<3> 水神殿
トラリスはタセット・ローレウォールとして初等学校を卒業した。最も九年制の義務教育で、通ったのは三年半に過ぎない。それでも彼はとにかく卒業資格をもらうことはできて、更に最低だったトラリスの成績は三年半の間で、彼の真面目な授業態度と家庭教師のおかげか、それとも明晰な頭脳のおかげか、かなり優秀と言えるまでになっていた。父親に言われるままに彼は王立高等学院の試験を受け、すでに合格通知を受け取っていた。これから三ヶ月近い夏休みの後で、トラリスは自分はそこに通い始めるのだろうと思っていた。
今までと同じように、周りの皆がトラリスの生い立ちを知っていて、誰もが好奇の目で見るのだ。今ではトラリスも、蛇蝎族がどう思われ、人々にどんな恐怖を与えているのか知っていた。
始まりは約二十年前で、まだトラリスが生まれていない頃だ。
南西の国境沿いの荒野に、近隣の内紛から逃れてきた難民が住み着き、そのまま移民の集落となった一帯がある。その寄せ集めのような集落がその年の秋の初めに、突然焼き払われたのだ。まるで誰かが銃火器を持って攻め込んだような、容赦のない焼かれ方だった。集落の人間は、ほとんどが焼け死んだ。
けれど貧しい地域と言ってもアトラント公国の内側で、紛争ではない。
その不穏な出来事を引き起こしたのがギルエンだった。
彼は自分を蛇蝎族のギルエンと名乗った。身体に青い血が流れていることも、炎を操る能力があることも隠さなかった。
そして彼はそれを皮切りに、手当たり次第といえるほど脈絡なく乱暴に赤い血の人々の住む地域を襲撃しては焼き払った。同時に、自分と同じように優れた血を持つ仲間に集まるよう呼びかけたのだ。彼のもとに集まった青い血の蛇蝎族は、ギルエンの下で徒党を組み様々な能力を駆使して、いくらもたたないうちに都市部さえも襲うようになった。
だが、当のギルエンは数年で表舞台から姿を消した。破壊と殺戮に先陣を切っていた蛇蝎の頭領は、今では行方知れずだという。
それでも彼のもとで力を蓄えた蛇蝎族の脅威は今日まで続いている。町のひとつを支配している蛇蝎もいるし、普段は人里離れた場所に暮らしていても、その恐怖で近隣に強い影響力を持つ蛇蝎族もいる。
アトレイで暮らすトラリスは、蛇蝎族からの被害や恐怖を身近に感じたことは一度もなかったが、それでも相変わらす蛇蝎の名前は恐怖の体現で、一族の頭領であるギルエンの名前は口にすることも許されなかった。
そしていつしかトラリスもそれに慣れていた。
彼が転地の話を聞いたのはその頃だ。
卒業式の翌日、家族揃っての晩餐が終わった後、トラリスは父親の部屋に来るように侍女から言付けされた。父の書斎へ向かうと主である父と、そして母親が待っていた。
「タセット、少し話がしたい。ここへ来て座りなさい」
彼は言われた通りに一人掛けのソファに腰を下ろした。向かいの長椅子に、いつかと同じように両親が並んで座る。口を開いたのは父親だった。
「おまえのこれからについて、少し話をしておかなくてはならない。無事に卒業できて私も嬉しい。今まで、学校はどうだった」
「学校、ですか」
父親の言葉の意図がわからず、トラリスはしばし考え込む。
「私がお話している通りよ。タセットは優秀ですわ」
彼が何か言う前に、サラセタが脇からそう言った。彼女の言葉をトラリスは引き取って続ける。
「授業はちゃんと受けてました。成績も、悪くはないと思います」
「確かにそうだな」
それは聞いている、と父親は言った。
「しかし…」と、彼は続ける。
「友人はどうだ」
訊ねた声はわずかに低い。聞きづらかったのだろう。父らしくない遠慮を垣間見て、トラリスは苦笑した。
「いませんね」
学校でまるで言葉を交わさないわけではないが、親しい友人と呼べるような人間関係はトラリスにはなかった。
「学校を楽しいと思ったことは」
父の言葉にトラリスは真顔に戻る。一瞬だけ迷ったが、結局彼は正直に首を横に振った。
「一度も」
