21 理念とカネ
「たいへんお言葉ですが、私の考え方は、少しだけ違うのです」
「専務に対して『そもそも論』を持ち出すのもたいへん恐縮ですが、収益を上げない企業はいずれ淘汰されるだけです。右肩上がりの成長を実現することが私の役目だと思っているのですが、いかがでしょう?」
「もちろんそうだ。そのことについては否定しない。ただ、私がこだわっているのは理念なんだ」
御手洗は、ギラギラした瞳の中に、「納得できない」という意思をありありとにじませた。
「我が社の内部留保金は過去最高だと聞いています。ですから十分な設備投資ができる環境にあるというのは、社長もおっしゃっていたじゃないですか? 特に半導体分野は、後発の韓国勢と中国勢がせっついてきています。今すぐに何か手を打たなければ、これまでの成果を全部持って行かれるだけです」
御手洗は、名門シンガポール国立大学でMBA(経営学修士)を取得した後、スタンフォード大学でも博士号を取っているだけあり、まったく臆することなく持論を展開してくる。
世界中のエリートの中で鍛えられたプレゼンテーションは、迫力も説得力もビンビンと伝わってくる。こういう男のことをグローバル人材と呼ぶのだろう。
人事部は若き彼を、新設する半導体の事業部長に起用した。異例の大抜擢に、御手洗も気合いが入りまくっているのは一井の目にも明らかで、それ自体は決して悪いことでもない。
「君が言うことはまさに正論だよ。多額の投資をして新事業を買収するんだから、その分きっちりと回収することは我々の責務だ」
「だったら、今提示させていただいたスキームで進めさせていただけたらと思うのですが、何か不都合なことでもあるのでしょうか?」
一井は息を吐き出し、ゆっくりと席を立って窓際に移動した。金色の銀杏のある景色には霧雨が煙っている。
「ただね、これはあくまで私が個人的に描いているイメージだと思って聞いてほしいんだけど、韓国勢と中国勢と同じ理念で真っ向勝負をすることが、会社にとって本当に有益なことなのだろうか?」
おそらく御手洗には伝わらないであろうことを承知で、頭の中のモヤモヤを、できるだけ丁寧に言葉に変えていく。
「ウチの会社はもうすぐ創業60周年を迎える。その間、様々な苦しい時代を乗り越えて、現在最高益を出すまでに至っている。時代に適応してきた歴史がある分、知恵もあるはずなんだ。新興国の後発企業とは、そこの部分で勝負することはできないだろうか?」
「では、専務には、半導体事業の圧倒的な成長のために、何か具体的なお知恵がおありだと?」
一井はきちんと御手洗の方を向く。
「いや、逆だよ。買収の正式な調印までに、君の部下たちが自由にアイデアを持ち寄って、新しく立ち上がるダイニチの半導体事業が、世界の人々を幸せにするための知恵を出し合ってもらいたいんだ。優れた製品を作るのはもちろんだけど、視野を人類の幸福にまで広げて、ウチの会社じゃないとできないような付加価値を生み出すことはできないだろうかと考えてるんだ」
「しかし、そんなところに時間と労力を割いていては、競争に置いていかれるのではないでしょうか? 専務がおっしゃる理想は成果が上がった後のフェイズで行うことであって、まず考えなければならないのは、うちの半導体が世界シェアに食い込んでいくことじゃないでしょうか。この業界は結果こそが全てです。いくら理念を持っていても、結果が出なければ、顧客は見向きもしません。今回私たちが作り込んだ超戦略的スキームを実行すれば、事業立ち上げから3年以内で世界シェアの30%を握れます。そのためにも、ぜひ、さらなる投資と人材確保を実施していただきたいのです!」
御手洗に何を言ったところで平行線をたどるだけだ。具体的アイデアがない分、自分の負けだ。
前回の協議で御手洗は、「世の中はカネが全てなのだ」とも言い放った。カネが全てを上手く回し、問題を解決するのだと。
その考え方を全面否定するつもりもないし、これがスタンフォード流の合理主義の帰着点なのかとも思いはしたが、もちろん口には出さなかった。
「君の方針はよく伝わっているよ。次期の役員会に提案するつもりではいるんだ」
御手洗は立ち上がり、野心的な目つきで頭を下げた。
「ただ、今私が話したことも頭のどこかに入れておいてほしいんだ。今の成長社会というものが永遠に続くとは思えない。いずれ、これまでウチの会社が大事にしてきた『人として正しいことをする』という企業理念が正しかったと思う時代がやってくるよ。このまますべての産業が成長し続けたら、地球が持たなくなってしまうからね」
一井の言葉に御手洗は笑みを浮かべながら、かしこまりました、と歯切れの良い返事を響かせた。
一井には、御手洗が何について「かしこまりました」と言い切ったのか、いまいちよく分からなかった。
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