<4> ユーティス

 ハルムの水神殿での生活が一ヶ月にもなると、トラリスにも村の中での水神殿とエルメダの役割がぼんやりとわかってきた。神官という役職ではあるものの、彼女は実際には村人たちの相談役のようなものだった。礼拝堂に集まる人々の世間話に加わり、相槌を打ち、愚痴を聞き、叱りつけ、励まし、時には提言をし、そして冗談を言う。時折家を訪問する時には自分の菜園の野菜をわけ、その代わりに訪問の礼として村人から別の食料や日用品をもらう。

「礼拝堂と言うより、寄り合い所ですね」

 夜更け過ぎに礼拝堂から最後のひとりを見送ったトラリスは、扉を閉めながら明かりを消しているエルメダに向かって言った。

 素直な感想に、彼女は笑って、

「そうだよ」と頷く。

「こんな田舎じゃ、これが楽しみさ」

「集まる場所は、他にないんですか?」

 村の中心地に村長の家を見たので、トラリスは訊ねる。礼拝堂に集まる顔ぶれは毎回ほぼ同じだった。

「あそこに行きたい連中はそこに、ここに来たい奴らはここに」

 冗談めかして彼女が言った。トラリスがエルメダを手伝おうと扉の傍から離れた時、少し強めに礼拝堂の木戸を叩く音がした。彼はその場で足を止めて振り返る。

「エルメダ、いるか」

 外から男の声がした。トラリスの聞き覚えのない声だ。エルメダの方へ視線を向けると、彼女は素早くトラリスの脇を抜けて、再び扉を開けた。

「いるよ。どうしたの」

「すまない。母屋の方へ回ったけど、人の気配がなかったから」

 薄闇の中に角灯を下げて男が一人立っていた。トラリスはその場で目を凝らす。背が高く声の調子からするとまだ若い。彼らは何か話し合っている。でもそれはごくわずかの間だった。

「タセット」

 急に振り返ってエルメダが呼んだ。トラリスはわずかに驚きつつ、彼女の傍へ寄る。間近に見た青年はトラリスの初めて見る顔だった。一回り近く年上だろうか、自分よりだいぶ背が高く、体格も良い。

「タセットは、たぶん初めてだね」

 エルメダが言った時には目が合ったので、トラリスは彼女の背後から軽く青年に軽く会釈する。

「きみがタセットか」

 彼は視線を向けるとそう言って、人好きのする微笑みを浮かべた。

「はい、ちょっと前から、水神殿でお世話になっています」

「アトレイから来たって?」

 トラリスは小さく頷く。

「おれも六年前までアトレイに留学してたんだ」

 彼はそう言うとトラリスの方へ進み出て、彼に向かって右手を差し出した。

「ユーティスだ。この村で医者をしている」

 トラリスは差し出された手を取った。握り返されたのは思いがけないほど強い力だった。

「彼の患者が急病でね。ついていってやらなきゃならない。タセットは留守番を」

 エルメダが言いかけると、

「タセットも来るか?」

 割って入ったユーティスが言った。

 意外な言葉にトラリスは思わず頷いたが、自分でも付いていきたいのかそうでないのか、よくわかっていなかった。

 慌しい支度をして彼らは水神殿をあとに、すっかり日の落ちた村の中の一軒家に到着した。中から若い母親が出てきて彼らを迎える。ユーティスとエルメダは状況を理解していたようだが、トラリスは違った。彼らが交わす言葉の断片から、トラリスはこの家の幼い娘が高熱に苦しんでおり、彼らに治療を求めているのだと推察した。

 エルメダは母親に外に出て行くように指示した。彼女は心配そうにしながらも、その言葉に従った。彼らは連れ立って病人のいる部屋に入る。狭い寝室の壁際の寝台に、まだ幼い少女が横になっていた。彼女に近づき、ユーティスが優しい声音で彼女に声をかける。トラリスは部屋の入り口近くでそれを見守っていた。

 傍らでエルメダは懐から何かを取り出した。思わずトラリスはそれを凝視する。彼の視線に気づいて、エルメダは小さく笑った。

水黎石すいれいせきと言ってね」

 彼女は手の中のものをトラリスに向かって掲げた。そこには深い湖水色をした親指ほどの丸く磨かれた透明な石が乗っていた。先端に穴が開いていて、そこに固く結んだ麻紐が通してある。

「代々の神官は、これを精製する能力と技術を持ってるんだよ」

 そう言うとエルメダは寝台の少女に近づいた。ユーティスが脇へどく。エルメダは石の麻紐を、中指に何度か巻きつけた。石が彼女の手に収まる。それを口元に寄せると囁くように何か言って、次に袖を抑えると少女の額の上にそれをかざした。その動作を眺めていたトラリスには一瞬、石がぼうと光ったように見えた。けれどそれはほんの一瞬だったので、見間違いかも知れなかった。

