28 召人たちの雄弁

「召人っていうのはね、平安時代に貴族男性と密かな情交関係があった女房のことなの。女房は、その家の使用人の女性のことよ」

「主人と使用人との関係っていうことか?」

「そうね。主人には、当然、正妻がいるんだけど、雇っている女性と継続的に男女関係を結んでいたってことよ」

「それはまた、ヤバい話だな」

 夏越は、ごく当たり前のことを当たり前に言っている、と言わんばかりに冷静だ。

「主人と召人との男女関係は、社会的には完全に抹殺されていた。誰が召人かっていうことは家族内にも外部的にも知られていたけど、そのことにはあえて触れないというのが当時の一般常識だったようね。主人の正妻は、召人に対して当然非難の目を向けても、それにいちいち激情することは良くないとされてもいたの。つまり、貴族男性と召人は、やむを得ない男女関係として、黙認する方が良いとされていたみたいね」

「今の世の中じゃ、ちょっと考えられないな」

「でも当時はごくありふれたことだったのよ。召人たちは、決して世の中の表舞台に出ることはなかった。貴族男性が手近なところで情欲を満たすためだけの、虫けらみたいな女性だったのよ。でもねぇ、当の召人たちは、まともな人間扱いをされないことについて何の疑問を持たなかった。ようするに、今とは、ただ時代が違うのよ」

 夏越は表情を崩して、声を立てずに笑った。

「そういうわけで、当時の物語には、召人は登場しなかったの。でもね、紫式部だけはそんな常識を打ち破ったのよ。『源氏物語』では召人たちに名前を与え、心を与えた。会話の場面も描き、和歌まで詠ませた。物語最後のヒロインである浮舟うきふねという女性は召人の子だったのよ」

 そこまで話してから、夏越は肩でため息を吐いた。


「ところで空蝉も召人なのか?」

「残念だけど召人じゃないわね。彼女には婚姻関係を結んだ夫がいるしね。……そんな質問をするあたり、ついに晴明ちゃんにも『源氏物語』のストーリーに飲み込まれちゃってる自覚が出てきたのね。いいことだわぁ」

「そういうわけじゃないよ。お前があまりに不気味な話ばかりするもんだから、つい気になるんだよ」

 一井は脇の下に嫌な汗をかいている。

「紫式部自身が、雇い主である藤原道長の愛人だったっていう噂もあるくらいだから、紫式部は召人に対して、並々ならぬ思いを持っていたと推測されるわ。つまり、召人にスポットライトを与えることによって、彼女たちを世の中の表舞台にさらけ出して、生き様を描いたのよ」

 夏越は古びたソファにもたれて、天を仰ぎながら話を続けた。

「そんな紫式部の心について、この5年間、この部屋でずっと考えてたのよ」

「で、何か分かったのか?」

「かなり苦労したわよ。だって紫式部はもうこの世にいないんだから。思いっきり息を吸い込んで、心だけ千年前に運んでいくの。そうして京都ここにいた紫式部の心を探したの。そしたらね、2年前に、ようやく紫式部の魂が降りてきたの。彼女はこの部屋に入ってきて、召人について語ってくれたのよ。感動的だったわ。彼女は言ってくれた。『源氏物語』の主役は光源氏じゃないってね。彼はただの引き立て役。主役は、無名の人々」

 一井は唾を飲み込んだ。その音が、自らの中で大きく聞こえた。かと思うと、自分の右膝の上に夏越の左手が載った。

「この前話したとおり、ボクはこれからも決して世の中の表舞台に出ることなく、無名のまま、完全に生き抜いてみせるわ。無名であるということは、強いの。何も怖くなくなるの。死ぬことさえも怖くなくなるんだから」

 そう言って、一井の口に深いキスをしてきた。

 その瞬間、あの夜の紫倉の記憶が再び舞い降りてきた。一井は口を付けたまま夏越の髪に手をやった。

 夏越のあえぎ声を聞きながら、もう1度紫倉を抱きしめたいという衝動が瞬く間に体中に燃え移り、喉元を焼いた。

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