<4> アルゲイ
アルゲイに出会ったのはその頃だ。
再び仲間の前に姿を現した彼は、かつてのような蛇蝎の影響力を取り戻す足がかりになると期待されて、迎えられた。
ギルエン自身は既にどうでも良かったが、彼を求める声を強く拒絶する気にもならなかった。彼は自分が既に能力を失って久しいことを打ち明けたが、それでも未だギルエンを慕うものたちは少なくなかった。それに、未来を見通すアメイユが相変わらず彼の傍にいたことも大きかったのかも知れない。
トラリスを失って半年ほど経った頃、ギルエンはアトレイからもイントラットからも離れた、乾燥地帯のクルエルダの町を訪れていた。
そこは水を操る同族の支配する地域で、ギルエンの呼びかけに応えて集まった仲間のひとりだった。そこに数人の同族が暮らし、彼を招いたのだ。クルエルダに君臨する蛇蝎族は、能力を失ったギルエンを再び祭り上げるために招いたというよりも、むしろ彼の無力を確認するために呼びつけたようだった。
ギルエンにはそれがわかったし、同行したティユーシャもそれに気づいて腹を立てていたが、当のギルエンはやはり何も感じなかった。
乞われるままにひと月ほど滞在し、町を眺め同族の支配のやり方を改めて知った頃、クルエルダの町の無人のように人気のない路地で、彼の前に突然子どもが立ちはだかった。
ギルエンはよく町中に現れて、それがかつて蛇蝎の頭領を名乗っていたギルエンだとは知られていなかったけれど、蛇蝎族だとは周知の事実だった。彼が歩くところ、町は無人のように人影が消えた。その光景はギルエンを少しだけ楽しませた。腕に多少の心得はあっても、今の自分、能力を失った自分は、赤い血の人間とさして変わるとろこもない。にも関わらず、同族のせいで恐れられている。
そんな彼の前に、小柄な子どもが姿を現したのだ。
「ギルエンだろ」
彼は強い口調で言った。
ギルエンは立ち止まる。脇を歩いていたティユーシャもだ。ふたりは目の前の子どもを眺めた。ひどく痩せて顔色の悪い、十代の初めくらいの少年だ。
町中でこんな風に、見知らぬ誰かに呼ばれることは久しく無かった。八年間は島に暮らしていたし、その前は軽々しく自分の名を口にするものは殺される、という噂が蛇蝎族の行く先々で広まっていた。
その噂を流したのはギルエンで、彼はそれを自分の力を振るう口実にしたのだ。噂が事実であると示すために、彼自身や仲間の手を借りて、目に付いた各地で火柱を上げ、赤い血を見るために殺戮を行った。
あの頃はそれが言葉にできないほどの快感だった。今はそれもない。
けれど、それ以来限られた近しい仲間以外は、誰も自分の名を口にしない。
それがこんな町中で、子どもの口から発せられたのだ。自分の影響力が薄れたのだと、彼は感じた。でもそれも当然だ。この世界に関心がなくなってから、十年余りが過ぎている。
「そうだ」
と、ギルエンは少年に向かって頷いた。
彼の身体つきは貧相で身なりは見搾らしかった。いかにも路上に暮らす子どもの姿だ。クルエルダにはそういう生活を強いられる子どもたちがいる。
少年はギルエンに向かって、更に一歩近づいた。痩せた頬の上で、いやに大きな目が力強く燃えている。その熱い視線でギルエンを見上げ、彼は続けた。傍らにいたティユーシャが、警戒してわずかに動く。その前に、少年は言った。
「俺を仲間にしてくれ。俺は青い血なんだ」
ギルエンは思わず片眉を上げた。それからティユーシャを見る。彼女は目を細め、
「…言われてみれば」と、呟いた。
「本当だ。信じられないなら、どこか切っても良い」
彼はギルエンにしがみつかんばかりの勢いでそう言った。彼は少年の肩を静かに叩くと、
「顔を」
と、言って彼の顎に腕を伸ばした。
