<2> ギルエン

 乾いた赤い大地に熱い風が吹き付け、砂埃を巻き上げる。その砂埃の中には無数の蝿が漂っていて、日射しのあるうちは集落のどこにいても、多すぎて黒い塊のようになった蝿が、水分を求めて人の周りに群がっていた。

 あの熱風と、蝿が頭の回りを飛び交う耳障りな音を、ギルエンは今でも思い出すことができる。けれどそれは靄のかかったように遠く、手を伸ばしても掴めそうにない記憶だった。それほど遠い昔のことでもないと言うのに。

 ギルエンの生まれた場所は、村とも呼べない集落のひとつだ。

 王都アトレイから遠く離れた国境沿いの山間に、五十年近く前の隣国の内紛から逃れてきた難民たちが住み着き、そのまま代替わりしていくつかの集落になったのだ。

 彼はそこに、母親と、少し年の離れた姉と暮らしていた。父親はいなかった。

 姉の名前はトラリスと言って、ギルエンは七歳年上の彼女にほとんど育てられた。聞こえてくる噂で、自分たちは父親が違うらしいと知っていた。けれど当の父親はいなかったし、ギルエンにとってはどうでも良かった。

 トラリスに良く似た母親はどこか無気力で、いつもぼんやりとしていた。トラリスはそんな母親の代わりに、家族のために狭い部屋の手入れをし、食事を作り、幼い弟の世話を焼き、そして母親が日銭を稼ぐために一間の家に男を連れてきた時は、黙って弟の手を引いて家から外へ連れ出した。

 彼の家族に特徴があるとするなら、それはこの生活の中にあっての容姿に恵まれていたことだ。まだ若かった母親は、貧しさにやつれて髪に艶もなく、肌の色も悪かったけれど、それでもなかなか見られる顔立ちをしていて、少しの化粧でずいぶん見栄えが良くなった。

 若いトラリスは、母親の十代のときがまさにこんな風であっただろうと言う面立ちと体つきで、それはギルエンも同じだった。家族の中で彼ひとりだけが男児で、青い血のせいか彼の表情はいつでも青ざめていたけれど、それでも良く似ている、と度々言われた。

 生活は貧しかったが、集落全体が貧しかった。彼の家庭はその中にあっても貧しかったけれど、そのことがギルエンを悩ませた記憶はない。覚えているのは別のことだ。

 物心ついたときにはギルエンが自分が他の子どもたちと違うことに気づいていた。

 自分の皮膚の色が姉や母や、他の同年代の子どもと違うこと。それは自分の身体に流れる血が、赤ではなく青いからだということ。そしてもうひとつ。炎の揺らめきを見たとき、強烈な親しみと覚えるとともに、囁き声を聞くこと。

 姉と母はギルエンの能力を、はっきりとではないが薄々感じていて、彼を火の側へ近づけるのを嫌がった。彼自身は記憶にないことだが、幼児の頃に三四度、小火を起こしたことがあるらしかった。

 炎の声を初めてはっきり聞いたと思ったのは、もう少し大きくなってからだ。

 五歳か六歳くらいの頃、食事の支度をしているトラリスから少し離れた狭い台所の隅で、ギルエンは竈の中で揺れる炎を眺めていた。じっと見つめていると部屋の景色が視界から消え、炎と自分だけのような気分になる。その時、トラリスが母親に呼ばれて部屋に入った。するとそれを見計らったかのように、かすかな声な声が聞こえた。

『ギルエン』

 甲高い声と低い声が交互に折り重なって、ギルエンの耳の奥に歌うように響く。

『おまえは、わたしたちの一部。わたしたちは、おまえの一部』

 その声はギルエンの言い様もなく落ち着かせた。満たされたと言っても良いかも知れない。その時の彼には不安も心配事もなかったけれど、とにかく彼はそう感じたのだ。

「聞こえてるよ」

 ギルエンが思わずそう答えると、炎が一際赤く激しく燃えさかった。その姿は喜びに身をくねらせているようで、ギルエンは美しいとさえ思った。何かが焦げる匂いが鼻を突く。彼は炎から目が反らせない。

『おいで、ギルエン』

 炎の一端がまるで腕を伸ばすかのように、ギルエンの方に向かって伸びた。彼もその腕を取ろうと、身を乗り出す。その時だった。

「ギルエン!」

 背後から自分を呼ぶ甲高い声がして、彼は我に返った。振り返るとトラリスが立っている。いつの間にか戻ってきたのにギルエンは気づかなかった。

 彼女は竈の火の前にいる弟を血相を変えて見つめると、すぐに彼に近づいて背中を掴んで引き離した。

「危ないじゃない。火が大きくなってるわ」

 竈の中から白い煙がもうもうと立ちこめる。

「ごめん」と、ギルエンは言った。

 トラリスだけでなく、炎にも謝ったのだ。すると彼の気持ちを汲んだように、急に火の勢いが大人しくなった。彼の顔を覗き込み、トラリスはしばらく黙ってから、やがて弟を安心させるようにかすかな笑みを浮かべて、

「謝らなくていいのよ」と、言った。

「ただ、危ないことはしないで。火のそばは危険だわ」

「そうかな。仲良くしたいよ。嬉しそうだ」

「ギルエン」

 トラリスが困ったような表情を浮かべる。彼はやはり、姉にこんな表情をさせる自分は間違ったことをしたのだ、と思った。それで言った。

「嘘だよ。もうしない。約束する」

 母親よりも姉のトラリスの方が、自分の能力について知っていたはずだ。ギルエンはトラリスに気持ちを打ち明けたことはあっても、母親に言ったことはなかった。そんな弟のことを、彼女から母親に言ったのかも知れない。最も、その後何年経っても母親は自分の息子の力を詳しく知らなかったように思う。

 それでも以来彼は、母からも姉からも、

「ギルエン、それをしてはだめよ」

 と、よくよく小言を言われた。

 彼女たちはギルエンが火の気に近づくと、重大な災害に繋がるとわかっていたのだ。だからギルエンは自分が人とは違うと、自分が炎に親しみを感じたり、炎の囁きを聞くことがあるの自分だけで、それは禁じられるほど危険なものなのだと思い込んでいた。

