<3> アメイユとティユーシャ

心臓を失くして間もなく、ギルエンは自分が蛇蝎族としての能力を失ったことに気がついた。自分の一部のように親しみを感じていた炎が、なにも囁きかけてこない。炎に近づいてももはや、かつてのように自在に、思いのままに操ることはできなかった。

 けれど彼はそれに怯えることも、落胆することもなかった。心臓を失ったあの時から、すべての感情を失くしたように、ギルエンの心は動かなくなっていた。

 揺らめく炎に合図してそれを渦巻く業火や火柱に変える時、そしてそれに飲まれる赤い血の人々の恐怖を見るとき、ギルエンの気分は高揚した。でも今はそれもない。すべてがどうでも良かった。

 彼はそれを誰にも告げずにイントラットへ引っ込んだ。彼の行動を不思議がる同族はいたし、暴動を起こす時、彼の言葉や行動を心待ちにする同族は少なくなかった。

 けれどその全てが、ギルエンにはどうでも良かった。

 イントラットを選んだのは、そこにアメイユがいたからだ。

 彼女は盲目で、皮膚の下に青い血が流れていて、そして見えない瞳で未来を見通す能力を持っていた。でも、それだけだ。

 彼女はとても無力で、彼女の能力のおかげで成り上がった地方の有力者に囲われていた。それを知ったギルエンは、数人の同族を引き連れて、彼女を奪った。彼女が同族だから同情心を起こしたと言うより、単純に彼女の能力が欲しかったのだ。

 彼女は日差しが降り注ぎ、水と緑に溢れた場所で暮らしたいと言った。それが彼女の気分を良くし、能力が発揮しやすくなるのなら、とギルエンは土地を探し、そしてイントラットを選んだのだ。

 彼女の夢見た景色の中に屋敷を与え、彼女の目の変わりとなるように、下働きの女を置いた。

 イントラットに彼らの力が及んだことはすぐに知れた。もともと五十年前の国境の内戦で打ち捨てられたような状態だった古い町は、やがて争いを好まない同族たちが少しずつ集まり、寄り集まって暮らす場所にもなった。それはギルエンの予想していたことではなかったけれど、能力を失ったギルエンにとっても、過ごしやすい場所であることは確かだった。

 今までのように自ら率先して暴動や殺戮に参加することはできない。彼の行動を、彼の支持を心待ちにする同族は少なくなかった。けれどギルエンはそれもどうでもよかった。

 ただひとつだけ、心臓を失った今もわずかな関心を惹かれることがあるとすれば、それは自分の心臓の行くだった。

 心臓を奪われても死ななかった自分と、心臓を奪われた瞬間に聞いた、あの言葉。

 彼女の言葉が未来を予言するというのなら、自分は心臓を取り返す機会があるのかも知れないのだ。

 そして、心臓を失ってから間もなく一年が経つ、あの日。

 窓が大きく天井の高い広々とした部屋での夕暮れ時、ギルエンは窓辺に座って酒を舐めていた。アメイユは同じ部屋にいたが、少し離れたところのクッションを敷き詰めた床に座っていた。家具は揃っていたけれど彼女はほとんど椅子に座らず、日中を過ごす部屋では床で膝を崩していた。

 その彼女が、不意に肩を震わせた。ギルエンはそれに気づいて、視線だけ彼女に向けた。

「どうした」と、訊ねる。

 彼女は身体は繊細で、些細なことでも体調を崩しやすい。見ると彼女は両手を床につき俯いて、小刻みに肩を震わせている。

 顔の半分は布で覆っているが、覗いている唇が血の気を失って白い。異変に気づいてギルエンは立ち上がり、彼女に近づくと傍らにしゃがんだ。彼女は彼の気配に気づいたが、顔を上げることはしない。

「どうした、寒いのか」

 ギルエンはもう一度訊ねた。そして下女を呼ぼうと部屋の扉に目を向ける。今は彼らしか、この部屋の中にはいない。彼女は俯いたまま、ゆっくりと両腕を持ち上げ、胸の前で手を組んだ。そして指を唇につける。