片手で痩せて薄汚れた頬を掴み、乱暴ではない程度に右と左に傾ける。青い血は赤い血とは血色が違うので、見ればすぐにわかるはずだが、少年の顔が垢じみて汚れているせいで、彼にもよくわからなかった。
「能力は」
と、手を離しながら彼は訊ねる。
少年ははっとしたように肩を震わせ、身体を強張らせた。そして俯く。
「ないんだ」
ギルエンは眉を顰め、
「そんなはずは」
と、思わず言った。
蛇蝎族と呼ばれる青い血を持った人間は、能力は差異はあれど、なにかしら赤い血の人間にはない能力を携えている。
少年は両の拳を握り締め、自分を奮い立たせるように頭を振ると、再びギルエンを見上げた。
「だから、俺を仲間にしてくれ。きっと俺にもなにかできることがあるはずなんだ。赤い血の奴らとは違う、能力が」
少年の目は相変わらず燃えるように力強い。ギルエンはその目を見返して、小さく笑うと肩で息を吐いた。
「ここはムエルタの土地だ。まずはムエルタに掛け合った方が良い」
言い終えないうちに、少年が強く何度も首を振った。
「だめだった。全然相手にされなかった。何度も言ったけど、能力のない俺は仲間とは認められないって」
ギルエンはその言葉に、ティユーシャに目をやり、それから自分たちが数時間前に出てきた彼の居城の方を眺めた。そして最後に、少年に目を戻す。
「なら、家族のところへ帰るんだな。ムエルタに殺されなかっただけ、運が良い」
「そんなの、いない」
暗い調子で少年が俯く。手入れされていない髪が、ギルエンの目に映る。
「おまえの行きたがってるところは、おまえの想像しているような場所じゃない。青い血を持つ者は不吉で、蛇蝎族と呼ばれてるだけで、単なる寄せ集めだ。同族意識があるわけじゃない。もう知ってるみたいだが」
「それでも」
と、ギルエンの言葉に、少年は顔を上げる。
「ここにいるよりましだ。俺は青い血で、あいつらよりも優れてるはずなんだ。このままここにいたって、何も変わらない」
「今までどこに」
少年の身なりからおおよそ想像はつくが、ギルエンは訊ねた。けれど少年は、
「あそこには戻りたくない」
と、暗い顔をして見当はずれなことを答えて、それきり口を噤んだ。ギルエンは肩を竦め、少し身を屈めて彼の目線に近づく。
「いいか、良く聞け。俺のことを知ってるんだな」
「知ってるよ。ギルエンだろ。蛇蝎の頭領だったけど、この数年は暴れてない」
「まあ、その通りだ」
と、ギルエンは唇の端で笑う。そして続けた。
「暴れてないのには理由がある。俺は既に能力を失ってるんだ。十年も前に。おまえが期待しているようなものは、なにも持ってない」
そう告げると、少年が驚いたように目を瞠る。それから、
「そんな…」
と、呟いて息を飲んだ。
ギルエンは背筋を伸ばして、再び彼を見下ろした。だから、諦めろというつもりだった。この少年が蛇蝎であれなんであれ、そろそろ切り上げたかった。けれど少年は顔を上げ、
「じゃあ、俺と一緒だ」と、どこか弾んだ調子で言った。
ギルエンは呆気にとられて彼を見る。少年は期待に満ちた目を彼に向け、
「あんたが能力をなくしたと言うなら、俺もまだないだけで、本当はあるのかも知れない。お願いだ、俺を仲間にしてくれ」
そう言った。それを聞いた瞬間、ギルエンは小さく吹き出した。ティユーシャが意外そうな眼差しを彼に向ける。
その頃にはすっかり気が変わっていた。ギルエンは目の前の少年に訊ねる。
「赤い血が嫌いか」
「大嫌いだ」
燃える目つきで彼は即答した。
「名前は」
「アルゲイ」
「なら、来い。ここじゃない。行き先はイントラットだ」
ティユーシャは不機嫌そうな視線を彼に向けたが、止めはしなかった。自分が何を言っても、ギルエンは彼のしたいようにすることを知っていたからだ。