 そしてその能力を持つ自分は、なにか母親と姉を困らせる存在なのだと。

 ギルエンは母親に愛着はなかったが、姉に対しては違った。だから言いつけをできるだけ守った。

 同じ頃ギルエンは、集落の同年代の少年たちに揶揄われ、また小火騒ぎを起こした。

 路上で数人に取り囲まれて貧しい生活や母親の生業のことを囃し立てられた彼は、自分が怒りを感じて頭に血が上るのがわかった。それに応えるように、何もないところから小さな火柱が吹き上がったのだ。それも一度ではなく、二度三度。それで火傷をした子どももいた。それはギルエンのせいだと噂になり、実際にギルエンのせいなのだが、それ以来気味悪がられて誰も近づかなくなった。

 周囲から人が去ってやっと、ギルエンは自分の能力をはっきりと意識し始めた。

 自分には炎の呼び声が聞こえる。そしてその声に応えると、炎は自分の味方をしてくれる。けれどこの能力を使えば、人から怖がられるし、なによりトラリスが嫌がる。

 それで次第に、炎の呼び声に、なるべく耳を傾けないようにした。

 その間も彼は成長し、一年後くらいには他の子どもたちもやるように、仕事を始めた。使い走りや荷運びや畑仕事を手伝って、家のためにわずかでも日銭を稼ぐのだ。

 ギルエンと火にまつわる噂は、既に集落の一部にはあった。それを知らない者も、気にしない者もした。けれど大人たちに立ち混じり働いていると、切り傷や擦り傷を作ることがある。彼の皮膚に青い血が滲むのを見た者は、大人も子どもも皆気味悪がっった。

 それでもギルエンは黙々と、言われたことに従って働いていた。けれど彼がどんなに従順でも、意味もなくそれを目障りに思う者もいるのだ。

 集落の中でひとり、わざと駄賃を弾んで――そう言っても微々たるもので、悪い噂のあるギルエン以外には普通でしかなかったが――荷運びや買い出しをギルエンに言いつけ、彼の仕事ぶりを悪く言う男がいた。後になっても、ギルエンはなぜ彼が自分を疎ましく思ったのかはわからない。彼自身のせいでなく母親や、或いは姉のトラリスとの間でなにかあったのかも知れないし、単に彼自身の問題を、幼いギルエンにぶつけていただけかも知れない。

「グズ」や「うすのろ」という暴言は、慣れてしまうくらい何度も言われた。「役立たず」「腰抜け」「臆病者」とも。

 それを聞いてもどこかでギルエンは他人事のように感じていた。雑用の子どもたちが大人に罵声を浴びせられるのは、集落では日常的な光景だったからだ。その上、罵るくせに彼はいつでも自分に仕事を頼むし、ギルエンは自分が役立たずでも腰抜けの臆病者でもないことを知っていた。

 仕事は彼のところでだけではないし、ギルエンはこのことを母親はもちろん、姉にも誰も言わなかった。

 一度明らかに苛立った様子の男のところへ仕事が終わったと報告に行ったら、運んだ積み荷を足蹴にされすべて崩され、もう一度やり直せと言われたことがある。

 帰ってトラリスの夕食の支度の手伝いをしなければならなかったギルエンは、それを断った。すると殴られそうになり、彼は素早くそれを避けた。

 男はギルエンの頬に唾を吐きかけ、

「薄汚い売女の息子」

 と、独り言のように呟いた。

 彼にしては珍しくない暴言は、けれどその時ギルエンの癇に障った。自分だけでなく母親が、そして彼女の娘であるトラリスまでもがそのひと言で侮辱されたのだと、はっきりわかったからだ。

 そのまま彼はその場を去ったが、翌日の昼下がり、その男の家が燃えた。粗末な小屋から突然火柱が吹き上がる、奇妙な発火だった。小屋はあっという間に灰になった。そして寝たきりだった彼の高齢の母親が焼け死んだ。集落の中ではちょっとした騒ぎになり、男はギルエンがやったと言い張ったが、証拠はどこにもなかった。そして事情を知ったトラリスが、弟にこんなことができるはずがないし、むしろ弟のような子どもを口汚く罵ったあなたの方が反省すべきだ、と気丈に言い返してギルエンを庇ってくれた。

 けれど夜、家にふたりきりになった時、トラリスはギルエンと向かい合って、神妙な顔をして言った。

「ギルエン、もう二度と、今日みたいなことをしてはだめ」

「トラリス、俺を疑ってるのか」

 彼はそう言って姉を見上げた。トラリスは束の間黙り、言葉を探してからギルエンの肩に手を添える。

「先にあいつが何か言ってきたのよね。ギルエンは、母さんを守ろうとしたんでしょう。それでこんなことをしたのよね」

「トラリスもだよ」

 視線を反らしてギルエンは答えた。

「俺だけじゃなく、母さんもトラリスも馬鹿にしてるってわかった。俺だけならいいけど、許せなかったんだ。今日もあいつの家に行ったんだ。そしたら炎が俺を呼んでくれて、気がついたらあの家が燃えてた」

 あの頃はまだ、時折聞こえる炎の囁きと自分の能力にどんな関係があるのか、それで何ができるのか、ギルエンにははっきりわかっていなかった。

「ギルエン」

 トラリスは弟の細い肩を抱きしめる。

「あんたは優しい子よ。それは知ってる。でも、こんなやり方はだめ。お願い」

「わかったよ、トラリス」

 頷くと彼女が身を離した。

「約束して、火遊びはだめよ」

「わかった」

 あの時ギルエンは頷いた。

 それが間違いだと気づいたのは、もっとずっと後のことだ。でもあの時はトラリスを悲しませたくなかったのだ。あんな約束は、すべきではなかった。

 彼女は美しく成長していた。十四歳にしては大人びていて、あの頃の彼女はずいぶん大人に見えたけれど、まだたったの十四歳だったのだ。

 ギルエンはあの頃の彼女を思い出すたび、そう感じずにいられない。

 そして娯楽もない殺風景な村の中に明るく咲くようなトラリスは、その頃からたくさんの男に言い寄られるようになった。年の離れた男からの求婚、と言うより金と引き換えに私妾にならないかと言う申し出も度々あったようだ。

 無気力な母親は、金に目が眩んで積極的に娘を差し出そうとするようなことはなかった。ただトラリス自身に好きにしろと言っただけだ。

 おかげでトラリスは売られずには済んだが、ギルエンは未だに彼女がそれを選ばなかったことが幸か不幸がわからない。そうした方が良かったのではないかと思ったのも一度や二度ではなかった。でもどのみち、それはもはやどこにもない過去だ。今ではもう思い出すのも止めてしまった。

