<6> 鼓動

 それから三日後、トラリスは首尾よくヒュルエルと共にロレムへ到着した。ロレムにはセルミテからの避難民が大勢集まっていたが、それほど混乱した様子はなく、ただハルムと同じように得体の知れない不穏な気配がより強く、色濃く立ち込めているだけだった。

 トラリスはヒュルエルと共に彼女の家族のもとに向かい、彼らに紹介された。そこで先に行ったユーティスに会えるものと思っていた二人の目論見は外れた。彼らの話によれば、セルミテ襲撃後にロレムまで逃げ切れなかった村人たちが、街道の途中に寄り集まっているらしい。そこへ物資を届ける隊列に彼は加わったのだ。

 それならギミエルはどうしているのかとトラリスが尋ねると、今のところ追撃の気配や目立った動きは察知できてないという説明を受けた。ロレムまで避難してきたものの、セルミテへ戻りたがっている住人もいる。彼らを含めて近隣から集まった物資を届ける後続部隊が組まれると言うので、トラリスは早速志願しにいった。ヒュルエルと共に、休む間もなく背負えるだけの荷物を背負って彼らは出発し、無事に避難民が天幕を張って肩を寄せ合う宿営地に辿りついた。トラリスたちはまずまずの歓迎を受け、そこで彼らはユーティスや、ハルムから出て行った男たち数名と再会した。

 ユーティスは、妹とトラリスの姿を見つけてしばらくかなり腹を立てていたが、寄せ集めの人々で賑わう宿営地で甲斐甲斐しく働く妹と、落ち着いているトラリスを見ていくらか気持ちが収まったようだった。起こってしまったことにいつまでも腹を立てている場合ではない、と考え直したのかも知れない。

 そして彼にも彼なりの考えがあったのだろう、翌日にはユーティスはトラリスに、

「襲撃されたセルミテを見てみるか、タセット」

 と、話を持ちかけた。

 トラリスには彼の言葉の意図がわからなかったが、興味がないわけではないのでふたつ返事で承知した。セルミテの現状を見に行くという何人かの男たちに混じって、宿営地からセルミテまでの長くはない道のりを歩いた。

 そして愕然とした。

 焼け落ちた家屋や、荒れされた村の景色が生々しく眼前に広がっている。

 今までトラリスが見てきたのは、蛇蝎の名前を借りただけの、ただの人間の悪事ばかりだった。けれど残ったセルミテの村人たちは確かにギミエルに怯え、実際にギミエルを目の当たりにして暮していた。トラリスはそこで本当に初めて、蛇蝎の一族が人々を、理由もなく苦しめていることを自分の目で見たのだった。

 けれど同時に、なにかが奇妙だとトラリスは感じていた。最もそれがなんなのか、はっきりと言葉にすることは彼にもできなかったけれど。そして彼は再び宿営地に戻った。

 ハルムを出てから二週間が経ち、その間中ずっと静かだ。緊張感はあっても、蛇蝎の恐怖の現実感は薄い。トラリスがハルムまで旅した時に比べて、夜の街道にも蛇蝎の名を語る野盗の姿どころか気配もない。怪訝に思った彼がそれをユーティスに話すと、彼は険しい顔で、

「本物の脅威がある時に、うろつく奴らはいないんじゃないか」

 と、答えた。

 それもそうかとトラリスは納得した。宿営地での数日は穏やかに過ぎた。ギミエルの動向はわからないまま、しかし追撃の気配もない。近隣から集まった物資が更に届けられ、宿営地の生活も形になってきた。そこで避難民と、ロレムやハルムなど他のオスア地方から集まった人々は、ギミエルの脅威のことを考えつつ、これからの生活をどうしていくかという議論が始まった。トラリスもその議論に興味があったが、蚊帳の外だ。宿営地でしているのはヒュルエルと一緒に、子どもの世話や炊事の手伝いだった。

 彼が寝泊りしているのはロレムから運んできた大きな天幕のひとつだ。ここで初めて顔を合わせた五六人の男たちと共に、というよりその隅をかろうじて与えられていた。騒がしく乱雑な男たちの中にあって、自分はどこでも寝られることをトラリスは発見した。そして誰にも言えないが、薄い寝具のすぐ下に大地の気配を感じて眠りに落ちることは、ギルエンと暮らしていたあの頃のことを、再び彼の胸に甦らせた。

 勇んできたのに戦闘に参加することはないかも知れない、とトラリスだけでなく誰もが思い始め、宿営地全体がそんな雰囲気に包まれた頃だった。

 その晩は細い月が雲に隠れ、掲げた松明の明かりだけが頼りの暗い夜だった。

 夜半過ぎ、トラリスは自分の心臓がひとつ大きく脈打ったのがわかった。彼はその音で目を覚ます。その間にまたひとつ心臓が音を立てる。奇妙だ。トラリスは思わず左手で胸を押さえた。胸が早鐘を打っている。その動きが掌にも伝わった。けれど奇妙だ。鼓動は早く大きいのに、頭はひどく冷静だった。こんなことは初めてだった。

 トラリスは思わず自分の心臓のことを思い出す。この心臓はギルエンのものだと言われたことを。アトレイではともかく、ハルムに移って今に至るまでそれを強く意識することは絶えてなかった。心臓の音に耳を澄まそうとしたトラリスは、そのせいで天幕の外がかすかにざわついているに気づく。様子を見ようかと立ち上がりかけた時、突然天幕の戸である垂れ布が動いた。

「起きろ! 襲撃だ!」

 戸口に立った黒い人影が、焦りを滲ませた怒鳴り声で叫んだ。その声に室内に雑魚寝していた者達が身を起こす。辺りが急にざわつき始める。戸口の人影は消えていた。既に目を覚ましていたトラリスは、枕もとの短刀を取ると、いちはやく身を翻して外へ出た。暗闇の中で悲鳴が上がり、男たちの怒号に混じった。点々と松明を掲げる人影が見え、天幕から次々と飛び出した人々が、混乱して勝手な方向に走り去る。

