42 中の品の女

 明かりを落とし、とにかく心を整理しようと努める。

 いったい、どうして自分はこんな窮地に立たされているのか?

 

 すべては、幸二がわかば銀行の京都支社に転勤し、自分がダイニチに就職したところから始まったのだ。

 守田会長との出会い。白い髭のよく似合う紳士。亡くなった祖父にあまりによく似ていたものだから、何かの間違いではないかと足がすくんだのを良く覚えている。

 会長に声をかけられて秘書課に配属されたときには、すでに悲劇にどっぷりと浸かっていたのだ。

 一井部長が連れて行ってくれたハイアットリージェンシー京都。あの人に抱かれている間、会長の記憶が何度も蘇ってきた。

 あそこは会長との思い出の場所だった。スイートルームでのひとときを何度過ごしたことだろう。

 会長にはすべてをさらけだし、持てるものすべてで奉仕した。そのことによって、失われた過去の時間をほぼ完全な形で再現することができた。会長から深く愛され、会長の思い通りにしつらえられた人形となった。だがそれは、夢の世界でもあった。怖いものなどなかった。

 

 暑気払いに参加したことがいけなかったのかもしれない。

 松明の光の中でジャズを聴きながら、一井部長の方から声がかかったとき、きっぱりと断るべきだったのだ。でも、同じ場面がもう1度訪れたとして、果たしてそんなことができるだろうか?

 一井部長は、会長よりも遙かに輝いている。あの人に愛される権利を自ら放棄することができただろうか?


 その時、ダイニングから幸二の笑い声が聞こえる。ひょっとして自分が笑われているんじゃないだろうかと錯覚する。

 だが彼は、テレビを観ている。何も知らない夫の声を聞いて、さらに弱気になる。林田がすぐそばで苦しみ抜いているような気がして、喉元に息がつっかえる。

 生きていても、価値はない。

 今回こそ、死ぬべきなのかもしれない。


「ひょっとして、紫倉さんは俺に隠していることがないかい?」

 思えば、あれが林田との最後の電話になってしまった。

「さっき、石山寺で出会ったとき、感じたくないものを感じたんだ。君は一井専務と何か秘密を共有してるね?」

「そんなことないわ。あの方は、私なんかには決して手の届かない人」

「一井専務は君に向かって、会いたいとおっしゃった。それにの忘れ物を家にしまったままだともおっしゃった」

 林田の声は小刻みに震えていた。

「一井部長は、私のことを思ってくださっていたの」

「やっぱり、そうだったか」

「でも、誤解しないで、別に何かがあったわけじゃないのよ」

「うそだ。あんなに取り乱された専務の姿は、これまで見たことがない。それに、何より、君の狼狽ぶりが半端じゃなかった。君は完全に僕たちの間に挟まれていた」


 最後まで林田を騙し切ればこんなことになっていなかったのだ。

「一井専務は、俺にとっては神なんだ。それなのに、君は……」


 その時、窓の外から初詣に向かう人々の声が聞こえる。ふと目を開けると、カーテン越しに小さな光が揺れている。近くの小高い森の中にある神社でたきぎをしているらしい。参詣者たちの暖を取っているのだ。

 そういえば、あの不滅の法灯も、今頃延暦寺の中で燃え続けていることだろう。


 ふと、出家の道を思う。

 延暦寺に行って、剃髪して、仏に仕えようではないか。林田をはじめ、ことごとく傷つけてきたきた人に対して念仏を唱え続ければ報われるだろうか?

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