 姉はギルエンに性格も似ていたように思う。たくさんの男に言い寄られても、ギルエンの見る限り心の底から誰かに夢中になったり、恋に溺れたりしている様子はなかった。彼女は確かに戯れの恋のいくつかを楽しんでいたけれど、どこか冷静な自分を残し、彼らを利用していた。少なくとも男と別れて帰ってきた後のトラリスと会って話すとき、ギルエンはそう感じた。

 姉の評判は上々だったが、男と寝て日銭を稼ぐ母親も、青い血を持つ血色の悪い弟も悪い噂の対象だった。彼女は彼女なりに、家族に対して勝手な義務感を感じて、恋愛も満足に楽しめなかったかもしれない。後になってギルエンはそう考えたことがある。でもそれも、もはや永遠に正解のわからないことだった。

 最も、トラリスに思いを寄せる、と意味ではギルエンも同じだった。子どもたちにあまり関心のなさそうな母親よりもずっと、ギルエンは姉のことが好きだった。

「ギルエン、炎の傍に近づいてはだめ」

 トラリスのその言葉に従っていたのも、彼女の顔を曇らせたくなかったからだ。

 それでも炎の囁きをすべて無視することはできなかった。彼は家族からも集落の他の住人からも離れた場所で。誰にも知られずひっそりと炎と仲良くなった。かつて炎が彼に囁きかけてきたように、炎は彼の一部で、彼は炎の一部だった。それがなぜなのか教えてくれる者はいなかったが、ギルエンはどこかで青い血の、この身体に流れる青い血がそのすべてなのではないかと考えていた。

 でもそれは禁じられていて、ギルエンは自分に流れる青い血も、自分の能力も本当はあってはならないもので、赤い血よりも劣っていると、ずっと思い続けていた。それから何年もの間。

 あの日までは。



 ギルエンが十三歳、間もなく十四になろうとしていた夏だった。狭い小屋の中に淀む熱い空気とその中に飛ぶ蝿を、彼は今でも覚えている。彼は相変わらず無口で人と関わらなかったが、貧しい集落で、それでも逞しく成長していた。

 半年前くらいから、母親は病気がちになり、寝たり起きたりを繰り返していた。後から考えるとあれは梅毒か、その類の性病だったように思う。当時のギルエンにはその知識がなかったし、教えてくれる者もいなかった。

 集落にはまともな医者はいなかった。医者のいる集落まで運ぶ足も診察を受ける金もない。母親は他の人々と同じように、集落で医者代わりに頼られている、薬の調合に多少の心得がある老人の処方した薬を飲み続けていた。彼女の容態は一向に良くならず、かといって急激に悪くなることもなかった。けれどそれまでのように仕事ができなくなったせいで収入が減り、姉弟は今まで以上に困窮した。

 ギルエンも自分にできるだけの仕事は休まずに続けていたが、稼ぎが急に増えるわけでもない。それでもなんとか食べて行けたのは、トラリスが彼女を慕う男たちの誰彼から、上手く援助を引き出していたからだ。少しでも金になる贈り物は、すぐにギルエンと母親の食事に変わった。

 トラリスは弟の前では相変わらず明るく振る舞っていたから、ギルエンは今でも彼女があの生活の中で、その細い肩にのしかかっていた重圧がどれほどのものだったのか、推測することしかできない。

 けれどトラリスが結婚を決めたのは、あの貧しさが大きな理由だったはずだ。

 相手は四十過ぎの、連れ添った妻を亡くしたばかりの男で、隣の集落の顔役のひとりだった。妻の喪が明けたので、トラリスに求婚したのだ。

 彼女は二十一歳だった。集落で生まれ育った女たちは、ほとんどが二十歳前に結婚する。そういう意味ではトラリスは嫁き遅れていたけれど、彼女を求める手が減ることはなかった。むしろ年ごとに彼女は美しさを増し、自分の容姿や振る舞いが男たちに与える影響を自覚してたように思う。

 婚約が整って、彼らのあばら屋に花婿が挨拶にきた。

 その頃には母親は寝床から起きあがるのも大変になっていたが、彼を迎えた。ギルエンも挨拶したが、それ以外には二言三言言葉を交わしただけで、彼が一刻も早くこの場所を立ち去りたいと思っていることがありありとわかった。

 彼だって、ギルエンについてまわるきな臭い噂を知らないわけがないのだ。

 それでも黙っていたのは、彼のトラリスを見る目つきのせいだ。彼が彼女に夢中なのは一目でわかったし、疑いようがなかった。目は常に彼女を追いかけ、彼女が笑えば彼も笑うし、彼女が拗ねて見せれば、嬉しそうに彼女のご機嫌を取るような言葉を言った。彼女が弟に話し掛けた時だけ、花婿もギルエンに丁重に接した。

 彼を送り出した晩、ふたりきりになった時、ギルエンは姉が結婚した後のことを、少しだけ話題にした。

「結婚したら、向こうの家に住むんだろ」

「心配しないで、ギルエン」

 彼の手を取って力を込めながら、トラリスは彼を安心させるように微笑みながら言った。

「結婚しても、住む場所が変わるだけよ。あの人は、母さんとあなたの面倒もみてくれるって」

「俺のことは自分でなんとかするよ。母さんだって、そのうち良くなる」

「そうね、ギルエン」

 彼女は頷きながら言ったのだ。

「でも、助け合いましょう。私たち姉弟は、この世にふたりきりなんだもの」

 ギルエンはそう言ったトラリスの顔を眺めた。この生活の中でも彼女は美しく、頬には艶があり、瞳は輝いていた。

「なあ、トラリス」

 彼は姉に聞きたいことを、口に出そうか一瞬迷った。ひどく場違いなような気がしたからだ。けれど彼女はじっと、ギルエンによく似た大きな目を彼に向け、弟が言葉を続けるのを待っていた。それで言った。

「幸せだと思ってるか? 結婚する時は、幸せになる時だって」

 トラリスは弟の表情を窺うように束の間眺めて、それから頷いた。

「もちろんよ」

「相手があんな年上でもか。母さんよりも年上だ」

「彼なら食うに困らないわ。それよりギルエン、わたしがお嫁に行ったら、母さんの世話をよろしくね。あなたにばっかり負担を掛けて悪いけど。薬や食事や、お金のことは、わたしがなんとかするから」

