7 永遠の炎とノースリーブ
琵琶湖畔の別荘に着いたときには、梅雨の晴れ間が際限なく広がっていて、パーティーは急きょ外の芝生で行われることになった。
参加者は会長と近しい30名ほどだったが、連日の雨天からは想像もできないような青空に、会長は何度も「あなた方の日頃の行いがいいからだよ」と、たいそう上機嫌に言い放った。
専属シェフの料理がテーブルに運び出され、ゲストたちはベンチに座ってパラソルの下でアルコールを飲み、湖からの風にさらされながら料理を食べた。
一井は、隣のパラソルの下で秘書班の上司と食事をしている紫倉に何度も視線を送った。
ついさっき石山寺で出会ったときとは違って、ずいぶんとリラックスしている。ノースリーブの白いロングブラウスに紺色のスカートを合わせ、品のあるサンダルを履き、時折吹き抜ける風が肩までの髪をふわりと舞い上がらせた。
職場では決して見せないカジュアルな紫倉は、きわめて官能的に映った。
オレンジと紺色の染め物のような空が湖面に映り込む頃、会長の友人である
河谷は挨拶代わりに、引き連れたドラムとコントラバスと情熱的なセッションを始めた。
招待者たちは自分のパラソルを離れ、特設のステージに集結して、身体をスイングさせながら音楽に聞き浸った。
紫倉も珍しく積極的に前の方に出ていた。炭酸の泡が上がるグラスを手に持ち、同僚の女性と一緒にトランペットの音色に聞き浸っていた。
「ジャズはお好き?」
一井はそんな紫倉に声をかけた。彼女は一井の顔を見てぴんと背筋を伸ばしたが、さっきほどの狼狽はしなかった。
「ジャズはよく分からないですけど、この方の演奏は、素敵ですね」
一井はノースリーブから出ている彼女の肩に目をやった。その肌は
その瞬間、炎のある光景をどこかで見たような気がしてならなくなった。だが、それがいったい、いつ、どこであるのか、どうしても思い出せない。
「さっきはどうも、お世話になりました。私、びっくりしてしまって……」
紫倉の言葉で現実感覚を取り戻した。
「まさかあんな所で会うとはね、僕たちには何らかの縁があるのかもしれないですよ」
紫倉は首を傾けて、少し頬を歪ませた。どう対応して良いのか分からないのだろう。それにしても、美しい仕草だ。
「今晩はどうするんですか?」
もう一度、紫倉の肩に意図的な視線を落とした。
「帰ります」
脳裏には紫倉の家庭がよぎった。
「それは、残念だなあ。泊まっていけばいいのに。部屋はいくらでも残っていますよ」
「残念ですけど、今日は、失礼させていただきます」
紫倉はジャズトリオに目を遣ったままそう言った。
会長の別荘でパーティーがあるときには、いつも京都市内からマイクロバスが用意してあり、特別な事情がない限りは、ゲストたちは宿泊するのが通例になっている。
別荘に宿泊できるのは限られた人物と女性のみと決まっていて、それ以外の男性はすぐ近くのキャンプ場のケビンを利用する。テレビにエアコンに冷蔵庫、それから炊飯ジャーまである豪華なケビンだ。
一井は1度だけケビンに泊まってみたことがある。杉の無垢材で作られたベッドに横たわって目を閉じると、すぐに朝日が昇るほどにぐっすり眠ることができた。
「会長から招待を受けたのは、今日で何回目?」
「じつは、3回目なんです」
紫倉は肩をすぼめてそう言う。
「でも、これまでは、どうしても都合がつかなくて、参加させていただくのは今回が初めてなのです」
彼女の夫はたしか、わかば銀行の役職についていて、これまで夫婦で各地を転々としてきたという話をいつだったか会長から耳にしたことがある。子どもがあるという話は聞いたことがない。
演奏がクライマックスを迎える頃、一井は再び紫倉のそばに立った。
「仕事は、楽しいですか?」
「いえ、まだまだ楽しいと言える状況ではないです」
「でも、会長はあなたのことを気に入っている」
「そんなことはないと思います。私なんて、何の貢献もできておりません。会長は、元々ああいう方ですから」
紫倉の視線の先には、ゲストたちと談笑しながら河谷のトランペットを聞いている会長の白いひげがあった。
「こんなに大きな会社で働かせていただいているだけで、私は幸せ者だと思っております」
「前はどんな仕事をしていたの?」
「いろいろな仕事を、転々としてきました」
どうやら彼女は自分のことをあまり語りたがらないようだ。
「もし困ったことがあったら、何でも言ってくださいよ。仕事のことでも良いし、仕事以外でも良い」
「ありがとうございます。でも、そんなことで一井部長にご迷惑をおかけする前に、自分で努力しなきゃいけないと思っております」
「あなたはまじめに働いている。さっきも言ったけど、会長も評価している。それに、僕は個人的に、あなたに親近感を抱いているんです」
「え」
紫倉は一井を見上げた。
「あなたは周りを元気にする力を持っている。僕も元気をもらっていますよ」
紫倉はいかにもばつが悪そうにうつむく。
「本心です」
「そんな、御冗談を……」
演奏が終わり、演奏者は前に出て招待者に手を上げて応え始めた。
「あなたの姿を見るだけで、僕はいつも元気になる」
雨音のような拍手の中、一井の声が紫倉にも届いた。紫倉の表情は、少し青ざめている。
「いや、ほんとうだって」
一井が念を押したとき、観客からアンコールが巻き起こり、トリオは予定調和的な動きで再び定位置に付き、アート・ブレイキーの「モーニン」を演奏し始めた。
紫倉は何も言わずに音楽に耳を傾けている。
手に持っているグラスの炭酸はすっかり抜けてしまっている。
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