 ユーティスはじっと横になった少女の様子を見守っている。短いような長いような、正確な時間はトラリスにはわからなかった。やがてエルメダが彼女の小さな手をとる。

「もう、大丈夫だよ」

 肩の力を抜きながら彼女は言った。

「ありがとう、エルメダ」

 ユーティスは安堵の表情で彼女に向かう。彼らは同時にトラリスを振り向いた。

「表にいる母親を呼んできておやり」

 部屋に戻った母親は、我が子の呼吸が深く落ち着いているのを見て、更にユーティスにまだしばらく治療は続くが、今夜のところは小康状態を取り戻したと告げられると、ほっとして頭を下げた。

 丁重に彼女に送り出されて、トラリスとエルメダは、ユーティスと村の中で別れた。

 水黎石のことをトラリスは敢えて訊ねなかったが、翌日にエルメダは彼を呼び寄せて、自ら説明してくれた。

「これはね、魔よけの力のある石なんだ」

 水神殿の神官はこの石を精製する技術があると同時に、使いこなすことも出来るという。前日トラリスが目の当たりにしたように、病気の治癒にもわずかながら効果があるらしい。ユーティスは腕の良い医者だが、田舎の村には薬を取り寄せるにも時間がかかる。少女の病状を診て、彼はエルメダへ水黎石の効力を借りに来たのだ。

「人払いしたのは、悪用されないためさ。見せびらかすものでもないからね」

 寝室から母親を追い出したことを、エルメダはそう説明した。トラリスは頷く。希少な能力だ。その考え方には納得できた。

「それから、これを」

 そう言いながら、彼女はなにやら取り出す。彼女はトラリスに小さな青い石を見せた。先ほど見せられた水黎石だとわかった。エルメダが持っていたものより小さいが、同じ色と同じ輝きをしている。そしてやはり紐を通すための小さな穴が開いていた。

「これはタセットにあげるよ」

 突然そう言われて、トラリスは驚いた。

「そんな」

 と、彼は思わず声を上げる。村人にも秘密にされる石だ。軽々しく自分が受け取れるようなものではないはず、と彼は考える。

「タセットが持っているといい」

「おれには…」

 彼は自分にそれが必要だとも思えなかった。水黎石は神官の持つ石だと、たった今聞かされたばかりなのに。エルメダは戸惑うトラリスを見続ける。

「タセットは運命の子だから」

 はっとしてトラリスは息を飲む。そしてどんな表情をしていいかわからずに、困ったようにエルメダを見た。

「それはタセットのせいじゃないよ。でも、タセットが背負って行かなくちゃならないものだ」

「そうですね」

 トラリスは曖昧に頷く。

 自分が蛇蝎族を滅ぼす運命の子どもであると実感したことは一度もない。それでも予言によって自分の人生が動いたのは確かだった。現にトラリスはギルエンに攫われ、八年近く彼に育てられ、そしてまた生まれ故郷の実の両親のもとへ戻ったのだから。

「この石は、持ち主の呼び掛けに応えてくれるよ」

 最もタセットじゃ、私のように使いこなすってわけにはいかないけど、とエルメダは言った。

「タセットが困った時、タセットの味方してくれるかも知れない」

「でも…」

 なおもトラリスは躊躇っていた。

「使う使わないはともかく、お守りだと思えばいいんだよ」

 エルメダは彼の気持ちを促すように言ったが、

「ただね」と、続ける。

「これはまだ完全に精製されてない。持ち主を守るようにするにはね、タセットがこの石に自分で、自分の名前を刻みこまなくちゃならない」

「名前を?」思わず訊き返すと、エルメダは頷く。

「やり方は教えてあげる。朝焼けの水にさらして、水黎石が白く輝く時がある。その時に、自分の名前を自分自身で、石に告げるんだ。それでこの石はタセットを守るタセットの水黎石になる」

