<2> 嵐の晩

 小さな島には温かい季節と暑い季節しかなかった。変化があるとすれば雨が降るか、より多く降るかだけの違いだった。どこにいても波の音が聞こえた。トラリスが四季を、もっと言えば寒さを知ったのは、生まれ故郷の都アトレイに連れ戻されてからだった。

 トラリスが自分の生家に戻って四年近く経つ。その間に何度も、何度でも、あの頃の夢をみた。けれどあの嵐の晩のことはよく覚えていない。島での最後の日になった、あの嵐の晩。

 その日は朝から天気が悪かった。雲の流れと風向きで、ギルエンは幼いトラリスに嵐が来るかも知れないと告げた。島に嵐が訪れるのは稀だったが、一年の間に必ず嵐の時期がある。幼い彼はそれを知っていたし、だから怯えたりもしなかった。ただその日にギルエンが出掛けると言ったことだけが、心細かった。

 ギルエンは浜辺を囲む断崖の裂け目にしばしば消えることがあった。そして同じ場所から再び現れた時には、島にはない食料や衣類や生活道具を携えて、トラリスの元へ戻ってきた。今ならわかる。あそこは転移の図形が描かれた移動場所だったのだ。あそこからどこか別の、彼のもうひとつの住処へ移動していたのだ。けれど幼いトラリスは彼がそこへ籠もったまま、半日以上もの長い間出てこないだけだと思っていた。

 支度を終えて嵐の用心を言い終えたギルエンに、幼いトラリスは訊ねた。

「ギルエン、いつになったら俺も一緒に連れて行ってくれる?」

 彼は小さく笑うと、幼いトラリスの頭を撫でた。

「もう少し待て」

「いつもそう言う」

「ひとりは怖いか?」

「そうじゃないけど」

 頭に置かれた手を掴んで、トラリスは首を振った。ギルエンが屈んで彼に目線を合わせると、微笑んで言った。

「心細いんだよな、トラリス。すぐ戻る。待っててくれ」

 トラリスは結局頷いてギルエンの手を離した。そして戸口に立って彼が去ってゆくのを眺めた。ギルエンは何度も何度も幼いトラリスを振り返りながら、それでもやがて森の中に消えて見えなくなった。

 あの時のことを、トラリスは今でも後悔している。

 ギルエンの手を離したことも、頷いたことも。

「待っててくれ」

 そう言われたのに、その約束を破ったのが自分だということも。

 夜半すぎ、風が音を立てて通り過ぎ、雨が激しく薄い屋根を叩く音が聞こえた。蝋燭はつけなかった。小屋の中も外も同じような闇が広がっていたが、この島のどこにもトラリスは恐怖を感じない。ただ、いつもとは違う強い風雨の音が、ひとりきりの彼には不安だっただけだ。

 それと同時刻、幼い彼の知らぬことだが、嵐の中を強引に、一隻の帆船が島の近くに錨を下ろしていた。そこから小船が次々と波の高い海におろされ、小さな島をめがけて突き進んでいた。波に飲まれるのを免れた小船が続々と浜に上陸し、そしてそこから船乗りたちが島に降り立った。

 トラリスがそれを知ったのは、本当の意味で理解したのは実際には何年も後だ。松明を掲げた男たちは手分けして島に分け入り、そして間もなくそのうちの誰かが森を抜け、高台に立つ丸太小屋を見つけた。

 中で横になっていたトラリスは、乱暴に戸口が開く気配に飛び起きた。

「ギルエン?」

 戸口の人影に呼びかけたが、答えの代わりに聞こえたのは、

「いたぞ! 子どもだ!」

 という、聞いたこともない野太い声だった。突然の事態にトラリスはとても驚き、思考は停止した。なにせギルエン以外の人間を見るのは初めてだった。ひとりの男が乱暴に小屋の中へ踏み込んで来ると、トラリスを見つけて目を見張る。そして彼の前に跪いた。その間に後から松明を二本掲げた別の男が続き、小屋の中と彼らを照らした。

「髪の色、目の色…間違いない」

 男は背後を振り返り、松明を持った男に言った。

「タセット様だ」

 彼はそう言うと、いささか乱暴にトラリスを抱えた。知らない男の胸に顔を押し付けられたトラリスは、しかし事態を少しも飲み込めなかった。男は耳元でトラリスに力づけるように言った。