楽しいという感覚を、今のトラリスは思い出せない。アトレイで暮らすトラリスは、何もかもをあの島に置き去りにしてきてしまった気がしていた。楽しいことも、嬉しいことも、彼に幸福をもたらしてくれたすべてを。
「そうか」と、父親は彼から視線を外すと、小さく溜め息をついた。
そんな父親の姿を見ると、トラリスの胸はかすかに痛んだ。落胆などさせたくないのに、そうさせているのが確実に自分であるという事実が。
しばらく彼らは黙っていた。母親が心配そうに父親の横顔を見つめている。
やがて父親が、
「タセット」と、口を開いた。
トラリスは居住まいを正す。彼は真っ直ぐにトラリスを見つめて、静かに言った。
「…おまえの心には、深い傷がついている」
トラリスはその言葉にわずかに目を瞠る。彼の父親の口から出て来るとは思いもよらない、意外な言葉だった。トラリスのそんな表情に気づいているのかいないのか、彼は更に続けた。
「それはおまえのせいではない。それだけは、決してない」
トラリスは黙って父親を見つめ返していた。すると父親は一度口籠もり、
「だが」と、言った。
それから堪えきれなくなった様に、息子から視線を外す。
「私たちではそれを、癒やしてやることはできないんだ」
彼の脇で母親が俯く。
「そんな…」
と、咄嗟にトラリスは言いかけて、けれど後に続ける言葉は見つからなかった。父親は再び顔を上げて、そんなトラリスを正面から見据える。
「ここより馬車で三日、北西にハルムという小さな、だが古い村がある。そしてその傍に水神殿が建っている」
トラリスははっとした。
「神官は王室や、我が家とも縁のある方だ。我々の事情も、承知してくれている」
そこまで言って彼は一度、咳払いをした。
「タセット、おまえさえ良ければ」
「はい」と、彼は相槌を打った。
「次の学校が始まるまでの三ヶ月、彼の地で少し静養してみるつもりはないか」
トラリスの思いも寄らない提案に、彼は目を見開いて父親を見た。息子の視線に、イアニスの表情が変わる。
「返事は今すぐでなくて良い。だが、転地保養ということを、少し考えてみてほしいんだ」
そう言うと彼は息子から目を逸らした。
ああ、そうか、とトラリスは彼の心中を察した。きっと父親はこんな風に、傷を負った息子を投げ出すような行為が後ろめたいのだ。トラリスはそう感じてわずかに悲しくなった。父親の考えと自分の考えがまるで違っていたからだ。
トラリスが悲しいのは、今、目の前の両親が考えているように、彼らの手元から引き離されることじゃなかった。
彼が本当に悲しかったは、あの日々の記憶が、ギルエンと共に、名も無き小さな島で暮らしていた頃の思い出が、トラリスにとってはかけがえのないものであると言うことを、アトレイでは誰も認めてくれないことだった。
彼らは誰も、そんなことを想像することさえできない。
幼い頃のトラリスは幸福に包まれていた。
あの太陽の光の降り注ぐ島で、トラリスは何も持っていなかった。
けれど満ち足りていた。欠けたものなどひとつもなかった。
そしてそれをトラリスに与えてくれたのは、他ならぬギルエンだったのだ。
トラリスには両親が、自分のことを大切にしてくれていることがわかっていた。彼らが自分の意思を尊重してくれていると言うことも、なんとか彼の力になってくれようとしていることも全部ちゃんと、わかっていた。
だからこそ同時に、彼らの気持ちだけが上滑りして、実際には戻ってきた自分たちの息子をどう扱ったらいいのかわからずに、持て余していることも強く感じていた。
「考える時間は、必要ありません」
と、彼は言いながら父親を見た。
「俺、行きます」
トラリスは父親を見ながら頷く。母親が息を飲んだのがわかった。トラリスは彼女に顔を向けて、安心させるように微笑む。
だからどうか、そんな申し訳なさそうな顔をしないで。
その言葉は心の中だけで言った。