ギルエンはアルゲイをつれ、その足でイントラットへ、アメイユのところへ戻った。
食事と寝床を与え、時間をかけて彼の能力を探った。
その身に青い血が流れていると言っても、その能力は本当に様々で、雲泥の差がある。だからギルエンはひょっとして、アルゲイが彼の言うとおり、本当に蛇蝎族でありながら、なんの能力も持たないのかも知れないとも考えた。
けれど彼の予測は外れた。
アメイユに彼を見せると、彼女は彼の能力こそ言い当てあられなかったが、彼が蛇蝎族で、能力を持っていることだけは視ることが出来たからだ。
アルゲイは十五歳で、貧弱な容姿からもっと幼いと考えていたギルエンには意外だった。
能力を探る以外にも、ギルエンは彼に世界のことを教え、生活の仕方を教え、身体の動かし方を教えた。アルゲイには教養と呼べるようなものがほとんどなく、粗野で乱暴だったからだ。能力を見つけても闇雲にそれを振るうだけでは、たとえ赤い血の人間を支配できたとしても長くは続かないと、ギルエンにはわかっていた。
そしてアルゲイは素直に、聞き分けよく彼に従った。最も、ティユーシャやアメイユのような、彼以外の蛇蝎とはそれほど打ち解けなかったけれど。
そしてイントラットで生活し始めてまもなく、アルゲイはギルエンの助けを借りて自身の能力を探り当てた。
雷雲を操り、雷を自在に落とせることを発見したのだ。
なんのことはない、雨が少なく、雨雲の集うことが稀なクルエルダでは、彼が自分の能力に気づかないのも仕方ないことだった。操ることができると言っても範囲は限られるし、クルエルダではその多くを天候に左右される。その上、クルエルダの生命線は地下水脈で、今はそれムエルタが操作して、彼の地を支配しているのだから。
それに能力が判明した後でも、アルゲイの能力は自分とはずいぶん違う、とギルエンは感じた。
かつての彼にとって炎は、自分の一部のようだった。常に自分と共にあり、手足と同じように寄り添っている気がしていた。けれどアルゲイはそうではなかった。雷雲と彼の間には近しさと隔たりが交互にあるのだ。
それでも自分の能力を知ったとき、アルゲイはこれ以上ないほど喜んだ。ギルエンはそのまま頭がおかしくなるのではないかと感じたほどだ。
「これで」
と、イントラットからわずかに離れた水晶平原に立ち、地面に刻まれた葉脈のような雷の痕を見ながら、アルゲイは笑っていた。
「これで奴らに復讐できる。俺は青い血で、赤い血の劣った人間なんかじゃない。俺は優れた、蛇蝎族なんだ」
そう言って彼は高笑いを続けた。そしてその後もしばらく、イントラットで自分の能力をより自在に操るための修練を続けた。
自分の能力に目覚めた後も、アルゲイはそれまでと変わらずギルエンを慕っていて、彼と共に過ごしているとギルエンは時折、失った自分の心臓を思い出すことがあった。
輝く太陽と、緑の滴る景色の中で、彼もギルエンを見ると嬉しそうに笑った。
ギルエンは心臓を持っていないので、思い出してもなにも感じない。けれどそれを頻繁に思い出すことは不快でしかなく、そんな時ギルエンはできるだけ目の前のアルゲイに注意を向けて、甦った自分の記憶を追い払おうとした。
一年が過ぎる頃、衣食も満ち足り、自分の能力を身につけて自信をつけたアルゲイは、その過程を知るギルエンですら見違えるように成長していた。体つきが整い、風格すら漂っている。口の悪さは相変わらずだが、それも似合っていた。彼がイントラットに留まる理由はもはやなにもなかった。自分の能力を存分に振るい、自分の望むことは何でも実行できる。かつてのギルエンのように。