 けれどトラリスはその光景を眺めてその場に立ち尽くした。襲撃を報せる声を聞いたけれど、それがどこに始まっているのかわからない。そうしている間にも、人の波がトラリスの前を通り過ぎる。

「タセット!」

 名前を呼ばれて彼は振り向いた。闇の中から息を切らしたヒュルエルが現れる。彼女は小さな松明を掲げていて、それでトラリスを照らした。

「よかった、タセット」

 彼の姿を見つけると、彼女は安心したように一度大きく息を吐き、それからまた真剣な表情を彼に向けた。

「早く避難を」

「ヒュルエル、襲撃ってどこに?」

 トラリスは辺りを見回しながら彼女に尋ねる。ヒュルエルは目を見開いた。

「タセット、なに言ってるの」

「ギミエルが来た? それとも彼の手下が? でも、どこに」

「タセット」

 ヒュルエルは青ざめて、宿営地の中心を指差す。

「あの炎が見えないの?」

 トラリスは彼女の指差す方向を見た。なにもない。しんとした闇が、並んだ天幕の上に広がっているだけだ。近くの松明の明かりに、ぼんやりと照らされて見えるだけ。彼は怪訝な顔でヒュルエルを振り向きながら首を振った。

「なにも。なにも起こってない」

「タセット、冗談を言ってる場合じゃないのよ」

 と、彼女は血相を変えてトラリスの肩を掴んだ。

「でも」

 と、トラリスはもう一度宿営地の中心を見る。その視線をヒュルエルが追った。そして更に青ざめる。

「消えてる」

 彼女は言った。声がかすかに震えている。

 人々の叫び声や怒号は続いていた。けれど彼女が先程まで見ていた光景はどこにもない。

「ヒュルエル、ずっとこうだった」

 トラリスは静かに言った。一定に脈打つ心臓の音が聞こえる。目が覚めた時から鼓動が大きくなっていたが、それは変わらない。

「変だわ。兄さんに報せなきゃ」

 青ざめたまま震える声で彼女はそう言って、トラリスから離れた。途端に再び、焼けこげる匂いが鼻を突いた。

「タセット!」

 ヒュルエルは叫んで彼を振り向いた。

「お願い、私の手を握っていて! 頭がおかしくなりそう!」

 トラリスはすぐに言われた通りにした。ヒュルエルは忙しなく辺りの様子を窺っている。彼にはそれがどういうことなのかわからなかった。どこにも火の手は見えないし、辺りを行き交う人々が何から逃れようとしているのかわからなかった。緊張はしていたが、気持ちは不思議に落ち着いている。心臓が早く動かないからかも知れない。トラリスの皮膚の下の肉の奥、肋骨の内側でそれは静かに一定の間隔で脈打っていた。

「ユーティス!」

 人の流れに逆らったその先に、彼らはユーティスと数人の男を見つけて叫んだ。

「ヒュルエル、タセット、なにしてる、早く逃げろ」

 トラリスにはその光景は奇妙だった。しんと静まりかえった天幕の並んだ場所から、人が逃げ出している。なにが起こるというのだろう。周囲の人間が火の手を避けることばかり叫ぶのが、むしろ不思議だった。

「話を聞いて! 様子がおかしいの! タセット、兄さんの手を」

「ユーティス、どこにも火の手なんてない」

 トラリスはそう言ってユーティスに近づくと、空いた手で怪訝そうにしている彼を掴んだ。ヒュルエルは兄が背を向けている方向を指す。怒り混じりの険しい顔をしていたユーティスが、それでも背後を振り返った。途端に彼の表情が変わる。

「なんだ、いったい…」

 ユーティスの目に、なんの変わりもない天幕の並んだ夜の景色が広がる。

「タセットに触れると、こう見えるの」

 勢いこんでヒュルエルが言った。ユーティスはトラリスに視線を向ける。彼は頷いて、

「最初から火の手なんてないよ。俺には一度も見えてない。焼け焦げる匂いも、火柱も爆発も、何一つなかったよ。見て」

 トラリスはそう言って彼から手を放した。ユーティスの顔色が再び変わる。この場所を包もうとする業火を見ているのだ。トラリスはもう一度彼の手を掴んだ。

「どっちが本当だ。どっちが本当の景色なんだ」

 ユーティスが忙しなく頭を動かす。彼は目に見えて混乱していた。普段冷静なだけに珍しい姿だった。

「ユーティス、最初に火の手が上がったのは?」

 俺には見えないから、とトラリスは言った。混乱が続いたまま彼は、

「向こうだ」

 と、顎でその方向を示す。

「俺、行ってみるよ。どのみち何かが起こってるのは間違いない。避難は必要だと思う。ヒュルエルも早く。混乱してる人たちを先導してあげて。俺から離れたらまた炎を見るかもしれないけど。それは幻だから、どうか落ち着いて動いて」

「待て、トラリス」

 ユーティスはそう言うと、その場に留まり指示を出していた男たちを呼び集めた。彼に言われるがまま、トラリスは次々と数人の男たちに触れた。彼らに目の前に燃え広がる景色に目を向けさせる。皆が皆、信じられないと言う顔つきでその景色を見つめた。トラリスが手を放すと、そこには元通りの惨劇が広がる。中には信じないと口にする者もいた。

