2017年 秋~冬
20 センチメンタルな街で
都心の空はどんよりしている。
こうして見渡すと、ビルの間隙を縫うように銀杏の金色が輝いている。東京はセンチメンタルな街だと、この時期になると特にそう思う。過去に渡り歩いた上海やトロントとはずいぶんと違う。もちろん京都ともだ。
この街の人は一見するとクールだ。だが、完璧なクールにはなれずに、どこかでぬくもりを求めている。クールであることを強要されているのだ。
一体、誰から強要されているのだろう?
5年前に京都本社を離れてから、業務量が格段に増え、世の中のスピードも加速度的に上がった気がする。毎日疲れを引きずっているのは心身共にゆとりを失ってしまったからだ。
東京本社に配属されてからは、仕事の合間に、この24階の自室から新宿方面の情景を1人で見渡す機会が増えた。まるで銀杏の色が、心のむなしさを慰めてくれるようでもある。
俺はいったい、どこに運ばれていくのだろう?
新たに与えられた専務取締役としての業務と同時に担当しているのは、半導体事業部の新設である。まだ公にはなっていないが、業績が悪化してきた国内大手半導体メーカーである昭和テクノロジーを来年の春に合併買収し、事業を拡大することとしている。1兆円を超える規模のプロジェクトで、出資形態や融資銀行の調整など、期限内にやるべき業務が山積している。
正直、この買収に100%賛同しているわけではない。第6感がブレーキをかけるのだ。
幸いダイニチは本業である先端繊維部門が好調で、特に炭素繊維の開発生産は世界をリードした状態が続いている。それに子会社や既存の事業部もこれといった損失を計上することなく堅調だ。
そこへきて今回多角化に乗り出したわけだが、この分野はグローバルに見渡しても最も競争が激しく、絶え間ないイノベーションを起こし続けない限り、中国を初めとする新興国に追い越されるのは必至だ。
ソウルや上海の人々の、野心に満ちた目つきを一井は肌で知っている。われわれ日本人がどう努力したところで、あの鋭い目つきに勝利することはできないだろう。
イノベーションを起こすためには、何より人材育成が必要だ。優秀な人材を世界中から獲得してこなければならない。
残念ながら、この点においてダイニチは決して先進的な取組をしているとは言いがたい。むしろ、目先の成長に気を取られる余り、肝心の人材育成は後回しになっている感が強い。
先月行われた役員会でこのことについて提案し、異論を唱える役員は誰1人としていなかったが、じゃあ実際にどの部署が担当するのかという具体的方策までは話し合われなかった。
「珍しいわね、晴明さんの方から誘ってくれるだなんて。台風でも来るのかしら」
駿河台にある老舗ホテルのレストランで、江里は言った。
「そんなに珍しくもないだろう?」
乾杯した後、一井はそう返し、ワインに口をつけた。
「ううん、少なくともこの半年はなかったわよ。まあ、晴明さんもずっと忙しかったからね」
フリーのアナウンサーに転身した江里は、朝の番組をしていたときと比べると時間的にも精神的にも余裕ができている。
「たしかに、凄まじい仕事量だったな。京都にいた頃からすると、ボリュームも、プレッシャーも、倍になったよ」
「せっかく役員に昇進したのにね」
「いやいや、俺なんか名ばかりの役員だよ。どうしても若手とか女性とかが役員会に入っとかないと会社の方針が硬直して、時代について行けないんだ」
「そういう意味じゃ、さすがダイニチね」
「その分、俺みたいな若造に容赦なく仕事が回ってきちゃうんだけどね。今は辛抱なのかな?」
店内の明かりが江里の頬を優雅に光らせる。彼女は運ばれてきた鴨のテリーヌをピアノでも奏でるようにナイフで切り分けて口に入れた。
「というより、今はスキルアップとキャリアアップの時期なんじゃないかしら?」
「そうなってくれるといいんだけどな」
一井は再びワインを口に入れた。窓の外ではビジネスマンや学生たちが慌ただしく往来している。
「このあたりもずいぶんと人が減ったなあ。昔はもっと、人々にバイタリティがあったような気がするのに」
「お店の数もめっきり減っちゃったしね。私も大学生の頃、この辺には良く来たものだわ。ほら、明大のお友達が結構いたでしょ。しょっちゅう行ってたパスタのお店は、いつの間にか不動産会社に様変わりしちゃってるし」
まるで、浦島太郎にでもなったような錯覚に陥る。
グラス2杯の赤ワインを飲んだ江里は、窓の外をぼんやり眺めながら、金色のブレスレットをはめた左手で頬杖をついた。
「私たち、このままどうなっちゃうのかな?」
一井も江里と同じ窓の外に視線を向け、グラスに残ったワインを飲み干した。
「なるようになるさ」
「その言葉、嫌い」
「そうかい? ネガティブな意味で言ったわけじゃないんだけど」
「じゃあ、どういう意味で言ったの?」
「俺たちには、俺たちにふさわしい未来があるっていう意味だ」
「ふさわしいって?」
一井は空になったグラスの底を見るともなしに見た。
「君も、そして俺も、2人とも満足できる、って言う意味だよ」
江里は頬杖をついたまま、完璧に乾ききった笑みを浮かべた。
彼女の番組の視聴者には決して想像できない表情が目の前にある。テレビ画面の中の江里と、目の前の江里、はたしてどちらが本物の江里なのだろうとふと思ったりもする。
彼女の胸の内は痛いほど伝わってくる。だからこそ、配慮を欠いた言葉を発するわけにはいかない。俺はもうすぐ君と結婚したいと思っている、と自信を持って言うことができればどれほど彼女を安心させるだろうと思う。東京に戻ってきてからというもの、江里はずっとその言葉だけを待ち望んでいるのも分かる。
しかし、心は2人の未来の話をすることを是としない。
今その話題を持ち出しても、決して良い結果をもたらさない。
江里もそれ以上何も言ってこない。
2人はしばらく黙ったまま料理を口にした。
隣の席ではカップルが指輪の交換を始めた。一瞬、テレビ番組のドッキリコーナーにはめられているのではないかと疑った。
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