 ギルエンは今でも、あの時の会話を思い出すと何も考えたくなくなる。

「心配するなよ、トラリス」

 彼は繋いだままの手に力を込める。

 心配するな。こっちのことはこっちでなんとかする。トラリスは自分の幸せだけを考えてくれれば良い。

 そう言ってやれなかったことを、ギルエンは今でも後悔している。

 言いたくても言えなかったのだ。トラリスが家を離れること、母親とふたりきりの生活になることは確かに彼にとって不安で、心細かった。

 一方で結婚式の日取りはなかなか決まらなかった。結婚を急ごうとする花婿とは逆に、彼の子どもたちや前妻の親族が、喪が明けたばかりで二回り近く年下の若い女を娶ろうとするのに反発したのだ。

 けれどそれをトラリスが気にしている様子はなかった。むしろ婚約中のあの時期は、かつてないほど上機嫌だったと言っても良い。花婿のおかげで、結婚の支度という名目で服や金品や食材そのものが次々と贈りものとして届けられ、食うに困ることがなくなっていたからだ。

 ギルエンは心の中でずっと、ずっとこの状態が続けば良い、と心のどこかで思っていた。でもそれが長くは続かないことも、わかっていた。ただ、その訪れが予想外だっただけだ。



 トラリスの婚約が決まって二ヶ月近く経っていた。盛りを過ぎたはずの暑さがいつまでもぐずぐずと残る、ありふれた日だった。

 その日は母親の病状も少し落ち着いていた。日が暮れる頃トラリスは、夕食の支度をギルエンに任せて、母親のための新しい薬を取りに行く、と告げて出て行った。あの頃は彼女の婚約者のおかげで、母親にまともな薬を買ってやることもできたのだ。

 それは本当に普段通りの日常で、ギルエンはなんの不安も感じなかった。

 日が暮れて夕食の時間になっても、トラリスは戻らなかった。母親に食事をさせ、姉を待ちきれなくなったギルエンが自分の食事を終えて、さらにその片づけを終えてもなお。

 さすがに遅いと感じ始めて、ギルエンは母親にそのことを話した。粗末な寝台に横になったまま彼女は、

「誰か男のところにでも行ってるのよ」

 と、だけ言った。

 確かにトラリスが誰かの元で一晩明かして、朝帰りすることは珍しいことではなかった。けれど結婚が決まってから彼女がそれをしたことは一度もないし、それにいつでもトラリスは行き先を、ギルエンには告げていたのだ。男の名前をはっきり言うことはなくても、今晩は帰らないのを心配しなくて良いと、彼女はいつでも弟に伝えていた。

 もし、彼女がそうしたいなら、一度家に戻って自分に告げてから出掛けるだろう。ギルエンにはその確信があった。

「いちおう、近くを見てくるよ。これ、借りる」

 彼はそう言って、部屋にあった錆の浮いた使い古しの角灯を手に取る。

「油を使いすぎないで」

 母親はそれだけ言った。彼は灯りを灯すと外へ出た。

 熱い風が吹いている。夜になると昼の間は雲霞のようだった蝿はどこかへ消えてしまう。ギルエンの髪と角灯の中の炎が揺れた。乾いた空気が辺りに満ちる。頭上を仰ぐと月が見えた。地表から吹き上げられた砂埃のせいで、赤く染まった満月だった。すぐに雲に隠れてしまったが、また現れる。月明かりのおかげで、彼が思ったよりずっと外は明るかった。

 ギルエンは歩き出す。トラリスの言った薬を取り寄せてくれた知り合いの家まで行った。母親の知り合いの女は、彼女はだいぶ前に訪れて薬を受け取り、日が沈んで間もない頃に帰ったと教えてくれた。ギルエンからトラリスがまだ戻らないことを聞くと、彼女は怪訝な顔をする。それから彼の頭からつま先を眺めた。ギルエンはそこを辞した。

 彼女の家から自分の家まで、トラリスが寄りそうなところへ足を向ける。

 人気は少ない。自分の生まれ育った集落とはいえ、夜になると物騒なことがわかっていた。他にあてもなくなって、ギルエンは集落のはずれに向かう。地べたを這うような草むらの中に、ところどころ細い木が立っている見通しの悪い一帯だ。この辺りには年に二三人、殺された人間が捨てられる。

 怖くはなかったが、心細かった。けれど手元の角灯の揺れる炎を眺めると、心が落ち着いた。彼がしばらくその辺りをうろついていると、視線の先の茂みの辺りで、人影が動いた気がした。

 ギルエンは角灯を掲げて、目を凝らす。その灯りに気づいたのか、人影が近づき、

「誰だ?」と、言った。

 若い男の声だ。聞き覚えがあるような気がして、ギルエンは答える。

「ギルエンだ」

 そう名乗りながら近づくと、手にした角灯と月明かりの中に人影が浮かんだ。やはり彼も知っている若い男だった。おそらく、トラリスに言い寄っていた男のひとりだ。でも今は、かえってそれなら好都合だった。

「トラリスを知らないか。探してる」

 ギルエンは訊ねた。男の顔が強張る。ギルエンはそれに気づいたが、

「知るか、消え失せろ」

 と、突然、男は乱暴に言った。

 ギルエンは黙ってその場に留まり、彼の背後に目をやった。暗がりでさらに別の人影が動く。こちらの様子に気づいたのかも知れない。

「ここで何を」

 ギルエンは訊ねた。

「関係ない」

 男が言う。ろくでもないことに違いない。関わりたくなかったが、トラリスの名前を出した時の彼の表情が引っかかった。ギルエンは目の前の男を無視して、固まる人影の方へ足を踏み出す。

「待てよ。なにしてる」

 男がギルエンの肩を掴もうとしたが、彼はそれを避けて走った。「おい」と、男が彼を追いかけて来る。

 暗がりの中の茂みの脇、人目を避けるように五六人の男たちが立っている。

 ギルエンの知った顔が半分、知らないのが半分。知っている三人は皆、思わせぶりなトラリスにあしらわれていた年上の男たちで、知らないのはもっと幼い自分と同年代の少年たちだ。