「トラリスはどう思う」

 ユーティスが訊ねた。

「幻だと思う。蛇蝎が見せる、幻影じゃないかな」

「こんな子どもの言うことを聞くのか。宿営地が焼襲われているのに」

「だから、なにも起こってないよ。それにギミエルは植物を操る能力だって聞いた。変じゃないか、火の手が上がるなんて」

「奴の仲間かも」

「だったらその仲間が、幻を見せてるだけだよ」

 トラリスはそう言って、彼に詰め寄った男の腕を無理矢理掴んだ。そうすれば再び男の見る景色も変わるだろう。黙った男に向かってトラリスは静かに告げる。

「村を無人にしてしまえば、略奪も、本当に焼き払うことも簡単にできるよね」

「そんな」

「俺とトラリスは火元を見てくる。みんなは避難先に行って、先に行った人たちを落ち着かせてくれ。これは蛇蝎が見せる幻で、実際にはなにも起こっていないと。信じてもらうのは難しいかもしれないが、ヒュルエル、頼む」

 最後に妹の方を向き、ユーティスはそう言った。兄の言葉にヒュルエルが力強く頷く。彼女は既にトラリスから離れていたが、もう目に映る景色に怯んではいなかった。

「君はいったい…」

 去り際、男のひとりがトラリスを見て不思議そうに言った。

「話は後です」

 ユーティスの腕を取って歩き出しながら、トラリスは言った。

「最も、おれにも自分で自分がだれなのか、よくわからないけど」

 トラリスはそう言って前を向いた。心臓の音が聞こえる。自分の胸の内側で、一定の音で脈打つ心臓の音が。


 最初に火の手があがった場所、そう言われてもトラリスにはわからなかった。それで彼はユーティスに言われるがままに付き従う。倒れた松明から炎が燃え広がっているのがいくつかトラリスの目にも見えて、できる限り消し止め、まだ使えそうなものをトラリスは自分のための松明にした。彼らはしんと静まりかえった天幕の間を進む。ユーティスは右手に剣を構えていて、左手でトラリスに触れたり、たまにそれを離したりしながらゆっくりと進んでいた。

 不意にトラリスの胸がざわつく、けれどそれは不安と言うより高揚に近い高鳴りだった。トラリスは素早く辺りを見回して、闇の中に動く影を目を端に捉える。

「ユーティス、なにかいる」

 囁き声でトラリスは言った。ユーティスは辺りに視線を走らせ、小さく首を振る。

「なにも見えない」

 そう言ったが、彼はトラリスの視線の方向に行き先を変えた。

「でも、ここではお前に従ったほうが良さそうだ。トラリス、追い駆けてくれ。俺は回り込む」

 そう言って彼は腕を放した。途端にユーティスは顔を歪める。そう言うと彼は自分の松明を地面に置き、トラリスから離れた。

「まだ見える?」

「ああ」

「出来そう?」

「やってみよう。幻なんだよな。これは全部、幻なんだ」

「そうだよ。気を付けて。俺は左に回る」

「おまえも」

 その言葉を合図にトラリスは短刀を鞘から抜いた。二手に分かれて早足で駆け出す。影を見たと思う方向へ彼は息を顰めて近づく。間もなくトラリスは動きに合わせて心臓の鼓動と、理由のない高揚感が変化することに気が付いた。胸のざわめきが大きくなる方へ、引き寄せられるように進む。天幕の隅で影が動くのが今度こそはっきりと見えた。鼓動が早くなる。

 トラリスは松明を地面に置くと、短刀を構えて音を立てないよう影に近づく。天幕の内側に入り込み、それに体当たりした。固い人の感触がした。トラリスは素早く天幕から飛び出して、倒れた人影に馬乗りになる。そして首のあたりに手にした短刀を突きつけた。

「おまえ」

「トラリス!」

 すぐにユーティスが駆けつけた。トラリスの下で人影が暴れた。力が強く、トラリスは一度は押し飛ばされる。それをユーティスが押し倒した。彼は人影を押さえ込み、顔を暴く。そして思わずトラリスは息を飲んだ。それは知らない男の、怯えたような中年の男の顔だった。けれどトラリスは思わず言った。

「おまえ、ギミエルだな」

 暗がりの中でもその皮膚の色に見覚えがあった。蛇蝎族は皮膚の下に青い血が流れている。だから赤い血を持つトラリスとは血色が違う。自分とは違うギルエンの独特な皮膚の色合いを、トラリスは今でも覚えている。

 掴みかかるとギミエルはびくりと身体を震わせた。それに続いてトラリスは自分の鼓動が、静かに穏やかになり、胸のざわめきがおさまっていくことに気づく。

 ユーティスが怪訝そうに辺りを見回した。

「トラリス、幻が」

「能力を使うのを止めたのか」

 トラリスは胸倉を掴んでギミエルに訊ねた。

「おまえ…」

 聞こえた男の声は震えていた。ギミエルは忙しなくトラリスと、背後のユーティスに視線を走らせる。額に油汗が浮いていた。

「同族なのか、だとしたらどうして俺を捕らえる」

「同族?」

 トラリスは怪訝な顔で彼を覗き込む。

「俺の幻を見ないなんて、同族だろう。どうして俺を捕まえるんだ。この村を焼き払って、すべてのものを奪って、ここに住む奴らを支配して、俺たちに逆らえないようにしてやろう」

「火を放ったのはおまえか」

「それをこれから、やるんだろう」

「おまえ、ひとりなのか」

「なあ、おまえら、同族なんだろ。協力してくれ。俺の力を見せつけたいんだ」

「違うよ」

 そう言ってトラリスが手の力を緩める。怯えたようなギミエルは、しかしそれを見逃さなかった。彼はトラリスを突き飛ばすと立ち上がり、そしてトラリスを抱え込むと肘で彼の首を締め上げた。

