最初は割高な宿代をふっかけられたものの、他の宿を当たるのも面倒だったトラリスは適当な金額で折り合いをつけた。馬はもともとこの町で手放すつもりだった。帰りのことはまたその時に考えれば良い。交渉の前に見せてもらった部屋は、手ごろな広さで、なにより床や寝具が清潔だった。割り当てられた部屋に荷物を置くと、トラリスは食堂に下りて遅い昼食を摂る。四つある丸テーブルに、客は彼ひとりきりだった。調理人も給仕も、さっきの不機嫌そうな中年女だ。でも運が良いと言えるのか、食事の内容は質素ではあったけれど量は申し分なかったし、味も決して悪くなかった。それに満足したトラリスは素直に彼女の腕前を褒めて、食後のお茶をもらった。

 下げた食器を片付けると、彼女は隣のテーブルの椅子を引き、灰皿を置くと煙草を取り出して火をつけた。それからトラリスに視線を向けわずかに考えた後、黙って開いた煙草の缶を彼の方へ差し出した。彼は小さく笑って、丁重にそれを断る。

「変な子ね」

 トラリスから顔を背けて深く吸い込んだ煙を吐き出しながら、彼女は言った。

「あたしの息子くらいの歳なのに」

「息子さんが?」

「いいえ」

 そう言って首を振った彼女は、それを見てたトラリスが驚くほど暗い表情で、視線をテーブルに落とした。それからもう一度煙草を深く吸う。

「娘がふたりいるの」

 彼女は独り言のように言った。

「上は結婚して近くに住んでる。もうひとりは…」

 そう言って彼女は深い溜め息を吐いた。彼女がそうした時、まるで自分はここにいないみたいだ、とトラリスは思った。彼はお茶のカップを空にしてテーブルに戻すと、彼女が口を開くのを待った。でも彼女は何も言い出しそうにない。不機嫌そうに煙草を吹かしている。

「この町の人は」

 と、トラリスは切り出す。

「女性も男性も、みんな黒い服を着てますよね。なにか理由が?」

 彼女は顔を上げると首を振る。「そうしろと、言われてるのよ」

 それきり彼女が黙ってしまったので、トラリスはしばらく待ってから首を傾げて呟くように訊ねる。

「アルゲイに?」

 女が目を見開いて彼を見た。続けて再び鋭い視線で彼を睨む。煙草を挟んだ人差し指を唇につけると、首を横に振った。

「その名前、言っちゃ駄目よ」

 トラリスは返事の代わりに軽く肩を竦める。

「誰に聞かれてるかわからないから」

 彼女はそう言って頭を巡らす。改めて見回すまでもなく、狭い室内は物音なく静かで、彼ら以外に人の姿はない。

「誰もいないのに」

 トラリスが言うと、彼女は黙って短くなった煙草を銜えて頭を振った。

 それからしばらく黙って煙草を吸っている。トラリスは席を立つこともできたが、この疲れ切ったように見える女をそこに残していく気にもならずに、そのまま座っていた。

「下の娘さんは」

 彼女が煙草を灰皿に押しつけてもみ消したのを見て、トラリスは訊ねる。女は最後の煙を吐き出しながら、

「あの方のところよ」

 彼女はそう言って彼から見られないところまで顔を背ける。斜め後ろから背中を眺めたトラリスには、彼女が目元を拭ったように見えた。そしてこの疲れ切ったような佇まいの理由の一端を垣間見たような気がする。最もそれは、トラリスの勝手な思い込みかもしれなかったけれど。

 短くなった煙草を灰皿に押しつけてもみ消すと、彼女は髪をかき上げながらトラリスに向き直る。その目が赤く充血し、潤んでいるのを彼は見逃さなかった。

「名前、トラリスって言ったわね」

 トラリスは彼女の目を見て頷く。ギルエン以外の他人からトラリスと言う名で呼ばれることにも、今ではすっかり馴染んでいた。それはタセットと呼ばれることに慣れるよりも、ずっと簡単だった。

「あんたみたいな若い男が、この町に長くいちゃ駄目。この町ではみんながみんな、お互いを見張ってる。すぐに出て行きなさい。さっきは亭主と一緒にふっかけて、悪かったわね」

「そういうわけには」

 トラリスは困ったように首を振る。

「何しに来たのか知らないけど、余所から来て長居するところじゃないわ」

「おれにはおれの理由と、目的があってこの町に来たんです」

「稲妻で焼かれたいの」

「その前に逃げましょう」

 トラリスは言った。女は怪訝な顔を彼に向ける。トラリスは小さく笑って見せた。

「この建物ごと逃げるってわけには行かないけど、雷が落ちる前に、逃げれば良いんです」

「そんなに簡単なことじゃないのよ」

「おれにはできると言ったら?」

「変な子ね」

 彼女はもう一度そう言って、それからやっと、小さく笑った。



 翌日から雨が降り出した。下宿で町の地図をもらったトラリスは、借りた傘を広げてハイリンカの町を見て歩く。トラリスの探すアルゲイは町のどこかで暮らしているはずだが、宿の主人夫婦がそれを話してくれることはなかった。町を歩いていればもしかしたら、心臓が彼の気配を知らせてくれるかもしれない。町を覆う黒雲は低く垂れ込め、昨日遠目に見たときと同じように時折、真横に稲光が走る。トラリスは心臓の動きを当てにして雲の濃い方へぶらぶら歩いた。行き交う人々が男女の別なく黒い長衣で足元まで身体を覆っているのも、無遠慮な視線を感じるのも、昨日と同じだ。目立っている。そう思ったが、その方が良かった。運がよければアルゲイに近づく一歩が勝手に開けるかもしれない。それに町の様子も知りたかった。