「ギルエン、どうか…」

 と、彼女は震える声で呟いた。

 彼は黙ったまま、目を細める。彼女の態度が体調の不良ではなく、なにか未来を視たことに気づいたからだ。

「何が視えた」

「ギルエン」

 彼女はそう言うと、祈るように組んだ手に力を込めた。

 彼は何も言わず、彼女の次の言葉を待った。しばらく沈黙が続く。アメイユは小刻みに肩を震わせている。更に長い沈黙が続いた。

 ギルエンは微かに笑うと、彼女の耳元に口を近づける。

「言え」

 ギルエンが囁く。アメイユが再び、肩を震わせてから項垂れた。そしてか細い声で呟く。

「間もなく子どもが生まれます。あなたの心臓を持った子どもが」

 ギルエンは彼女から離れた。興奮や感激はなかった。もちろん恐怖や悲しみも。

 彼は胸に手を当てる。そこに脈を感じないことにも、今では慣れきっていた。

「場所は」

 彼は短く訊ねる。

「…アトレイで」

「どこだ」

 彼女は弱弱しく首を振る。

「今は、そこまではまだ」

「じゃあ、近いうちに見えるな。また話せ」

 彼はそう言って話を終わらせようとする。けれど震えていたアメイユが、顔を上げると「お願いです、ギルエン」

 と、今までとは打って変わった激しい調子で言った。

 ギルエンは小さく溜め息を吐く。そして彼女には見えないが、肩を竦めた。

「どうしておまえが気に病む。今までのことも、これからも、おまえには何の罪もない。手を下したのは俺だ。それに今度のことは奪われた心臓を取り戻すだけだ。もともと俺のものを取り返すのに、なにを躊躇うことがある?」

「相手は子どもです」

「それがどうした。これが初めてじゃない」

「ですが…」

 アメイユが掠れる声で言った。彼女は顔を反らし、再び項垂れる。

「私はあなたの、幸福を願っています。ギルエン」

「出すぎたことだ」

 ギルエンは言ったが、その口調は穏やかで、怒りも責める調子もなかった。

「おまえはそんなことを言うためにここにいるんじゃない。そうだろ」

 その言葉に、アメイユは黙った。ギルエンにはどんな言葉も届かない。

 盲いた瞳に、彼女はアトレイに生まれる赤ん坊を見た。子どもは男児で、赤い血だ。けれどはっきりと、ギルエンの心臓を持っている。それが彼女にはわかった。

 ギルエンが動いたのはその三年後だ。

 アトレイのローレウォール家のことも、跡継ぎの三歳の誕生会が盛大に行われることも、既に彼女にはわかっていた。そしてギルエンに促されると、彼に黙っていることはできなかった。それにこの三年の間、彼女はギルエンが自分の心臓を諦めるだろうと考えたことは一度もなかった。

 それで彼女は、言葉を紡ぐたびに、覚悟を決めた。

 自分のせいでギルエンがまたひとつ、幼い命を奪うだろうと。

 美しい刺繍のベールの裏側に、彼女は炎に包まれる邸宅を見た。それは彼女の知らない場所だったけれど、それがアトレイのどこかだと、子どもの家だとはっきりとわかった。そしてこれは、遠くない未来の光景なのだ。

 ギルエンが自らの心臓を取り返した先のことは、彼女にはまだ視えなかった。けれどおそらく彼は以前のような能力を取り戻すだろう。そして再び、彼の集めた蛇蝎族の頭領として君臨するだろう。同族による破壊と殺戮を、牽引するために。

 そしてこの四年、ギルエンが常に傍らにいた四年の日々は終わるのだ。

 そう思っていた。間違いないと。今までも数え切れないほど自分が見た未来が、そして自分の予想通りの結果がそこにあるのだと。

 けれどそれは、違っていた。



 ギルエンが子ども誕生会に日を定めたことに、深い意味があるわけではなかった。

 正面から堂々と乗り込んで屋敷に火を放ち、子どもを攫うこともできただろう。けれど場所は王都アトレイの貴族の屋敷の立ち並ぶ地域だ。

 屋敷に入り込むのはティユーシャに頼んだ。

 彼女はひとつの場所から別の場所へと、何かを移すことができる。彼女は出会った頃から今までずっと、ギルエンに心酔していた。彼女が傍にいれば、炎を操る力を失ったことも大きな不便ではなかった。彼女の描いた独特の図形で、炎さえ動かすこともできるのだから。