「もう大丈夫です、もう大丈夫です、タセット様。なにも怖いことはありません」

 松明を掲げた男が深い深い息を吐くのがわかった。

 トラリスは身動きどころか、一言も発することなく、男に抱えられるようにしてその場から連れ出された。浜に向かう間、彼らは笛を吹いて音を出した。

 後から思い起こせば、あれは島中に散ってトラリスを探していた仲間たちへの合図だったのだ。あの晩のことは曖昧にしか覚えていないが、砂浜に着いた時には松明を掲げた数十人の男たちが彼らを待ち構えていた気がする。まだ戻っていない仲間もいた。男たちの輪の中で、トラリスを抱えていた男が彼らに向かってトラリスを押し出した。乱暴に吹き付ける雨と風の中にも関わらず、歓声が沸き起こるのをトラリスは聞いた。

 彼はその場でやさしく毛布にくるまれ、それから再び抱えられるように小船に乗せられると、その周りを別の小船が囲んで波の高い海に向かって漕ぎ出した。こんな嵐の晩、しかも夜の海に向かっていくことなどトラリスは考えられなかったが、しばらく激しく揺られた後、気がつくとトラリスは見たこともない大きな帆船の中に引き上げられ、そして島の暮らしには無かった上等な家具の揃った客室の中にいた。彼を島から連れ出した男たちはどこかへ姿を消し、代わりに女たちがトラリスを取り囲んでいた。

 あの嵐の中、果敢にも帆船に乗り込むような女たちだ。彼女たちは母親や、学院の子女に比べるとずっと世慣れて勇ましかった。けれど女性を見ることさえ初めてだったトラリスは、ここで完全に放心状態に陥った。確かなことを何ひとつ覚えていない。彼女たちは清潔な衣服に身を包み、雨風に晒されたトラリスの身体を拭いて、乾いた服に着替えさせた。それから彼女たちの中では年取っているものの一人が――最も、彼女が年嵩だということに気がついたのは、トラリスがアトレイで暮らして様々な人を見るようになってからだけれど――空腹ではないか、休みたいか、してほしいことはないか、と彼の聞いたこともない高く優しい声音で静かに訊ねた。言葉は通じたがトラリスはそのすべてに首を振った。

 突然の急激な変化に晒されて、幼いトラリスは自分がどうしたいのか、わかるはずもなかった。彼は一晩を船の中で過ごした。翌朝には嵐が収まり、船は順調にその後七日間の航海を続けた。トラリスはその間、女たちに丁重に扱われ、食べ、眠りにつき、そしてずっと混乱していた。八日目の明け方には窓の外に陸地が見えて、船は港に帰港した。客室の硝子越しに見た景色はトラリスが今まで目にしたことのない四角い建物が整然と並んだ、巨大な都市だった。

 促されるままにトラリスは、女たちに付き添われて、岸へと続く桟橋へ降りた。そこにもたくさんの人が待ち構えていて、その中のひとり、当時のトラリスはわからなかったが、明らかに上等な服を着て身なりを整えた婦人が、桟橋に降りたトラリスに向かってきた。

「タセット…、私のタセット」

 気がつくとトラリスは彼女に抱きしめられていた。柔らかい身体がトラリスに押し付けられる。それは彼の知らない柔らかさだった。彼女の身体が離れた時、トラリスはようやく、周りの大人たちを見渡して言った。

「ギルエンはどこ」

 その一言で、空気が凍りついたのがわかった。その空気はトラリスにも伝染し、彼は島から連れ出されて初めて不安を覚える。それが口から洩れた。

「帰りたい…」

 トラリスの呟きに、束の間、誰もなにも言わなかった。彼に寄り添っていた母親が、トラリスの顔を覗きこむ。彼女はとても悲しげな、それでいてどこか怒ったような表情をしていた。

「タセット」と、彼女は言った。

「急なことで、驚いたわね。私はあなたの母親のサラセタ。あなたは三歳の頃に、私たちのもとから誘拐されたの。これからあなたは本当の家族の暮らす家に帰るのよ。もう、怖いことはないわ」

 誘拐という言葉も、家族という言葉も、あの時のトラリスには理解できなかった。それで幼い彼は、ただ横に首を振って言った。

「ギルエンのところにいる」

 彼を囲む人々が顔を顰めて、囁き声でなにかを言い交わす。サラセタはもう一度黙って息子を抱きしめた。桟橋に集まった人の中には母親だけでなく父親のエト二スや、母親の姉妹もいた。彼らがアトレイのローレウォール家という古い家柄の貴族で、自分はその家の息子だということを知ったのも、もっとずっと後のことだ。