「トラリス!」

 彼は名前を呼んだ。すると彼らの間に緊張が走ったのがわかった。

「近づくな」

 震える声で、後ろから追いかけてきた男が言った。ギルエンは肩を掴まれ強く引かれ、立ち止まる。けれどその頃には見えていた。

 何かを隠すように立ちはだかる男たちの背後の足下に、人が倒れている。丸い背中をこちらに向け、気絶しているかのようにぴくりとも動かない。草むらの上に、二本の足が投げ出されているのが見えた。女だ。

「おまえたち、何を…」

 ギルエンはそう言って足を踏み出そうとする、けれど後ろから羽交い締めにされた。角灯を取り落とす。地面に当たって倒れる音がした。

「おまえ、ギルエンだな」

 輪の中から男のひとりが彼に近づいた。男と言っても、ギルエンとさほど変わらない。少年に毛が生えたようなものだ。

「イドリオ」

 名前を知っていたのは、彼がトラリスと付き合っていたからだ。彼は乱暴者だが、年下の連中の面倒見が良く、それを慕う少年たちがいることも知っていた。トラリスとはけっこう仲が良く、ギルエンの推測が外れていなければ、何度か深い仲にもなっているはずだ。

 近づいてきた彼は目をぎらつかせ、そのくせ顔は青ざめ、なにかにひどく興奮しているように見えた。

「おまえのせいだ」

 唐突に彼はギルエンに向かってそう言うと、顔に向かって唾を吐きかけた。ギルエンは動くこともできず、されるがままだったが、急に嫌悪感を催す。

「おまえみたいな能なしの弟と、売女の母親のせいで、こんな…」

 彼の声が震えている。ギルエンは状況が理解できないが、理不尽さは感じた。この男とはしばらく顔も合わせていないし、自分の家族のことをとやかく言われる理由もない。

 足下に、転がった角灯の小さな火が消えずに残っている。

『ギルエン、わたしたちはここよ』

 小さな炎が、足下からギルエンに囁きかける。けれど彼はいつものようにそれを聞こえないふりをした。

「俺はトラリスを探してるだけだ」

 低い声音で、彼は言うと身を震わせた。ギルエンがおとなしかったのに気を抜いていたのか、背中の男の腕が外れる。ギルエンはすかさず、男たちの輪に向かった。

 月明かりの届かない薄暗がりに誰かが倒れている。白い足が伸びているのは、身につけていた下履きが引き裂かれているため、覆い隠すものがないからだ。

 そして倒れているのは。

「トラリス」

 ギルエンは呟く。そして彼女に近づくと、その場に跪いて彼女を抱えた。間違いなく探していた姉だ。そして動かない。身体に力が入っていない。顔を見ようと傾けると、目を開いたまま、口をだらしなく開けている。その顔は土と血で汚れていた。

 その上、息をしていない。

 それを見たギルエンは何も考えられなくなる。

「そいつが悪いんだ」

 知らない少年の声が聞こえた。

「そいつはあばずれの売女で、懲らしめる必要があったんだ」

 その声を聞きながら、ギルエンは身体中の血が沸騰しているように感じた。それは熱く煮えたぎり、身体中を逆流するようだった。

 すると不意に、彼は強く身体を引かれた。少年たちの誰かが、ギルエンに掴みかかって彼を地面に引き倒したのだ。ギルエンは強かに背中を打つ。頭上さらに少年が拳を振り上げたのが見えた。

『ギルエン』

 耳の奥で、あの声がした。

『わたしたちはここよ。あなたのすぐそば』

 ギルエンは腕を伸ばして振り下ろされそうになった拳を必死で掴んだ。少年が身じろぎする。彼はそのまま、掴んでいた腕に力を込めた。

『ギルエン!』

 悲鳴のような歓喜の声が耳の奥に聞こえた瞬間、掴んでいた少年の身体から火柱が上がった。本物の悲鳴が聞こえたのは一拍後だ。誰も、ギルエンですらも目の前でなにが起きたのかわからなかった。

 発火した少年は悲鳴を上げて地面をのたうち回る。彼を焼く炎が辺りを照らした。ギルエンは彼に構わず、残りの男と少年たちを振り返る。

「おまえ…なにを」

 イドリオが震える声で彼を見つめる。

「誰がやった」

 彼に近づきながらギルエンは言った。声が掠れているのは喉が渇いているからだ。イドリオが後ずさる。その背後に、地面に落ちた角灯が見えた。油が流れ出て、小さな炎が上がっている。

「誰が、トラリスを…」

「俺じゃない。レドレスが…」

 ギルエンは地面を蹴って彼の前に立った。そして彼の胸ぐらを掴む。イドリオが小さな悲鳴を飲んだ。

「どうしてトラリスを助けなかった」

「こんなつもりじゃなかった」

 歯をならしながら、イドリオが言った。その目はすっかり怯えきっていた。

「どうしてこんなことをしたのかと、聞いている」ギルエンは更に詰め寄る。

「あいつのせいだ。あの女が、金に目が眩んで結婚するなんて言い出すから」

「それはあの男の方が、トラリスを幸せにできるからだ。トラリスのせいじゃない。おまえのせいだ」

 ギルエンは腕を伸ばして彼を掴んだ。地面に倒れた角灯の炎がいつの間にか大きくなり、待ちかまえるように燃えさかっている。耳の奥で炎の囁き声が聞こえた。

 その視線に気づいたのか、

「やめてくれ! 殺さないでくれ!」

 イドリオが叫んだ。

『そう、ギルエン。もっともっと、わたしたちは、あなたの望みを叶えられる』

 今度の囁き声はより強かった。

「そうだな」

 ギルエンは笑いながら頷いた。けれどそれはイドリオに向かって言った言葉ではなかった。彼は勢いよく炎に向かって彼を突き飛ばす。すぐさま炎が弾かれたように大きくなり、彼の身体を飲み込んだ。イドリオが悲鳴を上げる。