 ギルエンは身なりを整え、出入り商人に見えるような服装で、彼は使用人用の入り口に回る。そこは人の出入りも慌しく、堂々とした彼を見咎める者もいなかった。こうしたつまらない手口で屋敷の者を出し抜くのも、以前なら楽しかった。でも、今は何も感じない。けれど心臓は取り返したい気持ちはあった。

 ギルエンはあっけなくローレウォール家の屋敷に入り込んだ。外から眺めた会場となっている広間には、群集の動きがあった。きっとあの中心に誕生日の祝福を受ける子どもがいるに違いない。そう気づいて彼は待った。小一時間ほど経つと、群集の動きが変わった。ギルエンは周囲に目を向けて、壁際を移動する。そして廊下へ出た。

 視線の先に乳母に手を引かれた子どもが、更に回りに二三人の召使を従えて、歩いて行く姿が見えた。子どもは正装していた。きっとあの子だ。どの部屋に入ったのかを見届けてから、ギルエンはその場を離れた。この部屋の近くに炎を立ち上らせて、乳母に手を引かれた子どもが間違って炎に巻き込まれるようなことがあってはならない。予め目をつけておいた納屋と、屋敷の端の部屋。彼はそこに戻ると、ティユーシャが図形を描いた紙切れを取り出した。落とすようにそこへ置く。まもなく紙が燃え上がり、藁やカーテンに火が移る。それがみるみる燃え上がった。

 彼はひとり悠々と子どものいる部屋へ戻る。しばらくすると二箇所から上がる理由のない火の手のことが伝わり、屋敷中がざわめくのがわかった。間もなく扉を開いた。乳母に手を引かれた子どもがギルエンの前に現れる。先程と同じ装いで、緊張した面持ちの乳母を見上げていた。

 その時ギルエンは初めて、自分の心臓を持つという子どもを真正面から見た。

 そして気づく。妙だ。子ども顔色も、袖口から覗く手の色も、蛇蝎族特有の皮膚の下に青い血を持つ者の色ではなかった。三歳になったはずの男児の頬は薔薇色で、血色良くつややかだった。子どもの皮膚の下には間違いなく赤い血が流れている。ギルエンが嫌悪し、侮蔑している赤い血が。

 ギルエンの視線に気づくと子どもは彼を見た。零れそうなほどに大きな榛色の目が彼を捉える。大人たちの中にいることに慣れているせいか、子どもの動きはそれだけだった。

 乳母はギルエンには目もくれず子どもを連れて廊下を進もうとした。ギルエンはその前に静かに立ちふさがる。見慣れない顔に、乳母が怪訝な顔をして彼を見上げた。

「その子どもが」

 と、ギルエンは彼女を見下ろして訊ねる。

「この屋敷の息子か?」

「誰です?」

 眉を顰めたまま、彼女は訊き返す。

「蛇蝎を滅ぼすと予言された、運命の子どもか?」ギルエンは構わずに重ねて訊ねた。乳母の顔色が変わる。それを見たギルエンは、彼女に構わず子どもの方へ屈んだ。子どもが顔を上げる。目と同じ色の柔らかい髪が揺れた。

「名前は?」

 ギルエンが静かに訊ねると、

「タセット」

 子どもははにかんだように笑いながら、舌足らずな口調で答えた。

 ギルエンは小さく笑い返した。そして彼の頭を撫でようと、彼の髪に触れる。

 その瞬間、鼓動が聞こえた。ギルエンは目を瞠る。そして思わず子どもから手を離した。そして突っ立ったままの乳母を振り向き、片手を広げた。 

「俺が連れて行く」

「なにを…」

 訝しげな彼女の表情は、その一言で怯えた表情に変わった。

「その子を」

 ギルエンは静かに促した。

 その時、彼が背を向けた方から数人の男たちが姿を現した。乳母が彼らを見て少し安堵したような表情を浮かべる。ギルエンも振り向いた。使用人だろうか。

「タセット様は無事か」「火事だ、早く外へ」

「ああ、もう」

 ギルエンは思わず小さく笑った。穏便に済ませようとしていたのに。

 ギルエンは子どもの両目を片手で覆った。子どもが困ったように身じろぎする。まただ、と彼は感じる。鼓動が聞こえた。そして体中に自分の血が巡るのを感じる。それは久しぶりの感覚だった。そう、四年ぶりだ。