 一日目は歩き疲れただけだった。落雷もない。ただ頭上に漂う積乱雲の塊に、胸がざわめく時があった。翌日は胸のざわめく黒雲を探した。続いていた小雨は、昼前に止んだ。町を覆う雲が綺麗に晴れることはなかったけれど、それでも薄くなり太陽の光を感じる瞬間もあった。

 朝から歩き回って空腹になったので、トラリスは元は繁華街であったであろう、うら寂しい通りに店を探す。二三軒の飯屋は開いていたが、彼が店の中へ入ろうとすると、そのいでたちを不愉快そうに眺め回され、断られた。自分を見るその怯えと怒りが入り混じったような視線から、トラリスは顔を晒して町中を歩くことがこの町でどれだけ異様なことなのか、その一端を感じた気がした。

 宿からは離れていたので、トラリスは仕方なく直前に断られた店から出ると、別の店を探す。長い通りを歩いている時、ふと陽が雲に隠れる。彼は顔を上げた。頭上の黒雲が再び濃くなっている。同時に、胸の奥がかすかにざわめいた。トラリスは左手を胸に当てて、ゆっくりと進んだ。次第に鼓動が大きく、早くなるのを感じる。けれど頭は冷静なままだ。

 彼は心臓の鼓動が導くほうへ進んだ。視線の先に黒雲が固まっているのが見える。次第に早足で、彼はそこへ向かう。空ばかり見ていたので、途中で二度ほど人にぶつかりそうになった。

 繁華街から細い道を抜け、更に住宅街と思しき通りへ出た。建物が密集し、誰もが黒い服を身につけているものの、行きかう人の姿が増える。黒尽くめの子どもの姿も数人あった。トラリスは立ち止まり、頭上を見上げながら自分の鼓動に耳を澄ます。鼓動は大きくなり、行くべき方向は決まっていた。頭上に積乱雲が近づく。

 あそこだ、とトラリスは確信する。

 あの黒雲から稲妻が落ちるとして、問題はどうやってその場にいる人たちを避難させるかだ。ただでさえ素顔を晒して不審がられている自分が声をかけて、住民たちは聞いてくれるだろうか。トラリスがそう頭を捻った時だった。

「おい」

 低い男の声が聞こえるのと同時に、肩を掴まれた。驚いたトラリスは思わずそれを激しく振りほどきながら、身体ごと振り返る。黒雲に気をとられて、背後に迫った人の気配に気づかなかった。

「おまえは誰だ」

 少し離れたところに立った黒尽くめの男が重ねて訊ねる。不機嫌そうな低い声。フードを被り、足元まで覆う長衣を着ていても、トラリスには彼が自分よりも背が高く体格の良い男だということが見て取れた。

「そっちから先に、顔を見せて名乗ったら?」

 注意深く、トラリスは返事をする。

「昨日からこの辺りをうろついているな」

 黒い覆面の奥から、怒ったような男の声が聞こえた。

「この場所へ来たのは今日が初めてだけど」

 わざとトラリスはそう言った。

「どうして黒い服を着てない」

「逆になぜこの町の人はみんなこの格好を? おれは余所者だから、事情を知らない」

 フードの奥で男が黙る。何かを考えこんでいる様子だ。トラリスは彼よりも黒雲の動きが気になって仕方がなかった。心臓の音は止まない。

「それで」

 と、トラリスはわずかに苛立ちを感じて言った。

「あなたはアルゲイの仲間?」

 普段どおりの口調でそう言った瞬間、目の前の男だけでなく周囲に緊張が走ったのがわかった。

「おまえ、一体」

「おれはトラリス。蛇蝎のギルエンに育てられた。ハイリンカへ来たのはギルエンの居所を探してて、アルゲイに会おうと思ってるから」

 いよいよ男が固まる。周囲を行きかう人の中にも、今度はあからさまにトラリスに視線を向ける者もいた。でもすぐに人影はその場から立ち去る。

「あそこ」

 と、トラリスは自分が追って来た黒雲を指差す。

「アルゲイの雷雲が固まってる。落雷があるかも。あんたはアルゲイの味方? それともその反対? 反対なら、避難させないと」

「おまえ、何を言ってる」

 彼らが自分を知らないことは十分に承知している。けれどこのやり取りはトラリスを更に苛立たせた。

「信じないなら、どうでも良い」

 彼はそう言って駆け出した。心臓の音が早くなる。なのに頭はひどく冷静だ。

 あの時と同じ。ギミエルの幻の中にいたときと同じだ。そしてこれまでに何度か蛇蝎族と対峙して、トラリスは自分の心臓の動きに慣れていた。この鼓動は自分自身の急を、蛇蝎の危険を報せてくれる。

 そして今はギミエルのような幻じゃない。頭上に渦巻き流れる雷雲だ。黒雲の固まる場所に近づくにつれて、更にトラリスの鼓動が早くなる。そこは小さな家の立ち並ぶ、そして人通りの多い一角だった。人に直撃しなくても、通りに落ちたら周囲に感電し、怪我人が出るかもしれない。

「もうすぐこの辺りに落雷があります。早く逃げて」

 トラリスは叫んだ。辺りがざわめく。

「怪我したくなかったら、早く」

 トラリスは怒ったように言って回った。全てではないが、中にはまばらに、足早にその場を立ち去る者もいた。突然やってきてこんなことを言い回っても信じてもらえないことはわかっていたが、無理強いするわけにもいかないのがもどかしい。

