32 女の勘
野田が恋愛に手馴れていることはすぐにわかった。
秘密の逢瀬が表に出ることもなかった。
2人が会うのは三鷹にある野田の隠れ家で、世間から完全に切り離された空間で濃い時間をこつこつと積み重ねていった。
野田に妻がいることはあまり気にならなかった。それまでの経験から、愛人の実生活についてはあまりこだわらなくなっていた。
馴れというものは恐ろしい。正常な感覚を麻痺させるのだから。
過去に野田を通り過ぎていった女性たちへの嫉妬は、今、この瞬間に野田に抱かれることにより優越感へと昇華し、恋心をより強固なものにした。
ふと気がつけば、絶対に元に戻ることができないところにまできていた。野田の恋のテクニックはまってしまったのかもしれない。
ところが、鉄壁だったはずの野田のディフェンスシステムがたった1度だけ綻びてしまった。
新しい映画のクランクアウトの打ち上げが赤坂で行われた後、野田が珍しく都心のど真ん中に呼び出してきたのだ。
彼は見たことがないくらいに上機嫌で、すっかり酔っ払っていた。
銀座の会員制ダイニングで酒を飲み、外に出た瞬間に、野田は立てなくなった。必死に肩を抱いてタクシーを探していると、写真を撮られた。いかにも親密に抱き合って、いますぐにでもキスをしようとしているように見えてしまう絶妙のアングルが週刊誌に公開された。
この写真は連日のワイドショーの格好の餌食となり、2人ともただの友達だと必死に
幸いにも三鷹の隠れ家も見つかることもなく、2人はたまたま一夜だけ食事を共にしたのだということで落ち着き、仕事を失うこともなかった。
もしあの時、野田が酔っていなくて、すんなりホテルに入っていたらと想うと、ぞっとする。
とはいえ、騒動の代償は大きく、妻をはじめとする周囲の監視がすっかり厳しくなった野田にはとうてい連絡するすべもなく、心を鬼にして、狂おしいほどに愛した人を忘れるという生き地獄を味わった。
食事は喉を通らず、体重は10キロ近く落ちた。口内炎とヘルペスに悩まされながらも、
半年後の春、朝の番組に抜擢された。
色恋沙汰が絶えない看板アナウンサーに、規則正しい生活をさせようという会社の意図だった。
一井と出会ったのは都内で開かれた政財界のパーティーだった。司会として参席したところを、ダイニチの守田会長のテーブルに呼び止められ、そのまま盛り上がった。その席に一井もいた。
一井の父である康弘氏は現役閣僚だったし、代々宮内庁に仕えてきた家柄だと聞き、この人には見てももらえないだろうと足が震えたのを良く覚えている。
それが、プロ野球の取材で横浜スタジアムに行ったときに、一井とばったり再会した。彼は球団オーナーと親交があり、グラウンドに降りて談笑しているところだった。
たまたま同行していた会社の上司と名刺を交換して話が盛り上がり、そのまま番組スポンサーの契約話が成立した。あっという間の決断だった。
その後、何度か一井は会社に現れた。この人はこれまで出会ってきた人とは、明らかに違っていた。全身からオーラがみなぎっていて、近寄ると吸い込まれてしまいそうになる。
喋ることを仕事にしている自分でさえ、気安く声がかけられない。ああ、これが畏敬の念というやつだ、と思った。
「それにしても、君とは頻繁に会うね。気のせいだろうか?」
廊下を歩きながら、一井は自分だけに話しかけてくれた。
「どうなんでしょう? でも、お会いできるのはすごくうれしいです。御来社なさるのをいつも待っております」
真心を込めて声を震わせると、一井は江里の顔を覗き込んできた。
「君はテレビで見るよりもずっと、無邪気な人なんだね」
清水の舞台から飛び降りるつもりで、自分から一井にメールを送った。
出会ってから1年後に、ついに交際することになった。
この方には奥さんがいない。これを最後の恋にしよう。今までずっとそう思い続けてきた。
だが肝心の一井はいつまで経っても結婚の話を前に進めようとしない。
「もしかして、私と一緒になる気持ちはないの?」
いつだったか、酒の力を使って聞いてみたことがある。
「そんなことはないよ」
「でもあなたはそういう話をしてくれない」
「仕事が多すぎて、余裕がないんだ」
一井は仕事よりも人生を優先することを江里は見抜いている。だからこそ、仕事を理由に結婚話を先延ばしする矛盾にも気づいている。
もしかすると、自分以外にも女性がいるのではないか?
一井が東京本社に戻ってから、そんな疑念さえ抱くようになった。これまで犯してきた数々の不義の罰を、今、受けているのかもしれないと。
もしそうだとしても、一井は絶対に離さない。自分の人生を決める一大事なのだ。
とはいえ、女の勘がビンビンに反応する。
一井は最近ぼーっとすることが増えてきた。何を考えているか想像もできないその瞬間に、恋心の匂いがする。
ここにはいない女性に気を取られているのではないかという不安が、女心をぎしぎしと苦しめる。
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