 彼は空いている手で乳母の腕を掴んだ。そしてぎゅっと力を込める。とたんに彼女の手から燃え上がる。腕から迸る能力と、燃え上がる女を見たとき、ギルエンは久々にあの爽快感を味わった。口角が勝手に上がる。

 彼女の口は悲鳴の形に変わっただけで、声はなかった。両手の力が緩んだので、ギルエンは彼女から子ども取り上げ、乳母が見えないようすぐに彼の顔を自分の肩へ押し付けた。

 鼓動が聞こえる。子どもに触れた瞬間、すぐ傍で鼓動が。けれどそれは自分の胸からではない。どこか遠く、耳の内側で一定の脈打つ音が鳴り響く。

 彼は乳母の方へ振り向いた。炎に向かって手を伸ばすと、今度は彼女自身から火柱が吹き上がって倒れた。

 異変に気づいた男たちがどよめく中で、ギルエンはその場を離れる。

 抱えた子どもを見た。子ども泣きも喚きもせずに、ギルエンを見上げた。辺りを見回そうと身体を動かそうとする子どもの頭を、軽く撫でて、彼は再び自分の胸に押しつける。子どもはしばらく身じろぎしていたが決して騒いだりせず、そのうちギルエンの肩に頭を乗せると眠ってしまった。

 ギルエンは自分の心臓を持つ子どもをその場ですぐに殺さなかった。どうしてなのかは自分でもわからない。理由があるとすればただひとつ、彼が傍にいる時、ギルエンは自分の心臓がそこにあるのを感じたからだ。

 胸の中にあった時は、なにも感じなかったのに。

 子どもに触れた時、彼はその子どもの中に、自分の心臓が脈打つのを感じた。子どもを殺して心臓を奪えば、その心臓は自分のもとへ戻ってくる。おそらくそういうことなのだと、ギルエンにはわかっていた。

 けれど、脈打つ心臓を感じた時、彼の気が変わった。

 ギルエンの腕の中で、子どもが泣き喚いたりすることもなかった。それもあったのかもしれない。

 彼は子ども連れたまま、転移の能力を持つティユーシャに会いに行った。そして自分の故郷に程近い、多島海域にある島へ子どもと共に向かった。そこは彼がひとりで静かに時間を過ごす場所で、ティユーシャ以外の誰にも知られていなかった。

 彼は子どもしばらくその島で生かすことに決めた。無力な子どもだ。元通りに気が変われば、心臓を取り戻すことはいつだって容易い。だから気まぐれに、彼はそうすることにしたのだ。

 名前は聞いたはずだが思い出せなかった。それで勝手につけた。ここを訪れる者は誰もいない。だから好きに呼んでよかった。それでつい、呼んでしまった。本当は自分が誰かを、その名前を声に出して呼びたかったのかもしれない。

 トラリス、と。



 タセットは数日も経たずにトラリスになった。

 彼は島での暮らしに必要なものを揃え、トラリスとの生活を始めた。

 ギルエンが自分の変化に気づくのに時間は掛からなかった。幼いトラリスの中に自分の心臓を感じた。心臓が自分の胸の中になくても、だ。それを感じている時、あの懐かしかった炎の囁きが彼に聞こえた。そして、自分に感情が甦るのを感じた。

 幼いトラリスの身体に赤い血が流れていることは、もうギルエンを苛立たせなかった。彼は蛇蝎族ではなく、なんの能力もないただの男児に過ぎなかった。島での生活で切り傷や擦り傷を作ることがしばしばあったが、それはただ、ギルエンのささやかな心配の種になっただけだ。薬を作り手当てをし、トラリスが少し大きくなってからは、作り方も手当ての仕方も彼に教えた。

 そう、小さなトラリスと過ごす数日が数ヶ月になり、数ヶ月が一年になっても、ギルエンはトラリスを殺さなかった。殺さなかったのではなく、殺せなかったのだということは、ただひとりギルエンだけが知っていた。