「トラリス!」

「近づくな」

 震える声のまま、近づこうとしたユーティスにギミエルが言い放つ。ユーティスがその場に固まった。突き飛ばされたはずみでトラリスの短刀は地面に落ちている。

「俺は蛇蝎族だ、青い血が流れてる。お前らより優れた存在だ。お前らを殺すなんて、わけもない」

 ギミエルがそう呟く。トラリスは半ば首を絞められながらも、彼の腕が震えていることに気づいていた。ユーティスが真剣な表情で彼を見据える。

「お前のほかに、蛇蝎の仲間がいるのか」

「いるに決まっている」

「そいつらもここへやってくるのか」

「当たり前だ、俺が一声かければ」

 そう言いながらギミエルは小刻みに震えたままだ。腕の力が弱まり、トラリスはこの状況でわずかに冷静さを取り戻す。

「どうしてだ」

 ギミエルが戸惑ったように言う。

「俺の幻が」

 彼の言葉に先に反応したのはユーティスだった。

「使えないのか?」

 ギミエルがユーティスを睨みつけた。けれど彼は怯んだりしなかった。かと言って、トラリスが捕らわれたままなので動くこともしない。トラリスはなんとかギミエルの腕から逃れようと、無理やり口を開く。

「ギルエンを呼べよ」

 その言葉にギミエルが身体を震わせた。

「それはおまえのようなガキが口にして良い名ではない」

 ギミエルが忌々しそうに叫んだ。首に回した腕に力が籠もる。トラリスは思わず呻いた。

「トラリス!」

 ユーティスの顔色が変わる。

 逆効果だった、とトラリスが後悔しながら身じろぎした時、胸に何か固いものが触れた。彼は気が付く。今まで忘れていたが、エルメダからもらった水黎石をお守り代わりずっと首に下げていた。神官であるエルメダのようには扱えないし、もともと石の効果については半信半疑だ。だがいよいよ苦しくなってきてトラリスは、

「石よ」

 と、声を振り絞る。

「トラリスの呼びかけに応えてくれ」

 そう言った瞬間、胸に触れていた水黎石が熱くなった。それを感じる間もなく、真昼のような閃光が放たれた。目が眩んだが、それはギミエルも同じだった。力の抜けた腕から逃れると、トラリスは慌てて自分の短刀を探す。けれど動いたのはユーティスの方が早かった。

 彼は目が眩んでふらついたギミエルの腕を後ろ手に捻りあげて捕らえた。間もなくそこへ、先程別れた男たちが引き返してきた。水黎石の放った強烈な閃光は、幻の消えた夜の闇の宿営地に光柱となって聳え立ち、彼らの目に届いたのだ。それから後はトラリスの出る幕はなかった。彼らは厳重にギミエルを縛り上げ、顔には布をかぶせた。ギミエルの得体の知れない能力への不安を隠さなかったが、トラリスがギミエルの本当の能力を説明し、彼がそれを使えば自分にわかると言い聞かせると、ギミエルを連行した。

 トラリスは、村人よりもギミエルの方が怯えていることに気づいていた。その晩はギミエルが捕らえられたことを知らせ、宿営地の住人たちの移動で朝まで休む間もなかった。

 だからトラリスが次にユーティスとふたりで話をしたのは、翌日の日が落ちる頃になってからだ。

「昨日の、知ってたのか」

 食事の前の短い時間を逃さずに、彼はトラリスに訊ねる。昨日と今日でギミエルを捕らえた時の話は既に何度もしていたが、その相手はいずれもトラリスが蛇蝎に攫われていたタセット・ローレウォールであることを知らない者ばかりだった。

 彼らは今はギミエルを捕らえたことに興奮していたし、トラリスの言動を奇妙に思っていても、差し当たりそこに強く触れる者はいなかった。

「幻を見ないって」

 トラリスは真剣な表情でユーティスを見返すと、首を振った。

「最初はなんだかわからなかった」

 そう言いながら彼は自分の左手を胸に当てる。

「胸がざわついたんだ。それでなにか変だと思った。気づいたらみんなは騒いでるのに、おれにはそれが見えなかった。これって、関係あるのかな。おれがギルエンに育てられたことと」

 そして彼の心臓を持っていると言われたことと。続いて浮かんだ言葉は飲み込んだ。

「あるかも知れないな」

 ユーティスはそれだけ言って深く頷く。

「水黎石の、あれは」

 と、彼は今度は違う話を始めた。トラリスは少しだけ身を固くする。

「あの水黎石を解放する言葉、あれは誰の名前だ。タセットと言わなかったよな。なのに石が解放された」

 彼は不思議そうな表情でトラリスを見た。エルメダには話したが、今の彼はユーティスにそれを打ち明ける気にはならなかった。だから曖昧に笑ってそれを誤魔化した。ユーティスは誤魔化したことに気づいたけれど、それ以上彼に訊ねることはしなかった。

 そして更に二日後、ギミエルはロレムに移送され、そこで彼の処分が決められることになった。トラリスはそこに同行することを求められ、彼は二つ返事で引き受けた。ユーティスの提案でヒュルエルも一度ロレムに戻ることになり、そして妹の言葉でユーティスもそこに加わることになった。

 その日は朝早くから出発し、先頭にユーティスを含めたギミエルを連行する者たち十数人が、トラリスとヒュルエルはその最後尾を歩いていた。すぐ傍にギミエルがいるが、今日は心臓に変化がない。彼が蛇蝎族としての能力を使っていないと、自分の心臓も反応しないのだろうか、とトラリスは考える。傍を歩くヒュルエルはギミエルの話もわずかにしたが、ロレムに戻ったら家族とどうこうタセットも、とほとんどあまり関係ない話をしていた。彼女が気を使っているのか、それとも彼女自身の気を紛らわせるためにそう言っているのかわからなかったので、トラリスは適当に相槌を打っていた。