 トラリスはじっと頭上を睨む。そして自分の鼓動を聞いた。

「おい、ぼうず」

 背後から声がした。トラリスは振り返る。さっきの男だ。手に何か細長い包みを持っている。

「本当に落雷の時がわかるか?」

 彼はトラリスに近づくと訊ねた。

「たぶん」

 トラリスが頷くと、彼は持っていた包みをトラリスに向かって差し出す。

「これを使え。落ちる場所が判れば、稲妻が集る」

 彼はそう言いながら包みを解いた。鈍く光る黒い棒だ。素材に見覚えがある気がした。アトレイで学んだ頃の科学の講義で、と考えたところで悠長に思い起こしている暇もないことに気づく。彼は辺りの建物の中でも高いところを目指した。

 屋上に出た瞬間、心臓が大きく跳ねた。トラリスはその場で、考えるよりも先に誰もいない地面に向かって渡されたばかりの黒い棒を投げつけた。

 次の瞬間、青白い稲妻が辺りを照らした。それは地面に突き立った棒に巻きつくように吸い込まれる。すぐに辺りを揺るがす地響きのような轟音が、トラリスの耳にとどろいた。

 下を見ると地面から突き出した棒が雷の光を蓄えて青白く発光している。果たして自分が学んだ準金属はあんな素材だったのか、と彼が首を傾げかけたとき、下から彼を呼ぶ声がした。

「二波も来るかな」

 顔を覗かせて彼は訊ねる。男がトラリスを見上げていた。そのせいでフードが背中に落ち、顔があらわになる。粗野な顔立ちの、でもまだ若い男だ。ユーティスとさほど違わないように見えた。けれど彼の体つきも顔つきも、ユーティスよりもよほど屈強だった。そして頬から首にかけて赤茶色の、木の枝のような模様の入れ墨が見えた。彼は言った。

「今の大きさなら、立て続けには来ない」

 彼が叫んだ。トラリスは頭上を見上げる。細い稲妻の閃光が黒雲の中を無数に横切る。それを眺めた鼓動は少し静まっている。だが、まだいつもより早い。

「まだ雷撃が来るかも」

「移動するか?」

 彼は辺りの人々を避難させている。いつの間にか通りから人影がなくなっていた。

「しない、この場所で。そこ、危険だ」

 そう叫ぶと、彼が動いた。トラリスは自分も建物の内側に引っ込む。すぐに地面に向かって青白い閃光が落ち、二度目の落雷の音が轟く。わずかだが身体に痺れを感じて、トラリスは思わずその場に立ち止まった。

 我に返ったトラリスは、素早く階下へ下りると外へ出た。自分に声を掛けた男の姿を探す。通りの反対の建物の影から、覆面を外したままの男が姿を現した。

 彼が無事なのを見たトラリスは、思わず唇の端に笑みを浮かべる。それから稲妻を吸い込んだ棒に視線を向けた。すぐそばの地面には一点から放射線状に、というよりも枝分かれした模様が刻まれている。それは男の入れ墨のかたちに良く似ていて、他にもつい最近どこかで見かけたことのある模様だった。二度目の雷はここへ落ちたのだ。一度目のを吸い込んだ棒は、まだ青白く発光している。

「おい」

 トラリスの肩に手が置かれ、強い力で引かれる。振り返ると男が立っていた、再びフードをかぶり直して、表情は見えない。

「無闇に近づくな。まだ帯電してる」

 怒ったような口調でそう言われて、彼は足を止めた。

「物珍しくて、つい」

 稲光をこんなに間近に見たことが今までなかったトラリスは、そう言って頭上を見上げ、左手を胸に当てた。鼓動が急速に静まる。黒雲の色も、先程より明るい。そんなトラリスの肩に手を置いたまま、男が訊ねた。

「おまえ、何者だ」

「またその質問?」

 聞き飽きたよ、とトラリスは軽く肩を竦めて小さく笑う。

「おれはもう名乗ってるよ、トラリスだって」

 男は怪訝な顔でトラリスを眺めてから、呟くように言った。

「俺はイルハ」

 その名前はこの地方にありふれた男性の名前だった。だから彼の名前が本名なのかそうでないのか、トラリスにはわからない。でもそれはどうでも良いことだった。

「おまえはなんだ? どうして落雷の場所がわかったんだ」

 彼は訊ね、答えを待つ前に、低く抑えた声で続けた。

「おまえ、蛇蝎か」

 トラリスは一瞬目を見開き、それから思わず笑い声を上げた。その場には不似合いな態度だったし、トラリス自身も可笑しいことなどひとつもなかった。でも、笑い飛ばさずにはいられなかった。そんな彼を、イルハと名乗った男は険しい表情で眺める。それに気づいたトラリスは、表情を戻すと彼を見た。

「蛇蝎族を見たことないの?」

 そう訊ねて彼は自分の手を広げて天にかざす。生憎、黒雲に覆われたこのハイリンカでは、掌を透かした赤い色を見ることはできなかった。

「おれは赤い血だよ」

 腕を戻しながらトラリスは言った。イルハは表情を変えない。

「外に出よう。雲が晴れてきてる。大丈夫そうだから、ここにいた人たちを呼び戻して」

 空を見上げると黒雲が薄くなっている。心臓の音も緩やかになりつつあった。トラリスがその場に突っ立っている間に、イルハはどこかに消えていた。避難した人たちに声を掛けたのか、間もなく人影がまばらに戻ってくる。しばらくしてから彼は戻ってくると、