 そして何年も過ぎた。

 あの頭上に太陽の輝く島を思い出す。

 足下には幼いトラリスが声を上げて笑っている。この小さな少年は、自分を滅ぼすと予言された少年だった。

 スコールの時はふたりでびしょ濡れになった。枝や蔓に実る果実を見つけると、トラリスを肩車してやった。トラリスは器用に木に登り、実をもいでギルエンに寄越した。木登りは小さくて身軽なトラリスの方が上手かった。木陰の下にねそべって、ふたりでそれを食べた。手や口のまわりが汚れると、川や泉に入って洗い流した。水泳は凪いだ海でギルエンが教えた。船の漕ぎ出し方、釣りのための竿や仕掛け、餌の付け方、竿の落とし方、ナイフの研ぎ方振るい方、ギルエンは持てるすべてをトラリスに伝えたかった。

 この子どもが本当に自分を滅ぼすのならば、もっと違うことを教えるべきなのかもしれない、とギルエンは何度か考えたことがある。でもそれを、ギルエンはしたくなかった。

 かつて姉のトラリスがギルエンにしてくれたように、小さなトラリスにもそれと同じようにしたかった。

 あの嵐の日、トラリスをひとり置き去りにするようなことをしなければ。

 あの誰もいない小さな島でずっとふたりで暮らせていたら。

 嵐が来ることはわかっていた。それは島に毎年何度か起こる天候だった。だから雨や風への備えを要することではあっても、大騒ぎするようなことではなかった。

 島を離れることにしたのは、自分たちで調達する以外の食料や燃料のような日用品が少なくなっていたことと、もうひとつ、ティユーシャに強く戻ってくるように言われていたからだ。

 後になって考えれば、あれは謀ごとだった。その日にあわせて少しずつ、彼女たちは彼の指示に従ったふりをして、機運を窺っていたのだ。

 トラリスは十一歳になっていて、ひとりでも嵐をやり過ごせるだろうと思っていた。けれど彼が心細く感じていることもわかっていたので、すぐに戻るつもりだったのだ。本当に数時間のうちに。

 ティユーシャのもとへ戻り、既に揃えさせていた荷物を取ると、彼はすぐに島へ帰ろうとした。けれど彼女がそれに首を横へ振ったのだ。

 島を襲う嵐のせいで、転移の能力が上手く定まらない、このままでは確実にあなたを島の断崖の裂け目に戻すことはできないかも知れないと。嵐が去るまで待って欲しいと。

 その言葉のせいでギルエンは待った。ティユーシャはいつでも彼に対して従順だったから、残してきたトラリスのことを考えて焦れる気持ちはあっても、彼女を疑ったりはしなかった。

 けれどその数時間で、すべてが変わってしまった。

 断崖の裂け目から、見慣れた島へ戻った時、既に暴風雨の盛りは過ぎていた。弱い雨の中に身体を晒し、ギルエンは慣れた道を辿る。いくらも経たないうちに、ギルエンは胸騒ぎを覚えた。その感覚に彼は思わず胸を押さえる。自分の心臓はここにはないはずなのに、なにかが妙だ。変わっている気がする。見慣れた島の景色が、そんなはずがないのに、変わっている。

 ギルエンは雨の中を急いだ。終いには駆け出していた。

 早くいつものあばら家に戻って、そこで自分を待って仏頂面をしているトラリスの姿を見て安心したかった。けれど妙だ。いつもと何かが違う。それは嵐が島の景色を変えたせいじゃない。

 彼は心臓を持っていない。そのせいでかつてのように、早い動悸を聞くこともなかった。けれど体中の血が逆流するよう感覚がする。顔を打つ前に混じって、汗が滲むのを感じた。

 木々の様子がおかしい。風雨のせいだけではない。

 人の、それも大勢の踏み入った気配が残っている。

 住処にしている粗末な小屋が見えてきた。ギルエンは斜面を駆け上がる。

「トラリス!」

 叫びながら戸を開けた。中は闇だった。そして彼の予想通り、応える声はどこにもない。

「トラリス、トラリス」

 小屋の中には隙間風の音と、薄い屋根を雨の叩く音だけが響いている。明りをつけなくてもわかった。ここにはトラリスはいない。それでもギルエンは使い慣れた蝋燭に火を灯す。無人だ。