 こうして、トラリスは故郷アトレイに戻った。

 否応なく始まった王都での新しい生活は、それまでのギルエンとふたりきりの島暮らしとはまるで違っていた。広大な都市も、立派な屋敷も、そこで働く人々の数も。トラリスの両親は王室とも縁が深かった。家は裕福で、彼には四歳と六歳離れた弟と妹がいた。アトレイに戻ったトラリスは、まず与えられた立派な部屋に慣れ、彼の世話をする従僕と侍女の存在に慣れ、そしてめまぐるしく彼の前に現れては入れ替わる、他人の存在に慣れなくてはならなかった。

 中でも最もトラリスを苦しめたのは、ここでは誰も自分のことをトラリスとは呼ばないことだった。誰もが彼のことを『タセット』と呼んだ。初めの頃、彼は意味のわからない言葉に返事もしなかったが、間もなく誰かが気づいたのか、それとも母親自身が気づいたのか、彼女は神妙な顔で息子に言った。

「あなたの名前はタセットなのよ。これからはタセットと呼ばれたら、ちゃんと返事をして頂戴」

「ちがうよ」

 納得できずに幼いトラリスは首を振った。

「おれはトラリスだよ。トラリスだよ」

 彼がそう言うと、母親は打ちのめされたような表情をして黙った。

 周りにいた大人たちも、険しい顔でトラリスを見る。それから彼女は息子を抱きしめて、耳元で言った。

「タセット、辛かったわね。でもここではもう、悪い夢は終わったの。あなたはタセット、私たちの息子よ」

 タセット・ローレウォール。

 それが彼の、両親から名付けられた本当の名前だった。

 誰からもトラリスと呼ばれない生活で、その名前を貫き通すのは困難だった。何より周りの大人たちの彼の扱いは丁重だった。強情を張るのに慣れていないトラリスは、すぐに折れた。最初は仕方なくタセットという呼ばれ方に返事をしていたが、間もなくそれは自然なことになった。

 環境の変化は耐え間なく続いた。

 半年ほどの静養ののち、身体や精神に異常がないことが専門家たちから認められると、彼は学校へ通うことになった。彼のクラスは十一歳の子供たちの集まる第五学年。

 実際、トラリスは読み書きができた。それは島での暮らしの中で、ギルエンから教わったもののうちのひとつだった。それでも授業についていくのは大変だった。

 けれどそれよりもっと大変だったのは、クラスメイトの視線と教師の態度だった。学校で彼のことを知らない者はいなかった。教師も生徒も皆、トラリスがアトレイから攫われ、そして八年後に戻ってきたことを知っていた。教師たちからは丁重な扱いを受けていたが、クラスメイトたちは彼を好奇の目で見た。その差が彼にはいたたまれなかった。同年代の子どもたちの集団にも、自分に対して無愛想な人間にも、トラリスは初めて遭遇した。

 その頃にはトラリスも、ギルエンの名を口にするのが禁じられているとわかっていた。彼の周りの大人たちは、彼がその名を口にするとを厳しい目つきで黙って彼を見た。普段はトラリスが居心地の悪くなるくらい優しく接してくれる人々だけに、トラリスはやがてその名を口にするのを止めてしまった。けれど心の中で呼ぶのを止めることはできなかった。その理由が何故なのかトラリスは考えたこともなかったけれど、学校に通い始めてそれが変わった。クラスメイトのひとりが、無口で大人しくしていたトラリスに向かって、揶揄う口調で言ったのだ。

「おまえ、ダカツと暮らしてたんだろ」

 その時のトラリスにその言葉の意味はわからなかったし、だからなにも言い返せなかった。自分の胸に湧いたのが不快感だと気づいたのもずっと後だ。誰かに見下されることも侮辱されることも、トラリスには初めてだった。

 それでただ、聞かなかったふりをした。

 学校が引けて屋敷での晩餐の時間に、その日は父と母と弟妹、そして母の客として屋敷に滞在していた叔母とその友人が同じ席についていた。頃合を見て、トラリスは訊ねた。

「今日、学校でぼくの知らない言葉を言われました」

 一同の注目がトラリスに集まる。彼は普段から言われているように、礼儀正しく続けた。

「ダカツと暮らしてたんだろって。ダカツって、なんでしょうか」

 その言葉で、食卓の皆に緊張が走った。脇に控えていた給仕の者さえ、顔を強張らせている。まだ六歳の妹でさえ、怖々と傍らの兄の顔を覗きこんだ。

 失敗した、と咄嗟にトラリスは考える。皆の反応はギルエンの名を口にした時とよく似ていた。きっと何か、またまずいことを聞いたのだ。ギルエンの話と同じくらい、皆に忌避されるなにかを。