数日の内にトラリスはアトレイを発った。両親を恨みに思う気持ちもなければ、心残りもなかった。自分で自分をどうすればいいのか、どうしたいのかもわからなかった。ただ、彼らが言うならこれが一番良い選択なのだろうと、その程度に漠然と考えただけだった。
駅馬車を使うと言われていたので、トラリスはアトレイを発つ時からそのつもりでいた。けれどいざ出発となった時、父親は最初の宿場町までローレウォール家の馬車を誂えてくれた。但し、供の者は馬の手綱を引く年若い馭者だけで、車体の家紋には覆いをかけて隠してあった。トラリスにはそれでも有り難かったが、年若い馭者は、屋敷の跡取りをこんな粗末な馬車で旅立たせることが不服そうだった。
旅した街道は閑散としていた。かつては行商や旅人で賑わっていたと、馭者は話してくれた。今ではあちこちの野盗に警戒しなくてはならないし、それ以上に蛇蝎族に突然襲われるのが恐ろしい。彼はトラリスにそう話した。トラリスは耳を傾け相槌を打ったが、それはただの見せかけだった。彼の言葉は右から左に流れていき、トラリスはただ、山奥へと続く街道の風景を眺めていた。馭者の心配は杞憂に終わり、誰の襲撃を受けることもなく、トラリスは最初の宿場町へたどり着いた。屋敷の馬車とはそこで別れた。別れ際まで馭者はトラリスをひとりで行かせることを心配してくれていた。トラリスは彼の気遣いがも申し訳ない気がして、謝る代わりに餞別を多めに渡して馭者を見送った。
そこからはひとりになった。安宿に一泊した時、真夜中に見知らぬ者の訪れがあった。深夜トラリスが粗末な寝台に寝ていると、同じ部屋に人の気配がしたのだ。眠りの浅かったトラリスはすぐに音を立てないよう身を起こすと、枕の下に忍ばせていた短刀を掴んだ。恐怖はなかった。人影はまだ若い男で、トラリスが背後から近づき脅しで短刀を突きつけると、弱腰になって言った。
「蛇蝎族が悪いんだ。奴らに脅されたんだ」
蛇蝎族、その言葉はトラリスの耳に止まる。
「誰に?」
トラリスは短刀を突きつけたまま、男に向かって思わず訊ねた。
「蛇蝎に…」
震える声で男は答える。トラリスは更に詰め寄った。
「だから、蛇蝎の誰に」
「それは…」
そう言った男は目を泳がせる。
「名前は? 知らないのか」
重ねてトラリスが訊くと、男は腰が砕けたようにその場に座り込んだ。それを見下ろして、トラリスは察した。
「嘘なのか」
男は答えなかった。トラリスは舌打ちを堪える。うんざりした。
「もういい、行けよ」
軽く足を踏み鳴らし、トラリスは窓の外を指さした。
途端に顔を上げた男は、よろけながら立ち上がると、飛び降りるように二階の窓から姿を消した。暗い部屋でひとりきりなると、トラリスは大きく溜め息を吐いた。四年近い歳月ではトラリスの中からギルエンは消えない。
『蛇蝎族』の一言で動く自分の心が、情けなかった。
夜が明けて翌日宿を出る時、宿の主人と女主人の態度がおかしかった。それでトラリスは合点がいった。昨日の物取りは彼らと共謀していたのだ。この物騒な時期、身なりのいいトラリスのような少年の一人旅だ。何かあると踏んでしくじったのだろう。トラリスは彼らに呆れたような一瞥をくれただけで、支払いを綺麗に済ませて宿を出た。その日から駅馬車だった。
乗り合い馬車には数人の客しかいなかった。トラリスは黙って出口に一番近い席に腰を落ち着けた。することも無くこれから数時間、馬車は山奥に向かって走る。今度の馭者は初老の男だった。彼は頻りに街道に出没するようになった野盗に怯えていた。本当は馬車を出したくないようだったので、トラリスはここでも黙って彼の手に硬貨を多めに握らせた。
陽のあるうちは順調だった。だが夕闇が迫る頃、黒い影の幾つかが突然馬車の前に飛び出して立ちはだかった。トラリスは幌の中にいたが、馭者の上擦った声と聞き慣れぬ怒号ですぐに気づいた。野盗が現れたに違いない。少ない乗客がざわつき、皆、身を固くする。