 それなら余計にと、トラリスは申し出を断った。けれどエルメダは付け加える。

「タセットは水神殿の子どもでもあるから。これを持つのが、相応しいよ」

「まだたった一ヶ月しかいないのに」

「もう一ヶ月も、水神殿で過ごしてるじゃないか。こんなに長く寝起きしたのは、私や代々の神官以外じゃタセットが初めてだよ」

 エルメダがそうまで言うのなら、これ以上強く断る理由はなかった。彼は受け取ると自分の部屋に戻り、紐を持って水黎石を眺める。

『名前を刻み込まなくちゃならない』

 エルメダの言葉が胸の内で甦り、トラリスは自分でも知らず、溜め息を吐いた。

 自分が両親からもらった名前はタセットだ。自分はタセット・ローレウォールだ。

 でも、それは頭で理解しているだけのことで、本当の気持ちは。



 ユーティスはトラリスを気に入ったようだった。静かなハルムの村の中で、トラリスの目に彼は少し風変わりに見えた。それは彼がアトレイへの留学経験があるからかも知れないし、生来のものかも知れない。彼はなにかと水神殿に顔を出しては、トラリスを自分の用事に付き合わせた。最も用事と言っても深刻な病を抱える患者は村にはいなかったから、エルメダについて村を回るのと大した差はなかった。あけっぴろげな性格で人を楽しませる会話の上手い彼と、小さな村の中で行動を共にするうちに、いつしかトラリスもユーティスに親しみを持つようになっていた。

 話をするうちに、ユーティスはトラリスも通うことになるはずの、アトレイの王学院の卒業生であることもわかった。良家の子女子息が集うあの学校でこのユーティスが、とトラリスが驚くと、彼は不敵に笑って、

「そんな奴、あそこでは逆に珍しいからな。それに俺は人当たりがいいから、むしろ人気があったんだ」

 と、堂々と言ってのけた。

 ユーティスらしい、とトラリスは呆れた顔を作って見せた。彼は言葉は率直で、考え方はトラリスには新鮮だった。片田舎の医者なのに、思考はどこか雄大だった。

 午後の診察に付き合った帰りに、その家の老夫婦にもらった焼き菓子のお土産を振りながら、

「ユーティスはアトレイの都にいたことがあるんだろう?」と、トラリスは何気なく、気になっていたことを訊ねた。

「どうしてこの村に戻って医者に?」

 アトレイで学んだならあの土地で医者になった方が、患者の数も病院の設備も、この村よりずっと充実しているだろうと思ったからだ。

「村には医者がいなかったからな」

 なんでもないことのように、ユーティスが答える。

「病人はかついで山裾の隣村まで行かなくちゃならなかった。それにもともと俺はこの村の生まれなんだ。上の妹が結婚して隣村に住むようになった時に、先方の勧めもあって両親はそっちへ一緒に行ってな。末の妹が今、アトレイにいる」

 ユーティスの小さな診療小屋には、病室という名の部屋がふたつある。けれどトラリスはそこに誰かが寝泊まりしているのを見たことがなかった。ユーティスは病人の報せを受けると、大抵自分から患者のところまで足を運んだ。診療所に直接やって来るのはもっと軽い怪我の患者ばかりだ。

「おまえは見たことがないかも知れないが」

 と、彼はトラリスに言った。

「たまには泊まる患者もいるんだぞ」

「そんな大病した人がいるの?」

 トラリスはユーティスを見上げながら、自分と知り合いになった村人の顔を順に思い起こす。そんな彼に向かって、ユーティスはにやりと笑った。

「ああ、夫婦喧嘩の挙げ句、女房に家から叩き出された酔っぱらい亭主がな」

 トラリスは一瞬きょとんとして、それから声を上げて笑った。

 ユーティスはそんな彼を興味深そうに眺める。

「笑えるじゃないか」

「あはは、そりゃそうだよ」

 トラリスはまだ笑いながら答える。

「ましな顔になったな」

 と、彼は言った。そう言われたトラリスは、不思議そうな顔をしてユーティスを見上げる。

「初めておまえを見た時」

 彼はそんな少年の顔を見て笑った。

「おまえがハルムへ来た次の日に、俺は礼拝堂にいたんだ。おまえは覚えてないだろうけど。あの時、おまえはすべてに疲れた顔をしていた。亡霊のような顔で、その目は何も見てないみたいだった。でも、今は違う」

 歩きながらのユーティスの言葉に、トラリスは苦笑して頷く。

「アトレイでなにもかも上手くいっていないような気がしてた。俺でもこんな風に暮らせる場所があるなんて、ここへ来るまで考えてもみなかった。ここは土と緑に溢れてるし、水に囲まれた土地だから」

「都の連中は皆、気取ってるだろう? 特に上流階級の人間は」

「気取って…? ああ、そうか」

 合点のいったようにトラリスはひとり頷いた。

「気取ってるって、そういうふうに使うんだ。今気づいたよ」

 ユーティスの家に戻り診察用の荷物を置くと、彼はそのまま帰ろうとしていたトラリスを引き止めた。

「タセット、手合わせしよう」

「なにを急に」

「学科にあっただろ」

 トラリスを促し、外へ出ながらユーティスは言った。剣術の授業は、当然彼も履修したはずだ。彼はトラリスを待たずに裏庭を抜け、森に続く平地へ向かう。トラリスは気乗りしなかったがそれに続いた。立ち止まったユーティスは辺りに落ちている枝きれの中から適当なものを拾い上げ、ひとつを自分に、もうひとつをトラリスに放って寄越した。