「その話はまたにしよう、タセット」

 父親が口を開き、再び食器を動かした。食卓にどこか安堵したような空気が流れて、叔母がまったく別の話題を切り出した。トラリスには面白いとも思えなかったが、皆がその話題について喋り始めた。トラリスは自分が悪いことをしている気になって、黙って口と手を動かした。上等な料理はもうそれきり、味がしなかった。

 けれどトラリスの持ち出した話はそれで終わったわけではなかった。

 その晩、寝支度をしていると部屋の扉を叩く音がした。こんな時間に珍しいが、侍女が来たのかとトラリスは扉に近づく。すると彼の想像していた侍女が顔を出し、

「旦那様がお見えです」

 と、トラリスに告げて広く扉を開けた。彼女の後から両親が部屋に入ってきた。今までにないことに、トラリスは戸惑って立ち尽くした。

「タセット、座りなさい」

 静かな声でイアニスが言った。トラリスは頷いて、彼の示した椅子に腰掛ける。それと向かい合った長椅子に、彼の両親は並んで腰を下ろした。

 夫の顔を伺いながら、サラセタは両膝の上で組んだ手を強く握り締める。

「おまえが我が家に戻ってきてからこの話をしたことはなかったが、タセット」

 彼は言った。その口調は少し怒っているようにも聞こえた。トラリスにとって父親は、冗談や人を面白がらせることこそ言わないが、いつでも穏やかで落ち着いた人だった。それで彼の神妙な面持ちに、トラリスは自然と身体が強張る。

「学校でおまえが言われたダカツについてだ」

 トラリスははっとした。それはなかったことにされたのだと思っていた。夕食の時、自分は過ちを犯したのだと。

「それはあなたが誘拐されたことに関係があることなの」

 両手を握り締めたまま、母親が脇から言った。彼女はとても苦しそうな顔をしている。この頃になるとトラリスは、誘拐とはどんな意味なのかを漠然と理解していた。

 そして自分がこの家に目の前の両親の子供として生まれ、自分の記憶にはないけれど、この屋敷へは連れられて来たのではなく、帰ってきたのだということも、少なくとも頭の中では理解していた。トラリスの前で、サラセタは夫の言葉を待った。彼はためらいがちに、それでも覚悟を決めたように切り出した。

「タセット、まだ三歳だったおまえをこの屋敷から攫ったのは、何度かおまえがその名を口にした…」

「ギルエンのこと?」

 トラリスがそう言うと、目の前のふたりの表情が固くなる。トラリスは目を伏せた。

「そうだ」と、頷く父親の声がした。

「その者は蛇蝎族なんだ。おまえが学校で聞いたダカツという言葉は、その者のことなんだ」

「ダカツ族って?」

 両親がギルエンのことを話しているとわかって、トラリスは動揺した。あの日、島から連れ出され船に乗せられてからいまや一年近く、ただの一度もその話をされたことはなかった。それでつい、普段は行儀が悪いと注意される口の利き方をしてしまう。けれど今、この場では礼儀作法に厳しい父親も何も言わなかった。

「蛇蝎族は、ある特徴を持った数少ない人々をあらわす言葉で」

 と、イアニスが続けた。

「その身体に、私たちとは違って黒い血が流れていると言われている」

「嘘だ」

 トラリスは思わず顔を上げた。両親が目を瞠る。彼は首を振って、腰を浮かせる勢いで言った。

「だったらギルエンはダカツ族なんかじゃない。ギルエンの血は青かった。ギルエンのは青い血だったよ。何度も見たんだ。おれは知ってる」

「タセット…」

 母親が呟く。その顔は青ざめていた。

「それは本当の話か、タセット」

 イアニスが言った。その声はわずかに震えていたが、トラリスはそれに気づかずに力強く頷いた。

「何故、あの者の血の色を知っている。なにか恐ろしい目に遭ったのか、タセット」

 夫の言葉にサラセタは顔を伏せた。

「違うよ」

 と、トラリスは必死で首を振る。

「切り傷や擦り傷なんて、しょっちゅうだったよ。おれのは赤い血なのに、ギルエンは青い血だった」

 そう言いながら、トラリスは思い出す。

 あの頭上に白い太陽が輝くあの島で。ギルエンの流す血は、青すぎて黒く見える空と同じ色をしていた。だからトラリスはそれが正しい血の色だと、それを両親にも知ってほしくて必死で言った。

