12 夢をあきらめない
中学生の頃によく聞いていた岡村孝子の音楽をかけてベッドに入ると、追憶の中に無限の情景が広がる。
故郷山口の光景。庭には池があり、部屋がたくさんある大きな家。
曾祖父の
祖父の
父親の
祖父と父に会うために、大きな家にはたくさんの偉そうな人が押し寄せて、しょっちゅう宴会みたいなことをやっていた。家の中はいつもドタバタしていて、2人のお手伝いさんがあくせく動いていた。
そんな環境で育ったにもかかわらず、真っ先に思い出すのは、マロンとの日々だ。マロンは雌のシーズー犬で、自分にとってはあの頃の生活のすべてといっても過言ではなかった。
夜は布団の中で抱いて寝、学校から帰ってきた後は必ず散歩に連れて行った。マロンのぬくもりだけは今でも身体に残っている。
いつもリビングを走り回り、ある時は勢い余って応接室のマントルピースに落ちたこともあった。幸い、客が帰った後で火は消えていたが、足に軽いやけどを負った。それでも、懲りずに家の中を走り回った。
あの犬だけは、きちんと最後まで話を聞いてくれた。学校でいじめられても、マロンに話すと不思議とすべてが軽くなった。兄妹がいなくても寂しくなかったのはあの犬のおかげだ。
だが、突然襲われるのが不運というものだ。
忘れもしない、あれは中学生に上がる前のことだった。マロンは家のガレージに入り込み、それに気づかなかった祖父重輔のクラウンに轢かれ、首の細い骨を折ってあっけなく死んだ。
祖父は小さな死骸を見下ろしながら心から謝罪してきた。祖父を責めるつもりはなかった。この犬がガレージに入ることなど、これまで考えられなかったことだ。
とはいえ、ショックは無限大だった。当たり前だったものが突然、目の前から、永遠に消滅してしまうという、受け容れがたい摂理……
マロンの死は、その後のドミノ倒しのような不幸の序章だった。
次は、祖父の重輔がクラウンに乗り込む直前にガレージの中で倒れた。
人間も、いともあっけなく死んでしまうのだという世の中の習わし……
葬儀が終わってからというもの、広い家はたちまちスカスカなった。祖父の消滅と同時に、訪ねてくる人もぱったりと途絶えた。
「おじいちゃんは、人気者だったんだね」
祖母は陽の当たる縁側で編み物をしながら何度もつぶやいた。
仕事で家に帰ることがあまりなくなっていた父は、ますます帰ってこなくなった。たまに顔を見た時、ものすごく疲れていたのを覚えている。
あの頃は父がいったい何をしていたのか分からないが、祖父の死後、必死になって政治的地盤を固めようとしていたのかもしれないと想像したりする。そして父のそういう姿は、人生を破壊させることになってしまった。
あれは、盆前のひどく暑い日のことで、その電話はちょうど昼前かかってきた。「県議会議員の堀越信輔氏が九州自動車道で事故を起こして即死した」というニュースは、すぐに報じられた。ブレーキの跡はなく、居眠り運転のようだった。
祖母と母と紫倉の女3人だけになった家族は、ほどなくして、代々引き継いできた広大な敷地と家を手放し、マンションに引っ越した。
「今思うとサ、マロンがおじいちゃんに轢かれたのは、おじいちゃんやお父さんに、伝えたいことがあったからかもしれないね」
リビングで、祖母は窓の外をぼんやり眺めながらしみじみと述懐した。
「おじいちゃんはガレージで亡くなったし、お父さんは車で事故を起こしたでしょ、きっとマロンは、それを予知して、身を以て伝えようとしたんじゃないかしらね」
祖母はその翌年に亡くなった。入浴中の予期せぬ突然死だった。
自らの半生を振り返る時、いい思い出といえば、あの家で、マロンと戯れていたあの頃のことしか残っていない。
人生のトータルは100だという話を聞くことがある。幼い頃に90を使い果たした自分には、もはや10しか残っていないのではないかと思うと、絶望的な気分にもなる。
もう1度、無条件に幸せだったあの頃の生活に戻りたい。
何かを手にしようと願えば、何らかの形で手に入れることができた時代、自分には出来ないことはないのだと信じていれたあの頃、それは、すでに過ぎ去った時間でありながら、現時点における夢でもある。
しかし、どうすればあの時代に戻ることができるのか、その方法が思い浮かばない。本当に大切なものとは、失った後になって初めて気づく。その事実の前に沈黙するとき、胸の中の空気がすべて締め出されるかのような息苦しさを覚える。
スリープタイマーで音楽が消えた後、もう1度、枕元のスマートフォンを手に取る。
あの人なら、私の夢をかなえてくれるかもしれない。
しかし、着信など、もちろん入っていない。
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