次の一年、ギルエンは彼を連れて各地の同族のいる場所を回った。そして同族がどんな風に能力を使い、どんな風にその地域を支配しているのかを学ばせた。アルゲイは何度かわざと騒ぎを起こし、強奪や殺戮にも率先して加わった。
その最初から彼はとても楽しそうで、いくらも経たないうちにアルゲイは自分から雷雲を呼び集め、そして無造作に人めがけて落とすようになった。命中率はそれほど高くなかったけれど、人々を怯えさせるには十分で、それを嫌がる同族すらいたほどだ。
彼と過ごして三年目、アルゲイは自分から、いつまでもギルエンのもとで手ほどきを受けるのではなく、自分の能力を試したい、と言い出した。
そして彼は年間を通して降雨量が多く、雨雲の発達しやすい地域をいくつか選び、今やそこを自分の手中に収めようと準備を始めていた。必ずしもアルゲイと親しくはなくとも、殺戮や暴動になら手を貸すと言う同族は何人もいた。
ギルエンの元に集った同族は皆、かつてのギルエンのように、自分の能力を振るって赤い血の人間を苦しめるのが好きだった。
自分の手を離れ始めた彼を、ギルエンは黙って見ていたが、ある時、部屋にふたりになった時、アルゲイが座っている彼に近づいてきて言った。
「ギルエン、前から聞きたかったことがあるんだ」
ギルエンは彼に顔だけ向けた。アルゲイはいつもより神妙な顔をしている。顔つきも、体格も、この二年でずいぶんと逞しくなっている。最初に会った時の貧弱な子どもの面影は、もうほとんど残っていない。
「本当に能力がないのか。使わないだけじゃなく」
「そうだ」
ギルエンは頷いた。
「それが、心臓を奪られたからだというのは、本当か」
「ああ」
と、ギルエンは頷く。
アルゲイは顔を顰めた。そして一歩近づき身を屈めると、彼の顔を覗き込むようにする。
「なあ、それは悪い冗談だろ? 同族が頭領であるあんたを妬んで流した悪い噂だろ? 能力を使わないのは、なにか理由があるんだろ」
ギルエンはかすかに笑った。そして首を振る。
「誰に何を吹き込まれたか知らないが、本当のことだ」
「信じられない」
「触ってみるか」
ギルエンがアルゲイに向かって胸を示すようにその場で軽く腕を開くと、アルゲイは再び顔を顰めた。けれどそれは不快さではなく、困惑したようだった。彼は束の間迷ってから、ギルエンの方へ身を乗り出すと腕を伸ばした。
それがいかにもおそるおそるといった動きで、ギルエンはまた唇の端だけで笑った。最近とみに生意気に、そして態度が大きくなったアルゲイには似つかわしくない動きだった。
アルゲイの掌が、ギルエンの胸に触れる。そして心臓の音を探すように、胸の上で動いた。次第に、彼の表情が強張る。
「本当にないのか」
「何度も言わせるな」
ギルエンが彼に向かって笑うと、アルゲイは強張った表情のまま彼から離れた。
「心臓がないのに」
彼はたった今ギルエンに触れた手を拳にして握り、彼に訊ねる。
「どうして生きてられる」
「さあ」
と、ギルエンは首を傾げた。
「俺にもわからない。ただ、俺の心臓を奪ったのは同族だ。蛇蝎の年寄りの女だった。その時、能力も一緒になくなった」
「同族? 同族がどうしてギルエンに」
「俺を気に入らない奴だっている。みんながみんな、おまえみたいなわけじゃない」
「奪われた心臓は、どうなったんだ」
「今は別の奴が持ってる」
ギルエンは何気なく言ったが、アルゲイは飛び上がらんばかりの勢いで目を見開いた。
「なんだよ、それ。誰が持ってるんだ」
「おまえの知らない奴だ」と、言いながらギルエンは笑う。
「取り返さないのか」
「そんなに簡単じゃない」
「なら」
と、アルゲイはやや興奮した面持ちで、ギルエンの前に進み出た。
「俺が取り返してきてやるよ」
今度こそギルエンは声を上げて笑った。その様子にアルゲイは一瞬呆気に取られ、それからすぐ憮然となる。