トラリスは溜め息をついて、短刀を上着の下に隠し持つと、なるべく物音を立てぬよう、外へ出た。すぐに幌の中を覗こうと回り込んで来た山賊のひとりと鉢合わせた。動いたのはトラリスの方が早かった。勢いよく男に体当たりすると、男は後ろに倒れる。
異変を感じて仲間が動いた。
「馬車を出して」
竦み上がっている馭者に向かってトラリスは叫んだ。すぐに野盗へ視線を戻す。倒れている男を合わせて三人。トラリスは短刀を抜いた。向かってくる野盗の背後の馭者へ、
「早く!」と、彼は一喝した。
慌てた馭者は馭者台に飛び乗り馬に鞭を入れる。トラリスの目前で、男が横目でそれを見て舌打ちした。馬がいななき、馬車が土埃を上げて走りだした。
別の男がトラリスに向かって大声で喚いた。何を言ったのか聞き取れない。彼らは剣を抜き放ち、彼に向かってきた。トラリスは素早く腰を落として身構える。決着はすぐについた。彼らは大声を上げて相手を怯ませ、力任せに得物を振り回すだけだ。トラリスにとっては他愛のない相手だった。
力と数では野盗たちが勝っていたが、トラリスは素早い身のこなしと正確な剣捌きで、彼らから武器を落として引き倒した。首領とおぼしき男の首筋に剣を突きつける。
「小僧」
組み伏せられた男は、濁った目でトラリスを睨んだ。垢じみた匂いが鼻を突く。トラリスは黙っていた。
「ただで済むと思うな」
「他に仲間がいるのか」
トラリスが訊ねる。男は唇の端で笑った。
「俺たちの後ろには、蛇蝎が控えてる」
トラリスは思わず目を瞠り、思わず言った。
「誰に? 蛇蝎族の誰に」
短刀を持つ手に力が入り、男の目が忙しなく動いた。間があってから、彼は言った。
「名を口にできると思うか」
彼が口籠もった間に、トラリスは冷静になっていた。短剣を持つ手の力は緩めずに、彼は少し男から身を離す。
「嘘なんだな」
トラリスは溜め息をついた。そして短剣を引き寄せ、男の上から退いた。
「何を…」
戸惑ったように彼を見ながらも、男は身を起こす。
トラリスは誰にともなく、吐き捨てるように言った。
「嘘ばかりだ。どいつもこいつも。蛇蝎の名前を脅しに使ってるだけじゃないか」
彼は捕えていた野盗のひとりを乱暴に突き放す。そして、
「行けよ」と、手で振り払う仕草をした。
「捕えないのか」
訝しげな顔で、野盗の首領はトラリスを見た。
「おれは人殺しじゃない」
トラリスが答えると、野盗の男はトラリスを眺めて鼻で笑った。
「馬車を行かせて失敗だったな。人の足じゃたどり着かんぞ。夜になりゃ野犬もでる。他の山賊も出るかも知れねえ。俺たちみたいなのは、掃いて捨てるほどいるからな」
「知ったことじゃない」
トラリスは黙って首を降った。男は倒れていた仲間を叩き起こし、出てきた時と同じように藪の中へ消えた。
首領の男は去り際に、トラリスを振り返ると言った。
「後悔するぞ」
トラリスは目を細め、
「あんたたちみたいなのは」と言って続けた。
「掃いて捨てるほどいるさ」
男が顔を戻し、唾を吐く気配がした。彼らの気配が完全に消えるのを待ってから、トラリスは肩で深く息を吐いた。
剣術と体術は学校にいる間の必修科目だった。けれどそれよりももっと前から、トラリスはそれをギルエンに教わった。最初は枝切れで、動きがいくらか身に付くと、次は本物の剣で。それはいつものように、断崖の割れ目に姿を消したギルエンが、島に戻った時に携えていたものだ。
太陽の下、雨の夕暮れ、そして緑の木立の中や、足元の悪い岩場の上、そして砂に足を取られる浜辺、島のあちこちで、トラリスはギルエンに、それを習った。
トラリスは不思議だった。島で狩りをすることはなかったから。なぜこんなことが必要なのか、うまく理解できなかった。けれど練習が終わると、ギルエンは必ずトラリスに近づき、嬉しそうに笑いながら、
「おまえには才能がある」
そう言って頭を撫でてくれた。
トラリスにはそれがとても嬉しかった。だからこそ練習を続けていた。時折、剣を振るう理由を尋ねると、ギルエンは笑って答えた。
「いつか、必要になる時が来るかも知れないからな」
