<7> 出立
軟禁されたトラリスが、たとえギミエルを逃した張本人だとしても、アトレイのタセット・ローレウォールであることが証明されれば解放されるのにいくらもかからなかった。自由になったトラリスは荷物を纏めるのももどかしく、ユーティスとヒュルエル、そして短い間だけだが世話になった彼らの家族に挨拶をしてロレムを発った。
気持ちは急いていたが、自分のための馬を用意する余裕もなかった。結局駅馬車を乗り継いで来た時と同じように三日かけてトラリスはアトレイへ舞い戻った。
久しぶりに訪れたアトレイの都は、相変わらず大きく、人が多く、トラリスは軽く目眩を覚える。この都はまるで違う、大都市の気配に包まれている。水神殿も、ハルムの村も、セルミテへ赴きギミエルを捕らえたことも、今までの自分の身に起こったことが遠く感じる。けれどそれについて考え込んでいる暇も、彼の気持ちが変わることもなかった。
家族へ先に報せる余裕もなく、それは急な帰還だった。
トラリスのローレウォール家や王族に近い貴族の暮す屋敷は、アトレイの町を臨む閑静な高台にある。人で賑わう通りを抜けて彼は、いよいよしばらく離れていた屋敷の前へたどり着いた。門は閉ざされている。初老の門番は彼を見て一瞬顔を顰めた後、すぐに気づいて態度を改めた。そして門を開けてくれた。アトレイを離れていた一年の間に、背も腕も足も伸び顔つきも少しは大人っぽくなっていたトラリスは、すぐに気づいてくれた門番に丁重に礼を言った。
トラリスが邸内へ入ると、ちょっとした騒ぎになった。突然の子息の帰還に、使用人たちは全員慌てたようだった。
彼はまず、客間に通された。見知った屋敷の中はあまり変わっていなかった。使用人の顔ぶれもほぼ同じ。見慣れているが自分はあまり座ったことのない長椅子に腰掛けて、彼は前を通り過ぎる屋敷の人間を眺めていた。そして彼らに比べて、自分の服装がずいぶんと貧相であることに気づく。着ている服はトラリスによく馴染んでいた。彼はそれで、自分がアトレイの暮らしにまったく馴染めなかったことを改めて思い出した。そして今のトラリスにはもう、ここでの生活に戻るつもりもなかった。
目の前を慌ただしく動き回る彼らを見て、なんの先触れもなかったことをトラリスは心の中だけで申し訳なく思った。けれど先に報せを送る余裕もなかった。彼は急いていた。
「タセット…!」
彼はその声に振り向いた。部屋の入り口に母親のサラセタが立って、彼を見つめていた。トラリスはすぐに立ち上がる。それからやっと、『タセット』と言う言葉は自分を呼んだのだ、ということに気がついた。
「ご無沙汰してます。突然申し訳ありません、母上」
トラリスは言って、その場で頭を下げた。
「まあ…まあ、タセット」
そう言いながらサラセタが近づいて来てトラリスを抱きしめる。彼女は息子の頬に軽く掌を当てて、瞳を覗き込んだ。
「…成長したわね」
トラリスは軽く微笑んだ。一年ぶりに彼が見る母親は、ほとんど変わっていなかった。身につけている服と、髪型と、化粧だけが記憶にあるよりわずかに変わっている。
サラセタは息子から離れると、トラリスの座っていた長椅子に腰を下ろした。
「お父様は今は王宮に。あなたが来たからと、人を呼びにやってるわ」
と、彼女は言いながら息子にも座るように促す。彼が隣に座ると、彼女は言った。
「いったいどうしたのです、タセット」
「借りていたものをお返しに。それとご挨拶に伺いました」
トラリスは母親の目を真っ直ぐに見て言った。
サラセタは彼の言葉を理解しかねるように、困ったような表情をした。
「実は」
と、トラリスが切り出すと、彼女はなにかを察したように、イアニスが来るまで待ってほしいと、息子に言った。
それでトラリスは仕方なく、半時間ほど待った。ハルムでの生活や、彼のいなくなった後のアトレイのことを話していると、やがてひどく急いた様子のイアニスが部屋に姿を現した。
彼は息子の姿を見ると最初にまず戸惑ったような表情を浮かべた。それから妻の隣に腰を下ろす。トラリスは改めて立ち上がり、両親に急な帰還を詫びてから切り出した。
「俺は今日から」
と、彼はふたりを交互に眺めて続ける。
「タセットを捨てて、トラリスを名乗ります」
両親の前でこの名をはっきりと口にするのは初めてだった。目の前の両親の表情がわずかに曇る。それを見るのは辛かったが、彼は目を反らさずに続けた。
「トラリスと言う名前は」
先を続けるのにはわずかばかり勇気が必要だった。けれどトラリスは、自分で決心したことだ、と思い切って告げた。
「再びここに戻るまで俺を育ててくれたギルエンが、俺にくれた名前です」
ギルエンの名を口にすると、両親の顔が強張った。その表情を見るとトラリスの胸は痛んだ。けれどそれは自分自身が背負わなくてはならない痛みだ、と彼は心の中で言い聞かせる。
「セルミテ襲撃の件は、こちらにも伝わっていますか?」
父親が静かに頷く。
「詳しくではないが、聞いている」
「あれには俺も参加していたんです」