 昼近くなり、隊列は途中で森の中の街道を抜ける。その日は晴れていたし雨の気配もなかったが、街道は木立に光を遮られ、薄暗かった。セルミテへ向かう時に通り過ぎた道だ。それでトラリスは特に不安にも思わなかった。だがしばらく進むうちに、トラリスは胸の鼓動に変化を感じた。鼓動はギミエルの幻の只中にいた時のように、耳の奥に響くほど大きくはなかった。けれど胸の奥がざわつくのを感じる。あの時と同じ、不安と言うより高揚感に似た、落ち着かない感覚。

 トラリスは神妙な面持ちで辺りに目を配る。ヒュルエルがそれに気づいて真剣な顔つきになる。最初に考えたのは自由を奪われて先を歩くギミエルが、またここで蛇蝎の能力を使ったのではないかと言うことだった。トラリスは声を顰めてヒュルエルに何か不穏なことはないかと訊ねる。彼女も辺りを見回して、首を振った。

 胸騒ぎが収まらない。そう思っていると、列の先で怒ったような怒鳴り声がした。それを耳にしたトラリスとヒュルエルは咄嗟に顔を見合わせる。隊列の先を見ると、鳥が五六羽頭上の低いところを旋回していた。時々嘴や鉤詰で人に襲いかかっている。

 巣立ちの時期でもないのになんで、とトラリスは思いながらもう一度辺りを見回す。そしてやっと気づいた。街道沿いの木々の梢の影に隙間無くびっしりと、夥しい数の鳥が留まっている。クロエと呼ばれる、黒い翼に赤い嘴を持つありふれた鳥だ。囀りも鳴き声を上げることもなく、隊列にじっと赤い目を向けている。それがひどく不気味だった。

「ヒュルエル」

 トラリスはまず彼女に目配せしてそれを報せた。続いて先を歩いていた男にも声を掛ける。鳥を相手に大袈裟だとは思ったが、トラリスは短刀を抜いて身構える。

 その次には鳥がいっせいに羽ばたく音がした。視界が急に暗くなる。気づいた時には隊列は黒い鳥の影で覆われていた。すぐ傍でヒュルエルの悲鳴が聞こえた。

「ヒュルエル!」

 腕を闇雲に動かして、トラリスは自分の視界を遮っていた数羽の鳥を叩き落す。次に彼女に襲い掛かっている鳥をなぎ払った。

「ギミエルの仕業?」

 自分の携えていた細剣を構えると、彼女はトラリスに訊ねる。

「これ、幻じゃない。でも」

 トラリスは自分の胸に意識を向ける。ざわめきが大きくなっている。

「見てくる」

 彼は言って、列の先に向かって走った。鳥たちは翼を忙しなく動かしながら、隊列の者に襲い掛かっている。それを振り払いながら先に進み、トラリスは気づいた。鳥は自分の視界を覆っても、襲いかかっては来ない。妙だ。けれどその理由を考えている暇はない。トラリスは先頭に躍り出ると、拘束されているギミエルの姿を探した。

「タセット!」

 背後から声がしてトラリスは振り向く。

「ユーティス、ギミエルは」

「あいつらが押さえてる」

 彼も自らの剣で鳥をなぎ払いながら言った。

「ギミエルなのか?」

「幻じゃないから違うと思う。でも」

 と、トラリスの周囲の鳥を落としながら続ける。

「ギミエルの時と同じように胸がざわつく。別の蛇蝎がこの鳥たちを操っているのかも」

 別の蛇蝎、という言葉にユーティスは表情を凍らせた。それに気づいたトラリスは、

「ユーティス」と、叫ぶ。

「鳥は俺を襲わないんだ。どうしてかはわからないけど。俺が食い止めるよ。ギミエルを連れて先へ進んで」

 滑空してくる鳥の間をすり抜け、トラリスはギミエルを連れている男たちに近づき、周囲の鳥を打ち落とす。そして彼らに街道を抜けるように告げた。さらにトラリスはその場に立ちはだかるようにして、ひとり、またひとりと鳥の攻撃の外へ送りだす。その頃になると、人に襲いかかるのは群れの中でも躯の大きなクロエばかりになっていた。無数と思えた数も減り、辺りが見渡せるようになる。トラリス以外の隊列の者に、クロエが両足の鈎爪を光らせながら襲いかかっていた。目に付くところに片端から飛び込んで、トラリスは容赦なくクロエを振り払う。

 その中で無数に見える群れの中から、ぎらぎらと目玉を赤く光らせた一羽が鋭い嘴をもたげ、トラリスに向かって急降下してきた。自分は襲われないと思っていたトラリスは油断して、ぶつかる直前にその姿に気づいた。そして考えるより先に手にした短刀で打ち払う。

 トラリスを狙ったクロエは無様に地面に叩き付けられ、躯から赤い血が溢れ出す。トラリスは短刀を持ち直すと、落とした鳥を注視した。息が上がっていた。

 と、同時に辺りを飛び回っていたクロエの群れが急に啼き始める。思わず彼は頭上を仰いだ。

「何?」

 と、いつの間にか少し先で同じようにクロエを相手にしていたヒュルエルも驚いたような声を上げて、両手を耳に当てた。

 彼女は不安そうに辺りを見回す。鳥は彼らに群がり攻撃するのを止めて、梢に留まり、或いは旋回しながら啼き喚いた。幾重にも重なる不吉な声が、森の中に響き渡る。

 突如止んだ鳥の攻撃と不気味な啼き声に、トラリスとヒュルエルは緊張しながら立ち尽くす。気をとられていたのはトラリスも同じだ。その時だった。

『トラリス…おまえ』

 すぐ傍で声がした。トラリスは驚いて振り返る。掠れた嗄れ声だった。だが彼の背後には誰もいない。男たちは皆先へ行った。鳥から聞こえた急な言葉にトラリスの心臓が早鐘を打つ。

