29 巨大すぎる新参者
半導体事業の買収に予期せぬ横やりが入ってきたのは、東京に帰ってきて3日後だった。
中国の新興企業である長江技術が、1.5兆円という額を提示して買収を要求してきたと、昭和テクノロジー側から連絡が入ってきたのだ。ダイニチが提示している1兆円という額をはるかに上回っている。
「そもそも、この話は極秘に進めていたのに、どうやって情報が漏れたんだろう?」
顔を赤くして息を荒げている御手洗を前に、一井は冷静に言った。
「どこかから漏れたんでしょうね。今の時代、情報を完全隠蔽するのは限界があるんでしょう。そんなことより、もしこの話を長江技術に持って行かれたら、半導体事業部の立ち上げも中止になるんでしょうか?」
「新事業立ち上げは今後の重要戦略の柱だ。とにかく今は持って行かれないように知恵を振り絞るしかないだろう」
御手洗はテーブルに載せた握り拳に力を込め、歯を食いしばっている。
「専務」
窓の外に目を遣っていた一井は、振り返って御手洗を見る。
「買収額を上乗せすることはできないでしょうか?」
「長江技術と同じ額を用意するということか?」
「はい。あるいは、それ以上の額を」
御手洗はこう提案してくるだろうという予測はあったが、この男の迫力を目の前にすると、かえって安易な回答などできなくなってしまう。
「額が額だからな」
そう言いながら、もし会長が生きていればどんな判断を下すだろうと想像した。おそらく、カネを積むことによって会社に利益をもたらし、それが世の中の人々にとって正しい使い道となるならば投資しなさい、と答えるはずだ。
だが、同じ言葉でも、会長が言うのと自分が言うのでは伝わり方が全く異なることを一井は承知している。
「いずれにせよ、急な話だ。もう少し議論を重ねようじゃないか。新しい情報が入ったら、すぐに報告してほしい。長江技術が何を考えているかもまだよく分からないからな。ひょっとして向こうはウチに揺さぶりをかけているだけかもしれないし。それから、この話はくれぐれも極秘扱いで頼むよ。役員会には私からすぐに入れておくから、君はこれまで通り、
一井は、できる限り力を込めて言った。
「専務」
だが御手洗はそう簡単には引き下がらない。
「もし長江技術が本気で買収しようとしているのなら、奴等は一気に攻勢をかけてくるはずです。私には、奴等が揺さぶりをかけているとはとうてい思えません。中国ではIT事業だけじゃなく、電気自動車の普及開発も政府主導でやってるくらいです。あっちでは国内だけで14億人という巨大マーケットが成立しています。奴等にとって1.5兆というのは、余裕で回収できる額でしょう。すぐにでも行動を起こさなければ、これまで準備してきたことがすべて損失になってしまいます」
「心配しなくて良い、そこらへんの判断はこっちに任せてほしい」
「一井専務がプッシュしてくだされば、役員会で反対する人などいないと思います。この事業はすべて一井専務の手の中にあります。いくら長江技術とはいえ所詮は新参者です。一井専務の敵ではないと思うのですが」
「どうした、急に持ち上げるじゃないか」
御手洗は表情を崩さない。きわめて深刻な表情のままだ。このあたりもスタンフォード式の交渉術なのだろうか?
「もはや、一井専務だけが頼りです」
御手洗は立ち上がって深々と頭を下げ、専務室を出て行った。
この男が全身全霊を賭けてここまで業務に当たってきたことはよく分かっている。新事業部のトップを任せたのも、まさにその突破力が必要だったからだ。
一井はコーヒーを飲みながら再び窓の外に目を遣った。
銀杏の葉はもうほとんど見えなくなっている。こんな時に紫倉のことなど考えているヒマはないんだと自分に言い聞かせる。
高層ビル群の向こう側には、センチメンタルな色に染まった空が際限なく広がっている。
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