「それなら、タセット」

 イアニスは深い苦しみを堪えるような表情で言った。

「お前の言うとおり、青い血なんだろう。赤い血でないのが、蛇蝎の証だ」

「青い血はだめなの」

「タセット、私たちの身体にはみんな赤い血が流れている。それが普通だ。それが正常なんだ」

「そんな」

 トラリスは息を飲む。心のどこかでトラリスは、自分がギルエンのように大きくなったら、目の前の父親のように大人になったら、この赤い血が青い血に、トラリスの思い描く正しい色に変わるのではないかという希望を、失っていなかった。

「父さんも母さんも、赤い血なの」

「そうだ、タセット。ここに暮らす者は皆、赤い血だ。青い血は狂った血なんだ。ごくわずかしかいない蛇蝎族は、残忍で凶暴で、我々を脅かす」

 トラリスは黙って父親の言葉を聞いていたが、それがどういう意味なのか、そしてギルエンとどう結びつくのかはわからなかった。

 蛇蝎族と一括りにされる青い血を持つ者のなかでも、特に攻撃や破壊に適した能力を持持つ者が、各地で暴虐を重ねているとトラリスが知るのは、はやりもっと後のことだ。

 その時はただ、父親の険しい表情と母親の悲しげな表情で、そして今までの『ギルエン』という言葉に対する態度から、彼らを、そして周りの大人たちを嫌な気持ちにさせるということだけは、はっきりとわかった。

「どうして」

 精一杯考えて、トラリスはこれだけ言った。

「ギルエンはおれを攫ったの」

「ああ、タセット」

 そう言ってサラセタは立ち上がり、息子に近づくとその身体を抱きしめた。

「あなたは悪くないの」

 掠れた声で彼女は言った。トラリスは母親の肩越しに、息子に視線を向けている父親を見た。

「タセット、それはおまえが生まれた時に」と、彼は続けた。

「蛇蝎を滅ぼす運命の子どもだと、予言されたからだ」

 彼の言葉に、その妻が眉間に皺を寄せて目を伏せる。トラリスは美しい彼女にそんな顔をして欲しくなかった。そう思っていると、

「でもそれは建前で、本当はタセット、おまえが」

 と、父親が更に続けた。トラリスは顔を向ける。

「あの者の心臓を持っているからだ」

 サラセタが更に力強く息子の身体を抱いた。

 けれどトラリスは冷静だった。蛇蝎族の説明と同じように、今も父親の言葉がうまく理解できなかった。押し付けられた母親の身体の下で、トラリスは左手を動かして自分の胸に当てた。鼓動を感じる。これが心臓。

「あの者は自分の心臓を取り戻すために、お前を攫ったんだ」

 イアニスが言った。母親の肩が震えている。けれどトラリスにはそれがどういうことなのかわからない。

「そんなの…」

 嘘だ、と彼が言う前にイアニスも立ち上がり、自分の妻の背中に触れた。サラセタは息子から身体を離す。その頬は涙で濡れていた。

「ごめんなさい、タセット。辛い目に遭わせて」

 彼女と入れ替わるように、イアニスは息子の肩に手を置く。トラリスは近づいた父親の顔を見上げた。

「おまえが生きているとわかった時、私たちは本当に嬉しかった。私たちはおまえの苦しみを取り除くためなら、なんでもするつもりだ、タセット」

「そうよ、タセット。もう二度と、あんな奴らにあなたを奪われたりしないわ」

 サラセタはそう言って息子の手を握る。

 両親の様子を見て、トラリスは妙な気持ちになった。屋敷の大人たちはいつもトラリスをとても丁重に扱ってくれたが、中でも一番優しいのはこの二人だった。けれどなにかが変だ、とトラリスは感じる。最も、あの時はそれを言葉にして表すことなどできなかったけれど。

 トラリスが両親から離れていた時間を、どうしてそんなに苦しげに悲しげに話すのか、彼が本当に理解するには更なる時間が必要だった。

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