「何故、雷が落ちるのがわかったんだ」

 と、彼はトラリスに訊ねる。

「アルゲイが動かしてるから」

「その名を口にしない気はないんだな」

「俺は怖くないからね」

 トラリスが笑ったその時、腹が鳴る。

「ああ、お腹が空いた…」

 トラリスが言ってその場にへたり込むと、フードの奥でイルハが笑った。それが意外で、トラリスは顔を上げて傍らの男見上げる。

「悠長な奴だな」

 苦笑混じりの呆れた声で、彼が言った。

「死活問題だよ。どこの店も立ち入りを断られた」

「長衣を着ろ。室内でなら脱いでも問題ない。外を歩く時だけだ」

 アルゲイに目をつけられたいのに嫌だな、と口まで出かかったが、イルハの態度に初めて親しみを感じたので、違うこと聞いた。

「それも言いつけ? 宿でも聞いたよ」

「そうだ。奴がこの町に暮らすようになってから、言い渡された」

「背いたらどうなる?」

「市庁舎行きだ」

 トラリスにはその言葉の意味が良くわからなかったが、イルハはそれ以上詳しい説明をせず、「来い」とだけ言って彼を促す。

「腹が減っているんだろう」

 少し離れて歩けよ、とイルハは言った。トラリスは肩を竦めて彼について歩き出した。

 トラリスが先程通り抜けた繁華街の隣の通りから細い道に入り、半分地下に店の前に彼を立たせ、話をつけてくれた。人通りのない店の前で、彼は知り合いの店だ、とトラリスに言った。そのまま彼が立ち去る素振りをみせたので、

「どこへ?」

 と、トラリスは訊ねる。

「俺は面が割れたから、仲間のところに、すぐには戻れない」

 そう続けた。トラリスは表情を変えずに、視線だけで彼を見つめ返す。

「面が割れたって」

 トラリスは不思議そうに辺りを見回す。

「アルゲイがあの辺にいた?」

「そういうことじゃない」

 イルハが溜め息を吐く。

「皆が皆、お互いを見張ってる。あいつが怖いから。おれのことも、既にあいつの耳に届いてるだろうよ」

 顔が近づくとフードから下半分が覗き見える。

「その入れ墨」

 と、トラリスは彼の頬の代わりに自分の同じところを指して言った。

「稲妻が落ちた跡と良く似てる。なにか意味が?」

 イルハは苦笑した。

「入れ墨じゃない。その通りだ」

 トラリスは首を傾げる。それを見て彼は続けた。

「雷の跡だ。感電したが、運よく身体の外に電気が逃げたんだ。死ななかったが、火傷の痕が残った」

「雷の痕?」

 そうだ、とイルハが頷く。トラリスは頭を下げた。

「ごめん、全然知らなかった。じゃあ、おれが来る時に町の周りで見かけた同じような枝模様は」

「落雷の跡だ。放電の形に焼け残ったのがあれだ」

 ふうん、とだけ頷いて、トラリスは改めてイルハを見た。

「ありがとう、イルハ」

「そうだ、トラリス。おまえ宿はどこだ。余所者なんだろ」

「教えないよ」

 と、彼は言って笑った。

「イルハのことを完全に信用したわけじゃないから」

 でも、と彼は言いながら手を振る。

「黒い服は着ることにするよ。忠告ありがとう」

 イルハは一瞬、なにか言いたそうな表情をしたが、すぐにフードを下ろすとその場から立ち去る。彼があの格好で再び目の前に現れたとしても、トラリスには見分ける自信がなかったが、それよりも今は油と煮立った湯の匂いのする店の中に、彼の気持ちは集中していた。



 遅い昼食を摂って人心地のついたトラリスは、食事した店で教えられた衣料品の露天に立ち寄り、この町の住人が着ているような黒い長衣を買った。早速身につけると少し重く、季候の割に暑苦しかったけれど仕方ない。

 彼はその姿のまま再び町歩きを再開し、黒雲の動きに注意していた。けれど落雷があった時のような胸のざわめきは起こらなかった。疲れたけれど気持ちはどこか軽く、日が暮れてから宿に戻ると、女主人だけがそこにいてトラリスを迎えてくれた。聞くと夫は出かけているらしい。彼女はトラリスの黒尽くめの姿を見ると驚き、次にほっとしたような表情になる。世間話のついでに改めて女主人の名前を聞くと、彼女はヤヘルテと名乗った。

 湯を貰って部屋に戻り、簡単に身体を拭いて着替えると食堂に下りた。遅い昼食だったので、そんなに空腹ではなかったが、ヤヘルテが晩の用意をして待っていてくれたのだ。彼女の話では宿には他にも二三人の滞在者がいるらしいが、この三日余りトラリスは自分以外の客の姿を見ていない。

 亭主がいないから、とヤヘルテはトラリスと一緒に食事した。しばらくこの近所の彼女の知り合いの話などを聞くともなく聞いていた。初めて会った時は暗い顔をしていたし、未だに晴れやかな表情とは言えないが、彼女は話好きで、トラリスが相手でも楽しいようだった。

 話の流れでトラリスは昼間の出来事を彼女に話した。最も、イルハの名前も自分が雷雲の行方を察知したことも伏せておいたけれど。

「そういう人たちがいるっていうのは、聞いたことがあるわ」

 安酒を飲んでいた彼女は、少し頬を赤くしながら顔を曇らせる。

「そういう人?」

 聞き返すと、彼女は頷く。

「あの方を」

 彼女はそう言って、更に声を落とす。

「この町から追い出そうとしてる人たち」

「へえ」

 トラリスは思わず声を上げた。

「そんな勢力が、ハイリンカにもあるんですね」

「トラリス」

 彼女は声を落とし、わずかに厳しい視線を向ける。

「騒ぎはだめよ」

「娘さんを取り戻したくない?」

 トラリスが静かに言うと、彼女の顔が強張る。ヤヘルテは目を伏せた。

「私じゃ無理だわ…」

 そう言うと彼女は目に涙を滲ませる。そして酒の入ったグラスをあおった。トラリスはすぐ自分の発言を後悔する。それで席を立って彼女の傍に寄った。

「ごめんなさい。おれが無神経でした」

 ヤヘルテは目を擦りなながらテーブルに置いた煙草を取ると、一本銜えて火をつける。

 食堂に残ってトラリスは罪滅ぼしに食器を片付けるのを引き受けた。「客なのに」と、ヤヘルテは少し呆れていたが、彼は気にしなかった。それが済むとトラリスは部屋に引き上げる。流石に疲れたので、身体を休めるために早々に横になる。明日のことはまた明日考えようと、ぼんやり思っているうちに眠っていた。 