そのやりとりを思い出すと、今でもトラリスは胸が詰まる。
確かに役に立った。王学院での剣術の成績は、いつでも一番だった。学校の手習いとは異なる柔軟な身のこなしと剣さばき。それはクラスメイトが彼をより遠巻きに見る一因にもなった。
でもトラリスを苦しめるのは同級生たちの態度じゃなかった。
あの時、約束を破らず、島に隠れてギルエンを待っていたら。
今でもあの、頭上に太陽の輝く島で、本物の剣を振るうことなく暮していたのだろうか。
握った短刀から昔の記憶が甦り、トラリスは辛かった。あの頃の楽しい思い出は、今ではトラリスを苦しめるだけだ。それなのに決して忘れられない。思い出はいつでも磨きかけられ、まるで昨日のことのように鮮やかだった。
薄暗い街道をひとり歩いていると、やがてトラリスの乗ってきた乗合馬車が、街道の端に停まっているのが見えた。乗客のひとりが後に残った彼を心配し、一刻も早く次の村へ駆け込みたい馭者を叱りとばして待っていてくれたのだ。これは有り難いことだった。
トラリスは礼を言って、再び馬車に乗り込んだ。持ち込んだ荷物もそのままだった。
初老の馭者に訊ねられ、トラリスは自分が野盗を追い払っただけで、捕えても殺してもいないと正直に告げた。彼はひどく残念そうに、不安げな顔をしたまま馬車を出した。
申し訳ないとトラリスは一瞬感じたが、だからと言って彼ひとりで三人の野盗を捕らえることは難しかったし、まして殺すことなど思いも寄らなかった。
トラリスを乗せた馬車は夜遅くにロレムという名の町に到着し、彼は更にそこで一泊した。翌日になって今度は徒歩で山奥へ分け入る。ハルムは山間の村なのだ。
ここの宿は昨日の宿とは違い、トラリスがハルムに行くと言うと、翌朝、同じ場所を目指す中年の夫婦者を紹介してくれた。彼らは快くトラリスの同行を承諾してくれた。最も、腕に覚えのない彼らも、道中が不安だったのかもしれない。
アトレイを出た時からトラリスには不安も期待もなかったけれど、周囲の風景の変化は思いがけず彼の気持ちを変えた。立ち並ぶ四角い建物と、その間にひしめき合う人々のいる光景がどこまでも続く大都市アトレイとは違い、田舎の村は初夏の緑に溢れていた。
一度も訪れたことの無い場所なのに、トラリスはそれに懐かしさを感じる。その風景に目を向けながら歩いているうちに間もなく、彼はハルムについた。
ハルムは人口百人足らずの小さな村だ。その昔は水神殿を主殿とする大規模な修道院があった。そこに暮らす修道士たちや彼らの生活を支える村人たちで、十倍近い人口を抱えていた。けれど二百年ほど前に修道院が廃止されてから、村からは急速に人が減った。修道院の建物も大部分が取り壊され、今では形式的な神官の代替わりだけが細々と続いている。森の中に広がる畑の中に寄り集まるようにしてある民家を抜けて、トラリスは更に山奥の湖のほとりに立つ水神殿を目指した。たどり着く頃にはすっかり日が暮れ、トラリスもだいぶ疲れを感じていた。
中からは初老の神官が出てきて彼を迎えてくれた。
名をエルメダと言い、トラリスの生家ローレウォール家や、王室と遠い親戚関係にあたる女性だった。アトレイで彼女の話を聞いた時、トラリスはあまり興味も持てず右から左に聞き流していたが、いざ神官の彼女を目の前にして彼は驚いた。質素な佇まいは、アトレイでの生活から考えられる王室の親戚という言葉からは想像できなかった。お互いに簡単な挨拶と自己紹介を済ませる。
「ご苦労だったね。ここまでの旅はどうだった」
と、エルメダはトラリスに尋ねた。
「アトレイから出たのは初めてでしたけど」
トラリスは少し考えながら答えた。最初の宿でこそ泥と鉢合わせしたことも、山道で野盗に遭遇したことも、言わない方が良いような気がした。
「街道は閑散としてました」
「今はどこもかしこも、物騒だからね」