 そうだ、今の声は、彼をトラリスと呼んだのだ。

 何かに気づいて、彼は先ほど打ち落とした一羽のクロエに目を向ける。鳥は彼の足元に臥していて、躯を痙攣させていた。だが、ぎらぎらと光る真っ赤な目が確かにトラリスを捕えていた。

『…どうしてここに』

 赤い嘴がかすかに震え、クロエははっきりとそう言った。トラリスは驚きのあまり目を見開く。稲妻に打たれたような衝撃が、トラリスの中を駆け抜けた。

「ギルエン!」

 考えるより先に叫んでいた。彼は鳥に近づき、傍らに膝をつく。

「ギルエン!」

 彼は腕を伸ばして血溜まりの中に横たわるクロエに触れた。鳥は既に息絶えたようだった。トラリスはその双眸を覗き込む。先ほど彼を見据えた、あの狂気のような赤い光は既に失われていた。躯を覆う黒い羽が自らの体液を含んで濡れている。

 ギルエンだった。

 トラリスは確信する。だってこの世界で自分のことを『トラリス』と呼ぶのはギルエンしかいない。クロエの躯で喋ったのは、紛れもなくギルエンだった。

 トラリスは呆然と死んだ鳥を見つめる。

 それを見計らったかのように、辺りの鳥たちは一斉に羽ばたくと、空に向かって飛び上がった。砂埃が舞い上がる。幾つかの群れに分れて何度か彼らの頭上を旋回し、それから散り散りになって彼方へ飛んでいった。

 たくさんの抜け落ちた羽や、折れた枝先や葉が、トラリスと立ち尽くすヒュルエルに降り注ぐ。心臓のざわめきが消えている。終わったのだ。トラリスはそう感じる。けれどそこから動けなかった。

「タセット?」

 いち早く彼の様子に気がついたヒュルエルが彼の元へ駆け寄ってくる。

「タセット、怪我をしたの? 見せて」

 跪いたトラリスを、ヒュルエルは血相を変えて覗き込んだ。

 彼は膝をついて鳥の死骸を見たままだった。その顔は青ざめている。彼女の顔が目の前に来て初めて、トラリスは彼女がいることに気づいた様だった。

「ヒュルエル…」

 と、彼は言った。

 その声はわずかに震えていた。そして譫言のように呟く。

「ギルエンだった…」

「え?」

 彼女は訝しげな顔をして訊き返す。

 次にトラリスの瞳を覗き込んだが、その目はまるで彼女を見ていない。

「タセット、しっかりして」

 彼女はトラリスの肩に手を置いて軽く揺すった。彼はゆっくりと立ち上がった。足に上手く力が入らないかのような立ち上がり方だった。

「ヒュルエル、おれ…」

 ギルエンだった。ギルエンだった。紛れもなく、あれはギルエンだった。

 トラリスの頭の中では、それだけが繰り返される。

「タセット」

 突然人が変わったようなトラリスを、心配そうに彼女は覗き込む。その時、鳥の群れが飛び去ったのを見てユーティスが引き返してきた。トラリスは彼が自分の前に現れたことまではわかったが、それからどうやってロレムまで辿りついたのか、はっきりと覚えていない。

 頭を占めているのはひとつだけ。

 あれはギルエンだ。



 ロレムでトラリスは、ユーティスとヒュルエルの両親の家に泊まっていた。ユーティスは彼と妹を送り届けると、また早々に出て行ってしまったが、ヒュルエルは街道で鳥の群れに襲われて以来、呆然としたままのトラリスを心配していた。彼の方もそれに気づいていないわけではなかったが、ギルエンの声を聞いてから、すべてが夢の中のように遠かった。ヒュルエルの両親は彼に気を使ってくれたし、早めに休むようにと言われたので、小さな、それでもひとりで使えるだけで十分に有難い客間に引き下がった。

 けれど室内の明かりを消して横になっても、少しも休める気がしなかった。

 身体は疲れているのに、頭はひどく冴えている。そして結局、ただひとつのことしか考えられず、彼は起き上がると着替えを済ませて誰にも知られぬようそっと、明かりの少ない夜道へ飛び出した。

 目指す場所がどこなのか、詳しく知ってるわけではなかったが、少し話をしたユーティスやヒュルエルの言葉からあとは勘だけを頼りにうろついていると、やがて目的の場所にたどり着いた。そこは半地下に築かれた倉庫で、今はギミエルが軟禁されている。

 入り口にふたりの男が見張りに立っていた。トラリスは倉庫の裏側に回り込む。窓は無かったが、通風孔が見つかった。格子を掴んで揺さぶると、難なくはずれた。そしてそこから強引に中へ侵入する。明かりひとつない暗闇の中、目隠しをされ両手足を縛られたギミエルがそこにいた。

「…誰だ」

 人の気配に気づいてギミエルがそう言った。

「しっ」と、トラリスは唇に人差し指を当てる。

「おまえの仲間なんかじゃない」

 彼はギミエルに近づき、囁くようにしてそう言った。ギミエルは黙っている。トラリスの気配を窺っているのだ。

「ギルエンを知ってるか」

 そう言いながらトラリスは、腕を伸ばしてギミエルの目隠しを外してやった。顔が露わになと、暗闇の中ではあったがギミエルにはなんとなくトラリスのことがわかったようだった。

