11 悪人こそが救われる

 夜は中目黒にある江里のマンションで過ごした。

 2人で『ユージュアル・サスペクツ(The Usual Suspects)』を観ながら、さっき表参道で手に入れたばかりの白ワインを飲んだ。

「昔の映画でオチも知っているのに、何度見ても色褪せないわね」

 江里は、コットンパンツにタンクトップというリラックスした姿でソファの一井の隣に座っている。ふと肩に目を遣ると、松明の炎に照らし出された紫倉の肩がオーバーラップされるようで、眩暈めまいがする。

「何度も見返すことで、いろんな伏線が発見できるのが良いね。この映画の語り手自体がすでに信用できないんだから」

 一井は言った。自分でも何を言っているのかよく分からない。

「なんていうのかなぁ、人をだますって、本質的には気持ちいいものかもしれないわね」

 その言葉を聞いて、たちまち現実へと引き戻された。恐る恐る江里に目を遣る。

「でもさぁ、騙される側からすると、完璧に騙して欲しいわよねぇ。だって、傷ついちゃうもの」

 いや、俺は何も騙してはいないよ。俺は江里のことを愛しているし、今もこうやって江里の元にいるじゃないか!

「ねえ、そう思わない?」

 江里は促してくる。

「う、うん、そうだよな。まあ、でも、この映画では、最後まで完璧に騙してるよね。真実が明らかになったのは、すべてが終わってからだ」

「だから色褪せないのよ」

 江里は口に含んだ白ワインをゆっくりと喉の奥に入れた。


 映画が終わったのは深夜だった。2人は風呂から上がった後、再びソファに座って、今度はニュースを見た。テロリズム、マネー、殺人事件、ミサイル発射、そんな話題が並ぶ。

 江里は、画面に目をやりながら、将来の夢の話をした。今から英語の勉強に本腰を入れて、やがては世界中の文化を伝えるような仕事をしたい。  

 そのためにも海外支社への派遣があればラッキーだと言い、強く思い続ければ夢は叶うのだと、感情たっぷりに語った。さすが、日本の朝を元気にするアナウンサーのプレゼンテーションだ。

 もしそうなれば、晴明さんはどうするんだろ? まさか、ついてきてくれないわよねぇ。そりゃ無理だ、だって仕事があるもの。でも、ついてきてくれるとうれしいなぁ、と江里は言い、一井の胸元に身体を寄せてきた。

 大丈夫だよ、今江里が言ったじゃないか、口にすれば夢は叶うんだ。夢の実現は一切の犠牲を払わない。すべてがうまくいくようにできてるんだ、と一井は答えた。

「それって、どういう意味? 夢を叶えれば犠牲は犠牲に感じなくなるっていうこと?」

 その段になって、ずいぶんときわどい話をしたものだと後悔した。だが、幸いなことに、弁明する間に、江里は眠気眼ねむけまなこになってきた。助かったと思った。


 江里のベッドはいつもいい香りがする。

 一井はラベンダーの香りの中で、江里のタンクトップを脱がし、乳首に口を付けた。

 彼女の身体が魅力的であることは世の人々の広く知るところだ。だが、実際は、彼らがいろいろと想像を巡らせているよりもずっとエロティックであるし、それでいて適度に引き締まったみずみずしい身体をしている。

 俺は本当にラッキーなんだと心の中で言い聞かせながら、江里を抱く。

 だが、いくら懇ろに体をすり合わせたところで、これまでのような充足を得ることができない。抱けば抱くほどに、あの夜の紫倉の体が思い出されるのだ。

 江里よりも10歳以上も年上の紫倉は、体をさらすことに恥じらいを感じ、どうにかして隠そうと抵抗した。全体から漂うしとやかでたしなみ深い雰囲気は、一井にとってはむしろ新鮮で、あの女性を、かえって高品位に美しく見せた。 

 江里を抱きながら、レースのカーテンから光が漏れていることに気がついた。空の高いところに月が出ている。輪郭のくっきりとした、鋭い光を放つ月だ。


 ちょうどその時、紫倉は京都市内にあるマンションの自室でテレビを観ていた。

 彼女はほとんどの夜を1人で過ごす。9歳年上の夫、田中幸二たなかこうじは、わかば銀行四条支店の支店長代理で、帰りは決まって深夜になる。現職に就いてからは、土日に出勤することもしばしばだ。

 この土日も取引先とのゴルフコンペのために韓国に行っている。

 平日はなるべく23時までには床に就くようにしているが、休日前は何の気なしにテレビを観ることが多くなった。

 ダイニチの秘書室に就職するまでは、読書をしたり、音楽を聴きながら手芸をしたり、アクセサリーを作ったりしていたが、最近では、深夜のバラエティ番組をただ漠然と眺めることが増えた。 

 べつに、おもしろくて観ているわけでもない。

 掛時計に目をやると、24時を回っている。さすがに風呂に入ろうという気分になる。

 ゆっくりと立ち上がり、カーテンを開け、そのわずかな隙間から外を見ると、眠った町の黒い空に月が見える。まるで自分は漆黒の闇に空いた丸い穴から天上界の光を覗き込んでいるようだ。

 それにしても、ついさっきまでは雨が降っていたのに、月が出ているとは意外だ。仏様ほとけさま仕業しわざだろうか?

 京都の月は情緒深いとよく思う。古来から、この月を見て、数えきれぬ人々が和歌を詠み、物語を書いてきたことに思いを馳せると、自分も歴史の一部に含まれているような風情にもなる。

 だが、今日の月は冷たく感じられる。なぜだろう?

 思わず、サイドテーブルの上のスマートフォンに手が行く。もちろん、誰からも着信はない。

 条件反射的に、過去の着信履歴を表示する。そこには、会長や秘書課の上司の名前に混じって「一井部長」の文字が含まれている。

 そういえばあの夜も、別荘の部屋の窓から月明かりが差し込んでいた。

 自分は何とだろうとつくづく思う。

「善人なおもって往生おうじょうぐ、いわんや悪人をや。」

 親鸞しんらんが説いた悪人正機あくにんしょうきの一節だ。中学生の頃に祖母が教えてくれた。

「悪人こそが救われるんだよ。そりゃそうだ、善人は救われる必要なんてないんだから」

 ならば、こんな自分にも救済があるのだろうか?。

 だが、あの冷たい月を見ていると、救われるどころか、いつか罪の制裁が下るだろうという気がしてならない。

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