エルメダは困ったように頷いて、水神殿の礼拝堂を中を見せながら通り過ぎると、その先にある住居棟の一室を彼の部屋として使うように案内した。アトレイのローレウォール家と比べると、使用人の寝起きする部屋より狭く、作り付けの寝台と物入れしかない質素な部屋だ。荷物を置いて再びエルメダのところに戻ると、彼女が食事を用意してくれた。ここで育てているという野菜がふんだんに使われた食事を、トラリスは有難くいただく。ひととおり満足するまで食事した後、ふと気がついてトラリスはあたりを見回し、
「下働きの人は、いないんですか」と、訊ねた。
ローレウォール家には家族の人数よりも多い、使用人がたくさん働いていた。
「いないよ」
と、エルメダは小さく笑って答える。
「私ひとりで十分だからね。最もタセットには、明日から手伝ってもらうけど」
トラリスも笑い返した。ここは静かで、ふたりのほかに人の気配はなかった。食事を終えた彼は片付けた食器を洗うのを手伝う。アトレイに戻ってから食事の後始末を自分の手でしたことは一度もなかった。そのせいなのか、トラリスはふとした懐かしさに襲われる。でもそれは心地良い懐かしさではなかった。だから自分の中に湧いた気持ちに気づかないふりをしする。
それからエルメダとしばらく雑談した。ここまでの道のりや、明日からの予定など、話題はどれも他愛ないもだけだったけれど、エルメダの話し方は直截で、まわりくどさのない彼女につられて、トラリスも素直に自分の意見を言った。時間も遅くなり、そろそろ休もうかと言う頃、
「タセット、あなたのことは承知しているよ」
彼女が唐突にそう言った。トラリスは返事に困って曖昧な顔をする。更に彼女は続けた。
「ここにはあなたを知っている人間は誰もいない。村人にはアトレイに住む親戚の子どもだと話してあるからね。都会の空気に身体が馴染まず、ここへ来たと言えばいい」
「ありがとうございます」
他になんと答えていいかわからずに、トラリスはそれだけ言った。エルメダの言葉は有り難かったが、トラリスの抱える本心とはずれていた。それを感じた彼は、もう休みます、とだけ告げると自分の部屋へ引き下がった。
翌日から早速、エルメダの言ったようにトラリスは水神殿の仕事を任された。
礼拝堂と部屋の掃除、裏庭の畑の手入れや家畜の世話に、洗濯や炊事もした。
礼拝堂には朝早くから年寄りが、午後になると村の主婦たちが、そして日が暮れると彼女たちの亭主連中が集まって、世間話をしたり、掛札をめくる音を立てていた。神殿が聖域だと思っていたトラリスには意外だった。
少なくともアトレイにある聖堂には、儀式の日や礼拝の時以外で立ち入ったことがなかったし、王学院の教科書にも出てきた歴史ある建物としての水神殿は、もっと荘厳でいかめしい言葉によって記述されていた。信仰が廃れたとは言え、トラリスは仰々しいものを想像していたが、エルメダの生活は彼女の身なりと同じようにごく質素で、他の村人たちと大差ない。
ハルムにやって来てから一週間が経った頃には気づいていた。こうやって木立の中、湖のほとりで身体を動かしていると、トラリスがハルムへ来た最初の日に胸に湧き、見て見ぬ振りをしたあの気持ちがなんなのか。
そう、自分はこの感覚をすでに知っていたのだ。
島で暮らしていた頃、すべては自分たちの手でやっていた。
洗濯や食事の支度はいつでもギルエンと一緒だった。真水は近くに泉があったし、雨水も溜めていた。鍋や皿や調理道具は気づいた時にはそこにあった。きっとギルエンが断崖の裂け目から調達してきたのだ。海の傍や木立の中で食事の支度をして、そのまま手づかみで食べてしまうことも良くあった。
寝起きしていた小屋こそあったけれど、あの島と、それを囲む海の全てがトラリスの家で、庭だった。
アトレイに連れ戻されてから、トラリスはその全てをする必要がなくなった。広くて居心地の良い自室は、いつでも掃除係に埃を払われ、塵を捨てられ、トラリスがなにもしなくても綺麗に居心地良く整えられていた。彼専用の巨大な洋服箪笥にはいつでも、糊のきいたシャツが並び、洗濯が必要なものは外に出しておけばよかった。食事の支度も同じだ。調理場や食料庫や食器室など、いくつもの部屋があるローレウォール家の台所は、下働きの者の仕事場で、同じ屋敷の中にあってもトラリスは数えるほどしか入ったことがない。