 その声を聞くと、ギルエンは身体は震えた。身体中に青い血が駆けめぐるのがわかる。地面に倒れ自分自身を抱えてのたうちまわるイドリオを、彼は冷たく見下ろした。

「熱い、熱い」

 脂汗を流しながら、彼は譫言のように呟く。

 顔を歪ませるイドリオを見ていると、ギルエンはひどく心が躍るのがわかった。怒りと同時に、快感が彼の全身を駆けめぐる。

「ゆっくり死ぬんだ。苦しんで死ぬんだ。それでも、トラリスよりずっと楽に死ねる」

 間もなく肉の焦げる匂いがして、彼の身体のあちこちから煙が上がる。そして皮膚を突き破るように彼の身体は火を吹き始め、その炎が次第に繋がり、彼を飲み込んだ。

「まだだ。まだ終わりじゃない」

 振り向いて少年たちの姿を探した。辺りの草むらは、最初に火を吹いた少年から燃え移った火が次第に炎の大きさを広げている。

 それはギルエンにとって、かつてないほど心落ち着く光景だった。

 トラリスを辱めた男たちの半分は逃げてしまっていたが、ギルエンへの恐怖と火の手に遮られ、逃げ遅れた少年がいた。ギルエンは彼に近づくと、彼がトラリスに何をしたか喋らせ、それから命乞いをさせ、最後に火を放った。他のふたりと同じように火だるまになって呻く姿を見るのはかつてない快感だった。

 けれど今のギルエンは、初めて味わうその快感にすべてを委ねることはできなかった。

 彼は倒れたトラリスのところへ戻る。草むらに火が点き、辺りは燃え広がりつつあった。草を焼く炎が明々とその場を照らしていたが、ギルエンの心に従ってトラリスを守るかのように、彼女の周囲は焼け残っている。

 彼は姉の傍らに跪き、もう一度彼女を抱えて仰向けにする。身体は既に冷たくなり始めていた。目と口を閉じさせる。それから引き裂かれた服の布地をできるだけ寄せ集めて足を覆った。彼女は動かない。彼は自分の服の袖で、それも薄汚れていたけれど、せめてもの気休めに彼女の顔を拭いてやった。それから彼は息絶えた姉の身体を持ち上げようとした。けれどすでに魂が失われても、トラリスの身体は重く、ギルエンが彼女を移動させるのは難しいことがわかった。彼女を横たえギルエンはもう一度彼女の身体をかき抱く。

「トラリス、やっぱり使うべきだったんだ」

 ギルエンは冷たくなった彼女の耳元で強く言った。

 周囲に炎の熱さを感じていると、さっきずっと耳の奥に炎の呼び声が止まない。歓喜の声を上げ、もっともっとと急かす炎の呼び声が。

 トラリスはギルエンがそうなることをとても嫌っていた。彼女が悲しむから、ギルエンも自分の血潮を、自分の肉体を、本当にあるべき姿に、自由自在に使うことに戸惑いがあったし、それが姉を悲しませる、悪いことなのだと思い続けていた。

「おまえが許してくれれば、俺はおまえをこんな目に遭わせたりしなかったのに」

 決して返事をすることのないトラリスを、ギルエンは地面にそっと下ろした。そして立ち上がると彼女を見下ろし、炎に照らされた彼女の姿を両目に焼き付ける。

 気が済むとギルエンは周囲の炎に呼びかけた。

 男たちを燃やしたような激しく勢いのある炎とは違う、這うような静かな炎がゆっくりと彼女に近づき、そして時間をかけて彼女の姿を覆い尽くした。

 炎の中に消える姉の影を見つめていると、ギルエンは再び身体中の血が沸々と沸き立つような感覚を覚える。

 まだ終わっていない。

 彼は揺れ動く炎から離れた。身体が震えるままに、炎に呼びかける。炎が大きくなり、今では草むらに立つ木立までも燃やし初めている。黒煙がもうもうと暗い空に向かって吹き上がっていた。

 ギルエンはその光景を気分良く眺めながら、集落の方へと引き返す。

 途中でこちらへ向かってくる人影が何人か見えた。背後を振り返ると、そこはもはや巨大な火の海と化していて、異変を感じた住人が様子を見に来たに違いない。

 ギルエンは構わずに人の向かってくるほうに歩き、そして気づいた。先導しているのが、トラリスを囲んでいた若い男のひとりだ。彼はギルエンの姿を見つけると、恐怖を顔面に貼り付けたような表情で叫んだ。

「あいつだ、あいつがやったんだ!」

 辺りがざわめく。ギルエンは構わずに彼へ近づいた。

「こいつが火をつけたんだ! こいつが触ったら、ゲイルもエルリドも…」

 彼が言い終える前に、ギルエンは彼の喉を掴んでいた。彼は自分より年上で、身体も大きい。けれど今は身体中の血が沸くのがわかる。背後には巨大な炎が燃えている。

「おまえがトラリスを殺したのか」

「違う、あの女が…」

 すぐに人が近づいて来て、ギルエンを彼から引き剥がそうとした。ギルエンが彼を振り払うように空いている腕を振ると、その男の背中から火柱が上がった。悲鳴が続き、他の人々に緊張が走る。

「誰も近寄るな」

 ギルエンは言った。掴んだままの男は腰を抜かしてその場に倒れ込み、ギルエンに見下ろされる格好になった。

「許してくれ。殺すつもりはなかったんだ。抵抗するから突き飛ばしたら、そのまま…」 男はかぼそい声でそう言った。肉の焦げる匂いがして、悲鳴がうめき声に変わった。

 ギルエンは手を離した。そして男から一歩離れる。

「許してくれ…」

 と、震える声で彼は続けた。

「こんなことになると思わなかった。俺だって辛い」

「辛い」

 ギルエンは冷たい視線を向けた。

「辛いのはトラリスだ。おまえじゃない」

「違う、おまえのせいだ」

 ギルエンの言葉に、必死の形相で男が言い返した。

「おまえが死ねば良かったんだ。おまえみたいな弟と、あんな母親がいるせいだ。おまえたちさえいなければ、こんなことにはならなかった」

 ギルエンは静かにその言葉を聞き、そして、

「それは違う」

 と、笑って答えた。

「いなければ良かったのはおまえらだ。死ねば良かったのはおまえたちだ。おまえみたいな奴らさえいなければ、トラリスは無事だった。だからおまえらはいない方が良い」

 言葉の途中で、男は歯を鳴らしていた。いつの間にか自分の両足の先が炎に包まれていたからだ。

「頼む」

 と、彼は汗を流しながら青ざめた目でギルエンを見上げた。

「殺さないでくれ」

 ギルエンはその場を離れた。誰かが彼に駆け寄る。悲鳴が聞こえる頃には、彼は集落からやってきた人々に囲まれていた。その中でも体格の良い中年から壮年の男たちが彼を取り囲む。中のひとりが青ざめながらも、