 彼は雨の中を外へ飛び出した。そして島中を隈なく探した。心のどこかで、トラリスはもういないと、この島のどこにもいないとわかっていた。けれどいてもたってもいられず、それ以外にどうすることもできなかったのだ。

 浜辺にもいった。よく遊んだ浅瀬にも。森林の中にも、岩場にも。ふたりで遊ぶ場所にはくまなく探した。

 その間に雨と風は止み、白々と夜が明け始めた。

 トラリスの名前を呼びながら、何度も何度も同じところ歩き回り、彼は太陽が島を明るい日差しで照らし始めた頃、再び高台の小屋へ戻った。

 嵐が過ぎ去ったおかげで雲はなく、快晴だった。頭上を仰ぐと、青が濃く黒く見えるような空に、白い太陽が朝の光を放っている。

 ああ、と、ギルエンは再び小屋の戸を開けた。明りがなくても、差し込む日差しのおかげで無人の室内が見える。

 部屋の中を見回して、ギルエンはとうとうその場に、力なく膝をついた。

 何もかも残っている。荒らされた気配も、誰かが争った気配もない。自分以外の他人を知らないトラリスを連れ去るのは、容易かっただろう、と想像できた。

 簡素な家財道具も、鍋や釜も、刃物も。

 そしてギルエンは部屋の隅、毛布の下に押しやられているものに気づいて手を伸ばした。

 それは白い鞘に収まった短刀だ。去年トラリスが十歳になった時、ギルエンが彼に与えたものだった。装飾の少ない、美しい曲線を描いた短刀。トラリスにぴったりだと思ったので、一人前とまでは行かなくても、島での暮らしでは半人前に足りる働きができるようになっていたトラリスのために、その証しとして贈ったのだ。

 そしてトラリスがこの短刀を、他の何よりも大切にしていたことを、ギルエンは知っていた。

 今はそれすら置き去りで、これの持ち主であるトラリスの姿はない。

 何もかも残っている。ギルエンがここに持ち運んだものはなにひとつ失われていない。

 いなくなったのは本当に、トラリスだけだった。

 短刀と握り締めて、ギルエンはひとり俯いた。

 あんな名前で付けるのではなかった。それがどんなに大切でも、あれは失われた人の名だったのに。

 虚ろな頭でギルエンは考える。

 そう、彼は今再び、心臓とトラリスのふたつを同時に失ったのだ。



 トラリスを失った今、ギルエンがあの島に留まる理由はなかった。彼は何もかも置き去りに、トラリスの残した短刀以外は全てを残して、島を離れイントラットへ戻った。アメイユのもとを訪れ、トラリスの行方を訊ねた。視るのには時間が掛かったが、彼女は航海を終えて、トラリスは無事にアトレイに戻るだろうと言った。トラリスを連れ去った侵入者は、アトレイの彼の生家の差し金だった。

 それを聞いたとき、ギルエンは思わず言った。

「安心したか、アメイユ」と。

 彼女の肩がかすかに震える。

「おまえの望みどおりになった」

「なにをです」

「子どもは死ななかったな」

 彼女はそれきり黙った。

 それより後にティユーシャに会った。彼女のどこか怯えたような、けれどそれを必死に隠そうとするような態度に気づいて、ギルエンは理解したのだ。

 ああ、これは彼女たちの謀だったのだと。

 ティユーシャとアメイユは仲が悪かった。とは言っても、ティユーシャの方が一方的にアメイユを毛嫌いしていたのだ。理由はおそらく、自分がより多くの時間をアメイユのもとで過ごしていたからだろう。

 一方で、転移の能力を持つティユーシャも手放せなかった。けれど始終顔を突き合わせていなくてはならない間柄ではないし、それほど気にすることではないと思っていた。

 自分が気まぐれなことも暴力的なことも、誰よりも受け入れていて、そして何も出来ない女たちだと思っていた。

 二人が手を組んだのは、予想外で、油断したことは事実だった。

 それに気づいても腹は立たなかった。トラリスが無事だとさえわかれば、彼女のたちのことなどどうでも良かった。

 心臓を失ってから、幼いトラリスに出会うまでの日々のように再び、彼の心はさざ波ほども揺れ動かず、すべてがどうでも良くなっていた。

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