「小僧、おまえ…」

 暗がりの中で、それでも彼にはギミエルが動揺しているのがわかった。

「答えてくれ」 

「その名前は、おまえが口にしていいようなものじゃ…」

 震える声で蛇蝎族の男が答える。

「おまえはギルエンに会ったことがあるのか?」

 重ねてトラリスは訊ねる。

「それは…」

 ギミエルの声が更に震えた。それでトラリスは気づく。目の前の蛇蝎族の男は、本当は臆病者なのだ。何かに怯えている。今はきっと、自分にも。

「それじゃあ、つまり」

 と、トラリスは小さく溜め息をついた。

「おまえは何も知らないんだな。ギルエンには会ったこともない。ただ、幻を見せる能力を使って、この辺りの人たちを苦しめていただけなんだな」

「あの方がなにをしようと、お前には関係ない」

「大声を出すな。見張りが気づく」

 トラリスは立ち上がる。ギミエルが身を震わせた。

「おまえは縛り首だ」

 彼はそう言って、ギミエルの身体を掴んだ。

「俺に手出ししたら…」

 上擦ったギミエルの声は、途中で言葉にならなくなった。

「どのみち遅かれ早かれそうなる。みんながおまえを生かしておくはずない。当然だろう。おまえは理由もなく傷つけすぎたし奪いすぎた。許されるはずない。死んで当然だ。おまえを許したいと思ってる人間は、この地方のどこにもいない。おまえがしたのはそういうことだ」

 だから、とトラリスは続ける。

「おまえをここから、逃がしてやるよ」

 ギミエルが表情を変えた。暗がりの中でもそれがわかった。

「ただし、条件があるんだ」

「縛り首だと言ったのは、おまえだ」

 ギミエルは訝しげな目つきで、トラリスを睨む。蛇蝎の男の表情の変化など意にも介さず、トラリスは続けた。

「おれだっておまえを許せるわけじゃない。でも、おまえには青い血が流れてる」

 トラリスは自分の短刀を取り出す。

「おまえはここから出て仲間に伝えるんだ。あの運命の子どもが生きてると。そしてこれから蛇蝎族を滅ぼすために動き出したと、お前の知る限りの仲間に伝えるんだ。お前が死ぬのはその後だ」

「小僧…」

 ギミエルが目を見開く。

「おまえが、おまえが運命の子どもか。こんなところに…」

「そうだよ」

 トラリスは頷いた。

「おれの名前はトラリス。これはギルエンにもらった名前だ。おれはこれから、おまえたち蛇蝎を狩る旅に出る。おまえはその先ぶれだ。村の周りで騒動を起こしたら承知しない。その時は今度こそお前を捕えて、その場で縛り首にしてやる」

 トラリスはそう言うとギミエルの背後に回り込む。

 きつく結ばれた縄に刃を入れた。その音を聞きながら、ギミエルは言った。

「俺がおまえに復讐しないと、どうして言える」

「できるわけない」

 冷たい口調でトラリスは答えた。

「おれに触れられたとき、能力を使えなかったお前が。ギルエンに会うことも叶わないおまえが、おれに手出しできるわけない。蛇蝎族を滅ぼすおれが、おまえなんかに殺されるわけない。出来るならやってみろ。その時ギルエンがどうするか」

「小僧、本当に…」

「証拠なんて語る必要もない。おまえがギルエンの何を知ってる? おれの知ってることのほんのわずかにだって、おまえは知らないんだからな」

 ギミエルが舌打ちした。同時に、腕の戒めがほどけて落ちる。これ以上手を貸す必要はないと考えて、トラリスは立ち上がり、去り際に言った。

「忘れるな。おまえの役目は、運命の子どもが生きて蛇蝎に反旗を翻したと伝えることだ。名前はトラリス。それが運命の子どもの名前だ」



 翌朝は大騒ぎになった。

 捕えたばかりのギミエルの姿が見当たらない。更に彼を閉じこめた倉庫には、縄を切った跡があった。捜索の一団が組織され、さっそく村の周囲を当たったが、その間にトラリスは自分のしたことを打ち明けた。

 彼はあわやギミエルの代わりに捕まり、制裁を受けるところだった。それをなんとか取りなしてくれたのは、ユーティスとヒュルエル、それにロレムから共に来た男たちだった。けれど彼らも今度ばかりはトラリスの行動が信じられないようだった。トラリスは人目のあるところに軟禁され、ユーティスと向かい合っていた。

「タセット、おまえ、自分のしたことがわかっているのか」

「うん」

 血相を変えたユーティスに向かって頷いて、それから彼は小さく笑った。

「これでもう、ここにはいられない」

「タセット?」

 ユーティスが彼の顔を覗き込む。トラリスは覚悟を決めて、そのひと言を告げた。

「おれはギルエンに会ったんだ」

 ユーティスが息を飲む。

「どこで」

 そう訊ねた彼に、トラリスはクロエに襲われた時のことを語った。自分の叩き落とした一羽の黒い鳥の瀕死の言葉。

「…鳥が喋るなんて、信じられないが」

 彼はそう言いながら、考え込むように右手で顎を撫でた。

「誰か別の、蛇蝎族の能力だとしたら、不思議じゃない」

「だが本当にそれがタセットの言う奴なのか、あまりにも不確かだ」

「うん、そうなんだ。でも、それよりも、おれは…」

 トラリスは頷き、そのまま俯く。

「おれは、自分自身がこんなに動揺するなんて、思ってもみなかったんだ」

 ユーティスは黙ってトラリスを見つめている。彼は目を伏せた。

「あの後から様子がおかしかったのは、そのせいか」

 トラリスは頷いて、束の間迷ったが結局言った。

「ユーティス、おれは今日から、トラリスを名乗るよ」

「…タセット?」

「それがおれの本当の名前なんだ。ギルエンがおれがくれた名前」

 ギルエンの名に、やはりユーティスの顔が強張る。トラリスは困ったように曖昧に笑う。自分のしたことに迷いはなかったし、決心は変わらなかった。それでも申し訳ない気持ちが湧いてくる。だから彼には、自分の思いを伝えておきたかった

「両親がくれた名前はタセットだけど、アトレイに連れ戻されてから、なんとかタセットに馴染もうとしたけど、自分がトラリスだって気持ちは消せなかった。だからエルメダからもらった水黎石に」