「小僧、一緒に来るんだ。大変なことをしたな」

 と、険しい表情で言った。

「まだだめだ。トラリスの弔いが終わってない。まだ二人だ。あと二人残ってる」

 そう言って笑ったギルエンを、気味悪そうに彼らは見つめる。

「レドレスに何をした」

「あんたたちにも、これからするだろうことだ」

「おい、こいつは青い血の不吉な子どもだ。やっぱり殺しておくべきだったんだ」

 男のひとりが仲間に向かって激高したように言った。ギルエンは小さく笑って、舐めるように男たちを見渡した。

「俺がおまえたちになにをした。ずっと抑えていたのに。なのに赤い血のあいつらは」

 と彼は言って、背後で燃える塊を見た。

「トラリスを殺した」

「あばずれの娘が殺されたところで、自業自得だ」

 さっきの男がそう言って、今度はギルエンに詰め寄る。

 耳の奥で声が聞こえた。その言葉があまりにも心地よく、ギルエンはやっぱり笑ってしまった。

「違うね。死んだ方が良いのはおまえたちだ。間違っているのはおまえたちだ。おまえたちのせいで、俺はずっと嘘を教え込まれた」

 ギルエンはそう言うと、次々と男たちを掴んだ。自分の身体に燃えさかる火も、続く悲鳴も、その炎をどうにか消し止めようと地面に倒れる姿も、ギルエンは既に見飽きてしまった。

 彼らを遠巻きに見ていた他の住人は、悲鳴を上げて逃げてしまった。

 中のひとりがなんの用心か、武器代わりに持っていたのであろう鉈を取り落としていく。それに気づいてギルエンは拾い上げた。

 そして集落へ戻ると、目についた小屋を片端から燃やしていった。火の手が小屋から小屋へと燃え移り、異変に気づいた住人たちが雪崩のように路上へ飛び出す。悲鳴が上がった。それは耳に心地よかった。次第にギルエンは自分の高鳴る心臓の音を感じた。その頃には炎は屋根を伝い道を這い、壁を燃やして次々に燃え移っていた。けれどさらに火柱を上げさせるのをギルエンは止めなかった。

 炎の歓喜の声が耳の奥で重なり、仕舞いには何を言っているのわからなくなる。

 その時、大きな火災に取り乱した中年の女が、彼の方へ走ってきた。知らない女だ。

(でも)

 と、ギルエンは手にしていた鉈を握りしめて考える。

(赤い血の人間だ)

 トラリスを辱めて殺した連中と同じように。

 彼女が近づき、ギルエンを見た。目が合った瞬間、彼は彼女に向かって思い切り鉈を振り下ろした。腕に強い衝撃を感じる。続いて、血が飛び散った。

 辺りを燃やす炎があるとは言え、夜なのでその色はわからない。

 けれど飛び散った血が、足下に倒れた女から流れるのは赤い血だ。

 そう思うと、ギルエンの身体は再び震えた。嬉しさにだ。

(どうして、今まで)

 彼は鉈についた血を振り払いながら、歩き出す。足下の女は死んではいなかったが、どうでもよかった。

(こうしなかったんだ)

 理由はわかっている。トラリスがそうするなと言ったからだ。それで、間違った約束をしてしまった。

「使うべきだったんだ、トラリス。もっと早く」

 青い血は、炎を操る能力は、赤い血の奴らによりもずっと優れていて、彼らを恐怖に陥れることができる。彼らを苦しめ、これほどまでに簡単に奪うことができる。

 それにこの気分の良さはどうだろう。今では炎は囁きではなく、叫び声に近い調子でギルエンに、

『もっと、もっと』と、呼びかけていた。

 彼はその声に応える。自分の能力が、この炎を自在に操る力がどれほどのものなのか、試してみたかった。

 彼は火の手の薄い方向へ逃げる住人たちを追いかけた。自分が触れれば彼らを燃やすこともできるし、それに、と彼は鉈を構え直す。

 トラリスを殺した連中と同じ赤い血が流れるのを見るのは、炎の呼び声に応えるのとは違った快感だった。そして彼はその快感と、炎の呼び声に身を委ねた。

 あとは夢中だった。



 いつの間にか夜が明けていた。東から白々とした朝焼けが、空を照らし始めている。

 気がつくとギルエンは、変わり果てた集落の中に立っていた。

 血の匂いに気づいて両手を見ると、赤い血にまみれていた。それが乾き始め、ギルエンの肌にこびりついている。鉈を手にしたところまでは覚えているが、今握りしめているのは手斧だった。刃にもべったり血糊がついている。いつどこで取り替えたのか覚えていない。目の前に人が現れる度に力任せに振り下ろし、抵抗されれば火を放った。それだけは、覚えていると言うより、感覚が残っていた。どれほど振り回したのだろう。すでに両手には力が入らなくなっている。

 腕を下げて、辺りを見回した。

 黒煙は消え、灰と化した瓦礫から頼りない白煙が、空に向かって立ち上っている。燃えかすの匂いが血の匂いに混じって鼻に突く。

 瓦礫の間に点々と、黒い塊が落ちている。焼け死んだ人が倒れているのだ。ギルエンにはそれが、火の手に巻き込まれたのか自分が火を放ったのか、それとも赤い血を見るために自分が傷つけた誰かなのか判断できない。

 煮えたぎる血が身体中を巡るような感覚は薄くなっていた。けれど消えたわけじゃない。炎の呼び声もだ。集落を燃やし尽くして、炎が消えた今でも、耳の奥に遠くから囁くように聞こえる。

 ギルエンは一度、肩で息を吐いた。身体は疲れていたが、頭は未だ冴えている。

 彼は歩き出した。昨晩の出来事で、母親のことをすっかり忘れていたことに今さら思い至ったからだ。けれどここがどこなのか、変わり果てた集落の中で、彼は方向を見失う。

 彼はやっと、自分の家らしき場所にたどり着く。そこも焼け落ちていた。屋根が崩れて、灰になった柱が突き立っている。小屋がなくなってしまうと、自分の生活していた場所は本当に狭い敷地に過ぎなかったことがわかった。