 それが遮られたのは夜半過ぎだ。複数の乱暴な足音でトラリスははっと目を覚ました。身体を起こすのと同時に、部屋の戸が大きな音を立てて乱暴に開く。

「動くな」

 怒ったような男の声がする。トラリスは咄嗟に心臓の音に耳を澄ました。鼓動は聞こえないし、何も感じない。自分を囲んだ男たちは蛇蝎じゃない。男のひとりが近づいてきて、トラリスを立ち上がらせた。

「誰?」

 トラリスは不機嫌な声で訊ねる。黒衣の襟元に、円型の小さな印章が金に光っている。

「官警? 通行証も、許可証もあるけど」

 トラリスは彼らを見回しながら、わざと顔を顰める。

「我々は自警団だ」

 戸口に一番近くに立った男が言った。まだ年若く、きっと自分といくつも違わない。ぼんやりとそんなことを考えている間に、トラリスは男たちに囲まれ、そして近づいてきたひとりに乱暴に腕を掴まれ拘束された。枕元に置いた短刀は別の男に取り上げられた。これにはトラリスも内心で焦ったが、顔に出したりはしなかった。

 階下へ下りると「あんた、なんてことを」と、ヤヘルテが夫に縋りつきながら泣いていた。彼女の夫は「こうするしかないんだ。これでミエベルが戻ってくるんだ」と、彼女を突き飛ばす。ヤヘルテは床にへたりこんだ。

「ヤヘルテ」

 トラリスは思わず叫んで身を乗り出したが、すぐに自分を掴んだ男のひとりに強く引き戻された。

「おれを乱暴に扱うな」

 傍らの男を睨んで強い口調で静かに言った。

「おまえたちがアルゲイを恐れてるのは知ってる。でもアルゲイの能力はおれには効かない。おれはギルエンに育てられたから」

 アルゲイの名もギルエンの名も効果があった。彼らの手が止まる。しかし離されはしなかった。トラリスは宿から連れ出され、目の間に通りに停まっていた馬車に強引に押し込まれる。蹄の音が石畳の通りに響き、馬車が動いた。どこへ連れて行かれるのだろう、とトラリスは溜め息を吐いた。

「どうせなら、アルゲイのとこにつれてってくれよ」

 トラリスがそう言うと、脇にいた男は「黙ってろ」と、彼の肩を強く小突いた。それだけ言って後はトラリスが何を言っても口を開かなかった。

 ここで暴れたところで得物も持たずに、不利なことは目に見えていた。自分はアルゲイに会いに来ただけで、揉め事を起こしにきたわけではないのだ。ぼんやりそんなことを考えていたトラリスは、いつの間にか目を閉じてうとうとしていた。夜中に叩き起こされたせいで、眠る時間が足りていない。しかし突然、自分の乗った車体が大きく揺れて止まった。トラリスははっと目を覚ます。

「出て来い」

 外で声がした。

 右側の男が馬車の扉を開けて外へ出る。トラリスも外の様子を覗き込もうとしたが、左の男がそれを押さえた。強くは抵抗せず、彼は外の様子に耳を傾ける。話し声がして、次第にそれは言い合いなった。

「そいつを渡せ。おれたちには必要だ」

 そんな声が聞こえた。そしてもみ合いになった気配がしたかと思うと、乱暴に箱車の戸が開いた。黒衣の男が腕を伸ばしてトラリスを掴む。気づいた時には落ちるように彼は外へ出ていた。腕が離れたので、トラリスは辺りを見回す。自警団を名乗った男たちは四人だが、辺りは十人ほどの人に囲まれている。闇夜の上に全員が身体を覆う黒い長衣を身につけているので、トラリスには正確な数がよくわからない。

 その彼らが入り乱れてもみ合いを続けていた。トラリスを追って馬車から飛び出してきた男が、辺りの様子に怯んだのがわかった。

「こんなことをしてただで済むと思ってるのか」

 囲まれた男が喚いた。このまま逃げ出そうかどうしようかとトラリスが迷っていると、黒尽くめの影がひとり彼に近づき、耳元で囁く。

「この道をまっすぐ走れ」

 イルハの声だ。たぶん、だが。

 それに気づいた時には彼は肩を押されていた。その勢いのまま、トラリスは駆け出す。乏しい瓦斯灯の路地を抜けて、彼は走り続けた。息を切らしてどこまで行けばいいのだろう、と思い始めた頃、鬱蒼とした木々のある公園の脇に出た。弱々しい明かりの街灯がぽつぽつと灯り、わずかだが人影が見える。それはどこか寒々しかった。

「ねえ、お兄さん」

 と、立ち止まった彼の後ろから女の声がした。トラリスは振り向く。

 強い香水の匂いがトラリスの鼻腔を刺激した。覆面の奥には細い顎と、赤く塗った唇が見える。

「悪いけど、間に合ってるから」

 まだ整わない呼吸のままそう言って、彼は女を押し戻そうとする。彼女は薄い唇で笑って、トラリスの服の袖を引いた。それにトラリスはわずかに眉を顰める。

「どうやって落雷を予測したの」

 トラリスは腕を振りほどこうとするのを止める。女が覆面の奥からトラリスを覗き込んだ。

「誰に言われた」

「イルハ」彼女は短く言うと、

「トラリスね」

 彼は頷く。

「ついてきて」

 そう言って彼女は身を寄せて彼と腕を組むと、歩き出した。

「あなたは?」

 思いがけず強い力で腕を引かれながら、トラリスは傍らの黒衣を眺める。

「あとでね。今は誰に聞かれているかわからないから」

 黒尽くめの女に夜道を案内されて辿りついた先は、ありふれた民家だった。彼女は辺りを窺うと裏口に回り、トラリスに先に中に入るよう促した。生活感のある台所だ。明かりがついていないので暗い。突っ立っているトラリスの前に回りこみ、彼女は台所に小さな明かりをつけた。そして彼ろ振り向くと、長衣のフードを下ろす。黒い髪が肩にこぼれた。