 彼はそう言って、手を下ろす。

「トラリスの名を刻んでしまった」

「あの時、お前が口にしたのはそれか…」

 戸惑ったような表情のユーティスを見て、トラリスは誤魔化すように小さく笑う。やっぱり申し訳なかった。

「おれ、これからトラリスとして生きるよ。ギミエルを逃がしてしまったから、この村が狙われないよう、蛇蝎族を待つだけじゃなく、ギルエンに会いに行くよ」

「タセット…」

 彼の言葉に、トラリスは首を振った。

「違う、ユーティス。トラリスだよ。おれの名前はトラリス」

 そうだ、とトラリスは自分の名前を噛み締める。

 その名前は、ギルエンがくれた名前だ。自分が予言の子どもだったからこそ、ギルエンと出会い、その名をもらったのだ。

「タセット・ローレウォールが、どうして蛇蝎の頭領に攫われたか知ってる?」

「おまえが蛇蝎の頭領を滅ぼす、運命の子どもだと予言されたからだろう」

「表向きはね。本当の理由は、別にあるんだ」

 トラリスは小さく笑って、左手で自分の胸を軽く押さえた。

「おれはね、ここに」そう言って彼は胸を軽く叩く。

「ギルエンの心臓を持ってるんだ」

「ばか言え。この状況で」

「おれも信じてなかった。ずっと、そんなの嘘だって思ってた。でも」

 トラリスは手を下ろす。そして自分でも無意識に、その手を握り締めた。

「幻の中にいたとき、俺は冷静だった。それは心臓の鼓動がいつもより大きく聞こえてたからだ。まるで俺を落ち着かせるために、わざと大きな音を立てているみたいだった。おかしな話だけど」

 トラリスは目を伏せる。

「おれがギミエルの幻を見なかったのは」

 トラリスはそこまで言うと口篭る。

「おれが本当にギルエンの心臓を持っているからかもしれない」

「そんなはずない」

 かぶりを振って、ユーティスが言った。

「心臓がなくて、どうして生きていられる? そいつは今も生きてるんだろ。奴は蛇蝎族なんだ。俺たちから搾取する、冷酷な一族なんだ」

「わかってる」

 トラリスは頷く。そして心の中で考える。浮かぶのはいつもの風景だ。

 あの頭上に白い太陽の輝く島で、ギルエンとふたり、自分がどれほど幸福だったかを。

 ユーティスもヒュルエルもその他の誰も、あの島でのトラリスの暮らしを知らない。

「だから、確かめに行くよ」

「タセット」

「違うよ、ユーティス。おれはタセットじゃない。トラリスだ。トラリス」

「なら…、トラリス」

 彼の口からその名を呼ばれて、トラリスは思わず目を伏せた。まただ。誰かの口からその名前で呼ばれると、トラリスの胸は震えた。さすがに取り乱すことはなかったけれど。

「おれは今まで」

 と、顔を上げてトラリスは言った。

「心のどこかで、おれがギルエンのことを忘れなければ、あの島での日々を忘れなければ、心のどこかで、いつかギルエンがまた戻ってきてくれるんじゃないかと、あの日々を取り戻せるんじゃないかと思ってた」

 でも、とトラリスは続ける。

「それは違うのかも知れない。おれがギルエンの心臓を持ってること、今まで信じてなかった。けど、もしかしたらそうなのかも知れない。おれを攫ったのは本当に、自分の心臓を取り戻すためだったのかも知れない。おれは今までそんなはずがないと思って否定してきたことが本当なのかもしれない。みんなの言うとおり、本当にギルエンは」

 驚くユーティスの前で、彼はさらに続けた。

「おれを殺すために攫って、失敗したのかも知れない」

「だとしたら、危険すぎる」

「でもギルエンが何を考えてるか知るには、ギルエンに聞かなきゃ。みんなの言うことは全部憶測だろ? ここでも、アトレイでも」

「忘れて暮らせないのか」

 ユーティスがトラリスに詰め寄る。

「おまえの心臓がギルエンのものだとしても、今はおまえのものだ。おまえのところにあっても、ギルエンは生きてる。だったらその心臓は、おまえにこそ必要なものだ。わざわざ危険を冒す必要なんてない。ここで暮らせとは言わない。けど、おまえがタセット・ローレウォールとして生きていくと決めれば、蛇蝎の頭領に攫われて、奇跡的に生き延びた自分を受け入れれば、他に生きる道はいくらでもあるだろ。おまえはハルムでの暮らしを楽しんでた。違うか?」

「ハルムも水神殿も、アトレイよりずっと好きだよ。でも」

 トラリスは頷いた。彼の心配は痛いほど伝わってきたし、その気持ちは本当に有難かった。でも、と彼は考える。浮かぶのいつでもあの光景だ。頭上に白い太陽の輝く島で、ギルエンと共に歩いた波打ち際。彼はそれを思い出し、目を伏せる。

「おれのことを考えてくれたのに。おれはいつまでも情けなくて、前に進めなくてごめん。おれのしようとしていることは、過去を振り返るだけだけど、結局、そうする以外見つからない。ギルエンに会って、本当のことを確かめるまで、おれはみんなに心配をかけるだけだ。不満を持ち続けるだけなんだ」

「どうして謝る」

「タセット・ローレウォールになることを考えてなかったわけじゃない。でもアトレイでの四年で失敗して、ハルムでの一年でもだめだった。おれはトラリスだった頃が忘れられないんだ。おれはあの島でギルエンとふたりきりだった。隔離されてたんだ。それは間違いない。だから会いに行くよ」

 自分を見るユーティスの表情が、トラリスには辛かった。でももうそれに自分の決意を揺るがされたりはしなかった。

「どうしてギルエンが、おれを殺さず、八年もおれを傍に置いたのか。ユーティス、ハルムに戻ったらエルメダに伝えて。お守りをありがとうって。エルメダのお守りは、俺を守ってくれたって」

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