BLACK LOVE
スリーアローズ
2012年 夏
1 アイスコーヒーと白昼夢
雨が窓を叩きつける。ガラスにぶつかった雨粒は、音も立てずに砕けて、涙のように散り散りに流れ落ちていく……
それにしても、今日は特に蒸し暑い。京都の夏はただでさえむんむんするのに、これではますます気が滅入ってしまう。
一井は窓に目をやったまま、自分のマグカップに口をつける。
部下が作るアイスコーヒーはなかなかのものだ。「出来合いではなく、ちゃんとドリップしてから冷蔵庫に入れる方が美味しいし、その方が節約にもなりますよね」と彼女が誰かに話しているのを耳にしたことがある。なるほど、彼女はいかにも事務職員にふさわしい発想をしていると、密かに感心したものだ。
そんなことをふと思いながら、アイスコーヒーを喉の奥に流し込み、瞳を閉じると、じめじめしていた頭の中がいくぶんかリフレッシュされた気もする。
一井は、
今頃彼女は何をしているだろう? 上階の秘書室で仕事をしているのだろうか、それとも会長の後について社内のどこかにいるのだろうか? あるいは外回りに出ているかもしれない。
窓の外に目を向けると、眼下には玄関先のロータリーの様子が眺められる。普段は車の出入りがよく分かるのだが、今はそこに車はなく、風景全体に糸のような雨が刺さっているだけだ。
一井は、だれもいない玄関先に力のない視線を落としながら、紫倉と過ごしたあの夜のことを思い浮かべる。
汗ばんだ背中、ほのかに感じる華やかな匂い、今では考えられないくらいに近くにあった紫倉の
それらすべてが雨のスクリーンに透けて映し出されるようだ。
あれから1カ月経ったという実感がわかない。記憶は動く歩道にでも乗っているかのように、ゆっくりと、着実に遠ざかってゆく。貴い記憶に限ってそうだ。そして、そのうち、本当に自分の身に起こったことなのかどうかさえあやふやになる。白昼夢でも見ていたのではなかろうかと。
あの夜の紫倉をできるだけ鮮明なまま頭の中にとどめておきたくて、意図的に何度も思い出そうとするが、記憶は分厚い窓ガラスに叩きつける雨のように全くの無音だ。
しかも、ずっと紫倉のことばかり考えているのに、彼女は自分の前に現れてはくれない。たまに秘書室で出会うことがあっても、表情ひとつ変えずに、何事もなかったかのような様子で、淡々とデスクに向かっているだけだ。
もう1度、冷たいコーヒーを口に運ぶ。煙のようなため息を最後まで吐き出した時、シャツに汗をにじませた部下が慌ただしく給湯室に入ってくる。
一井は恐縮する部下とすれ違うように、マグカップを持ったまま、ゆっくりと自分のデスクへと戻っていく。
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