「どうやって」
肩を震わせながらギルエンは訊ねた。渋々と言った様子で、それでも彼が口を開く。
「持ってる奴から奪い返せばいいんだろ。どうにでもできる。能力を使わなくたって、できるくらいだ」
ギルエンは肩で大きく息を吐いてから、目を反らしているアルゲイを見て、
「わかった、話してやる」
と、言って続けた。
「俺の心臓を持ってる奴は、俺の心臓で生きてる。取り返したかったら殺すしかない」
「簡単なことじゃないか」
「そうかな」
「ギルエンができないというなら、俺が変わりにやってやるよ」
「おまえがそいつを殺せば、俺も死ぬんだ。やったことはないから、おそらくだけどな。アメイユはそう視てる。それは取り戻したわけじゃなく、奪われたことにしかならない」
アルゲイが彼に目を向けた。
「じゃあ、どうすれば…」
「俺自身が、そいつを殺して心臓を奪うしかないだろうな」
「どうしてやらないんだ」
「やらなくてもこうして生きてる」
「でも、それじゃあ、蛇蝎族としての能力を失ったままだ」
「仕方ない」
「諦めるのか。このまま、蛇蝎としての能力を失ったまま、赤い血の人間たちと変わらない生活で良いのか。能力を取り戻して、前みたいに赤い血を流させたいと思わないのか」
「今はその能力もないし、興味もない」
「赤い血の奴らが嫌いだろう? ギルエンだって、憎んでるんだろ?」
アルゲイが彼を見つめる。ギルエンは真顔に戻って、その視線を受け止めると、
「最初はな」と、頷いた。
「憎んでたよ。たぶん、おまえよりずっと。俺の能力であいつらが苦しむのを見るのは本当に気分がよかった。同族が自分の元に集まり、同じように能力を振るうことで解放されたと言ってくれた時も。でも今はもう、それも忘れてしまって思い出せない。心臓を取られてから、なにも感じなくなった」
ギルエンは小さく溜め息を吐く。彼がこの話を持ち出してから、頭の隅に失った心臓がちらついていた。それをはっきりと思い出したくなかったから、ギルエンは話しながらそれを頭の隅からも追いやろうとしていた。けれどアルゲイが話を続ける限り、それが上手くいかない。
トラリス。
思い出すと、急に彼と話すのが億劫になった。
「取り返さなくていいのか」
「必要ない。今はもう、どうでもいい。この話は終わりだ」
「でも」
「アルゲイ」
彼は言った。
「おまえは立派になった。予想以上だ。俺のことを気にしてる場合じゃない。今はおまえが、自分の能力を試す番だ。おまえの能力はくせがあるが、強大な能力だ。今は自分のことを考えろ」
ギルエンが強い口調でそう言った。アルゲイは頷き、もう心臓の話には戻らなかった。数日のうちにアルゲイはイントラットを離れ、そして三ヶ月も経たないうちに、いくつかの候補のなかからハイリンカを選んで陥落したとの報せが彼の耳に届いた。
それきりアルゲイは姿を見せなかったが、いつでも動向は気にしていた。一年後に姿を見せた時には首尾良くやりとげたことを褒めてやった。それ以来アルゲイはたまに姿を現した。滞在するのはごく短い時間で、すぐにまた自分のものになった土地に帰っていった。
ギルエンはいよいよ腑抜けのように暮らしていた。ティユーシャにもアルゲイにもそう言われた。彼は各地で同族がどんなことをしているかだけは、把握することにしていて、以前は自分の足でその場所を見に行ったりもしていたが、最近ではそれも面倒そうだった。
もっぱらティユーシャにそれを任せ、あとはアメイユの能力に頼っていた。
もはやなにもする気にならなかったが、変化が起きたのは、オスア地方で蛇蝎に対する蜂起があったからだ。オスア地方は王都アトレイからそれほど遠くない。そしてアトレイに近づけば近づくほど、蛇蝎の影響力は薄れる。