「学校じゃ枝切れなんて使わなかった」

 小声で文句を言いながら、トラリスはそれを受け止めた。その場で枝の握り具合を試していると、間近で影が動いた。トラリスはそれに気づいて素早く避ける。顔を上げるとユーティスが楽しそうに枝を打ち下ろしたところだった。

「手並みを拝見」

 彼はそう言って、再びトラリスに向かって枝きれを突き出した。

 思わずトラリスは手にした枝で迎え打つ。互いの枝が大きくたわんだ。打合いを続けながら、トラリスはユーティスの動きを観察する。彼の方が身体が大きく、手足もトラリスより長い。足を踏み出すタイミングと手の動きには無駄が無い。自分の身体の長所を知っている動きだ。彼の攻撃をやり過ごすため、トラリスは手足を身体に引き寄せ、少ない動きでそれをかわした。

 彼はじっと反撃の隙を窺った。ユーティスの方が身体が大きい分、打ち込む時に動きが大きくなる。束の間、身体の前が開く。その一瞬が狙い目だ。

 トラリスは気づかれず相手を誘うように枝きれを動かした。後退と進退を組み合わせて誘い込む。枝を握る。剣とは太さも重さもまるで違う。けれどその感触を、トラリスは知っていた。彼は素早く、枝切れを突き出す。

 パン、と音がして、打ち返されたトラリスの枝切れが半分ほどに折れて弾け飛んだ。その一瞬、ユーティスがそれを目で追う。今だ。トラリスは彼の懐に飛び込み、喉元へ短くなった枝きれを突きつける。途端に、その手首をユーティスに掴まれた。

「折れた時点でおまえの負けだろう?」

 トラリスは肩の力を抜いた。ユーティスが彼の手を離す。トラリスは彼から離れると、枝きれを握っていた手を引き寄せながら、渋面を作る。

「剣術は学年で一番だったのに」

「おまえの学年はへたくそばかりだったんだな」

 からかうようにユーティスがそう言って笑ったので、トラリスは彼に向かって手にした枝きれを投げつけた。

「真剣だったら俺が勝ってた。ユーティスこそ甘い。とどめを刺すまで勝負は決まらない」

「負け惜しみだな」

 ユーティスはそう言って更に笑ったが、トラリスがますます顔を顰めたので、軽く片手を振った。

「冗談だ」

「わかってるけど」

「確かに枝切れじゃなかったら危なかったろうな。中等部にはなかなか優秀な指導員がいるんだな。それとも個人教授についてたのか? おまえの動きは型にはまらない良い動きだ。あの学院にそんな教え方が出来る奴がいるのは知らなかった」

 その言葉に、トラリスは思わず動きを止めた。

「どうした?」

 と、ユーティスが彼の顔を覗いた。彼ははっとして顔を上げる。

「これは…」

 トラリスはそう言いながら笑おうとしたが、上手くいかずに表情が引きつっただけだった。それに気づいたトラリスは顔を背ける。すぐにいつもの表情に戻るつもりだったのに、動揺が収まるまで思ったよりも時間がかかった。