 女はまだ若く、そしてトラリスにはどこか見覚えがあった。

「きみは」

 束の間考えて思い出した。昼間食事した店の奥の厨房にいた女の子だ。黒目がちの瞳で、トラリスと一度だけ目があった。

「昼間も会ったわね」

「なにもあんなことを」

 袖を引かれた時のことを思い出しながら苦い顔をすると、返事の代わりに彼女は笑った。屈託のない笑顔だった。

「トラリス、わたしはドルカ。向こうで皆が待ってるの」

「みんな?」

 彼は次の部屋を通り廊下を抜け、地下の部屋へ案内された。中へ入ると広いとは言えない一室に、年齢もばらばらの五六人の男たちが集まっていた。皆、黒い長衣を着ていたが、フードは後ろに払って顔を晒している。扉に一番近いところにイルハが立っていた。彼が振り向いたので、トラリスと目が合う。

「イルハ、無事だったのか」

 自警団を名乗った男たちとの小競り合いを思い出し、安堵の息をついてトラリスは言った。イルハは扉を閉めると、彼を部屋の中央へ進ませる。 

「トラリスだ」

 イルハは周囲の者に彼をそう紹介した。「落雷の場所を当てた」

 彼を囲む男たちは黙って、と言うよりどこか疑り深そうな視線をトラリスに向けている。

「トラリス、おれたちは」

 と、イルハが口を開く。

「なんとかあいつから、人質になってる女たちを取り戻せないかって、考えてる」

 トラリスは少し困って、

「さっきおれを…」と、小さな声で切り出す。

「助けてくれた?」

 イルハが頷く。

「宿まで尾けてたのか」

 トラリスが呆れたように溜め息を吐いた。油断していた自分も自分だが、おかげで助かったと思わなくてはならない。が、現在彼を囲む顔ぶれを見る限り、決して歓迎されているようには見えなかった。もし彼らに襲い掛かられたら、流石に武器もなく突破できると思えない。

「あのまま連れて行かれたとしたら、どこへ?」

「市庁舎だ」

「なんで市庁舎?」

 前にも聞いたが、トラリスは良くわからずに首を傾げる。するとイルハが説明してくれた。現在の市庁舎はその昔、ハイリンカの領主が別邸として経てた豪奢な建物で、彼の家系が絶えた後に行政に没収され、五十年ほど前からずっと市庁舎として使われていた。町を象徴する建物だったそこは、そこに二年前にアルゲイがやってきて彼に奪われ、現在は彼と同族の仲間たちの住まいになっているらしい。

「四人か、五人か。正確な数と、能力は把握できてない」

 と、イルハが顔を曇らせて告げた。トラリスはアルゲイに仲間がいることを初めて聞いた。

「蛇蝎の能力におれが捕らわれることはないから、平気だけど」

「おまえも蛇蝎族なのか」

 別の男がそう訊ねて、険しい表情でトラリスを見た。トラリスはイルハを振り返ると、

「このくらい説明しておいてくれてもいいのに」

 と、不服そうに言った。

「俺は言ったぞ」

 イルハが男に向かって軽く手を振る。

「彼は違う。一族じゃない」

「蛇蝎族を見たことないの?」

 トラリスは男に視線を向けて訊ねた。それから自分の左手を挙げ、指先を見る。

「こんな血色じゃない。それも知らないなんて、ずいぶん無知な抵抗家だな」

「トラリス」

 嗜めるようにイルハが言った。

「蛇蝎の奴らと会ったことが?」

「あるよ」

 トラリスは頷く。

「なあ、イルハ」彼は立ち上がると言った。

「この小僧が、奴らの手先じゃないなんてどうして言える。なぜこんな奴を連れてきた」

 トラリスとイルハは思わず顔を見合わせる。トラリスはかぶりを振った。

「それを証明できるものは、なにもないね」

「そうだな」

「ならどうして、妙な能力を」

「たぶん、おれが三歳の時から八年間、ギルエンに育てられたから」

「誰だって?」

 名前を口にしたとき、流石に表情にそれを出す者はいなかったけれど、彼らの間に緊張が走ったのがトラリスにはわかった。 

「トラリス…」

 呆れたようにイルハが額に手を当てた。

「この名前もだめなのか。アトレイじゃ有名な話なんだけど」

 トラリスは言いながら、一座の顔ぶれを見回す。

「ハイリンカじゃ知られてないか」

 そう続けて彼は肩を竦めた。

「知ってる」

 男の一人が声を上げた。眼鏡を掛けた、どこか頼りない体つきの青年だ。彼は続ける。

「アトレイに、蛇蝎の頭領に攫われた子供がいるって」

 もう十年以上前の話だ、と彼は言いながら「でも」と、頭を振った。

「それからどうなったのかは知らない。殺されたと思ってた。それにトラリスなんて名前じゃなかった。確かもっとちゃんとした貴族の子どもの名前で」

 その言葉にトラリスは思わず苦笑する。それから男の方へ視線を向け、

「子どもの名前は、タセット・ローレウォール」

 そう言うと、

「そうだ。確かそんな」と、彼が頷く。

「それはおれが、両親からもらった名前。トラリスっていうのは」

 彼は辺りの顔ぶれを見回しながら続けた。

「ギルエンがおれにつけた名前」

「今の、トラリスが言った名前の奴は」青年が言った。

「この町の支配者よりももっとずっと年上の、点々と散らばる一族を集めて纏め上げて、ここまで蛇蝎の力をつけた奴の名前だ。イルソート地方の集落を全て焼き払い、ソワニヘイル大森林の三分の一と、そこに暮らす緑獣族を燃やし尽くした蛇蝎の名前だ。でもそれはもう二十年近く前の話で、ここ最近は表舞台で名前を聞かない。彼の代わりに台頭してるのが」