食事の時間は決まっていて、食卓につくと給仕人たちが皿を運んだ。トラリスは目の前の、元がどんな姿をしているかもわからない料理を、ただ口に運ぶだけで良かった。
今さらながらトラリスは、自分がその生活にすっかり慣れきっていたことを思い至る。
そしてここで身体を動かすたびに、島での思い出が甦った。
島での暮らしは、全部自分たちで、ギルエンとふたりでやっていたけれど、トラリスはそれを不満に思ったことなど一度もなかった。むしろ、ギルエンと同じようにできることは誇らしかった。そして思い出した過去の事実は、トラリスの胸を容赦なく締め付ける。
「タセット」
胸の痛みを堪えていたトラリスは、名前を呼ばれて顔を上げる。
彼は台所から続く狭い食器室の中にいた。その入り口にエルメダが立っている。明りもつけずにぼんやりしていた彼を、わずかに心配そうな表情で見つめていた。確かに、小部屋の明りもつけていない。
トラリスは自分の表情に気づかれたかと、それを誤魔化すために少し無理して笑って見せる。だが彼女は表情を変えなかった。エルメダは彼に出てくるように手招きし、トラリスは部屋を出た。彼女の前に立つと、エルメダはトラリスの顔を覗きこむ。
「不満そうだね」
その言葉にトラリスは小さく首を傾げた。答える言葉も思い当たらず、黙っている。エルメダは小さく溜め息を吐く。
「ここでの暮らしは、アトレイとはなにもかも違うし、その気持ちはわからないでもないけど」と、彼女は続けた。
「この水神殿の中では、全ての者が身分を失うんだよ。タセットのしていることは多くの者がやっていることだ。こうやって緑の中で身体を動かしてわかることも…」
「違います、エルメダ」
彼女がまったく見当違いのことを言っていると気づいて、トラリスは思わず彼女の言葉を遮る。
「おれが、召使いたちがするようなことを任されて機嫌が悪いと思ったの?」
彼は言って、困ったような笑顔を浮かべた。
「そうじゃないのかい」
エルメダが戸惑ったように訊ねる。トラリスは思わず苦笑した。
「おれがアトレイでタセットとして、ローレウォール家の人間として暮らしたのは四年足らずですよ。それまではずっと、ギルエンとふたりきりで、小さな島に暮らしてた」
そう言うとエルメダが小さく息を飲んだのがわかった。けれどなにも言わなかったので、トラリスは続ける。
「こんなこと、全部自分たちでやってた。魚や果物を取りに行くのも、水汲みも火おこしも、食事の支度も、後片付けも全部」
もっとも片づけらしい片づけなんてしなかったけれど、とトラリスは胸の中だけで考える。
「なにもかも世話を焼いてもらうようになったのは、アトレイに戻ってからだ。それはたった三年半です」
「じゃあ、どうして」
トラリスは目を細めて考える。でも、自分の気持ちを正確に表す言葉が見つからない。
「懐かしくて」
溜め息を吐くように、それだけ言った。
それきり黙ったトラリスをしばらく眺めて、エルメダが口を開く。
「辛いことを、思い出してしまったんだね」
彼女の言葉にトラリスは小さく笑った。結局エルメダも同じだ。トラリスにとって、ギルエンとの暮らしが、苦しみでしかなかったと思い込んでいる。
「よくわからない」
トラリスは頭を振って彼女の見た。そしてこの話題を終わらせようと、話を変えた。
「ここは水と緑に溢れてて、全然違うけど、似てる気がして。鶏や山羊の世話をしたり、畑仕事をしたりするのも嫌じゃないどころか、楽しいくらいで。ただ…」
トラリスはそう言ったが、それより先はどう言葉を続ければいいのか、わからなかった。
彼が立ち尽くしたまま、そこから去る気配のないのを見てエルメダは台所の隅の椅子を勧めた。彼が言われるがままに腰を下ろすのを見ると、自分もまた古ぼけたテーブルを挟んだ向かいに腰掛ける。