その地域に根を張るギミエルという名の同族も、能力自体はそれほど強くなかった。ただずるがしこく立ち回るのが上手かった。ギルエンが作り上げた蛇蝎族のイメージに、上手く自分を当てはめて、実際の能力より恐怖を煽ることに成功していたのだ。
小競り合いにしても、なにも今度が初めてではなかった。各地で今までにも何度もあった。そしてギルエンはその度に、仲間を集めて結局、赤い血の人間たちの反乱を抑えていた。その流れは蛇蝎族の中に出来上がっていたので、ギルエンは自分が手出しする必要も感じていなかった。
予想外だったのは、ギミエルが捕らえられたと聞いたことだ。
ギルエンはその報せに、久しぶりに行動する気になった。すぐにティユーシャを呼んだ。そして自分が行くよりも手っ取り早く、自分の身体を街道に巣を作る鳥と入れ替えた。そこで数日、蜂起の動向を探った。
そして思わぬものを見たのだ。
トラリスだった。
どんなに成長していても、鳥の、クロエの姿でも、その目を通しても、見間違えるはずがない。あれは自分の心臓を持つ、トラリスだった。
よりにもよって、ギミエルを捕らえ移送する一団の中に、トラリスがいたのだ。
ギルエンのないはずの心臓が、再び震えた。
戻ったギルエンが考えもまとめる間もなく、事態は次々と動き出した。捕らわれたはずのギミエルはそこから逃げだし、それから一月後にはトラリスと名乗る少年が蛇蝎狩りを始めると言う噂が、蛇蝎の間を駆けめぐった。
トラリスがなんらかの目的を持って動き出したことが、ギルエンにもわかった。
それをアメイユに視るように、ギルエンは再三急かした。けれど彼女はいつでも、
「私には、あの方のことは視えないのです。どうしても」
と、答えるだけだった。
ギルエンは初めそれを、彼女が嘘を吐き、運良く生き延びたトラリスを庇っているのだ思っていた。それで優しくしたり時には脅したり、なだめすかしてなんとか彼女がトラリスの先行きを自分に告げるように、彼女に接した。
けれど彼女は何も言わず、時には青ざめ、額に脂汗すら浮かべながら、首を振るだけだった。
「ギルエン、許してください。本当に、あの方のことは視えないのです」
かぼそい彼女の声に、ギルエンもとうとうそれが事実なのだと認めるしかなかった。
けれどその代わり、彼はイントラットを離れた。かつて自分が集め、今では各地に散らばる同族たちを尋ねてまわった。既に自分は能力を持たず、影響力も薄れた。
歓迎されることもあれば、門前払いのところもあった。けれど次第に、トラリスの足跡の残る場所では、蛇蝎族が追い払われる地域が出てきた。
トラリスと離れてから五年も経った今になって、ギルエンは彼に赤い血が流れていながら、蛇蝎の能力の影響を受けないことを知ったのだ。それが自分の心臓を持っているからなのか、確信はなかったけれど。
蛇蝎族を追放した地域と、それをもたらしたトラリスの存在は、各地の反乱の追い風になった。それがわかっても、ギルエンは焦りや不安を感じたりはしなかった。
それよりも、遠いどこかでやはり自分の心臓の音を聞く気がした。
トラリスの名を聞くようになってから一年が過ぎた。彼のせいで、各地で蛇蝎族と赤い血の人間との勢力図が大きく動いていた。
ギルエンは久しぶりにイントラットへ戻っていた。それを見計らったのか、或いは待ちかまえていたのか、アルゲイが彼の前に現れた。
今では少年らしさもすっかり抜け、立派な支配者の風格を身につけた青年だった。その彼は不機嫌さを隠そうともせず、ギルエンを見ると挨拶もそこそこに切り出した。
「トラリスのことは聞いたか」
「どのトラリスだ」
ギルエンはわざとそう返した。アルゲイが顔を顰め、苛立たしげに彼に近づく。