 そこで彼は言葉を切って窓の外に視線を向けた。それでトラリスにも言いたいことがわかった。アルゲイなのだ。

「姿を現さないから、死んだか、なにかあったのかと。そんな奴に育てられたなんて」

 信じられない、と眼鏡をかけた男は言った。

「別に信じなくても良いよ」

 少し投げやりにトラリスは言った。

「誰かに信じてもらったり、同情してもらうためにここにいるわけじゃないから」

「トラリス、おれたちは」

 なだめるような口調でイルハが言った。

「あいつを追い出すのは無理でも、せめて人質になってる女たちを取り戻したい。協力してくれるなら、おれたちもおまえに協力する」

 トラリスは彼の言葉にもう一度、一座の顔ぶれを見回した。誰も納得しているように見えなかった。

「気乗りしないけど」

 と、トラリスは肩を竦める。

 アルゲイに会って、ギルエンがどこにいるのかさえ聞き出せれば、他のことはどうでも良い。それがトラリスの正直な気持ちだったが、それを言うわけにはいかなかった。

「おれ今、宿無しなんだよね」



 トラリスはそのまま民家へ引き移った。それはあの眼鏡を掛けた青年の家で、彼の名前はシリルと言った。彼の家に移ってからのトラリスの役目は、アルゲイの黒雲の動きを見張ることだった。アルゲイは気まぐれに強い稲妻を放ち、無差別に住人を傷つけて、いつ彼の稲妻が自分や家族を襲うのかと、住人たちを怯えさせていた。アルゲイの操る雷雲からは毎日稲妻が放たれるわけではなかったけれど、それを察知するとトラリスはイルハや彼の仲間たちと出掛けていって、雷雲の下の人々に声を掛け避難させた。それが一週間ほど続いた。

 アルゲイの雷雲が霧散したのを見届けた道すがら、トラリスはかぶったフードの奥から辺りを見回しながら歩いてた。隣のシリルがそれに気づいて声を掛ける。

「どこか近くにいるんじゃないかと思って」と、彼は答えた。

「どうして」

「彼の能力がこのハイリンカ全域に届くと思えない。おれが知ってる蛇蝎が見せる幻も、ごく限られた広さの中だけで起こることだった。彼の方が攻撃的な能力だけど、雷雲の動きを見る限り、能力がそれほど広範囲に渡ってるとは思えない。本人も移動してるんじゃないかな。だから顔がわからないよう黒い服を着せてるのかも」

 辺りに人影はまばらだが、外を歩いているのでトラリスは一応、言葉遣いに気を使う。

「あいつの顔を知ってる奴は少ない」

「見ればわかるよ」

 彼は言って続ける。

「俺は何人も知らないけど、身体に青い血が流れてるって、見れば判る。仲間がいるなら、彼だって間違いなく特定できるわけじゃないけど、少なくとも一族だってことだけは、はっきりわかる」

 シリルは黙ったままだ。フードの奥から彼の視線を感じる。トラリスはそれに気づいたが、深く考えずに歩き続きけた。

 成り行きとは言え図らずしもシリルの家の居候のようになってしまったトラリスは、身の回りのことは当たり前だが自分でやった。彼にはそれは苦ではなかったけど、食事は最初の宿の方が良かったと、心密かに惜しんだ。

 どういう手段を使ったのかわからないが、前の宿に置いたままの荷物一式が手元に戻って来たのは有難かった。届けてくれたのは他でもないドルカだ。彼女はこの一週間の間に何度かシリルの家に顔を出し、それ以外にも必要なものを届けてくれたり、家事の手伝いをしてくれた。

 使い慣れた短刀は失われていたけれど、代わりに長剣をイルハから借りていた。

 トラリスが彼女にシリルとの関係を訊ねると、親戚なのだと言った。シリルは多くは語らなかったが彼の言葉とドルカの話から、アルゲイのところに婚約者が捕らわれているのだと知った。

 翌日は朝からハイリンカの町を覆う雲が薄く、風向きによって晴れ間も覗いた。アルゲイが雷雲を集めることがあれば、町を覆う黒雲の動きですぐにわかるだろうと、トラリスは昼過ぎにひとりで町中に買い出しに出ていた。その帰り道だった。

 人通りもそこそこの大通りを歩いている時、彼は自分と同じように黒い長衣で身体を覆った人とすれ違う。その瞬間。

「おまえがトラリス?」

 覆面の影から、年若い男の声がそう言った。

 トラリスははっとして飛び退いた。背後を歩いていた人にぶつかり、舌打ちをされる。

 一瞬そちらに気を取られた間に、覆面の男はトラリスの間近に迫っていた。

「なんだか貧相な奴だな」

「誰だ」トラリスは緊張した声で言い、腰に下げた剣に手を伸ばす。

 けれどそれは長衣の下で、触れる前に、

「おっと」

 と、揶揄うような調子で覆面の男が言って、彼は腕を掴まれてしまった。

 その手には必要以上に力が入っていた。まるでトラリスの手首を折ろうとでもするかのように。トラリスも逃れようと腕を動かしたが、相手はますます力を込める。

 そのまま引きずられるように、トラリスは通りの横の、細い路地へ連れ込まれる。そして建物の壁に、ぐいと背中を押しつけられた。

 油断した、とトラリスは心の中で焦りを感じた。今日の天気は今でも明るい空が見えるほどだ。心臓もいつもどおりだった。蛇蝎族であっても能力を使っていないと、彼の心臓は反応しない。