「タセットにとって、ギルエンとの思い出は」
エルメダは何かに気づいたように、でもそれが本当なのか自信のない口調で、
「不幸なものじゃないんだね」
と、続けた。その一言にトラリスは顔を上げた。
「どうして」
視線がぶつかると、エルメダは少しだけ目を細める。
「そんなことを」
「タセットがそう言ったからさ。間違っていたのなら謝るよ。辛い記憶だったなら…」
「違うんです」
トラリスはかぶりを振って続ける。
「ローレウォール家に来たのは、国中で最も優秀な療養士のひとりだった。彼はすごく親切だったし、辛抱強かった。でも」
感情が先立って、言葉を詰まらせたトラリスは顔を背けた。エルメダは心配そうにトラリスを覗き込む。視線を感じながら、彼は震える声で続けた。
「一度だって、ギルエンと一緒にいておれが幸せだったことを、認めてくれなかった。おれがそんな風に言うのは、辛い記憶を押し隠しているんだろうと、ギルエンが俺を殺そうとしたり、苦しめたり、辛い記憶があまりにも多いから、それを忘れるために記憶を塗りかえたんだろうって、彼はそう考えてた」
「タセット」
と、彼女はそう言って投げ出されたトラリスの手を取った。アトレイの母親の手入れされた手とは違う、年を取って皺だらけの、荒れてかさついた手で。
「自分を攫った蛇蝎の頭領と暮らして幸せだったなんて、私にも信じられない」
その言葉にトラリスは顔を上げた。水神殿の神官は少し悲しげな表情で、トラリスに向かって静かに頷く。
「それでも」と、彼女は言った。
「ローレウォール家の暮らしだって、タセットは満足しなかったんだろう? だからタセットは今、ここにいる」
「それは、そんなことなくて」
トラリスは苦しげに目を伏せ、かぶりを振った。
「父も母も、おれが幸せに暮らすことを望んでくれました。そのためにできる限りのこともしてくれました。悪いのはおれが…」
「良いも悪いもないよ」
「でも」
「私のような者にはね、タセット」
と、彼女は静かに続けた。
「アトレイで、ローレウォール家のような由緒正しい、金も人手も十分にあって、王都の広い屋敷で暮らす生活が不幸だなんて想像もできないよ。でもね、私はどんなに身分が高くて金に不自由しなくとも、我が身の境遇に苦しむ人を見てきた。たくさんとは言えないけど、少なくはない数の人をね。だからねタセット、タセットがその頃の暮らしを幸せだったと言うなら、私はそれを尊重するよ。ただ」
「ただ?」
トラリスは顔を曇らせる。エルメダは首を横に振った。
「タセットの幸福な記憶は、誰とも分かち合えない。私も、誰も、ギルエンと暮らしたタセットが幸せだったなんて、信じる者はいないだろうよ。その、アトレイの優秀な療養士と同じように。だからね、タセット」
彼女は手を離しながら、トラリスの手の甲を軽く叩いた。
「今はその記憶を、大切にしまっておくんだね。誰かと分かち合おうと口にすれば、その記憶は磨り減って、タセットを苦しめることになる。その記憶がタセットにとって本当に幸福だったのなら、今は鍵をかけて、誰にも見せずしまっておくんだ。そうすればいつか必ず、その記憶はタセットの味方になってくれるだろうよ」
「ギルエンとの記憶を、大切に?」
エルメダは頷いた。タセットは溜め息を吐きながら首を振る。
「アトレイでは誰も、そんな風に言ってくれなかった」
「それはね、アトレイの人間は、タセットの家族だからだよ。わたしはタセットの父親でも母親でも兄弟でも親戚でもないからね。タセットに対して、ずっと無責任でいられるから」
「そんなこと、考えてもみなかった」
トラリスは俯きながら小さく笑う。気持ちがほんの少しだけ軽くなったのを感じたからだ。だから今度は顔を上げ、それを自分に与えてくれたエルメダの顔を見つめて言った。
「ありがとう、エルメダ」
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