「あれが運命の子どもだって? 俺たち蛇蝎を滅ぼすと予言されてるって? どうして教えてくれなかったんだ」
「話が見えないな」
「しらを切るなよ」
吐き捨てるようにアルゲイが言った。
「ギルエンが簡単じゃないって言っていたから、同族なんだと思ってた。それが、ギルエンの心臓を持ってるのは、赤い血のあの子どもで」
鋭い目で彼を睨み付けながら、アルゲイが続ける。
「八年も、あんたがあの子ども育てたって」
「事実だ」
頷くとアルゲイの目の色が変わった。疑いの色が、怒りの色に変わっている。
「どうして教えてくれなかったんだ。トラリスが動き出すまでずっと、俺はそんなこと知らなかった」
「言う必要なかったからだ」
「なんで心臓を取り返さなかった」
「必要ないと思ってな」
「ギルエン!」
アルゲイは口調を荒げた。
「あんたは本当に蛇蝎のギルエンか? あの、仲間を集め、国境沿いの集落すべてを焼き払い、ソワニヘイル大森林の半分を焼いて緑獣族の住処を奪ったギルエンか? あんたの名前を誰も口にしない。町を焼かれるのが怖いからだ。でも、それは昔の話で、今はギルエンは死んだとさえ言われてる。それでいいのかよ。赤い血の連中に舐められても、それが許せるか? あんな奴らに。俺たちより劣った奴らに」
「今はおまえがいる」
彼は静かに言った。
「ハイリンカでのことは聞いてる。おまえの能力は制限があるが、おまえはずいぶん賢くやっていると。おまえの元に集まってくる若い蛇蝎もいると聞いた。ハイリンカは住みよい町になってるだろ。俺の代わりに、おまえが立てば良い。それだけの話だ」
「そうだ。その俺のハイリンカで」と、彼は声の調子を落として言った。
「あの子どもの見掛けた。三日前のことだ。それでここに来たんだ」
ギルエンはわずかに目を上げる。アルゲイはそれを見逃さず、再び視線を鋭くした。
「心臓を取り戻す気があるのなら、手伝っても良い。あいつはまだハイリンカにいて、ギルエンに会うために、俺を探してる」
「そうか」
ギルエンは静かに頷いた。
「心臓は」
「どうでもいい」
ギルエンはそう答えて首を振った。
「またとない好機だろ」
「アルゲイ」
ギルエンは彼の方へ踏み出すと、念を押すように言った。
「もう、どうでも良いんだ。心臓がなくても、俺はこうして生きてる」
「同族のことは…」
「もう俺に、影響力なんてない。おまえも十分にわかってるはずだ」
アルゲイは一度目を伏せて小さく溜め息を吐いた。それからまた、顔を上げて彼を見る。
「それなら」
と、冷たく射抜くような視線をギルエンに向けて、彼は続けた。
「あの子ども、殺してしまうかもしれない。とても目障りだ。能力を使う必要なんてない、今は武装した馬鹿な連中が、勝手にあいつを見張ってる」
ギルエンは目を細めて彼を見る。それからわずかに声音を落とした。
「俺になにをさせたい。アルゲイ」
アルゲイの表情が変わった。強張った表情で、じっとギルエンを見る。
「俺がおまえに指図したことがあるか? おまえの好きにしたらいい」
「なんとも思わないのか。あいつがハイリンカにいる今なら、簡単に心臓を取り戻せるのに」
ギルエンは黙って首を振る。空っぽの胸は動かない。
「今なら、協力できるし、簡単なことなのに」
「そんなに気にならない。どうでもいい」
穏やかに言った彼の言葉に、アルゲイは自分でも気づかず、項垂れた。
「俺、ギルエンの能力を見たことないよ…」
「それで俺が信じられないか」
「そうじゃない。ただ…」
アルゲイの言葉はそこで途切れ、そのままギルエンには目もくれず、挨拶もなく彼は部屋を出て行った。
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