 そして今、相手は明らかにトラリスに敵意を持っている。利き腕を掴まれ、トラリスはどう対処しようか必死に頭を巡らせていた。けれどそれを顔には出さず、あくまで厳しく相手を睨み付ける。

 トラリスの冷たい視線を受けて、男は馬鹿にしたように笑った。そしてトラリスを掴んでいない方の腕で、覆面を引き下ろす。 

「俺を仕留めに来たんだろう、トラリス。おまえは俺を知ってるはずだ」

 トラリスは息を飲んだ。初めて見る顔だったが、彼にはそれが誰だかわかった。思っていたよりずっと若い。自分よりいくつか年上に見える青年は、青い血を持つ者特有の肌の色をしていた。彼が立つには相応しくないこの場所で、しかし考えられるのはその名前だけだった。

「アルゲイ」

 トラリスの呟いた言葉は、思ったより弱々しかった。 

 彼は掴んでいた手を離し、次の瞬間には両手でトラリスの襟首を捕えた。そして乱暴に彼を背後の壁に押しつける。衝撃にトラリスは思わず呻き声を洩らした。

「怖いか、トラリス」

 アルゲイは楽しそうにそう訊ねた。トラリスは彼を睨みつける。押さえつけられた胸元が苦しかった。

「おまえは俺たちを滅ぼす、運命の子どもなんだろう?」

 アルゲイは両腕に力を込める。息が詰まり、トラリスは言い返したくても言えなかった。じっと自分を睨み付けるトラリスに、アルゲイは急に表情を変え顎を反らし、冷酷な目つきでトラリスを見下ろすと言った。

「殺しておくべきだろうな。今、ここで」

 殺気が走った。トラリスは全身を緊張させる。この腕から逃れなくては。そう考えた瞬間、アルゲイが腕を大きく動かし、トラリスは地面に向けて突き飛ばされた。咄嗟に受け身をとって、トラリスは体勢を立て直す。それと同時に、激しく咳き込んだ。

 アルゲイはそんなトラリスを、嫌悪の表情で見下ろしていた。トラリスは噎せながらもやっと剣を抜き放ち、それを構えてアルゲイを睨む。彼はその姿を鼻で笑った。

「今はおまえを殺さない、トラリス」

 彼はそう言うと、目を細める。トラリスは眉を顰めた。アルゲイはトラリスから離れ、「おまえの仲間を引き連れて、俺のところまでやって来い。そして見せてやる。おまえがどんなに下等な生き物で、青い血がどれだけ優れているのかを。俺がおまえをなぶり殺し、おまえがどんなにぶざまだったか、それをギルエンに見せつけてやる」

「ギルエンを」

 弾かれたようにトラリスは顔を上げた。

「おまえはギルエンを知ってるのか」

 顔つきの変わった彼に、アルゲイは用心深く冷たい視線を向けた。

「おまえは鈍いだけじゃなく、頭も悪いのか」

「ギミエルは、ギルエンのことを知らなかった」

「ギミエル?」

 その名を聞いて、アルゲイは鼻で笑った。

「あんな臆病者を、ギルエンが相手にするわけない」

 それだけの価値もない野郎だ、とアルゲイは付け加えた。

 彼の様子を窺いながら、トラリスは立ち上がる。殺気は消えていた。少し離れた場所から、しかしアルゲイは動かずにトラリスを見据えている。

「ギルエンの居場所を知ってるのか」

「それがどうした?」

 トラリスの心臓が大きく跳ねる。アルゲイが能力を使ったからじゃない。彼が仄めかしたからだ。

「おれは」と、トラリスは言った。

「ハイリンカなんて、本当はどうでも良い。ギルエンの居場所を知りたいだけだ」

 そう言った彼を眺めて、アルゲイは不機嫌そうに舌打ちした。

「ひとつ、教えてやる」彼は言った。

「ギルエンがおまえを育てたのは、おまえを殺すためだ。ギルエンは俺たち、蛇蝎族の頭領だ」

「従わない奴らだっているだろ」トラリスは言い返した。

「おまえは本当に身の程知らずだ」

 覆面で顔を覆いながら、アルゲイは言うと、トラリスの返事を待たずに素早く踵を返した。早い足取りで人混みの中に消える。トラリスはただそれを見送っていた。

 彼の姿が完全に見えなくなるのを待って、トラリスは大きく肩で息を吐いた。アルゲイが現れたことは驚きだったが、それよりも油断した自分が不甲斐なかった。

 そして、それ以上に。

 ギルエンの名を聞いて今、心を乱している自分が情けなかった。

『ギルエンがおまえを育てたのは、おまえを殺すためだ』

 頭の中でアルゲイの言葉を繰り返す。額に手を当て、トラリスは目を閉じた。

 あの、白い太陽が頭上に輝くあの島での暮らしを。

 アルゲイは知らない。誰も知らない。ただ自分とギルエンを除いては。

(いっそ)

 目を開き、狭い路地から大通りへ向かいながら、トラリスは考える。

(本当に殺すためだったら、そう信じられたら、よかったのに)

 トラリスは白い砂浜の波打ち際から見た空の色を思い出す。青すぎて黒っぽく見える色だ。そしてギルエンに流れる血の色と同じ。

 あの島で暮らしていた幼い頃、トラリスがなりたかった血の色だ。


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