 ユーティスは離れたところに立っている。

 それからトラリスの背中に向かって、低い調子で声をかけた。

「なあ、タセット…」

 彼の声音にいつもと違う気配を感じて、トラリスは横顔だけ彼に向けた。ユーティスは真剣な表情でトラリスを見ていた。

「どう訊いたらいいのか、上手く言えないが…」

 彼はトラリスから視線を反らし、言葉を選んでいる。トラリスは黙ってその様子を眺めていたが、ユーティスはすぐに顔を上げて、真っ直ぐに彼を見て言った。

「おまえ、ひょっとして、あのタセットなのか? ローレウォール家の…」

 トラリスは思わず息を飲んだ。このハルムの村で、それを知る者は誰もいないと思っていた。彼が言葉に詰まった一瞬で、ユーティスは何かを悟ったようだった。

 彼は溜め息混じりに呟く。

「そうか…」

「なんで」

 思わずトラリスは訊ねる。口から出た声は小さく掠れていた。

「俺がアトレイに留学したとき、おまえは攫われた後だったが、まだ大きな話題だった。本当に、あの時は大騒ぎだったんだ」

 今から十二年ほど前の話だ。

「それから俺は卒業してハルムに戻ったが、アトレイの知り合いの話で、ローレウォール家の子息がアトレイに連れ戻されたと聞いた」

 トラリスは唇を噛んだ。ハルムに来てからのユーティスの態度が頭に浮かぶ。彼は顔を上げて、ユーティスを見た。

「おれをずっと、そんな目で見てたのか」

 トラリスは唇を噛んで俯いた。

 自分の通った王学院の同級生や、それに教師たちは、みんなトラリスを恐怖の目で見つめた。彼が蛇蝎の頭領に育てられた子どもで、蛇蝎族は彼らの生活を理由もなく脅かす一族だったから。恐怖でなければ嫌悪や侮蔑だった。

 アトレイで、あの場所で、トラリスの生い立ちを知る者で彼に親しみや優しさを向けてくれる人間は、生家の人間を除けばひとりもいなかった。その生家の人々もトラリスに気を使うことはしてくれも、トラリスの抱える苦しみを、見ないふりをして押し殺そうとするだけで、誰ひとりとして認めてくれはしなかった。

 あの頃の置き去りにされたような気持ちが急に甦り、トラリスは押し黙る。

「それは違う」

 そんな彼を見て、ユーティスは少し焦ったように続けた。

「そんな目って、どんな目だか知らない。隠していたことを訊いたのは悪かった。でも、そうじゃない。タセットは」

 そこでユーティスは一度口を噤み、それから声をひそめて囁くように訊ねた。

「蛇蝎族と、暮らしていたことがあるんだろう」

 蛇蝎族。その言葉にトラリスの胸は疼いた。彼にとってそれはギルエンのことだ。頭上に太陽の輝くあの島で暮らしていた頃の光景が、不意にトラリスの胸に浮かび上がる。それを飲み込むように、トラリスは頷いた。 

「訊きたいことがあるんだ」

 ユーティスが神妙な顔で言った。

「本当に、奴らの血は青いのか」

 予想外の質問に、トラリスは一瞬呆気に取られ、それから苦笑する。

「奴らって言っても、おれはギルエンのことしか知らないけど、青い血だよ」

 頷きながらギルエンの名を口にした時、ユーティスが顔を強張らせた。それは禁忌で、不吉な名だった。アトレイで暮らした間にトラリスは嫌というほどそれを学んでいたけれど、気にせずに自分の左手を広げ、掌を眺める。ユーティスが溜め息混じりに呟く。

「何年か前まで、黒い血だとか言われてた」

「知ってるよ」

 と、トラリスは顔を上げてまた苦笑する。

「おれがアトレイに戻ったばかりの頃、両親がそう言ってた。おれは黒い血の蛇蝎族に攫われたって。でも、青い血だよ」

 トラリスは左手を頭上にかざした。太陽は西に落ちかかり、空を茜色に染めている。その光に自分の手を透かして、彼は言った。

「おれたちの血も、乾くと黒っぽく変色するだろ? ギルエンの血もそうだった。それで、蛇蝎の血は黒い血だと言われるようになったのかも知れない。一緒に暮らしてた頃、良く晴れた日に空を見上げると、青すぎて黒く見えることがあったんだ」

 小さな島の上にはどこまでも続く青空と、その周りには空の色と同じ色をした海が広がっていた。あの頃それらのすべてが、まだ幼かったトラリスのものだった。

「空の色を映して、沖合の海も同じ色をしてた。だからおれはずっと」

 彼は拳を握る。

「それが正しい血の色だと思ってた」

 あの頃、頭上に太陽の輝く小さな島で、ギルエンとふたり。滴るような緑の森に囲まれたあの暮らしが今でも、トラリスの胸の中に鮮やかに焼き付いている。

 トラリスはゆっくりと左手を下ろした。ユーティスはその様子を黙って眺めていたが、しばらくすると思いついたようにぽつりと言った。

「おまえはとてつもない運の持ち主だな」

「どうして?」

「奴らに攫われて、生きていられるなんて」

「ユーティスもそう思う?」

「奴らの目的は、お前を殺すことだったんだろう」

「そうだよね」

 トラリスは頷くと、左手で胸を押さえた。ユーティスから顔をそらして彼は考える。自分のこの手の下、胸の奥に動いているのがギルエンの心臓だと知ったら、いったい彼はなんと言うだろう。

「きっとおれは運が良いんだ」

 手を下ろしながらトラリスは彼を見る。

 ユーティスは目を細めて彼を見る。何か言われる前にトラリスは「帰るよ」と、言った。

「夕食の支度を手伝わないと。また明日」

 彼は笑顔のまま会釈して、ユーティスに背を向けた。

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