「そんな…!」
サラセタが驚いたように呟いた。トラリスは彼らと向き合ったまま続けた。
「そこで俺は、蛇蝎の一族の者と直接会いました」
両親は黙ったままだ。彼に向かって何を言ったらいいのか、わからないのかも知れない。
トラリスは彼らを見つめたまま、
「それで…」
と、両の拳を握りしめる。爪が掌に食い込んだ。
「俺は決めたんです。ギルエンに、俺を育てた、蛇蝎の頭領に直接会いに行こうと」
「莫迦な」
驚きを隠せない様子で、彼の父親は立ち上がった。彼はそのまま、妻の脇を抜けて息子に近づいた。
「会ってどうすると言うのだ。それに、口で言うほど簡単なことではない!」
「わかっています」
トラリスは父親を見上げて、神妙な顔で頷いた。
「そのための危険も覚悟しています」
「覚悟だと? 覚悟がなんだ!」
厳しい口調で彼は言い、息子に詰め寄る。
「現実に命の危険が迫られるということが、蛇蝎の恐怖に晒されるということが、おまえにわかっているとは思えん!」
「あなた」と、サラセタが夫の姿を見てとりなすように立ち上がる。
「黙っていろ」
横目で彼女を見て、イアニスはそう言った。トラリスはじっとその場から動かない。
「だからこそ」と、彼は口を開く。
「俺はこれから、蛇蝎の一族と敵対することになるでしょう。アトレイはまだ安全とはいえ、俺がこの家の人間だと知れれば、この家が狙われるかも知れない。だからこそ、俺はトラリスを名乗るんです」
それらから、と彼は続ける。
「タセットは死んだと思ってください」
両親の表情が変わる前に、トラリスは深々と頭を下げた。何を言われようと、トラリスの決心は変わらないつもりだった。けれどさすがに、胸中は申し訳ない気持ちで一杯だった。彼は下を向いたまま言った。
「せっかく俺を迎えてくれたのに、がっかりさせるようなことばかりでごめんなさい。恩を受けてばかりで、何ひとつ返せなくてごめんなさい。せっかくタセットとしての俺の未来を考えてくれたのに」
彼はそこで言葉を切り、思い切って頭を上げた。
居並ぶ両親はふたりとも悲しそうな表情を浮かべて、じっとトラリスを見つめていた。彼にとってその視線は鋭く、突き刺さるように痛かった。
一瞬怯みそうになる気持ちを振り切って、トラリスは言葉を続ける。
「トラリスとしての過去にばかり縛られていて、ごめんなさい。でも」
俺の決心は変わりません。
彼はそう言うと、もう一度深々とふたりに頭を下げた。
次に顔を上げた時も、目の前の両親の顔は固まったままだった。
長くこの場にいると、罪悪感ばかりが自分の心に広がっていき、やがてそれがすべてを覆い尽くすような気がして、トラリスは目を伏せる。
「今まで本当にお世話になりました。お元気で」
彼はそれだけ言うと、踵を返した。そのまま部屋を出ていくつもりだった。だが、
「待ちなさい」
と、背中を向けたトラリスにイアニスが声をかけた。
トラリスは驚いて足を止める。それから彼は振り返った。
彼の父親はむっつりとした表情に、厳しい目つきでトラリスを見ていた。トラリスは彼が口を開くのを待つ。わずかの間があってから、イアニスは言った。
「…私の名を書き付けた証文を用意しよう。幾らかの金貨も。あって困るものではないはずだ。支度が整うまで、しばらく待っていなさい」
そのくらいはいいだろう、と彼は言った。
トラリスは予想外の父親からの言葉に目を瞠る。
「でもそれは、父上…」
戸惑いながらトラリスは口を開く。彼の父親は溜め息と共に、手をかざして彼の言葉を制するようなそぶりを見せた。
「タセット…ではなく、トラリス」
トラリスははっとした。その名を呼ぶ父の表情はわずかに苦しげだった。彼はトラリスを見ると、
「おまえを止めるつもりはない」と言って続ける。
「おまえはおまえの納得するように生きれば良い。ただな、タセット」
彼は再びその名を呼んだ。
「この世で醜く汚いものは、蛇蝎の一族だけではない。ただの人間の中にも、おまえを欺き、おまえを陥れようとするものが数多くいるだろう。それを忘れるな」
「…はい」と、トラリスは彼の言葉に静かに頷く。
「それから」
イアニスは言いながらトラリスに近づき、一瞬躊躇った後に、息子の両肩へ手を置いた。
「おまえが謝ることはなにひとつ無い。私たちも…」
そう言って彼は肩越しに妻を振り返る。サラセタは目を伏せた。彼はわずかに口籠もったが、決心したように息子を見つめてこう言った。
「戻ってきたおまえに、どう接していいのか、わからなかったのだ」
許してくれ、と彼の父親は息子に向かってそう言った。
「おれに許すことなんて、なにもないですよ」
トラリスは父親を見上げてそう言った。
「父上にも、母上にも、感謝しかありません。ずっと上手く伝えられなかったけど」
彼はそう言って笑いかけようとしたが、どうしてかそれは、泣き出しそうに歪んでしまった。
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