 彼は母親の寝床のあった場所を探す。そこにも黒焦げの屋根が落ちていて、母親がどうなったのかはわからなかった。彼女は自分から逃げ出せるほど体調が良くないことを、ギルエンは知っていた。

 それを思っても、彼はなんとも思わなかった。母親の代わりに、姉を失ったことが彼の胸に蘇る。地面に倒れたトラリス。息をしていないトラリス。炎に包まれたトラリス。

 途端に胸が重くなった。その重さに、ギルエンは身体のすべてが押し潰されそうな気分だった。彼はその場に膝をつく。疲労がどっと彼を襲った。

 ふとみると、瓦礫の内側に見慣れた水瓶が見えた。それでギルエンは、やはりここが我が家だったと改めて知る。近づくと中にわずかだが灰の浮かんだ水が残っていた。ギルエンは灰を避けて水を飲み、残りで申し訳程度に顔と手を洗った。

 それが済むと、瓦礫の寄り添うようにして横たわり、そのまましばらく眠った。

 蝿の音で目が覚めると、既に太陽は頭上高くに輝いていた。空に雲はほとんどなく、晴天だ。気温が高い。ギルエンは身を起こす。空腹を感じて、食べるものを探した。近所の家を歩き、燃えかすの中から残っているものを探して食べた。ある程度空腹が満たされると、ギルエンはぼんやりとこれからのことを考える。

 まず初めに、トラリスが死んだことを彼女の婚約者に伝えなくては。

 隣の集落に向かって歩き出し、彼はしばらく行ったところで背後を振り返った。白くたなびく煙が消えていない。

「トラリス、おまえが」と、彼は呟く。

 頭の中に、昨夜トラリスが家から出て行くまでの生活が浮かんだ。

「俺を生かす、すべてだったのに。その能力があったのに、俺はおまえを守れなかった」

 目の前の燃え落ちた集落を束の間眺めてから、やがてギルエンは踵を返した。

 そのまま半日歩き続け、日が暮れる頃には彼は目指す場所に立っていた。そしてそこに行き交う住人を見た時、しばらく落ち着いていたギルエンの身体が、再び震えた。

(赤い血だ)

 と、彼は思う。目の前に赤い血の人間たちが、何食わぬ顔で歩いている。

 自分に嘘を吹き込み、能力の使い方を奪い、トラリスを殺した人間と同じ、赤い血の人間たちが。身体は疲れたままなのに、青い血潮が沸々と湧くのを感じる。耳の奥で『もっと、もっと』と呼びかける声が止まなかった。

 しかしそれに応えるのは今ではないと、ギルエンにはわかっていた。彼は高ぶる気持ちを抑えながら集落の中を歩き、トラリスの婚約者の家を尋ねた。貧しい集落しか知らないギルエンにとって、周囲を塀が囲み、母屋と離れがあり、奥の庭には家禽のたわむれるのが見える彼の家は、自分の小屋よりよほど立派な屋敷に見えた。

 後になって思い返せば、あれすらあばら屋に過ぎないけれど、その時ギルエンは、ここに暮らすはずだったトラリスを想像して、その時だけは血の滾りも炎の呼び声も忘れて胸が詰まった。

 婚約者は突然のギルエンの訪れに驚いた様子で、それでも義弟を迎えてくれた。

 彼のただならぬ様子に、婚約者は彼を湯浴みさせ着替えさせ、その後に十分な食事を出してくれた。遠慮なくもてなしを受けたギルエンは、人心地つくとトラリスの身に起こったことを話した。最初彼はそれを信じなかった。

「それで」

 と、彼は義弟に向かって怪訝そうに言った。

「なぜ、きみはひとりでここに」

「トラリスが死んだのは」

 と、ギルエンはさらに淡々と続けた。

「あんたのせいでもあると思って。だから償ってもらおうと。あんたたちすべての命を持ってしても、トラリスの命は贖えない」

 そう言って彼は、トラリスの婚約者の腕を掴んだ。炎の呼び声を待つまでもなかった。彼から火柱が吹き上がる。

 それから先は、昨夜と同じだ。

 二つの集落を焼き尽くしてもなお、ギルエンは自分の高ぶりを抑えることができなかった。場所はどこでも良かった。とにかく人が、赤い血の人間が暮らす場所。吹き上がる火柱と、悲鳴と怒号の聞こえる場所、自分がそれを感じられる場所。

 それを求めてギルエンは彷徨い歩いた。

 そして同時に、同族を捜すことを始めた。

 自分が劣っていると思いこんでいたのは、同族が身近にいないせいで、そして嘘を吹き込む赤い血の連中の中で育ったからだ。青い血は突然変異で生まれて来る。だから同族を集め、自分たちの能力がどれほど優れているか正しく知る集団を作ることを考えた。同族を集めるためにわざと行く先々で火を放った。そして青い血のギルエンを名乗った。

 彼はまだ十四歳だったが、すぐに名は知れ渡り恐れられた。すると彼に媚び、機嫌を取り結ぼうとする者も出てきた。それでギルエンはやはり、トラリスの言っていたことも、彼の育った村人が言っていたことも嘘だったと思い知った。

 もっと使うべきなのだ。この能力は。

 ギルエンはもう迷わなかった。誰かを傷つけることも、恐怖に震えさせることも。炎の熱さはギルエンを高揚させた。あの時トラリスと自分を傷つけた少年たちと同じように、心の赴くままに暮らせばいいのだ。自分にはその能力があり、それが許される。

 仲間が増え、そして集落とは違う景色の村や町や都市を知るにつれ、ギルエンは力任せだけではない知恵をつける必要があることも知った。彼の元に集まる蛇蝎族は、青い血が流れているのは共通していても、誰もが彼のように攻撃的な能力を持っているわけではなかった。むしろそれは千差万別で、彼は自分の身体を鍛え、より効率的に能力を振るい、そして仲間たちの能力を最大限に活かすことを手助けをしてやった。仲間たちは少しずつ彼のもとに集い、ギルエンの名前は恐怖と共に広がった。

 同じように青い血を持つ者の中には、ギルエンを快く思わない者もいると徐々にわかったが、逆らう者も現れなかったので放っておいた。

 けれど彼が予想しなかったことがある。

 それは赤い血の者たちから受け入れられている蛇蝎族がいるという事実だった。青い血を蔑まない人間がいることは、ギルエンの想像もつかなかったことだ。


 それで心臓を取られた。


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