◆青い埋火

挿絵

序章

<序章>

 円形天井の遺跡の中には光が満ちていた。うっすらと光を通す水晶石灰で作られているからだ。白い廃墟の奥へ進みながら、トラリスは辺りに首をめぐらせる。未だにほぼ完全な姿で残る遺跡の柱や天井の縁は淡い光を通し、さらにそれが壁に反射して白く輝いているように見えた。彼は立ち止まり、左手を頭上にかざした。指の形を縁取るように、わずかに赤い色が透けて見える。

 結局、とトラリスは腕を下ろしながら小さく溜め息を吐く。

 自分の血は赤いままだ。

 それはもう何度考えたか知れないことだった。彼は頭を振る。

 そして先へ進んだ。目の前に植物模様の浮き彫り装飾のある扉が現れる。傾いてはいるが、それはトラリスの前に立ち塞がり、奥の様子は見えない。彼は一度その前に立ち止まると、全身で力を込めるようにして扉を押した。

 拍子抜けするほど軽く、扉は内側に動いた。そのあっけなさにトラリスはよろめき、部屋の中へ倒れ込む。中は通り過ぎてきたのと同じ建物とは思えないほど薄暗い。彼は素早く立ち上がり、部屋の中を眺め回した。背後で扉が静かに閉まる。けれどそれを振り返る余裕はなかった。

 目の前に広がる光景に、言葉を失い立ち尽くしてしまったからだ。

 トラリスはその場で濃い緑の匂いを嗅いでいた。たっぷりと湿気を含み、土の匂いの入り混じる、重たく熱い空気。目の前には森が広がっていた。薄暗いのは天に向かって柱のように伸びた樹木の葉が、空を隠すように重なりあっているからだ。枝々を繋ぐように、太い蔓草が垂れ下がっている。その葉の重なりのわずかな隙間から、白い太陽の光がまっすぐに差し込む。それは羊歯と苔に覆われた地面に突き刺さり、弾けて、森の姿を彼の目にぼんやりと浮かび上がらせる。

 これは幻だ。咄嗟にトラリスはそう考えて胸を押さえた。心臓の真上を。そして必死に自分が通り過ぎてきた建物の内部を思い出す。乾いて埃っぽい空気、風雨に晒された石材。そうだ、これは幻だ。

 胸の震えを抑えようと、彼は右手で背後を探った。すぐに固い扉に指先が触れる。ざらついた水晶石灰の感触。そらみろ、ここは部屋の中で、だからこれが現実のはずがない。身体に絡みつくような熱い空気を感じながら、彼は自分に言い聞かせた。しかし胸の奥のざわめきは収まらない。一度深呼吸してから、苔に覆われた地面を歩き出した。靴底を通して柔らかい土の感触が伝わる。羊歯を踏みしめていたトラリスは、まもなく小道に出た。黒い土のむき出しになった細い道が、樹木の奥へ消えている。彼は再び立ち止まり、どちらに進もうか頭をめぐらせた。

 そして不意に、頭を撲たれたようにその感覚が訪れる。

 この道を知っている。

 強烈な懐かしさがトラリスを襲った。眩暈を覚える。この七年の間忘れてきた、いや、本当はずっと忘れようとしてきたあの記憶は、いとも簡単に彼の全身に甦り、そして凶器のようにその胸を打ち続ける。

 樹木に覆われているように見えるこの道は緩やかなくだり坂で、板根に行く手を遮られることもない。しばらく歩くとやがて海に出る。トラリスの暮らしていた高台の小屋から海辺まで、どれだけ行き来したか知れなかった。



「ギルエン、手から血が出てる」

 浜辺から帰る途中、隣に立つギルエンを見上げてトラリスはそう言った。あの頃、彼はまだギルエンの腰くらいの背丈しかない、ほんの小さな子供だった。

「ああ」

 と、ギルエンはその言葉で気づいた様子で、手を口元に寄せると軽く舐めた。

 日々の暮らしの中で浅い切り傷や擦り傷を作ることは珍しくなかった。トラリスが見つけたのもほんの小さな傷だ。けれど彼はギルエンの手を取り、覗き込む。小指の第一関節の下に滲んだ血の色。

「やっぱり、青い血だね」

 彼の傷口を見て、トラリスは言った。

「そりゃそうだ」

 軽く笑ってギルエンが答える。トラリスは手を離すと、横を歩く彼を見上げた。

「早くおれも、青い血になりたい」

「おまえの血は赤いままだよ、トラリス」

 ギルエンはそう言うと彼の頭を軽く撫でた。トラリスは憮然として黙りこむ。もう何度も繰り返したか知れないやりとりだった。そして何度繰り返しても決して、あの時の幼い自分は、それに納得できなかった。

 頭上に輝く白い太陽に手のひらを透かすと、トラリスの手はうっすらと赤くなるのに、ギルエンは違った。青くなるのだ。自分の中に流れる血の色は赤いが、ギルエンの血は青いことを、幼い彼は知っていた。

 その濃い群青色を、あの頃のトラリスはギルエンの血の色以外でも知っていた。それは晴れた日の空、青すぎて黒く見える時の空の色だ。そして空の色を映した海の彼方の水平線も同じ色をしていた。

 だからあの頃トラリスは、それが正しい色なのだと、身体に流れる血液は青い色をしているのが本当で、自分もギルエンのように大きくなればきっと青い血に、正しい色に変わるのだと、固く固く信じていた。

 トラリスの記憶の始まるあの島、温かい季節と、暑い季節しかないあの島で。



 震える心を抱えたまま、トラリスは道を選んだ。浜に向かうのとは反対の上り坂。足取りは重く、あの日々を思い出した頭はさらに重かった。

 通り過ぎる足元で虫の羽音が耳につく。それにはるか彼方の頭上から、小さな猿の甲高い吼え声が重なって聞こえた。その後ろから、水の流れるする。トラリスは斜めに歩き、羊歯に覆われた林床に分け入った。いくらも離れていないところに細い小川が流れている。この細い川も、雨の多い時期には増水し、たった今歩いてきた道を水浸しにした。彼は流れに逆らって歩く。この川の上流がどこに続いているのかも、彼は知っていた。


 これは幻だ。


 彼は再び自分にそう言い聞かせる。あれから七年が過ぎている。森がこんな風に、自分の知っている景色のままのはずがなかった。

 トラリスを取り囲む樹木が次第に少なくなる。それも記憶にあるままだ。ただ、距離はずっと短いような気がした。あの頃のトラリスは今よりもずっと幼く、身体が小さかった。黙々と進むと、とうとう森が開ける。記憶にある通りだ。小川の脇に高床の、丸太を組み合わせて布を掛けただけの粗末な小屋が建っているのが見えた。トラリスは思わず立ち尽くす。

 あの時、と小屋を前にして彼は考える。

 あそこから逃げ出していれば。勝手知ったる島のどこかへ逃げこんで、約束どおりギルエンの帰りを待っていれば。

 でも、とトラリスは自分の思いを自分で打ち消す。

 それはなかった過去だ。

 だからこそトラリスは今、ここにいる。

 彼は丸太小屋の戸口に近づいた。この先に何が待っているか、彼にははっきりとわかっていた。七年だ、あれから七年。ほんの数日前に十八歳になったばかりのトラリスにとって、それは決して短い年月ではなかった。彼は木戸に手をかける。そして空いた左手で、自分の胸を押さえた。どうして、と彼は思う。これはギルエンのものだ。それなのにどうして。


 この心臓は、こんなにも震えるんだろう。

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